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38/59

38.水は低きに流れ、人は易きに流れる ◆

 港町の酒場は、潮と油と、乾いた笑い声でできていた。


「泉の女神さま、だってよ」


 杯を机に置く音が、板の継ぎ目を震わせる。

 話し手の男は潮の味が染みついた指で顎鬚を撫で、喉の奥に引っかかった魚骨を笑いに変えるみたいに肩をすくめた。


「どこぞ森の奥に澄んだ泉があって、そこにどえらいべっぴんの女神さまがいて、汚れを洗ってくれるんだと」


「そりゃあいいや、俺の相棒も洗って貰おうかね、なんせ——」


「やめとけ。洗ったら垢と一緒に粗末なもんが溶けて無くなっちまうだろ」


 下品な冗談にどっと笑いが生まれる。

 どこかの航路や港が魔樹で駄目になったとか、そういう“よくある”辛気臭い話はご法度だ。


 酒場の噂話は、どんなに嘘臭くて下品であっても、笑い話に出来ないといけない。

 船出をした後には、いつ何時、笑えない現実と顔を突き合わせることになるか分からないから。


「でもさ」と、別の若い男が食いつく。


 その目は飢えた犬みたいに落ち着かない。


「聞いたぞ。その泉の水を傷に垂らすと浸蝕が薄くなるんだって……俺の従兄が、黒い爛れが出てさ」


 その言葉に、笑いが一瞬だけ引きつる。潮風が店の隙間を舐め、灯りが揺れる。

 黒禍の話題は、どんな酒場でも空気を冷やす。

 誰もが知っていて、誰もが見ないふりをしている“すぐ近くにある恐怖”だ。


「泉の女神の名前は……イズ…マイル? なんだっけな。そんな風に呼べばいいらしい」


「呼ぶだけで? ベッドまで飛んできてくれるってのか、いいねぇ!」


「よせよせ、そういう女は高くつくんだぜ」


 笑いが戻り、噂はまた薄い泡になる。

 誰もが真剣には受け取らない。真剣に受け取るには、遠すぎる。

 だが泡は、口から口へ、舌から舌へ移っていく。

 遠い場所の真実は、いつだってまず冗談の顔をして現れる。


◆◆◆◆◆


 街道の脇、藪を除けただけの野営地に男たちが焚火を囲んでいる。

 その髪の色、覆いをつけて隠した武器で、彼らは互いの仕事を知っている。

 深淵に近い仕事。“行って帰ってきた”ことのある者ほど、目が乾いている。


「アイオリスが生きていたって噂を聞いたか」


 その言葉は、酒場で交わされる冗談よりもずっと重い。

 彼らは黒禍の話を避けない。

 どこそこで“苗”が見つかった。どこかの町が無くなった。

 そういう“よくある”話をどれだけ知っているかが生死を分けることを知っている。


 焚き火にくべた薪が爆ぜる音が、誰かの歯の噛み合わせみたいに響いた。


「……奴は死んだって聞いたが」


「見たって奴がいる。……関所の番が言ってた」

「名乗りだけの詐欺なら何人もいるが、あのイカれた強さを真似できる奴はいない」

「浸蝕の痕が薄いツラで現れて、独りで魔樹を倒したってよ」


 失笑が漏れた。

 魔樹と言えるくらいまで成長しきった裂け目は、近づくだけでも至難だ。

 周辺の生き物があらかた敵に回るのだから、単独で近づくなど自殺行為だ。


「嘘だ」


「嘘なら楽なんだがな」


 火の向こうの男が言う。片目の周りだけ肌が黒く染まっている。

 浸蝕は皮膚に垂らした墨みたいに広がっていき、命と心を蝕む。


「アイオリスは泉の女神に浄化された。それで、浸蝕が収まったらしい」


「収まる? 浸蝕が? ありえない。」


「だが、アイオリスと名乗る奴が現れたことと、魔樹が一つ無くなったのは事実だ」


 沈黙が一拍。


 皆が、同じ未来を想像する。

 黒い痕が消え、痛みが減り、眠りが深くなり、明日を恐れずに済む未来。

 想像した途端に、喉の奥が熱くなる。希望は、痛みより先に人を蝕む。


「奴は女神の使命を受けた聖者だって話がある」


「聖者?」誰かが唾を吐く。


「俺たちは何だ。汚れ役か」


「違う」と、片腕が丸太のように肥大化している男が言った。声は低い。


 “深淵殺し”の抱える事情や目的は皆違う。

