41.ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず(前編) ◆★
37話「水からの浮かび方を知らない」~39話「よどみに浮ぶ泡沫は、かつ消え、かつ結びて」までのアイオリス視点
あの日、木彫りの花が黄金の輝きを宿した瞬間、女神の存在は決定的なものとなった。
あの場に居合わせたペッシヌスの客人たちは、近隣の都市と国家の重鎮、大商人。
それに名の知れた傭兵団の長や術士たちだった。
各々がどのような思惑と理解で訪れたかは分からない。
だが、あの奇跡を、あの御姿を見れば、否応なく思ってしまったはずだ。
女神が降臨された。自分は今、神話の中にいるのだ、と。
――私がそうだった。
黄金の光が、割れた木の芯から滲み出した瞬間。
誰かが息を呑む音がした。続いて、膝が土に触れる音が、ひとつ、またひとつと増えた。
武具の金具が鳴り、誰かの手袋が震え、術士の指先が宙で固まった。
あの場の空気は、黄金の匂いを帯びたのではない。恐怖と畏れが、形を得たのだ。
あの方の起こす奇跡は本物だ。深淵を祓い、世界に救いをもたらすものだ。
そして、あの方には迷いも恐れもなく、黒禍を退け、人を導く救い主だと思っていた。
だが、私はあの日、あの御方の心の揺れを見てしまった。
涙。拒絶。困惑――そして、怯え。
見てはならないものを見た、と身体が先に理解した。
あの方は、私の何かに失望と拒絶を抱かれたのだろう。
だからこそ花を返されたのだと思う。
だが、その後の黄金化――あの奇跡は意図したものではなかったように見えた。
人々は、あれを私に対する恩寵だという。
皆、あの半分黄金と化した木彫りの花に、女神の高潔で深遠な意図を見出そうとする。
残った事実のみに目を向ければ、そう思うのも無理はない。
しかし、私にはもう無理だった。
私の勝手な解釈で、この清浄な泉に人の世界のしがらみや欲を持ち込んでしまった。
あの方と御子様方の平穏な暮らしを破ってしまった。
私にはあの方の御傍にいることも、御名を呼ぶ資格も無いだろう。
――それでも、離れがたいと思っている。
浅ましい。どこまで恥知らずで、どこまで欲深いのだ。
こんなものは崇敬でも信仰でもない。ただの我欲と執着だ。
私の中に、自分があの方の心を揺らすことが出来るのだと知って歓喜する心がある。
あの、全てに等しく向けられている穏やかで美しい神の微笑――
それ以外の表情を、あの涙の向こうに見出してしまった。
それ以外の表情を、もう一度見たいと思っている。
(ああ、やはり、私のこれは信心などではなかったのだ……)
私は、あの女神の“揺れ”に惹かれてしまっている。
これが信仰が形を変えた執着だと知っている。
私は彼女を救い主としてではなく、傷つく“ひと”として見てしまった。
私は彼女に頼られたい、縋らせたいという欲を持ち始めている。
私は彼女から“必要とされる”ことを求めている。
これを恋と呼べるならまだ潔い。
だが、これはそれより救いがたい欲望だ。
※※※※※
ペッシヌスの築いた開拓村――ゴルディウムは、あの日から女神イズミールの聖地として知れ渡った。
あの黄金の光は、客人たちによって持ち帰られ、人の舌に乗って風のように広まった。
あの抜け目ない男は、いずれこの日が来るのを確信していたのだろう。
この辺境の土地に、人・物・金が集まる為の準備に莫大な資産を投じていた。
あの男の用意した道が、標識が、宿が、押し寄せてくる人々の流れを止めずに、ゴルディウムへと運ぶ。
道に刻まれる足跡と轍は、さながら運河のようだ。
乾いた土の上に、“人の渇き”で掘られた溝だ。
その運河は、ゴルディウムという水門を通って森を抜け、女神の泉へと流れ込む。
人の群れは様々な顔をしている。
救いを求める“深淵殺し”たち。
黒禍に浸蝕された者。
家族を失った者。
住処を追われた者。
商機の匂いを嗅いだ者。
都市や国家からの使者。
術士。武具商。薬師。祈祷師。
誰も彼もが同じ目をしている。
乾いた目だ。
渇いているのに、濡れた目だ。何かに縋らないと歩けない目だ。
私はその目を、何度も見てきた。
魔樹の周りで。壊れた村で。黒禍の粘つく息の中で。助けられなかった者の目で。
いつか、澄んだ水面に映った私も、同じ目をしていた。
彼らを招き寄せたのは、ペッシヌスだけではない、私もだ。
世に救いがあることを知らしめてしまったのは私だ。
社の周囲には露店が立ち始めていた。
樽、桶、皮袋、瓶。水を受ける器が並ぶ。値札はない。
だが、寄進という名目で金銭のやり取りが行われている。
銅貨が指先で鳴らされ、袋に吸い込まれる音がする。
