37.水からの浮かび方を知らない 〇★
35話/36話「木彫りのルテアは地上で花を開く(前編/後編)」の別視点
――俺は泉だ。
身体は水で出来ている。
疲れることもない。眠ることもない。
心臓もない。脳もない。水の中の何処にも見当たらない。
なのに心だけは此処にある。
人の姿を得たからって、それは変わらない。
この身体は頭が吹っ飛んでもなんともない。痛みもない。
化け物だって頭が吹っ飛べば死ぬだろう。
なら、俺は化け物どころか、生き物ですらない。
そんな俺の前に、あいつは最初、化け物として現れた。
二度目に現れた時は人間になっていた。
それも、黒髪、黒目の男の姿に。
自分が人間だった頃の姿は、名前と同じで、もう思い出せない。
肌の色は違う、整った顔立ちへの僻みもある。
でも、俺が持っていただろうものを、こいつは取り戻したんだ。
俺は生き物ですらないのに、一人だけ人間に戻って救われやがって。
結局、僻みだ。でも、俺がたまらなく羨ましくてムカつくのはそこだ。
言葉はまるで通じない。
けれど、表情や態度で、真面目で要領の悪そうな奴だってすぐに分かった。
自分の中に”正しい形”があって、そこから外れることが自分で許せないような奴。
そういう奴は、抱えなくていい仕事まで抱え込んで、勝手に潰れていくんだ。
俺は、そういう奴をよく知っている。
俺が失くしたもの、取り戻せないものを、あいつは俺に見せつけてくる。
俺を祈りの対象として祭り上げ、俺の一挙手一投足に意味や価値を見出してくる。
俺にはそれが当てつけにしか思えなくて、何もかもが気に入らなかった。
俺は水だ。生き物じゃない。
でも、心だけは人間と変わらない。
人間だった時のことを半端に覚えていて、ずっと引き摺っている。
心は疲れるし、飽きるし、寂しくて――渇くんだってこと。
あいつはそれを俺に無自覚に、無遠慮に突き付けてくる。
だから――
俺を売り渡して、裏切ったくせに。
まだ、俺の名前を呼んでくることが。
それが、心からの祈りだってわかることが、どうしても赦せなかった。
お前はもっと“ちゃんとした”人間だって思ってたのに。
※※※※※
水面に立つ。
身体が出来上がって、視点が切り替わるまでの流れがいつもと違った気がする。
足元の水面は平らだけど、周りでは波が立ち、水柱がうねっている。
どうでもいい。
意識してやってるわけじゃない。今は止め方も分からない。
足を踏み出して、自分が何も身に着けていないことに気付いた。
裸だった。
でも、前に感じた恥ずかしさは不思議と湧き起こって来ない。
やっぱり、心も人間じゃなくなってるんだろうか。
目線を下に向けると、あいつと目が合った。
(ああ……お前、だからそんな間抜け面してんのか?)
波を集めて羽織る。これで当初のデザイン通り、いつもの恰好だ。
けど、心も泉もざわついたまま鎮まらない。
形だけを整えても、いつも通りにはなれなかった。
あいつも中途半端に手を伸ばしかけたみたいな姿勢で固まっていた。
後ろにいる連中は立ったり座り込んだり、喚いたりこっちを指差したりと喧しい。
「□□イズミール□、□□□、□□□□□□□□□。□□□□□――」
そんなことよりも、木こり野郎が発した言葉の方に意識が向いた。
イズミール。
今度は祈りじゃなく、口に出して言いやがった。
この世界の人間の言葉の中で、これだけが意味のある音として届いてくる。
こいつはこの音を、俺の名前として使ってくる。
嬉しそうに。
楽しそうに。
窺うように。
心配そうに。
誇らしげに。
愛しそうに。
今の呼びかけがそのどれかなんて――俺にはもう、関係ない。
※※※※※
俺は“しまっていたあるもの”の存在を思い出した。
蓮に似た木彫りの花。
前に木こり野郎が自分で造って俺への供物に捧げたもの。
あいつには色々なものを勝手に俺の元に置いていく悪癖がある。
俺からすると、削りもデザインもいまいちな代物だった。
でも、上手じゃないからこそ分かる。
下手でも、自分の手で造りたいって気持ちや、出来に納得できない気持ちが感じられた。
――そういうのを、俺は雑に扱いたくなかったから、黙認した。
あれは盗っ人野郎が来た時のゴタゴタで一度どこかにいってしまった。
その後、泉が一気に広くなった時に、水底に沈んでいるのを見つけた。
俺はそれを水の中に取っておいた。
人が作ったものを、ちゃんとしていないからって、捨てたり壊したりするのは違う。
他人の仕事を踏み躙るような真似はしたくない。
それは俺が“ちゃんとしていたい”からだ。
……ちゃんとしていたい?
