35.木彫りのルテアは地上で花を開く(前編) ◆★
ちゃぷん、と水音がした。
風はない。波紋もない。
鏡のはずの水面が、音だけを返した。
次の瞬間――ごう、と森の静けさを押しのける唸りが、水底から這い上がってくる。
鏡だった水が波打ち、波が波を喰らい、飛沫が光を散らした。
水滴の一粒が陽光を噛んで、金の針のように瞬いた。
私は膝をついたまま、息を止めた。
御子様方の降臨ではない。
あの方々は水面に蕾のように現れ、花咲くように姿を成される。
では、これは御方が——女神イズミールがお出でになるのか。
祈りと共に何度も思い描いた“再会”が、想像の輪郭を剥ぎ取って現実になろうとしている――その瞬間に、人は硬直するのだと知った。
泉のあちこちで水柱が立った。白い牙のように突き上がり、大蛇の胴のようにしなって絡み合う。
けれど、その中心だけは違った。
そこだけ、波が退いていく。押しのけられたのではない。そこが“誰か”の通り道のように自ら退いた。
背後で、客人たちが息を呑む気配がした。
誰かが呻くように声を漏らす。
畏怖と感嘆と驚愕が、同じ喉から同時に出た声だった。
だが、私の耳はそれらの音を拾わなかった。
私はただ水面だけを見つめていた。
波打つ泉の中心、その場所だけが鏡のように凪いでいる。
その水面から水の膨らみが、ゆっくりと持ち上がってきた。
水の中から“人”が浮かび上がってくる。
※※※※※
まず、水面に髪が現れた。
揺らめく水面を紡いだような清流の色をした髪が、人の頭の形に沿うように浮かび上がってくる。
髪の合間から水晶のような芽が伸びた。
それはみるみるうちに伸び、枝分かれ、鹿の如き枝角となった。
次に額が見えた。
ほつれた髪と水膜が、滑らかな白い額に薄く張りついて、光を拾っては流れ落ちる。
髪がほどける。
水の色をそのまま引き伸ばしたような長い髪の合間から、優しげな弧を描く眉が、鼻梁が露になる。
そして――あの瞳。
深く青い海の色。
そこに青空の色を写しとった光り輝く水色。
水底と水面の青がひとところに集ったかのような瞳がそこにある。
——目が合った。
私は、呼吸を止めた。
女神イズミールは、微笑んでいた。
あの、変わらない微笑。
私が幾度も救われた、あの柔らかな形のまま。
なのに、私にはそれが泣いているように見えた。
女神の頬に沿って落ちる雫があった。
泉から生まれた御方のかんばせを、水の滴が伝い流れるのは道理だ。
——そんな道理は、瞬間で崩れた。
私にはその雫が涙に見えた。
……見えてしまったのだ。
何故かは分からない。説明が出来ない。
御方の微笑みを見て、こんな風に思ったのは初めてのことだ。
胸が詰まる。もどかしい。
何かを決定的に間違えた気がする。
間違えたとすれば、いつから、何を。
頭の中で、言葉が凍った。
(どうして。なぜ。貴女は――)
声が出ないまま、水面がさらに割れた。
肩が、鎖骨が、喉が現れ、白い肌が水を弾いて光る。泉の冷たさと森の光が混ざり合って、肌は生きているのに彫像のように神々しい。
薄衣一つ纏わない裸身。
この自然の中では隠すという概念など、存在しないかのようにそこに在る。
神々しく幻想的なその姿は、人を圧倒させる。
それと同時に肌が水から離れる生々しさは、本能的な衝動に訴えかけてくる。
人が神を畏れるのは、理解を超えるからではない。理解できる部分があるからだ。人の形をしている、というだけで、こちらの感情が勝手に橋を架けてしまう。
——私の中で欲が叫ぶ。
この御姿を映すのは自分だけでありたいと。
だが喉が鳴った。唾が飲めない。祈りの言葉すら、欲に濁るのが怖かった。
それでも目を逸らせない。逸らした瞬間、自分の信仰まで嘘になる気がした。
御方の、爪先が水面から一瞬離れ、波紋が広がる。
脇に控えていた波が、女神に寄り添うように集って、その裸身を包み、渓流の深い翠を帯びた衣となる。
水だった衣が、風に舞う羽のようにふわりと踊る。
その背後。
水柱はなおも暴れていた。空を泳ぐ大蛇のように、のたうち、弧を描き、泡を撒き散らす。
神話のような光景が、伸ばせば手の届く高さに留まってそこに在り続ける。
客人たちが声を上げた。
「ああ」とか、「奇跡だ」とか、「女神」とか。
誰かは膝から崩れ、誰かは祈りの言葉を叫び、誰かは感嘆のまま固まって、目を逸らすことも忘れていた。
