42.ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず(後編) ◆
あの奇跡の日から、泉は沈黙を保っている。
この泉における沈黙とは、無音を意味しない。
風や落ち葉にも揺らがぬ凪――その奥に、あの御方の気配が満ちていることだ。
今は、それがない。
水面はただの水面として揺れ、波紋が浮かぶ。
御子様方も姿をお見せにならず、浄化を望む列は行き場を失くして座り込む。
それが一日ではなく、二日、三日と重なっていくうちに、森の空気そのものが尖っていくのを私は肌で感じていた。木々は変わらず息をし、泉は変わらずそこにある。
だが、人の“渇き”だけが膨れ続け、見えない嘴で水面をつつき続ける。
私にとってもその渇きは他人事ではない。
眠りは日毎に浅く、夜の森の冷たさが日に日に骨に染みていく。
私は社の前に立ち、膝を折る者たちを見下ろす立場にある。
それを望んだのは他でもない、私自身だ。
あの方の心を乱したくない――その言い訳で、人と泉の間に線を引いた。
夜は門を閉ざし、昼は人を選り分け、泉の畔へ近づける者を限った。
結果として私の言葉は“作法”になり、作法は“掟”に変わった。
列の先頭に立つ者の目は、日ごとに乾いていく。
縋る者の手は、日ごとに強くなる。
「なぜ御姿をお見せにならないんだ」
「いつまで待てばいい」
「救いは本当にあるのか」
矢のように飛んでくる言葉と感情。焦り、怒り、恐れ。
救いの存在を知ったからこそ、得られぬことに深い絶望を覚える。
私は、その絶望が溢れ出さないように、もっともらしい理由を積み上げた。
「女神は慈悲深い。だが、慈悲は望めば即座に得られるものではない」
「祈りが試されている。心が整うまで待たねばならない」
「御子様方はまだ幼い。縋りつくばかりではご負担になる」
どれも真実と都合を縫い合わせた嘘だ。
――そして、その嘘に縋りたいのは誰より私だ。
※※※※※
その日も泉は、ただの泉のままだった。
風にゆらめく水面は、女神の不在を思わせる。さざ波は居並ぶ者の心のざわめきを、そのまま写し取っているかのようだ。
泉の沈黙に堪えかねたのか、参列者の一人が立ち上がった。
豊かな布と飾りで身を包んだ女だった。
金糸銀糸で縁取られた青いサッシュ――ペッシヌスが“参拝の権利”を売った証。
彼らの多くは救いに縋るためではなく、神秘に触れた箔を得るため、欲を満たすためにやって来る。
女は社の前まで来ると、私の前で足を止め、顎を上げた。
人を見下ろし、従わせることに慣れきった者の顔をしている。
私は泉に向かって跪いたまま、顔だけを向けた。
作法は心得ている。だが、それを今持ち出すつもりはない。ここは宮廷でも取引の場でもない、祈りの場だ。
いつまでも現れない奇跡に業を煮やした女は、私に“証”を求めた。
女神の寵愛を受けた聖者だというなら、今ここで呼んでみろ、と。
その物言いに周囲の者たちが息を呑み、ざわめき、期待の混じった視線が私へ集まる。
その要求の不遜さ、傲慢さに、怒りが胸の奥で燃える。
だが、それは私にとって言われたくない、刃のように刺さる言葉でもあった。
――あの方は、私の呼びかけに応えてくださるのか。
怒りを形にするなら容易い。掟を盾にして追い返すこともできる。
だが、その瞬間、私の中で別の声が囁く。
――もしも、今呼んで、応えが返ってこなければ。
――それを、皆が見れば。
それは私の面子ではない。泉と女神を“偽物”として踏みにじる口実になる。
私は拳を握り、ほどいた。
言葉で女の勢いを受け止めようと試みた。
だが、それがなおさら女を苛立たせたのだろう。女は一歩踏み込み、護衛がそれを止め、止められたことにさらに声を荒げた。
その声が、泉の畔へ届く。退くことは出来ない。
だが、この女を退かすことのできる言葉が、私の中に無い。
葛藤のまま、私は立ち尽くした。
――その時だった。
水面がいつの間にか鏡のように凪いでいた。空を写し取ったその一箇所で、ふっと水が膨らんだ。
泡が立つこともなく水そのものが息を吸い、吐くように、柔らかく持ち上がる。
花の蕾のような水の塊が水面に浮かぶ。
一つではない。瞬き二つする間に、両手で数えきれないほどになる。
そこから花開くように、小さな水の身体が生まれた。
幼い龍の輪郭。短い角。耳の位置に生えたヒレ。
注がれた水が跳ねるような躍動。
女神イズミールの御子様方が、沈黙を破って現れた。
「……っ」
思わず吐息が漏れた。
私は安堵で膝が崩れそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。
あの沈黙は完全な拒絶ではなかった。
不調でもなかった。
それだけでも救われた心持ちだった。