 だが共通しているのは――汚れを抱えたまま、深淵を殺しに行くことだ。


「……もし本当なら、行く価値がある。これが治せるものなら……俺はまだ戦える」


 その輪の中で、疑念と期待が肩を並べた。

 どちらも同じ顔をしている。

 火の色を映した瞳は、剣より鋭く、祈りより飢えて渇いていた。


 ◆◆◆◆◆


 巡礼の列は、奇跡の形を知らない。


 知っているのは、足の裏の豆と、背中の荷の重さと、胸の奥に巣食う黒い咳の兆しだけだ。


 彼らは街を出た。誰に頼まれたわけでもない。追われたわけでもない。

 選択肢自体がもう残っていなかった。


 黒禍は風に乗って扉の隙間からでも入り込んでくる。

 家族の指先に、恋人の瞳の隅に、ある日突然、油膜みたいな黒が浮かぶ。


「泉に行けば、薄くなるって」


「なれ果ての“深淵殺し”が人の姿に戻ったって」


「ああ、イズミール様……どうか、どうか坊やを」


 列の先頭にいる母親は、幼い子を背負っていた。子の肌はまだ白いが、咳が乾いている。

 母親はその咳を聞くたび、心臓の中の糸が一本ずつ切れていくような顔をする。


「御姿を見た者がいるんだって」若い男が言う。「水の衣を纏った、美しい……女神」


「願いを叶えてもらうには、プルヌスと同じ重さの金を捧げるんだって。道の宿で、そう教わったわ」


「慈悲深い御方で、来る者はすべてお救いになられるって聞いたぞ?」


「そもそも、なんでプルヌスなんだ」


「知らん、好物でいらっしゃるのかもしれん」


 笑い声が混じる。怖さを紛らわすための、薄い笑い。誰も真実を知らない。

 ただ“救いがある”という輪郭だけが先に走り、彼らを進ませる。

 救いを信じたいのではない。

 信じるしか、生きる形が残っていない。

 後からひたひたと追いかけてくる、黒い死の影から逃れるために、救いを求めて進む。


 "聖地"への道は整えられつつあった。

 土は踏み均され、轍ができ、簡素な道標が設けられていた。


 先に行った誰かが、後に続く者に残した痕跡。

 もしくは、誰かが金をかけてまで、訪れる者を招く為に用意をしたという痕跡。


 それは、明日をも知れぬ旅をする者にとっては、心強い道標だった。


◆◆◆◆◆


「俺は、もう限界のはずだった」


 湿った草地の上で、男は自分の胸を叩いた。

 叩けば叩くほど、そこに残っていた黒い重みが遠い記憶になっていくみたいに、声は熱を増した。


 彼は“深淵殺し”だった。

 黒禍に身を染めてでも、深淵に抗う道を選んだ。


 今、彼の周りに集まっているのは、同じ匂いをまとった者たちだ。

 浸蝕の匂い。金属が錆びる匂いに似ている。誰の身体にも黒い変容が滲んでいる。


「泉の畔で、俺は女神イズミールの御子様方に救われた」


「あの方々は、俺の中にあった。黒禍を洗い流し、元の姿を取り戻してくださった」


 浸蝕の影響で、男の身体は石のように硬くなっていた。

 爪や牙を弾く鎧にもなっていたが、その硬質化は心臓にも届き始めて満足に動けなくなっていた。

 それが、泉の女神の娘たち――幼龍の抱擁を受けたことで、収まっていった。


 浸蝕による異能は薄れたが、そのお陰で彼の命は繋がれた。

 髪や肌はまだ黒く染まったままだが、泉の神秘が深淵を退けることが確かであることを、その生が証明している。


 聞き手が息を呑む。彼の言葉には“本当”がある。

 嘘をつく人間は多いが、死に瀕した者の声は、嘘が入り込む余地が少ない。


「……俺の穢れを、その身で受け止めて……あの方々は、何も言わずに、ただ――」


 彼は言葉に詰まり、拳を握りしめた。


「俺は御子様の身を挺した奇跡に救われた。救われたから、返す」

「……俺は、浄化の女神イズミールの名に誓う。この命を深淵を殺すためにもう一度使うことを」


 彼の布教は、純粋な祈りというよりも、強迫観念や呪縛に近かった。

 彼は救われた者の顔をしている。殉教者の顔をしている。


 それは、救いを知らない者にとっては、羨望と忌避を同時に抱かせる。


「……その女神様は、結局、誰を救うか“選ぶ”んじゃねえのか?」