その手つきが、祈りではなく商売だと告げていた。
あの方の聖体である泉の水が、金銭で受け渡される。
それが救いをもたらすことを知っていればこそ、止めることが出来ない。
供物も増えた。
花、果実、布、彫り物、宝石。
より価値あるものを贈ることが女神への信心の証であるかのようになりつつある。
私は歯を食いしばった。
――これは人の世界の欲望だ。
これを持ち込ませ、黙認している以上、私も同罪だ。
朝、社の前が先に騒がしくなる。現地の者たちが作法を整える。
膝の付き方。手の合わせ方。泉を凝視しないこと。声を荒げないこと。
祈りは社で――そう、彼らは私の指示を“儀式”に変えた。
それは、半分は彼らを泉から遠ざけるための方便だった。
女神と御子様方の心を乱したくないという建前と、独占したいという本音で出来た方便だ。
だが、今では私が言ったからではなく、女神がそう望むから、と彼らは解釈する。
解釈は人や集団ごとに枝分かれし、増殖していく。
ゴルディウムの住人の間でも、いくつかの派閥が生まれつつあることを知っている。
信仰の拡大に商機を見出し、功利主義的な立場を隠さないのはペッシヌスの一派だ。
――黄金派。
そう呼ばれる彼らは、現世の利益を得ながらそれを聖地の拡大に繋げることが、女神の教えを広めるための必要な善行だと信じている。
女神の生み出す黄金を、信仰の獲得という形で女神に還すことが徳なのだと。
心からその理念を信じている者もいれば、それを方便として私財を肥やすことに腐心する者もいる。
私はペッシヌスこそが後者の筆頭であると――金だけがあの男の目的だと思っていた。
だが、その見立てはおそらく間違っていた。
商売の為だけにしては、あの男は手際と思い切りが良すぎる。
人を集める。導線を作る。作法を整える。階級を作り、優遇を売る。
噂を育て、懐疑すら燃料にして、信仰を制度に縫い付ける。
その手に、躊躇いがない。
失敗を恐れないかのように私財を投入し、儲けた金を更に投資に回す。
あの男は“神秘”に勝ちたいのだ。
“国家”に勝ちたいのだ。
自分が裏切られたもの、救ってくれなかったもの。
それらを自分の差配で跪かせ、手玉に取り、嗤いたいのだ。
自分より上にいたはずの者たちが、女神の名の前で膝をつくのを見て、愉悦を覚えている。
自らの飾り立てた祭壇に女神を据え、信心の仮面をかぶって商売の道具として扱う。
復讐心。あるいは、世界への悪意か。
だが、それが悪意であっても、女神と聖地の名は高まり、救いを求める者を集める。
そして、女神が人を見捨てない限り、現実に救いはもたらされてしまう。
※※※※※
あの日、遠巻きに黄金化の奇跡を見ていたペッシヌスは、騒動が収まった後で私の元へやってきた。
「アイオリス殿。流石は女神の寵愛を賜りし御方です。感服いたしました」
彼は悪意を呑み込み、甘言だけを私に差し出す
私は礼を返さなかった。返したら、彼の舞台に乗せられてしまう。
「……貴方には、あれがそのように見えたのか」
私は低く言った。とても平静ではいられなかった。
「あの奇跡を目撃してそう思わぬ者がどこにいましょうか。あの黄金はまさに恩寵……女神イズミールは、人類に黄金の時代を約束された。貴殿はその道を示されたのです」
胸が重苦しくなった。
この男は“筋書き”を先に作り、現実をそこへ押し込もうとする。
そうやって神話を自ら作り出す気でいる。
「あの方はそのようなことを仰っていない」
「下賤の身では女神様の尊き御意思の全てを理解することは叶いません」
「ですが、女神イズミール御自らが黄金を生み出されたのです」
「不滅の象徴たる黄金は、あの御方に相応しいものだとは思いませんか」
彼の瞳が細くなる。そこには答えが最初から用意されている。
女神が示した。女神が選んだ。女神が望んだ。
そう言えば、どんな詭弁も信仰になる。
私は視線を逸らして、泉の方を見た。
水面は平らだった。凪いでいる。
それを見て、あの方が身を縮めているのだと想像してしまう。
この男の推し進める人の欲望の増幅が、いずれこの泉に押し寄せる。
深淵に抗うという大義面分を振りかざし、国家として取り込もうとする動きも想像できる。
私は――あの方の傍に立ち続けねばならない。
この泉が、人の欲望で出来た檻に囲まれるならば、私は囚われたあの方と御子様方の盾になる。
私の背中は、あの方の平穏を守るのではなく、より追い詰め、傷つけることになりかねない。
だとしても、この場を離れることはもうできない。
私はペッシヌスに向き直った。
「我々は、あの方の慈悲によって生かされている――節度を忘れるな」
