44.清浄なる泉を染めるもの 〇★
どぼん、って音が、水の中で鈍く重く膨らんだ。
人間ひとり分の重さが、俺の中に沈んでくる。
水面の向こうが騒がしいのに、その男の体は静かすぎた。
手も足も、水を掻く気配がない。肺が水を嫌がって暴れる、あの必死さがない。
(やべえ。こいつ、意識ない)
俺の水は黒いのを溶かして、怪我や病気にも効くらしい。
でも、水は水だ。肺に入り込めば息を奪う。
呼吸ができなければ人は死ぬんだってことを、今更ながらに思い出す。
俺が人を溺死させる……? いやだ、冗談じゃない。
しかも、こいつ――まだ、“いる”。
俺の本能が叫んでいる。
――今すぐに吐き出せ
――いちゃいけない存在だ
いる。
こいつの中にはあの黒いのが、まだある。
さっき浄化したけど、奥の方に残ってる。
――混ざったら終わりだ
――逃げろ、逃げろ、逃げろ
身体全体がざわつく、泡立って波打つ。怖い、気持ち悪い。
(やばい、まずい、来るな。俺に入ってくんな!)
俺は急いで水の中で身体を創る。
黒いのが俺に溶け込む前に、混じりっ気のない“俺”を残すために。
泉から切り離しても、体の表面は泡立って波紋が立つ。
水中に創った水の身体は、周りの水と隔てるものがない。
下手に水流を作れば攪拌されて、黒いのがこっちに混ざりかねない。
――まだいる、そこにいる
――この世から消し尽くせ
本能がうるさく訴えてくる。
浄化しろ、今すぐに、全力でって。
でも、全力は駄目だ。あの時みたいに変な副作用が出たら――
間欠泉を作って外に放り出す? 駄目だ、勢いが強過ぎたらただじゃ済まない。
水流で押し出すか? 流れを作って水際まで運んで、地面に転がす。溺死は防げるはずだ。
だけど黒いのを引きずったまま外へ出したら、今度は外で暴れるかもしれない。
目の前が人だらけだ。地獄絵図だ。
斧を持ち帰らせた時みたいに泉を割るか?
今、この状況で? あれをちゃんとと出来るか? ……自信がない。
(どうする!? どうする……くそ……やっぱり、浄化を――)
迷っている間にも、男は沈む。着衣が水を含んで重くなっている。
口元から泡が出た――水を吸い込んだ!?
(まずい、時間がない!)
焦ると余計に判断が鈍る。黒いののせいで水面を鎮めることさえ――
その時、鎮めようとしていた水面が割れた。
どぼん、と大きな塊が突っ込んできて、空気と混ざり合い泡の柱が生まれる。
そこから浅黒い肌の手が水を掻き分け、泡混じりの水を押し退けた。
黒髪が流れに沿ってたなびき、気泡の筋を残す
木こり野郎だ。
あいつが俺の中に飛び込んできた。
「はぁ!? ちょ、お前っ……何してんだ!?」
思わず声が出た。
どっから音が出て、どう伝わってるのか知らない。
けど、水の震えに、あいつは何かを察して顔をこちらに向けた。
木こり野郎がこっちを見て目を見開き、あんぐりと開けた口からゴボッと泡が漏れた。
――馬鹿かお前は。
「アホ!死にてえのか! って違う! そっち、そこだ! そいつ!!」
私俺は必死で沈む男の方を指差した。
あいつは口を閉じ、水中で顔を巡らせる。
そして、沈む男に向かって真っすぐ泳ぎ進んだ。
よし、これで任せておけば大丈夫だ――そんな安堵が湧きそうになる。
だが、
――増えた。混ぜるな、消せ
――二つとも今すぐ消せ
あいつが飛び込んで来てから、本能の警鐘が鳴りやまない。
むしろ強まっている。
さっきまで男の中だけにあったはずの“それ”が、あいつの体温に引きずられて増えたみたいに感じる。
あいつは黒いのそのものじゃない。けど、本能が“同類”扱いしてくる。
“あいつら”は敵だと、身体が言っている。
木こり野郎は男の脇に腕を回して、引き上げようとする。
水を含んだ衣服が抵抗して、二人分の重さが進みを鈍らせる。
その瞬間。
男の体が、痙攣した。
びくり、と背中が反り、口が開く。息じゃない。叫びでもない。
中身が裂け目から溢れるみたいに――黒いものが、ずるりと現れる。
それは水の中で急速に溶け崩れ、悶えるように捩じれて細くなっていく。
ただやせ細っているんじゃない、先端を尖らせ、棘のような形状になろうとしていた。
黒い棘が、水の中を泳ぐ蛇みたいに木こり野郎へ向かって伸びる。
「……駄目だっ!」
棘が、木こり野郎の肩から、ずぶり、と入る。
木こり野郎の体が一瞬硬直して、口から泡が噴き出す。
私の中が、真っ白になる。
迷いが吹っ飛ぶ。考える余裕が消える。残ったのは本能と反射だけだ。
――全部、消せ!!