 誰かが呟く。別の誰かが鼻で笑った。


「選ばれたって言いてえ奴が、勝手に選ばれた気になってるだけだろ」


 救いを得た誰かは語る。


「俺は選ばれたわけじゃない。それを贔屓と言うなら――お前達は、まだ救われるに足る働きをしていないってだけだ」


◆◆◆◆◆


 開拓村の朝は、祈りから始まる。


 畑の土は固く、森から漂う冷たい湿気は身に染みてくる。

 それでもここには、生活が根を張り始めていた。


 井戸の前で桶を洗う女。薪を割る男。子どもたちの笑い声。犬の吠え声。

 全部が、森の匂いに混ざっている。


 人と森を繋ぐのは、清浄な水の匂いだ。


 村の人々は日に一度、泉の畔の社を訪れる。

 泉に直接相対して願をかけるのは、礼に欠ける行為とされている。

 だから、社の中に汲み置かれた桶の水に祈りを捧げる。


「おお、屋根に雫が。女神様か御子様がお渡りになった跡に違いない」


「それは、ゆうべ降った雨の雫だろうよ」


 隣の女が、呆れたように言う。

 しかし、そこに否定の色はない。女神とその御子たる幼龍の存在を微塵も疑っていない。

 それは村に住む者、ここで神秘に触れた者の共通点だ。


 彼らにとって奇跡は絵空事ではない。体感した現実だ。

 浄化を受け、身の穢れを祓われた者もいる。


「雨も水だ。なら、イズミール様のおみ足と変わらないだろ」


「あ、こら、そう思うなら舐めようとするんじゃないよ、失礼だろ!」


「ああ、イズミールさま、俺たちを今日もお守りください」


 守られているという感覚は、村を支える柱になる。

 恐怖の多い世界では、それだけで人は生き延びられる。


「でも、あれから御姿をお見かけしないっていうね……」


 誰かが呟く。声が少しだけ小さくなる。

 見えないものは怖い。見えていたものが見えなくなると、余計に怖い。


「なに、御子様方が大勢いなさるから。子育てに追われていらっしゃるんだろうさ」


「うちのやんちゃ坊主どもとは訳が違うだろうに……でも御子様方も最近お出でにならないねぇ」


 心配の声には、信心と親愛、不安が入り混じっている。

 村人にとって、女神は崇敬と畏怖の対象だが、御子様――幼龍は見かけた回数の多さも手伝って、親愛の情を抱かせている。

 それは神秘を身近な存在のように扱うことで、自らも神話に参加している気になれることにも繋がっている。


 この村には良くも悪くも、外界とは異なる価値観が生まれつつあった。

 命を脅かされることのない楽土が、人の心をどのように芽吹かせるかを世界はまだ知らない。


「……お祈りが足りないのかもしれねぇ。アイオリス様にお伺いしてみるか」


「そうだね、女神様のことなら、あの御方にお聞きするのが一番だよ」


「なら、ペッシヌス様にお伺いするのはどうだ?」


「馬鹿だね、あの人があたしら庶民の相手なんかしてる暇、あるわけないだろう」


◆◆◆◆◆


 地方都市の石壁は、森の湿気とは違う匂いを持っている。

 権力の匂い。金属と油と、血の乾いた匂い。


 領主の執務室には、一人の客人がいた。

 豪商として知られる男だ。齢を重ねた肌は樹皮のような皺を作り、節くれた指には宝石が光る。

 上質な布で出来た衣の下に、金糸で彩られたサッシュを身に付けていた。


 彼はあの日、奇跡を目の当たりにした一人だった。

 龍の徴を帯びた美しき女神の顕現と、その権能を目撃した。


「では、間違いないのだな」


 領主が問う。口調は淡い。だが淡いほど、背後の刃が見える。


「誓って」


 豪商は即答した。

 その一片の迷いも感じさせない目と声色に、領主は訝しむ。

 商人という人種は、得てして断言を避けるものだ。

 口約束でもそうそう誓いなどとは口にしない。


 余程の確信を押さえていない限りは。


「私はこの目でしかと見ました。泉の水が天に逆巻き、御姿を現したあの御方は――」


 豪商はそこで言葉を切った。

 唇を舐め、領主の注目が高まる“間”を設けてから口を開く。


「女神イズミールは、木彫りの花を黄金に変えてみせたのです」