胸の奥で、昔の――家族の声が鳴る。
正しいことをしなさい。ちゃんとしなさい。
あれをするな、これをやれ。みんなはできてる。
俺はいつまでも“できていない方”で、”みんな”の側にはいけなかった。
だからせめて、こういうところで間違えないようにしたい。
そういう癖が、まだ残ってたのかもしれない。
でも。
今日の俺……たぶん、ちゃんとしていない。
なにもかも、ぐちゃぐちゃだ。
怒りも、恐怖も、悔しさも、惨めさも、全部が同じところで煮えて、泡になってる。
泡は吹きこぼれて、溢れ出し、波を立てて、水柱が立ち昇ってる。
全然、ちゃんとしてない。
――なんでこんなことになってる?
(そんなの決まってる。お前だ、お前のせいだよ。全部)
俺は、木こり野郎を見下ろした。
表情を変えられるなら、眉間に皺を寄せて、睨みつけて、歯を剥き出して怒鳴りつけていた。
でも、この顔は何をどうしたって穏やかな微笑のままだ。
だから、叫ぶ。
「なんなんだよ、お前は! 俺をどうしようっていうんだ! どうしてくれるんだよ、お前!!」
声は出る。
けれど、口は開かないし、喉も動かない。
身体のどこかが震えて音として漏れ出しているだけだ。
それに、どうせこの声が意味のある“言葉”として届くことはない。
こんなのは、ただの“なきごえ”と変わらない。
俺が何を言っているのか分からなかったんだろう。
木こり野郎は俺の声に黙って頭を下げた。
(意味も分からずに頭を下げるな。また勝手に都合よく解釈してるんだろ!)
――ああ。もう、我慢ならない。
俺は水底に沈めておいた木彫りの花を、水流で足元まで運ぶ。
それは踵から身体の中に入り、ふくらはぎを通り、太腿へと昇る。
腹、胸を抜けた後は、喉の方には行かせず、肩へと逸れて、腕を伝って手首まで運ぶ。
あとは掌から身体の外に出して、こいつに突き返すだけだ。
それだけのことなのに。
手を持ち上げて前へ突き出す、それだけの動作に迷いを覚える。
木こり野郎が、半端な位置にあった手をこちらに伸ばそうとしてきた。
俺の手を止めようとしているのか、それとも掴もうとでもしているのか。
あいつの掌には、引き攣れた火傷の痕みたいなものが広がっていた。
それが化け物だった頃の名残なのか、もっと前のものかわからない。
俺はこいつの人生を何も知らない。知らなくていいと思ってた。
触れたところで何か伝わるわけでもない。
触れられたいなんて思ってたわけじゃない。
目の前で、木こり野郎が伸ばした手を引っ込めた。
その迷いを見た瞬間、俺の中の何かがぷつりと切れた。
(……ああ、もう、いい)
――俺は掌に、木彫りの花を浮かび上がらせた。
※※※※※
水底にあった木彫りの花は、濡れて黒く重たくなっている。
その水気が、気に障った。
この水は俺だ。
これをあいつに返したら、あいつの手の中に俺の水が残る。
俺に触れたくないんだろう、お前は。
――なら、お前なんかに、俺を一滴もやるもんか。
この染み込んだ水、全部が、俺だ。
俺の水なら、俺に従え。そこから出て、俺の中に戻れ。
木目の隙間から水がにじみ出て、掌の上へ集まっていく。
湿った木材の色や質感が、乾いたものへと戻っていく。
一切の水気を失った木が、みしりと鳴った気がした。
けれど今の俺には、その程度のことを気にかける余裕なんかない。
俺はただ、これ以上、あいつに俺を渡さないことだけに必死だった。
水気は無くなった。
これでもう、完全に俺のじゃなくなった。
俺は木こり野郎に向けて手を伸ばし、掌を傾けた。
いつだったか、こいつが黄金の種を俺の中に落とした時みたいに傾けて、転げ落とす。
あの時、俺はやめろって言いたかったのに、お前は勝手に俺の中に落としたよな?
このくらい、受け止められるだろ。
軽いんだから大したことにならないだろ。
……そんな風に思っていた。
でも。
※※※※※
――乾いた音がした。
俺は、水の音の中で、異物みたいに浮いたその音を、聞き逃さなかった。
木彫りの花は誰にも受け止められなかった。
木こり野郎は、手を引っ込めた姿勢で固まったままだった。
花は、地面に転げ落ちて。
割れた。
芯から、ひびが走って、開くように割れた。
(……は?)
俺の内側が、真っ白になった。
裏切りとか、金儲けとか、祈りの重さとか、そういうのが一瞬で吹き飛んで、別のものだけが残った。
俺が。
俺が壊したのか?
――ヒビが入ってた?
――濡れて腐っていた?
――水を抜き過ぎて、乾いて脆くなった?