浄化を全力で叩き込む。
水の一滴一滴が熱を持ったみたいに震えた。
ビシ、と水底の岩盤が音を立てた。湧き口の裂け目が砕けて広がる。
ずっと奥の方で溜まりに溜まっていた信仰が一斉に噴き上がった。
圧倒的な解放感。何でもできるという全能感。
湧いて、涌いて、溢れて、止まらない。
些細な悩みも迷いも、全部どうでもよくなるくらい爽快だ。
――私の中の黒い穢れが、瞬間でほどけた。
触手が、棘が、目に見えるものも見えないものも、染みついた一片まで。
一切の抵抗を許さず、その存在を塗り潰して書き換える。
残るのは、泡と、水。
そして――
※※※※※
木こり野郎が意識を失った男を抱えて水面へ昇っていく。
ばしゃ、と水面が割れる音。咳き込む音――息遣いであいつのものだとわかる。
遅れて別の咳の音。こっちは聞き覚えがない。あの男は助かったらしい。
岸の方から悲鳴か歓声が上がった。熱狂的な叫びが水面を揺らす。
――でも、私はそれどころじゃなかった。
全力で浄化を使ったあの時、見てしまったからだ。
水中で、木こり野郎の黒髪が、根元から濃い色が抜けていって金色に変わっていくのを。
浅黒い肌も、日に焼ける前みたいに白くなっていった。
そして、水面を向かう直前、あいつはこっちを振り返った。
目が合った。
――その瞳は、空のような青だった。
視界がぐらっとした。
作っていた手足がほどけて、砂みたいに崩れて、意識だけが泉の底へ引き戻される。
遅れて恐怖がやってきた。
それは、“混ざる”とか“終わる”みたいな本能的な恐怖じゃない。
やっちまった。
私はまたやっちまった。
しかも、今度は“人”を“変えて”ちまった。
訳の分からない力。訳の分からない本能。
後先も考えず、それを使って――黒髪で黒目だったあいつを、どうにかしてしまった。
記憶の中にぼんやりとしか残っていない嘔吐感がこみ上げる。
でも今の身体で吐き出されるのは水だけだ。湧き口から水が溢れる。
それは増えて気持ちいいはずなのに、記憶との齟齬が気持ち悪い。
ざばざばと水面を掻き分けて、あいつが岸にたどり着く。
水面に誰かの影が映り、あいつと男に何人もの手が伸びる。二人が引き上げられる。
滴り落ちる水も私の一部だ。
その水には、もう“黒いの”の気配は微塵もない。血も混じっていない。
完全に浄化しきった。傷もない。心臓もしっかり動いている。助けられた。
――でも、水面に映るあいつの髪はもう元の色じゃない。
水の中での見間違いなんかじゃなかった。
陽の光の下でも、あいつの髪は金色で、肌は白くて、瞳はやっぱり青かった。
それに顔にあった傷痕も無くなってた。
(嘘だろ……なんで、こんな……何しちゃったんだ、私……)
木こり野郎は泉の畔に膝をついて、水面を覗き込んだ。
水面に映る自分の顔を見ると、あいつは目を見開いた。口が僅かに開く。呼吸が荒い。震える。
……その表情は“恐怖”じゃない。驚愕の後に、何かが込み上げてくる顔だ。
次の瞬間、あいつの頬を涙が伝った。
ぼろ、と落ちる。堰が切れたみたいに、いくつも落ちる。
両手で口元を押さえて、声にならない声を漏らして、それでも目を逸らさず水面を見つめ続ける。
(は……? え? え……)
……男が泣いた。
周りにはまだ大勢の人がいる筈だ。
なのに、そんな状況で人目も気にせずに涙を流した。
その事実に、私は衝撃を受けた。
こいつは今までにも、泣きそうな、情けない面をしたことはあった。
でも、涙までは流さなかった。
たぶん、責任感が強くて我慢強いタイプのこいつが、水に映った自分の顔を見て泣いた。
泣くってことは、我慢できないくらいに感情が昂ってるってことだ。
こいつにとって、髪や目の色が変わるってのはそのくらいのことなんだ。
水面が、勝手に小さく波立つ。私の動揺がそのまま出てしまう。
さざ波が、水面に映った木こり野郎の像を乱す。
水に映らなくなれば、無かったことに出来ると思ってるみたいに。
(違う、違う、そんなつもりじゃない、私は……っ)
木こり野郎は濡れた睫毛のまま、水面に顔を近づけて来た。
その表情はさっきまでとは違った。
感情の昂りがあるのは分かる。
でも、その温度が違う。圧が違う。
(は……? ちょ、な、なんだ、お前……急に、なんだよ……)
水面に向かって手が伸ばされる。
あれだけ水に触れるのを怖がってた筈なのに、躊躇いの無い手つきだ。
(待て待て、やだ、こわい。なんか言えって、なあ!)