 それは莫大な富をもたらす奇跡だろう。

 だが、領主として求めるのものはそれだけではない。


 奇跡の実在が証明された。

 ならば、無責任な噂の中に紛れた別の奇跡の存在も真である可能性が高い。


 彼が求めるものは富ではない、"力"だ。


「では、女神が魔樹に対抗する力を与えるという話も本当なのだな?」


 富豪は然り、と頷いた。

 聖者アイオリスにまつわる様々な噂の真相を、彼は本人やその周辺の者たちから裏取りをしていた。


「ええ、女神の御力は治すだけではなく、黒禍を退け、魔樹を滅ぼすに足るものです」


 豪商は見てきたように語る。

 だが、それを嘘や気休めだと決めつけるには、領主は憂いを抱えすぎていた。


 黒禍はどこからともなく現れ、蔓延して、土地を乗っ取る。

 それは領主にとって、疫病や災害というよりは明確な"侵略者"だ。

 深淵に堕ちた土地の生き物は、人も獣も敵になる。

 深淵に堕ちた土地では、土も水も穢され、作物も育たない。


 あれは意思の疎通の取れない最悪の敵対勢力だ。

 譲歩も交渉の余地もない、降伏すら許されない。


 対抗手段は魔法と"深淵殺し"くらいしかない。

 だが、魔法の使い手は減る一方で、"深淵殺し"は懐に抱えるには危険が大きすぎる。


 民は、国や軍が己を守ってくれるからこそ税を納めるのだ。

 深淵に為す術もなく侵されるなら、民は国に従うこともなくなる。

 それは単に権力を失うというだけではない、築き上げた制度や秩序の崩壊を招く。


「我々はそれを得るべきだろう。得られるなら、だが」


 領主は「得る」と言った。それは祈りではない。取引であり所有だ。


 豪商の目が細くなる。


 その瞳はただの信仰者のものではない。

 彼は神秘を信じているのと同時に、女神のもたらす商機をも信じている。


「女神の浄化を受けた武器は"深淵殺し"以上に効果があるようです」


 豪商は、そこで一拍、息を殺した。言葉を置くのではなく、空気を置いた。

 領主が続きをせかさずに待つと知っている者の“間”だった。


「ただし、武器を泉へ持ち込めるかは別です。聖地の作法は厳格になりつつありますからな」


「持ち込まずとも、泉の水に浸せば効果を得られるのでは」


 豪商は口角をほんのわずかに上げた。


「ええ、泉の水は今、高値で取引されております。一樽に同じ重さの銀が必要ですが」


 領主の眉間にしわが寄る。


 一樽の水でどの程度の戦力となり、どの程度の癒しを得られるのかを計りかねた顔だ。

 浄化の力を帯びた水は、黒禍を溶かすことが出来るが、濁っていくのだという。

 油と同じで使えば無くなるのなら、黒禍がこの世か消えるまでいくらあっても足らない。


不足は許容出来ない。備えねばならないのだ。


「女神には御子がいるのだったな……それも幾人も」


「ええ、私は直接見る機会はありませんでしたが、間違いないかと」


 領主は窓の外を一瞬見た。石壁の街は静かだ。

 だが、同じように城塞に守られた都市が幾つも滅んでいることを知っている。


「我が都市は、女神イズミールの為に神殿を設けよう。そこにはお招きする方に相応しい神殿を」


 領主がそう言ったのは、独り言のようだった。

 豪商は即座に拾う。


「それが叶えば多くの人々が救われましょう。きっと女神の御心にも適うはずです」

「御子様の一柱でもお招きできれば、魔樹が現れても踏みとどまることが出来ましょう――そして」


 豪商は笑った。やっと笑いの形になった。金の匂いがする笑いだった。


「泉へ行かずとも、浄化が受けられるとなれば……街の価値が変わります」


 領主は沈黙した。沈黙の中で、彼はすでにその未来を思い描いている。

 私欲だけではない、権力を握り続けるためだけでもない。法と秩序のために――そう言い訳できる形で、彼は神話を現実に引き寄せたかった。


「段取りは」


「整えましょう」


 豪商の答えは、祈りではなく報告書だった。

 乾いた紙の匂いがする声で、彼は続けた。


「まずは“招く”名目を立てます。神殿の建立は良い。献金も集まりましょう。民の心も、兵の腹も満たせる」

