45.見習い魔術師リディアと精霊魔術概論 ◆★
深い森の中に、石積みの庵がある。
壁は苔むし、屋根は蔦に覆われ、自然の中に埋没していた。
外では風が林冠を擦り、木々のざわめきが遠い波のように反響している。
庵の主、老魔術師サルディスは、炉端の小さな水鉢へ指先を向けた。
ぱち、と乾いた音。指を鳴らしただけなのに、水面が一度だけ、薄く震えた。
対面に座る弟子の少女が眉をぎゅっと寄せる。
「よし。おさらいだ、リディア」
弟子の少女は背筋を正し、喉を鳴らしてから言った。
「えっと、この世界は、元素の力の循環と調和で成り立ってます。それぞれが偏ったり欠けたりすると、土地も人も歪みます」
「その通り。では魔法は?」
「元素の力を借りて……この世界の法則に従って、現象を起こす技術です。……力を捻じ曲げるんじゃなくて、流れを……誘導します」
老魔術師は片眉をわずかに上げつつ、頷いた。
「まぁよかろう。覚えた言葉のままでもいい。今は柱を立てる段階だ。——次。力の集まりやすい場所は?」
「元素霊子が集まる場所です。泉の湧き口、古い森の中心、鉱脈の節、高い山の頂……そういう場所には属性に合った精霊が現れます」
「精霊が、な」
老魔術師はそこだけ、わざとゆっくり言い直した。
リディアは一瞬、口を結ぶ。なぜそこだけ、と喉の奥が引っかかる。
サルディスは笑って、先回りするように続けた。
「霊子とは、属性を持つ前の力だ。霊子が偏れば、火や水といった元素としての性質を帯びる。
霊子は世界の根に流れておる、と古い書は言う。
霊子が巡り、渦を巻き、澱む場所がある。そこが“結節点”——“核”だと考えられておる」
リディアは訝しんだ。元素の力が循環するなら、精霊もどこかから流れてくるのではないか。
少女の表情を見て、サルディスは肩をすくめる。
「精霊がどこから来るのか、どう生まれるのかを本人たちに尋ねてもな、答えてくれん。
……あるいは知らぬのだろう」
水鉢の水面が、外の風に呼応するように、またわずかに揺れた。
「だが、精霊が“現れる前から”泉は腐らず、森は枯れず、土は肥え、鉱脈は育つ。
まるで、見えない“仕組み”が保っているようにな」
リディアは手を挙げ、恐る恐る口にする。
「……その“核”にも意思があるってことですか?」
「——それはわからん」
サルディスはそこで一拍置いた。
言い切らない、という態度そのものが答えの重さだった。
「聖堂に神を祀る者たちの多くは、神こそが“主”であり、土地はその“座”に過ぎぬと説く。
神の名を掲げ、神像や神体を祀り、聖堂や神殿を建てれば、神の力は増す。
一方で、我々魔術師の中には、座そのものにも“癖”や“機嫌”があると見る者がいる。
それを“核”の意思と呼ぶのが正しいかどうか……意思の疎通に成功したという者も……おそらく、おらん」
ざあ、と風が吹く。
枝葉の擦れあう音、木の実の落ちる音、鳥の羽ばたき。
人里の風のような布のはためきや、風見鶏のきしみは、ここにはない。庵は人の世界から遠い。
「神と呼ばれるものは、精霊が広く知られ、信仰を集めた結果として生まれる——と、我々はそう整理している。
精霊と神を同一視する者もいるし、別物だと切り分ける宗派もある。聖堂の連中には都合が悪いからな」
「都合……?」
「自分の神の権威を高めたい者は、他の精霊を神と認めたくない。『それは下等な霊だ』と切り捨てる。
逆に魔術師や精霊使いは、聖堂の神を『ただ名の広まった精霊だ』と見なす……どちらも、人知の及ばぬ神秘であることに変わりはないのだがな」
老魔術師は、ほんの少しだけ自嘲めいた表情を浮かべた。
リディアには神と精霊の違いがよく分からない。
どちらも“凄いもの”で、人を助けてくれる——助けて欲しかったものだ。
その“助けの借り方”を知らなかったから、リディアは今ここにいる。
「精霊は意思を持った元素だ――と、少なくとも我々はそのように扱う。
彼らは名を持たずに生まれると考えられている。そして、名を持っていても容易には教えない。なぜだと思う?」
「それは、あの……名前が魔法で、契約だから、です。
名前を掴めば繋がりが生まれて……それから、命名は……それ以上に強い繋がりになる、でしたよね……?」
「そうだ。名はその者の在り方を固める。縛る——そして縛りは、契約になる。
故に、精霊に名を問うことは礼儀でもあり、挑戦にもなり得る。
我の強い精霊は契約を嫌うというよりも、単に選り好みが激しいというのが殆どだがな」
サルディスは指を折りながら、淡々と続ける。
「名を知れば繋がりができる。繋がれば借りられる。借りれば現象が起こせる。
お前がこれからやるのは、“精霊との繋がりを得て、世界の法則を借りること”だ」
リディアはごくりと息を呑み、頷いた。
「元素は単純な力じゃない。流れ、習性、癖がある。
火は上へ、水は低きへ、木は広がり、金は集まり、土は留まり、空は動き続ける。
その癖を『今ここでこう動け』と説得するのが魔法だ。契約した精霊は、その説得の言葉を短くしてくれる——お前が長々とお願いする代わりに、精霊が一言で通してくれるだろう」
「……凄い精霊と仲良……契約すれば、強い魔法が使えるようになるってことですか?」
老魔術師は顎鬚をしごきながら苦笑した。