原因は分からない。
でも、落としたのは俺だ。
腹いせで、後先もロクに考えずに落とした。
他人の造ったものを、俺が損ねた。
喉の奥で、昔の声がまた鳴った。
ちゃんとしろ。
ちゃんと出来ないなら、最初から手を出すな。
評価されないのは、お前が出来ていないからだ。
やめろ。
今更そんなこと言う奴はいない。言われる筋合いだってない。
俺は悪くない、悪くないのに。
心の中で言い訳を繰り返す。
でも、胸の奥の劣等感が、錆びた釘みたいに浮いてきて、ゆっくり刺さる。
割れた花を見た瞬間、俺の足が、勝手に後ずさった。
水面に広がる波紋を収めることが出来ない。
俺は動揺している。
動揺は水面を平らにすれば収まるんじゃなかったのか。
なんで収められない、鎮まらない。
それは、目の前に転がった割れた木彫りの花のせいだ。
ぱっくりと割れて覗いた断面は、カサカサに乾いていて。
それが俺を責めているように見えた。
※※※※※
俺はその場に屈みこんだ。
直す。
はやく直さなきゃいけない。
壊したのは俺だ。
俺が落とした。
直さないと――また、叱られる。
直せる。
直せるはずだ。たぶん。
だって俺、今まで“浄化”で何でもやってきた。
黒いのを溶かして、人を戻して、獣を戻して、大体なんとかしてきた。
理屈なんか分からない。
だって誰も仕様を教えてくれないんだから。分かりっこない。
どうにかできるとしたらこれしかない。
だったら、やれることをやるしかない。
俺は両手を伸ばして、水を集めた。
掌の中で水が渦を巻いて、塊になって、球になった。
水球がふわりと浮いて、割れた花を包んで浸す。
水の中で、割れた花が揺れる。
さっき吸い出した水を、渇いた木材の奥へ奥へと染みこませる。
そして、そこへ浄化を叩き込む。
全力で。何度も、何度でも。
――戻れ。
戻れ戻れ戻れ。
元に戻れ。割れるな。腐るな。壊れるな。
俺の中で、祈りみたいなものが逆流する。
水球の中で、木彫りの花が光を発した。
淡い金色の光。
……え?
こんなのは知らない。
なんだ、この光?
わからない。でも、効いてるんじゃないか?
この光は直る予兆なんじゃないのか?
不安と期待を覚えながら、更に力を込めて浄化を使う。
木の内側から、年輪や木目の隙間から金色の光が溢れる。
カチリと何かが嵌る、切り替わるような手応えを感じた――
次の瞬間、水球がほどけた。
そして残ったのは、割れたままの花だった。
ヒビは塞がっていない。壊れたままの形。
でも、その中心が光沢のある黄金色に変わっていた。
木材と金属が溶け合ったみたいな形で、割れた花が転がっている。
(……何だ、これ……? 俺、何をした……?)
直せなかった。
直せなかっただけじゃない、何か別のものにしてしまった。
化け物から、獣や人間に”戻る”のとは訳が違う。
これは浄化じゃなくて変化だ、変質だ。
怖さが増える。
“知らない現象”が、俺の中に生まれたことが、怖い。
俺の浄化は、万能じゃない。
それくらいわかってたつもりだった。
でも、思っていた以上に、俺の力は俺の思い通りにはならない。
そう気づいた瞬間、足元が抜けるみたいに怖くなった。
※※※※※
俺は首を振った。
違う。
こんなつもりじゃなかった。
こんなことをしたかったわけじゃない。
俺は自分の掌を見た。指先が震えている気がした。
次に、花を見る。黄金色の輝きは見間違えなんかじゃなかった。
次に――木こり野郎を見る。
目が合う。
合ってしまう。
言葉は通じない。
でも、表情は分かってしまう。
理解できないものを目にした人間の顔だ。
俺が表情を変えられたら、きっと同じ顔をしていただろうって顔。
それが今、自分に向けられている。
今は、木彫りの花に起きたことへの驚きだけかもしれない。
でも、花を壊して、別のものに変えてしまったのは俺だ。
不相応な尊敬や、重すぎる期待の顔を向けられるのは嫌だ。
でも、責めや嫌悪、恐怖の表情を向けられるのは、もっと――
俺は即座に背を向けて走り出した。
水の上に波紋が残るけれど、もう構ってなんかいられない。
あの顔が、あの目がどんな風に変わるのかを知りたくなかった。
戻らなきゃ。隠れなきゃ。自分の部屋に。自分だけの聖域も。
その一心で、畔から離れた場所で身体を捨てて泉に還った。
※※※※※
その日、泉の外はずっとうるさかった。
歓声。叫び。祈り。
意味のわからない言葉が、意味のわからない熱量で飛び交う。
水面を覗き込んでくるいくつもの視線、視線。
捧げられる無数の祈りに、水底の湧き口がどくんどくんと震えて止まらない。
俺が裏切られて怒ったことも。私が壊して直そうとして失敗したことも。
混乱して逃げたことさえ、誰も見ていない。気にも留めていない。
吐きそうなくらいの信仰が俺を満たし、叫びたくなるほどの喜びが湧き起こる。
(やめろ、やめて、入ってくるな、増やさないで、嬉しくない、祈らないで)
私は泉の中で一番深い場所で身体を創った。
意識が身体に移ると、水面の映り込みは薄くなる。
音も遠くなる。
それでも、音は完全には消えない。
祈りは絶えず、水は湧き続ける。
私は背中を丸めて、膝を抱え込み、水底に深く沈む。
夜が更けて、日が昇っても。
何日も、何日も。
独り、水の底で。
割れた花の乾いた音だけが、ずっと胸の奥に残っている。