「次に、聖地側へ使者を立てる。作法に則った正式な願いとして――御子様を、祝福の巡行として」


 領主は机の上の地図に指を置いた。

 森からこの街までの距離。街道。関所。途中の水場。守りの薄い峠。紙の上では簡単に運べる。


「巡行、か。……美しい言葉だな」


「美しい言葉ほど、人は疑わぬものです」


 豪商は笑わなかった。


「だが、御子は――意思を持つのだろう。来るかどうかも分からん」


「ええ。そこが問題です」


 豪商はそこで初めて、声を少しだけ落とした。

 火に近づきすぎた蝋燭が、芯から静かに垂れるような低さだった。


「御子様は“水でできている”と聞きます。ならば……器が要る」


 領主の視線が、豪商の指先を見る。

 節くれだった指は、宝石の光をまといながらも、職人のように正確だった。


「器とは?」


「アイオリス殿は泉の水を封入した瓶を持ち歩き、それに祈りを捧げて浄化を成したと聞きます」


 領主は唇を引いた。理屈が整いすぎている。

 整いすぎている理屈は、だいたい誰かが前もって磨いたものだ。


「その瓶ならば、御子をお連れできると?」


「少なくとも、不足は無いかと」


 豪商は淡々と返す。


「問題は、御子様が“望まれるかどうか”ではありません」

「――望まれぬ場合、どうするか、です」


 領主の背筋が硬くなる。声が一段低く、潜められる。


「どうする」


 豪商は一瞬だけ間を置いた。

 それは相手に罪を渡すための間だった。


「御子様が街に来れば、救われる者が増える。重い浸蝕の者だけではなく、軽い者も救えるでしょう」

「救えなかった者の恨みも減る。聖地に辿り着けず死ぬ者も減る。暴動も減る。治安も保てる」

「これは慈悲です。公益です。領主として、拒む理由はございません」


 領主は言葉を挟めなかった。

 豪商の舌は“善”の形をしている。善の形をした縄ほど、首に馴染む。


「だが、御子が拒めば――」


 豪商の口角が、ほんのわずかに持ち上がった。

 金の匂いがする笑いではない。もっと乾いた、帳簿の紙の匂いがする笑いだった。


「拒んだ、というのは……誰が判断します?」


 領主の瞳が細くなる。言葉の端に、はっきりと不穏が露出していた。

 豪商は隠さない。隠す段階は過ぎている、とでも言うように。


「神の子を捕らえる、か」


「お連れするのは檻ではありません。“御座所”です」


 豪商は即座に言い換えた。言い換えることで、罪の形を塗り替える。


「街に御子様の御座所を設ける。水を満たし、清浄を保つ。出入りは我々が管理する」

「御子様が外へ出られぬ? いいえ、危険から守るのです。黒禍の手から。狂信の手から。盗賊の手から」


 領主は低く息を吐いた。

 狂信と盗賊の中に、“我々”が含まれていることを、互いに分かっている。


 豪商は袋を指で押し、領主側へ滑らせた。


「段取りは整えましょう。――あとは、ご領主様が決断するだけです」

「御子様を“招く”のか、“保護する”のか。言葉は同じになります。民には、同じ祝福として映る」


 領主は袋に触れず、地図を見た。

 森の奥の一点を、爪でなぞる。そこに泉がある。そこに女神がいる。そこに、幼い水の影が現れる。


 領主は、自分の胸の内に言い訳を並べた。


 ——この街が滅びるよりは、ましだ。


 かつて、尊敬に足る盟友の治めていた城塞都市オルセイスが失陥した時、流れてきた難民の群れを見て心に決めたのだ。

 我が民にあのような思いをさせてはならない。


 領主の頷きに、豪商は深く頭を下げた。


「御英断です」


 その声は、敬虔さと欲望の両方を天秤にかけて釣り合いを保った響きをしていた。

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― 新着の感想 ―
手段を選んでいられないのは分かるが 商人共が悉く信用ならないクソ野郎ばっかりだな・・・
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