この少女は時々渇いた目をする。多くを失くして代わりを求める者の目だ。
「それが容易なことではないから、儂らはこのような辺鄙な場所におるのだよ。
精霊は気まぐれな存在で、意思の疎通自体が取れん者もいる……人に害をなす危険な者もな」
風の音が外で一段強くなり、庵の隙間から湿った冷気が指先を撫でた。灯火が揺らぐ。
「ご、ごめんなさい……」
師に諫められたと感じてリディアは肩を落とす。
だが、気を取り直してもう一つの疑問を口にした。
「あの……名前が精霊や神様を縛るなら、有名な神様や精霊は、すごく不自由なんじゃありませんか?」
「良い質問だ。その答えは正しくもあり、間違ってもいる」
師の謎かけのような答えに、リディアは首を傾げる。
はらりと揺れた前髪の隙間から、真っ黒な痣が覗く。
サルディスはそれを直視しないよう話を続ける。
「……名による契約を交わしたばかりの精霊は、とても揺らぎやすい。契約した相手に左右されやすいとも言う。
一方、名の知れた大精霊や神は、その在り方が揺らぎにくい。何故だと思うかね」
「……たくさんの人と繋がりがあるから?」
「そうだ。名前は在り方を固める――多くの者に知られ、“そのような存在だ”と信じられることで、“そのような存在”へとなっていくのだ」
リディアは目を丸くした。“揺らぎにくい”の意味が思っていたのと違う。
「で、でも、それ……どう思われるかで心が変わっちゃうってことになるんじゃ……?」
「信仰にはそういう側面もある。人を脅かす嵐の支配者だったものが、時を経て、慈雨の神となった例もあるという。
精霊の意思とはそういうものだ。肉体という枷に縛られぬ代わりに、その在り方を刻々と変える。
我々とは違う尺度の中で生きる存在だ、一時の変化を不自由などとは思うまいよ」
師の言葉にリディアは俯いて水鉢をじっと見つめた。
水面は鏡のように平らで、少女の顔を映している。
少女らしい純粋さと潔癖さに老魔術師は苦い笑みを浮かべる。
精霊と縁を結ぼうとする者がだいたい最初に通る道だからだ。
※※※※※
「では、リディア。精霊に揺らぎを不憫に思うのなら、お前が彼らと深い絆を結んでやりなさい。
命名か、強い契約でその精霊の在り方を固めてやれば、揺らぎは少なくなるだろう。
……特に、命名者との結びつきは、その名が他の者に知られたとしても、何よりも強い繋がりとして残り続ける」
少女が顔を上げた。明るい兆しを見出した顔だ。
だからこそ、老魔術師は釘を刺さねばならない。
「だが、覚えておきなさい。強い繋がりを結ぶということは、誰よりもお前自身が、その精霊の自由を縛る鎖になるということなのだ。
固まる、とは“お前の望んだ形に固定される”という意味だ。それが必ずしも良い形とは限らん。
お前の命が尽きた後も、精霊は死なない。だが、お前の望んだ形であり続けようとするだろう」
リディアは目を見開いた。
精霊への命名と契約に伴う責任の重みを改めて知ったからだ。
「お前は聡い。心根も優しい。だが、少々、感情に流されやすい向きがあるな……。
水の精霊も似た性質を持ちやすい……ふむ、存外、土よりも水の方が波長が合うのやもしれん。
よし、明日は滝壺に行ってみるとしよう。見立てでは、あそこにはそろそろ小精霊くらいは生まれ……そうな気がする」
何やら曖昧な物言いをした師を、少女は半目で睨んだ。
「御師匠様、この前の洞窟も丘も、そう言って何も感じられませんでした……」
土の精霊に引き合わせると言われ、師に連れられて様々な場所に赴いた。結局、それらは全くの徒労に終わったのだった。
だが、サルディスは少女の不満など歯牙にもかけない。
「そう簡単に精霊に巡り合えると思うでないわ。
今のこのご時世では特に……ごほん。
それに、土の精霊は”痩せ”を好まぬ……お前は肉が薄すぎる。それもいかんかったのかもしれん」
老魔術師は黒禍の影響だと口にしかけ、誤魔化すように少女の未成熟な体型を揶揄した。
リディアは顔を顰め、頬を膨らませた。年相応のむくれ顔だ。
「御師匠様のそういうところ……嫌いです……」
「ふん、嫌いで結構。精霊を探す旅は体力勝負よ。食が細くては持たんぞ」
一理ある返しに、リディアはぐっと押し黙った。
サルディスは水鉢に視線を向けた。
水面がごく僅かに震えたように見えたのだ。
指は鳴らしていない。呼びかけてもいない。
どこかで水の霊子に大きな揺らぎが生じているのかもしれない。
それが良い兆候か、悪い兆候かまではサルディスにも分からない。
黒禍が世界に蔓延し始めて、神と精霊は急激に姿を消しつつある。
この世界に根差した理である魔法は、深淵に抗う力となるが、精霊の不在と共に失われつつある。
だが、本来、魔法とは戦うためだけにある力ではなかった。
魔法という技術は、元々、人の神秘への憧憬から始まり、人が神秘と繋がりを持ち続けてきたという歴史そのものなのだ。
まだ年若い少女に、深淵に抗う手段として魔法を教えることが、サルディスにはとても厭わしい。
魔術師はあの忌まわしい始末屋、“深淵殺し”とは違うのだ。
深淵を殺すだけの者になど、なるべきではない。
「よし、では水にまつわる精霊と神々について予習をしておこう。
東の果ての海の底に棲む龍神の話を知っておるか――」




