36.木彫りのルテアは地上で花を開く(後編) ◆★
水面の波打つ音。渦と水柱から轟くうねり。
飛沫が散り、雨のように滴る音。
湿った音の幾重にも連なる中で、ひとつだけ乾いた音が、小さく響いた。
咲いた形に削り出した木彫りの花が、地に墜ちた音だった。
雨の中で一本だけ鳴る木槌の音のように、耳の奥へ真っ直ぐ届く。
作り物の花弁は散ることもなく。芯からひびが走り、開くように割れた。
私の心臓が遅れて脈を打った。
――その直後のことだった。
女神イズミールの爪先が、わずかに後ろへ滑った。
水面に立つ素足が、半歩にも満たない後退を見せた。
それは、不測の事態に慄いた反射的な動きのように見えた。
踵が水面を擦る、ほんの微かな水音。
退いた足を中心に波紋が、円を描いて広がる。
鏡のように凪いでいたはずの水面が、彼女の足下だけ、確かに揺れた。
私は、息を忘れた。
御方が、動揺した……?
そんなはずはない、と心が言う。
神は揺らがない――どこかでそう信じていた。
揺らがないものを、私は拠り所にしているのだと。
だが、私は確かに見てしまった。
あの僅かな動きと波紋に、御方の揺らぎを感じた。
拠り所としていた神話の中に、ひとつだけ綻びが混ざり込んだ。
”誰か”の形をしたその綻びを、私は見逃せなかった。
※※※※※
女神の足元には凪いだ水面が円環のように縁取り、御座を成す。
その一方で、女神から離れた場所では波がなおも高く騒いでいた。
背後では水柱が大蛇のように絡み合い、空へ泡を撒き散らしていた。
奇跡に圧倒された客人たちの喉が鳴る音が聞こえる。
だが、私の注意は、割れた木彫りと御方の爪先にだけ向いていた。
そんな折。
御方が低く身を折って、屈まれた。
肩がわずかにすぼみ、背が丸くなる。“見下ろす”姿勢から、“確かめる”姿勢へ。。
水面が彼女の膝を受け止め、柔らかく沈み、そしてまた押し返す。
羽衣のようにまとっていた水が、その動きに合わせて揺れ、衣というより生き物のように流れ落ち、再び彼女の輪郭に沿ってまとわりつく。
その眼差しは私ではなく、ただひとつの点――割れた木彫りの花だけを見つめている。
世界の騒音を消し、視線の先にある“それ”だけを見据えるように。
御方は割れた木彫りに向けるように両手を伸ばした。
空気がひやりとする。泉の息遣いが変わった。
水という水が、意思を持って集まってくる気配がした。
次の瞬間、御方の掌中から水が湧き出して渦巻き、塊となり、やがて完全な球形を成した。
それがふわりと浮いて、割れた木彫りの花の下へ降りていき、そのまま包み込んだ。
水球の中で木彫りが浮かび、ひび割れ裂けた芯部を覗かせたまま、静かに揺れる。
私は跪いたまま、その光景を見守るしかなかった。
止めることも、声をかけることもできない。
できるのは――ただ、御方が何かを“なさっている”と理解することだけだ。
屈みこんだ女神と、跪く私。
その瞬間、初めて――私の眼と御方の眼の高さが揃った。
水色の髪が、水晶の枝角が、私の目線の場所にあった。
視線を真正面から受け止められるその距離に、私は不意を突かれた。
仰ぎ見ることで保っていた秩序が、ほんの一息で崩れる。
近い――と、畏れと同じ速さで、ひどく不敬な感情が喉元までせり上がった。
今までは、いつも。
私は御方の前に膝をつき、仰ぎ見ることしかしていなかった。
目が合ったとしても、それは見下ろす者と見上げる者とに分かれていた。
だが今、同じ高さで、同じ距離で、同じ泉の空気の中で。
そうして、私は――ひとつの"あたりまえ"に気付かされた。
女神イズミールは――私より背丈が低い。
それは本来、何の意味も持たない。
神は大きさで測るものではない、と私の信仰が叫ぶ。
神を“背丈”で捉えた瞬間、私は自分の視線を罪にしたくなった。
だが罪にしたところで、そう捉えてしまった事実は消えない。
私にとって女神は常に見上げる存在だった。
世界を覆う慈悲の器として、誰より高く、誰より遠いものだと思っていた。
だが、この場面では、恐ろしいほど意味を持った。
御方は、私より小柄で、華奢な肩をしたひとりの女性の姿をしている。
小さい者が、私の目の前で、何かを必死にしようとしている――そのように見えてしまった。
見えてしまった、という事実が、胸を抉った。
(御方……あなたは……)
言葉にならない声が、喉の奥で結晶になりかけた。
※※※※※
泉の水が、水球に引き寄せられるように畔に溢れ出してくる。
そこから幾本もの水の筋が、球体に向かって伸びていく。
球の内側で、流れが生まれる。