ちゃぷん、と男の指が、私の中に入ってきた。
たったそれだけのことなのに、普通より大きな波紋が立ってしまった。
(ぅひゃあ)
濡れた青い瞳が、揺れる水面越しに水底の奥まで刺さる。
水際でさざ波がちゃぷちゃぷうるさい。
湧いてる、今、すごく湧いてる。なんだか分からないけど湧いちゃってる。
「イズミール……□□□□□□□□□□□□……」
名前を呼ばれた。
大きな声じゃない、囁くような低い声。
でも、水面近くで、吐息と一緒に水面を撫でる。
(ひぇっ……)
さっき大きく開いた湧き口が、ぎゅっと縮まるような錯覚。
水底の砂利の間からぶくぶくと気泡が湧き上がる。
後に続いた言葉の意味はまるで分からない。
でも、たぶん祈りじゃない。信仰じゃない。じゃあ何なんだよ。
信仰じゃない何かが、もっと深く、奥の方に響いてくる。
熱くて大きくて重たい何かが、私を増やし続ける。
澄んだ冷たい水ではなくて、人肌よりも温かい水が、どこかにあるみたいに。
増えた分の私が喜んでいる。幸せを感じている。
――もっと名前を呼んで、増やして、満たして、温めて。
(……待て待て待て、なんだこれ……なんだ? い、今、そういう感じじゃなかったろ?)
いや、そういう感じってなんだよ、どういう感じだよ。
分かんない分かんない、分かりたくない。分かっちゃいけない気がする。
自分が自分でなくなるような――“些細な違和感”を覚える。
でも、それは湧き上がる幸福感に比べればどうでもいいって思えるくらいのものだ。
前はそうじゃなかった気がする。
それはもっと怖いことだったはずなのに。
今は怖さよりもむしろしっくりくるような。
木こり野郎が大きな手で私を掬い上げた。
溢さないようにしっかりと組まれた手の中で、私はちゃぷんと震える。
私、飲まれる? 飲んじゃうの!?
待って、あの辺の水って浄化したっけ? ちゃんと綺麗で美味しいか?
いや、なんでそんなこと気にしてんだ――気にするでしょ、水として。
意味不明な自問自答をしているうちに、木こり野郎は水を掬った手を口元に近づけていって――
湧き口がじゃぶじゃぶ言ってる。
水底でいくつもの渦が乱立して、砂利に奇怪なアートを描いてる。
その時、視界の隅を、すっと銀色の線が横切った。
無感情な瞳。背びれと腹びれに先割れした尾びれの小魚。
魚影が私の視界のど真ん中、意識の中央をスイーッと通り抜けた。
(ん……? 私? 俺? いや、俺だよ、俺!!)
我に返った。
返ってしまった。
ついさっきまでの自分の思考――覚えてる。
なんだかよく分からない感情だか情緒に物凄い勢いで流されてた。
流れ込んでくる何かに滅茶苦茶染まってた!
酒か何かに酔ったみたいになってた! 怖っ! こわぁ!?
水面に金髪碧眼イケメン野郎が、今まさに俺の水を飲もうとしてるのが映り込んだ。
ブクブクッと気泡が涌いて、水温が上昇する。
(おぉお前ぇ! これ、絶っ対! お前のせいだろオラァァァーーーっ!!)
色々と限界になった俺は、木こり野郎の顔面目掛けて水鉄砲をぶっ放した。
流水は木こり野郎の掬う手を弾いて、口に命中。
驚きの声を押し流して口内へ。ごくりと喉が動いた。
俺は結局、飲まれてしまった。
(んあああぁーーーっ)