私は人と泉の間に線を引かせた。泉に直接触れることを禁じた。
近付ける者とそうでない者を区別し、近付ける時とそうでない時を分けた。
夜の間は泉への道を閉ざし、四六時中、人が訪れられないようにさせた。
彼の眉が、ほんの一瞬だけ動いた。私の言葉に従うふりをするのは簡単だ。
だが、彼の商売の旨味は“特別扱い”にある。
区別や制限は商品の価値を吊り上げる。彼はそう判断するだろう。
「もちろん。もちろんですとも」
護衛。案内。監視。封鎖。彼はすぐに算段を着けて手配する。
そして、私に蜜と毒を投げ返してくることも忘れない。
「アイオリス殿におかれましては、どうか泉の守護として詰めていただきたい」
「女神様も御子様方も、貴殿には殊のほか気を許しておられる。安心なさることでしょう」
私は拳を握った。握って、ほどいた。
私の警戒心と独占欲を見透かされていると感じた。
そして、私を村から遠ざけて、孤立させようという意図も。
泉を護るために私が出した諸々の制約にペッシヌスは異を唱えない。
受け入れつつ、制約を履行させる監督の役割に私を縛り付ける。
私は女神を捕らえる牢の看守を申し出たようなものだ。
あの方を囲い込むことに加担しながら、慮って守る振りをしている。
私はもはやペッシヌスの執着を非難できる立場にはない。
あの男の求める愉悦と同じか、それ以上の醜悪さを持っている。
……私はイズミールというひとを欲しているのだから。
※※※※※
夜。
私心混じりの制度で泉への門戸を閉ざし、人を遠ざけて得た仮初めの静寂。
私は独り、泉の畔に立ち、双子の月と星空を映した水面を見つめる。
夜風がさざ波を立て、月と星の像を歪ませる。
その当たり前の光景が、逆にあの方の不在を思わせて、私の心を揺らす。
もしも、あの方が私を心から拒絶しているのであれば。
無遠慮に御許に留まり続けることで、勘気に触れ、再び御姿を現してくださるのではないか。
そんな、ありもしない期待すら抱いている自分がいる。
こんな欲望を抱いたままでは、とても呼びかけることなど出来ない。
だからと言ってどこかへ行こうなどとは欠片ほども思えない。
言葉も、祈りも、想いも、持つべきではないものを抱え過ぎている。
あの日、何も気付かずに、ただ奇跡の当事者でいられたらば。
この心がただ清い信仰だけで満たされていたならば。
――無理だ。
一度、気付いてしまったことに、蓋をすることは出来ない。
一度、生まれてしまったものは、無かったことには出来ない。
私は懐から笛を取り出した。
以前、ここでこれを吹いた時は、感謝と崇敬の気持ちだけで音を奏でられた。
だが、今は……。
私は無心で笛の音を鳴らす。
どうか、この昏い心の裡が音に漏れ出して、あの方に届かないように願いながら。
水面に波紋が生じるかを見届ける勇気もなく、目を閉じて奏で続けた。
応えが来るのも、来ないのも、どちらも怖かった。
※※※※※
昼間の間、泉に近づける者と近づけない者を、私は選り分ける。
病が深い者、浸蝕が進んでいる者、武器に呑まれそうな者を泉の畔へ迎え入れ、浄化を受けることが出来るかの裁可を仰ぐ。
貧富や貴賤を問わず、救いを必要としている者を追い返すことは出来ない。
ペッシヌスは私の定めた方針を是とした。その代わりに条件を付けてくるだけだ。
女神イズミールに多くの浄財を捧げた信仰者にも機会を与えてはくれまいか、と。
その多くは富裕者だ。
上等な布に刺繍や銀糸・金糸を織り込んだ水色のサッシュを身に着けた者達。
救いを求める者、崇敬の心を持った者もいる。……そうではない者も。
あの奇跡の日から、泉は人の祈りに応えることを止めた。
御子様方も、姿を現そうとはしない。
救いを求める者は列を為して現れ、後から後から続いてくる。
その祈りは止まらない。止まらないから、渇きだけが育っていく。
私は、その渇きを受け止め、救いを得られぬもっともらしい理由を騙る。
そう、騙りだ。
あの方の真意を酌むことができない私は、あの方と御子様方の安寧の為に救いを求める者に嘘を吐く。
真摯なる祈りが足りない、心からの祈りであっても届くには時を要するのだと。
私に対する失望が人そのものに対する失望であったのなら、あの方も御子様も、もう姿をお見せになることはないかもしれない。
そんな後ろめたさや不安を抱いていることは透けてしまうのだろう。
日を追うごとに人々の渇きは増し、私の言葉は届かなくなっていく。
何より、誰よりも渇きを覚えているのは他ならない私なのだ。
あの方の拒絶を肌で感じながら、祈り言葉さえ唱えることが出来ずにいる。
私は一体、どこで何を間違えたのだろうか――