水の幼子たちは、長い退屈に堪えかねたとでも言うように水面で短い手足を伸ばした。
跳ね回り、互いをつつき合い、それからふわりと舞い上がる。
そして、御子様方は泉の畔にいた私たちへ、一斉に突進してきた。
抱擁と呼ぶには乱暴で、襲撃と呼ぶには温かい。
水の身体が胸へ、肩へ、顔へ、背へとぶつかってくる。
水の身体は、ぶつかった衝撃で弾けて水に還る。
御子様方は人を傷つけない。だが、遠慮もしない。活力のままにぶつかってくる。
その無邪気さが、私の胸の恐れを乱暴に蹴散らしていく。
女も、護衛も、周囲の者たちも呆然とし、困惑の悲鳴をあげていた。
だが、やがて誰もがその清浄さに、不安や苛立ちや我欲を洗い流される。
怒鳴っていた喉が、咳き込むように詰まり、言葉にならない嗚咽に変わる。
伸ばされた手は、欲ではなく恐る恐るの触れ方に変わる。縋る者の手つきでもあり、慈しむ者のそれでもあった。
歓声が上がり、手が伸び、笑いと涙が混ざっていく。
私は列が泉へ雪崩れ込まぬよう、声で押し留めながら泉を見やった。
御子様だった水が飛び散り、あるいは地面を流れて水面に還る。
しかし水面は鏡のように平らで、波紋一つ浮かばない。
あの方が御子様方を遣わしてくださったのだ。
私は胸に手を当て、喉の奥で押し潰していた祈りを、言葉にならぬまま吐き出した。
――ありがとうございます。
――まだ、お見捨てにはならないのですね。
そして同時に、もっと汚い願いが喉の裏で蠢いた。
――私を、見てくださっていますか。
そんな願いを抱いた自分が恥ずかしく、私は目を閉じた。
ばしゃん、と顔に衝撃。
今日の御子様は殊の外、元気でいらっしゃる。
私はその活気に励まされたように思った。
※※※※※
翌日。
御子様方が現れた――その事実だけで、列の熱は変わった。
昨日までの焦りは、今朝には飢えに変わり、飢えは欲に変わる。
人は救いが“ある”と知った瞬間に、救いを“当然”だと思い始める。
私は社の前で列を割り、泉へ近づける者を選り分けた。
浸蝕が進んでいる者。
武器に呑まれかけている者。
身体が黒く変じ、目に光が薄い者。
そういう者たちを先に――私は手で示し、護衛に合図し、道を作らせる。
何度も繰り返した動きのはずなのに、昨日までとは違う。
心が、少しだけ軽い。
沈黙が拒絶ではないと分かっただけで、私は立てる。声を張れる。人の視線に潰されずに済む。
我ながら現金なものだ。
それでも押し寄せる者の中には、焦りに負ける者がいる。
肩を押し、肘で割り込み、怒鳴り、ついには――手を上げようとする者すらいた。
心に傷を抱え、逸った者の拳だ。さしたる威力もない。
私は自ら進み出て、拳に勢いが乗り切る前にあえて体で受ける。痛みを感じたのはむしろ男の方だろう。
男は衝動に身を任せた行いを自覚し、拳を抱えて悄然とする。
私はその場で彼を赦し、周囲の者にもそれを示して彼を列から除かなかった。
あの拳を避けることは容易かった。
彼に罪悪感を持たせない方法もあったし、彼を追放することも出来た。
私はあの場で赦す者と赦される者――その構図を秩序づくりに利用した。
ペッシヌスを非難できないやり方だ。
だが、泉を守るためにはどのような事でもすると決めた。
――守るために、という言葉は今日も胸へ刺さる。
私は、何を守っているのか。
女神の安寧と、御傍に居続けるという私の執着か。
問いが湧くたびに、昨日の水の温かさを思い出し、心に一時だけ清浄さを取り戻す。
※※※※※
その時、列を抜けて泉へと向かおうとする者が視界に入った。
飾り立てられた水色のサッシュを身に着けた男だ。
布の艶、刺繍の厚み、肩から垂れる房の重さ――権利を誇示する虚飾の印。
だが、私はその男に逸りを見出した。
先ほど暴力に走った者とは似て非なる揺れだ。後ろ暗いものを抱えている者の目をしている。
幅広の袖に派手な袖飾り。
大股の歩みの割に、腕の振りが小さく慎重――袖の内で何かが重く固定されている。
私は男の進路を塞ぎ、鋭く告げる。
「……待て。泉に近付く前に、隠し持っている物を置いていってもらう」
男がぎくりと足を止め、腕をかばう素振りを見せた。
袖口から一瞬、ガラス質の硬い輝きが垣間見えた。
(これは、まさか……)
「何を言っている。言いがかりは止めて貰おうか。私は何も隠してなどいない」
参拝の列には、時折、御子様に不埒な振る舞いを企む者が混じる。
この男は――御子様の抱擁に紛れて、御子様のお身体だった水を盗み出すつもりだ。
そして最悪の場合、御子様方そのものを拐かすことさえも――。
赦し難い所業だ。
激しい怒りと憎しみが腹の底で沸き立つ。
御前で御子様が攫われる――あの方の哀しみはどれ程のものか。
拳を握りしめれば、振り上げてしまいかねない。
私は掌を広げ、男に向けて制止した。