木彫りの花がくるくると回る。
水球は周囲の水を取り込んで、膨らんでいった。
そして――淡い光が、内側から滲みだした。
金に近い、薄い金色。
夕暮れの雲の端にだけ残る光に似ている。
森の緑を反射してなお、金の名残を捨てない色だ。
水が光っているのではない。木彫りの花が水の中で光を放っていた。
木の奥から沁み出しす光は、年輪や木目の隙間から“生える”ように増えていく。
それは言い表せないほど美しく、どこか怖ろしい光景だった。
客人たちが、息を呑む音が膨らんだ。
先ほどまで「ああ」「奇跡だ」と叫んでいた声が、今は喉の奥で詰まり、呟きに変わる。
畏怖が、熱狂へ変わる寸前の、危うい沈黙。
私は息を忘れた。
女神の奇跡をこれまでも目の当たりにしてきた。
巨大な水流による浄化をこの身で受けた。御子様方の抱擁による浄化も見てきた。
だが、これはきっと別のものだ。
この世にあってはならない歪み――黒禍を消し去りし、あるべき姿に戻すのとは違う。
そこに込められた意思と感情が何なのか、私にはわからない。
私は、御方の表情だけを見ていた。
微笑は変わらない。
けれど――ただ一点のみを見つめるその様子は、形ほど穏やかには見えなかった。
御方は、微笑のまま、睫毛ひとつ揺らさず、水球の中だけを見つめている。
祈りの像のように。しかし祈りの像にはない緊張を宿して。
水球の中の光が、さらに輝きを増した。
渦が速くなる。水が水を噛み、泡が泡を呑む。
球の表面が薄い膜のように張り、そこに金色の光が走る。
それは黄昏よりも眩く、暁よりなお色鮮やかな黄金色の輝きだった。
次の瞬間。
水球がほどけた。
破裂ではない。開花だ。
水の膜が一斉に解け、散り、空気へ細かな雨となって散る。
金色の光はそれと共に消え、森の光だけが残る。
濡れた地面に木彫りの花が転がっていた。
その芯部は割れたままだった。
ヒビ割れた裂け目は塞がっていない。
割れた花弁も繋がることはなく、形だけは何も変わっていない。
けれど――その芯部が、黄金と化していた。
木の肌の奥に、金属の光沢が滲み。
裂けた芯の断面が、黄金の軟い輝きを見せる。
木と金の境界が溶けあった、現実には存在し得ないものがそこにあった。
私は、言葉を失った。
修復ではない。
癒やしでもない。
これは――別の奇跡だ。
だが、御方は――微笑のまま、首を横に振った。
否定の仕草だ。
「こうではない」「こんなはずではない」と言っているようだった。
女神は自分の掌を見た。指先に微かな震え。
次に、黄金を宿した木彫りの花を見た。
それから――私を見た。
どこまでも穏やかで完璧な微笑。
何もかもをあるがままに受け止め、赦すようなそのかんばせ。
海の深い青に、輝く水面の色を宿した瞳。
その視線が、痛かった。
私を責められているのではない。
私に赦しを与えているのでもない。
ただ、困っている子どもが、助けを求める前に助けを拒むような――そんな眼差しに見えた。
御方が、立ち上がった。
水面に漬かっていた水の衣が、ざあっとせせらぎの音を響かせる。
そして、踵を返して駆け出した。
走るたび、足跡のように波紋が生まれる。
波紋は整列せず、重なって歪み、互いを押しのける。
追いつけない速度で、輪だけが置き去りになっていく。
そして、泉の中央で――御方の輪郭が溶けるように消え、その身は水に還った。
女神の御姿が消えた。
その瞬間、空を泳いでいた大蛇のような水柱が、ほどけた。
水であることを思い出したかのように崩れ、泉に降り注いで、岸に波濤を生む。
波のしぶきが雨のように私たちを濡らした。
神話の幕が、ばさりと降りるように――現実が戻ってきた。
声をかけ、引き留める暇もなかった。
髪から滴る雫が、あの御方がそこにいたという事実を物語る。
鏡の水面が、また静かさを取り戻そうとする。
だが、私の中の静けさは戻らなかった。
※※※※※
戻ってきた現実は、狂乱だった。
雨のように降り注いだ水は、客人たちの髪や顔を濡らしていた。
彼らはそれを祝福だと叫び、手のひらで受け、顔に擦りつける。
ある者は地へ額を擦りつけ、ある者は両手を天へ掲げた。
抑え切れない驚嘆。驚愕。祈りの形をしていない歓喜の叫び。
さっきまで半信半疑だった目が、今は燃え上がっている。
見て、触れて、体感したのだ。神秘の美しさと奇跡を。
彼らの視線が黄金の芯を宿した木彫りの花へと吸い寄せられた。
目だけではない。足が勝手に前へ出る。
誰かの指が、花へ伸びかけて半ばで止まる。畏れではなく、奪い合いになる前の逡巡だ。