※※※※※
私は、それどころではなかった。
これは紛れもない奇跡の降臨だ。
しかし、これまで目にしてきた奇跡とは異なるものだ。
御方の湛える微笑は常と変わらない。
だが、波打つ水面と、宙を舞う水の大蛇。
それは御方の心の裡を映したものなのではないか。
御方の真意が知りたい。
私は、欲深い者たちをここへ連れてきてしまった。
救いを求める顔の仮面を被った者たち。寄進の音を鳴らし、畏れ多くも女神の価値を量る目を向ける者たち。
御方はお怒りなのか。悲しんでおられるのか。
御子様方を疲弊させたことを、責めておられるのか。
この私の未熟を――私の、弱さに失望されたのか。
唇が、勝手に動いた。
「女神イズミールよ、どうか、御心をお鎮めください。この者たちは――」
これは言い訳だ。
言葉にした途端、自分で分かった。
どんな善意を飾っても、私は“連れてきた”。
私は“止めなかった”。
私は“利用される形”を許した。
村のためだとか、救いを求める者のためだとか、御名のためだとか――全部、本当の一部ではある。
だが同時に、私の卑怯を包む布でもある。
言葉が喉で詰まり、続く言葉は解けて音を失う。
御方は、静かに私を見下ろしていた。
眼差しは責める形をしていない。微笑は変わらない。涙のように見えた水滴も、既に頬を滑り落ちて、鎖骨を伝って、泉へ帰った。
泉の女神は、歌うように声を発せられた。
『——〜〜—〜〜———〜〜〜—〜〜—〜』
せせらぎのような耳に優しく響く音。
水が石を撫で、苔をくすぐり、森の根を洗う、あの音。
けれど、歌であり音でありながらこれは女神の声であり、言葉であることを私は知っている。
その御言葉の意味を私はただ想像し、勝手な解釈をすることしか出来ずにいる。
私は、ただ首を垂れるしかなかった。
その瞬間――御方が、私に向けて手を差し伸べた。
ゆっくりと。水面を渡る月の光のように遅く、確かな意志を感じさせる所作だった。
その手は、私の伸ばしかけた手に応じるように見えた。救ってくださるのか。赦してくださるのか。
あるいは――この愚かで穢れた私の息の根を、御自ら止めてくださるのか。
反射的に、私は手を差し出しかけた。
指先が震え、その手に縋りかけた。
だが、次の瞬間、手を引いていた。
触れてはいけない。
私の掌には、まだ黒が残っている。
“深淵殺し”の武器を振るい続け、同化した皮膚を剥がし、また溶けた浸蝕の痕が、薄れたとはいえ消えていない。
御子様方が黒禍に浸蝕された者たちを、抱擁し、浄化するたびに、幼子の身体が黒に濁って崩れる光景を、私は見てきた。
私は知っている。触れることは、負担になる。
私が触れれば、御方を穢すことになる。
そして、触れられれば——私の心に巣食う浅ましい欲望の穢れを知られることになる。
引いた手の内側が、痛かった。救いを拒んだ痛みではない。自分の穢れを突きつけられた痛みだ。
だが、御方の手は、止まらなかった。
※※※※※
掌が、ふわりと開く。
そこに、木彫りの花が生じた。
水底で育ち、水上で花開くルテアの花が。
その造形は荒削りで、細部も不揃いだった。
だからこそわかる。
あれは私がいつか、必死に彫って御方に捧げたもの。
恥を承知で供物として差し出した、私の拙い作品だった。
祭壇が壊れ、杯は割れ、斧が水底に没したあの時、既に失われたものだと思っていた。
それが、どうして、御方の掌中に。
泉の中に収めていてくださったのか。
私の心臓が跳ねた。声が出そうになった。
御方は微笑んだまま——掌を傾けた。
木彫りの花が、零れ落ちる。
私は、動けなかった。
眼ははっきりと落ちていく様を克明に捉えている。
木彫りの花は二転、三転、空中で翻りながら落ちていく。
手を伸ばせば届く――そう思った。
だが、現実の距離以上に、触れてよいのかという疑念が立ちはだかる。
この身と心の穢れを恥じて、その手を引いたばかりだというのに。
思考が禁を訴え、身体を遅れさせる。
そして花は、地に落ちた。
波が砕ける音、水流が渦巻き、うねりをあげる音。
飛び散る飛沫が降り注ぐ音。
水が織りなす湿った音の中で、カツン、と。
ひとつだけ乾いた音が小さく響いた。
咲いた形で削り出した木彫りの花は、花弁がこぼれて散るのではなく――
芯からひびが走り、開くように割れた。