「立ち去れ。今ならば不問にする」
男の目が細くなる。苛立ちが顔に浮く。
護衛らしき者が進み出ようとする。
「……無礼が過ぎるのではないかな、聖者殿!」
男が声を荒げる。
感情に任せただけの言葉ではない。周囲の耳目を集め、こちらが非難される流れを作ろうとしている。
「ゴルディウムでは巡礼者をその様に扱うのが礼儀か!」
男は非難の矛先をずらし、論争を膨らませようとする。
信仰の場そのものを揺るがすつもりか。
――水面が、微かに揺れた。
来る。
そう感じた瞬間、泡が一つ浮かび、ふわりと水の身体が形を取った。
御子様が、お一人だけ。
これまでになかった出来事に、私を含め周囲が息を止める。
御子様は水面から浮き上がり、男の眼前へ進み出た。
男は顔を明るくした。勝利の顔だ。両手を広げ、御子様に近づこうとする。
男が御子様へ触れようとした次の瞬間、御子様は身を引いて、その手を躱した。
そして、くるりと男に背を向けて水面へ戻ると、いったん振り返り――改めて背を向け、水に還った。
誰の目にも分かる明確な拒絶だった。
それはあの男の企みを看破されていたとしか思えない行動だった。
御子様方は人の心に澱みがあることを母なる女神より教えられたのだろうか……。
泉への参拝を認められなかった者たちの間で、どよめきが生じる。
「……見たか、御子様が背を向けなさった」
「聖者さまに止められて、御子さまにも背を向けられて――」
ひそひそ声は伝染し、輪になって広がる。
そこに敬虔な疑念だけでなく、僻みや憤懣も混ざっていく。
「金を積めば女神様に近付けるなんて、やっぱりおかしい……」
「薄藍に金糸に銀糸を折り込んで、今度は赤い顔を混ぜましたって?」
男の狙い通り衆目を集めることには成功した。
だが、御子様に背を向けられた――その事実が男の立場を決定づける。
怒りと屈辱に男の頬が赤くなった。
それを噛み砕けず、噛みつく先を探す獣の顔。
「黙れ! 下賤めが……!」
向けられた侮蔑に、人は敏感だ。
野次に怒号が混じり、護衛が一歩前へ出る。
私は男の袖を見た。先ほど垣間見えた硬い輝きが、まだそこにある。
抱え込む腕の角度が不自然に固い。
「……その袖の内を見せろ」
私は低く告げた。命令ではない。確認でもない。最後通牒だ。
男は一瞬だけ視線を逸らした。
その一瞬が、答えだった。
「こ、この私を疑うのか! 私を誰だと思っている――」
男が声を張り上げ、場を支配しようとする。
論争へ引きずり込み、こちらを“無礼”として吊し上げるつもりだ。
その時、水面が――小さく輪を作った。
風はない。落ち葉も触れていない。
それでも輪が広がる。見ている者の息が止まる。止まった息の数だけ、沈黙が厚くなる。
もう一度。輪が重なる。
この場で、この現象が意味するところはただ一つ。
(――あの方が見ておられる)
私は男へ向き直り、声を張った。
男へではない。列へ。群れへ。渇きの塊へ。
「この水面は女神イズミールの曇りなき眼そのものだ」
ざわめきが一瞬、引く。
人は怖れを好む。怖れは秩序になる。
「悪しき心を隠して近づく者に、御子様は背を向けられた。
それは――あの御方の裁定にほかならない」
私は男の袖を捲り上げた。
そこには手首に括り付けられた、空のガラス瓶があった。
「浄化を受けるのではなく、この器に御子様を収めるつもりだったか」
列がどっと騒ぐ。
近づけぬ者たちの怒りが、一気に噴き出す。
「御子様を攫う気だったのか!」
「女神さまの御前でよくも――!」
男が一歩退く。退いたことで、さらに声が上がる。
護衛が肩を張る。だが護衛も、群れの数には勝てない。
「違う! でたらめだ!」
男は叫びながら袖を戻す。
隠そうとする動きが、何より雄弁だった。
私は一歩踏み込んだ。剣ではなく、言葉の距離で。
「立ち去れ」
短く、切った。
「御子様はお前の罪を暴こうとはしなかった。
――だが、次はない。女神イズミールと御子様を利用しようとする者は、私が赦さない」
これは女神の名を騙った威圧だ。
だが、紛れもない本心でもある。あの方が世俗の穢れに煩わされないように。
例え、あの微笑みが仮面であったとしても、その仮面の下で御心が安らかでいられるように。
男の護衛が武器を手放し、男の肩を掴んで首を振った。
男がこちらを見て息を呑む。
……その時、私は深淵殺しの顔をしていただろう。
目的のためには手段を選ばない、化け物の顔を。
男の背が列の外へ消えるまで、私は動かなかった。
泉を守るために吐いた言葉が方便であることを、私は知っている。
同時に――方便でなければ、この場を保てないことも。
私は波紋の消えた水面を見た。
(……見抜かれているのは、あの男だけではない)
胸の奥にあのひび割れた花がある。
ひび割れたまま硬まったあれは、今の私そのものだ。