“触れた者が得る”――そんな算段が、沈黙の底で一斉に芽吹いているようだった。
「見たか!」
「黄金だ――!」
「女神が祝福を!」
「奇跡だ、恩寵だ!」
木の花弁を残したまま、芯だけが黄金に変じた花。
それは黄金の種よりも確かな奇跡の証明だ。
女神は姿を消し、泉は鏡のような静けさを取り戻した。
だが、黄金と化した花の存在が、目にしたものが事実であったことを物語る。
それが、彼らを完全に信じさせた。
――誰も、見ていない。気付こうとしない。
女神の足が後ずさった時に生じた波紋を。
微笑が変わらぬまま、首を振った否定の仕草を。
その手に生じた微かな震えを。
駆け去った背に、逃げるような切迫があったことを。
――見ようともしない。
彼らが欲しいのは、女神の心ではない。意思でもない。
奇跡の実在と、それがもたらす価値なのだ。
そして――私がこの場にいることさえ、彼らは勝手に意味づける。
「聖者アイオリス! 女神の寵愛を受けし者だ!」
「女神の手により黄金を与えられた――神話の再現だ!」
「黄金の女神イズミール! 人の救い主が現れた!」
声が膨れ、森を埋めていく。私は跪いたまま、立ち上がれなかった。
立ち上がれば、歓喜の渦は私を飲み込んで、神話の中に組み込もうとするだろう。
私の胸の中で、供物を突き返された事実が、まだ鋭い棘のまま刺さっているというのに。
御方の心が揺れたのではないかという疑念が、震えながら形を持ち始めているというのに。
彼らは、それを祝福だと言う。
彼らは、あの出来事を讃美する。
彼らは、これを神話だと言う。
私は、黄金を宿した割れた花を見下ろした。
乾いた音の残響が、まだ耳に残っている。
割れた瞬間の御方の一歩が、まだ眼に残っている。
(……貴女は、あれを)
私につき返されたのではなかったのか。
心に疚しさを抱いた者の供物だと、拒まれたのではなかったのか。
目の前で砕けたあの花を、それでも、惜しいと思われたのか。
あの時、あの奇跡は割れた花を元に戻そうとしたのか。
それとも――戻らないことに、怯えたのか。
私には分からない。
ただ一つだけ、分かってしまったことがある。
御方のあの微笑の下には、人のように揺れる心があるのではないか。
もしそうなら。
もし、御方がそのように揺らぐのならば。
私は、今まで何をしてきたのだ。
救いを説き、秩序を守り、祈りを整えたつもりで――
御方の心を、どれほど削ってきた。
世界の絶望を、救いを求める人々の願いを、どれほどあの肩に載せてきた。
その答えが出ないまま、私はその場に跪き続けた。
確かめたい。理解したい。御方が何を望み、何を恐れ、何に傷つかれたのか。
波紋は消えた。
水柱も解けた。
泉は、何事もなかったかのように静かだ。
――何事もなかったかのように。
※※※※※
夜更け。
森は昼の熱を捨て、冷たさだけを残していた。
だが、人々の狂乱は未だ収まっていない。
開拓村の灯は絶えることなく、女神への賛美と祈りの声が重なり合って、収まることのないざわめきを留め続けている。
私は村を抜け出し、一人で、泉の畔へやって来た。
足音が、土の柔らかさに吸われる。呼吸が白い。
水面は闇を映し、双子の月と星の光だけが薄く揺れている。
昼に降った水の匂いが、苔と土に染みて立ち上っていた。
指先が冷え、掌の中だけが妙に熱い。
祈りの形を作っても、胸の内側はまだ騒いでいる。
だが、私の脳裏には、あの微笑が焼き付いて消えずにいた。
あの微笑みを想って、幾度となく祈りを捧げた。
その微笑みは今、私から”祈る”という行為に制止をかける。
畔に膝をつく。
姿勢は礼拝のための形をとる。
しかし、祈りと崇敬の言葉は、胸でつかえて喉を抜けて来られない。
代わりに、その名だけが舌先で形になった。
私はその名を、呼んだ。
「……イズミール」
小さく掠れた呼び声に、水面は答えない。
それでも、私は言葉を続けた。
祈りではないその言葉は、胸の裡に留め置けなかった。
「貴女は、どうしてあれを私に」
木彫りの花の感触が、まだ掌に残っている気がした。
受け止められなかった。
触れられなかったのに。
喉が鳴る。
言葉が、ようやく形になる。
「貴女は……君は」
御方を、女神を、“君”と呼ぶことに、畏れと罪の意識を覚える。
理性が、崇敬の心が、己を責め立て、苛んでくる。
だが、ひどく単純で抗いがたい衝動が、私にその問いを発させる。
「君は……あの時、泣いていたのか……?」
双子の月が近づいて、離れて。
空が白み始めても、泉からの応えはなかった。




