表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/25

◆泉龍への誓い ★

8話「セカンドインプレッション」/9話「サードクローズエンカウンター(第三種接近遭遇)」の別視点になります。

 目が覚めたとき、森は夜明けの匂いをしていた。

 冷たい土の湿りと、葉の裏に溜まった露の気配。世界樹の森に漂っていたあの腐臭は、ここには欠片ほどもない。


 瞼の裏に射し込む光が、ただの光として在る。

 痛みも、黒いざらつきも、喉奥に貼りつく泥の味も、いまは――薄い。


 私は息を吸った。肺が膨らみ、戻る。

 呼吸という行為が、本来こんな感覚だったのだと、遅れて思い出す。

 身体には軋みがあり、熱と倦怠感がある。


 それでも――生きている。

 心臓が打ち、血が巡り、五感がそれを否応なく突きつけてくる。


 身を起こす。


 体は動いた。肉も、腱も、骨も、私の意思に従ってくれる。

 鎧が軋みをあげる。関節部が歪み、動きを阻む。


 “深淵殺し”にとって鎧は、浸蝕で崩れていく肉と骨を、人の形に押し留めるための“型”だ。

 膨張し捩じれる内側を、金属の檻に閉じ込める。

 だが今の鎧は、ただの壊れた殻として私に絡みつくばかりだった。


 足が向かうままに歩いた。

 昨日、あの水に押し流された先――水の匂いの源へ。


 木立が割れて、泉が見えた。

 陽光を受けて白く輝く水面――そこに“彼女”の姿はない。


 あの月の光と見紛う美しい存在は、幻だったのか。


 だが、畔の一角が崩れていた。土が抉れ、砂利がむき出しになっている。

 その傷は、私の身体が転がされた“道”の形をして、真っ直ぐこちらへ伸びていた。

 薙ぎ倒された草木、濡れた地面。嵐の通り道のような痕跡。


 そして――泉に突き立った黒ずんだ棒。斧の柄だ。


 あれは夢ではなかった。

 泉が立ち上がったことも、私が水に呑まれたことも、私が今、生きてここに在ることも。


 歩く。まとわりついた殻が軋んで邪魔をする。

 私は、ひしゃげた肩当てを掴んで、ごそりと剥ぎ取り、内側から裂けた籠手を引き抜く。


 人間の手がそこにあった。

 五本の指。関節。掌の肉。爪。幼い頃の稽古でついた傷痕。私の手だった。

 そして、浅黒い皮膚――爛れも鱗もない。煤のような黒でもなくなっていた。


 信じられないものを見た。

 しかし、それ以上に焦っていた。鼓動が高鳴り、呼吸が浅く速くなる。


 残った籠手を外し、身体の自由を取り戻していく。


 兜に手をかけた。外れない。金具が歪んでいる。

 指に触れた髪は、僅かに湿っていてざわりとした触感を返してくる。

 だが、自ら蠢いたりはしない。毛髪として、そこにある。


 その感触を確かめながら、泉へ向かって歩く。

 鎧の残骸を引きずる音が、やけに大きい。森が静かすぎるのか、私の耳が妙に澄んだのか。


 泉の畔まで近づくと、土は大きく削れていたが、水はどこまでも清く澄み渡っていた。

 水面が私の姿を映し出す。


 黒い髪、浅黒い肌、壊れた鎧と兜――その隙間から覗く黒い瞳。

 化け物というより、みすぼらしい敗残の兵のようだった。


 兜に手をかける。

 金属を掴み、留め具を探し、力を込める。


 ぎし、ぎし、と兜が鳴った。

 最後に、硬い抵抗がほどけた。


挿絵(By みてみん)


 朝の光が、私の顔に触れた。

 冷たい空気が頬を撫でていく。それだけで、胸の奥が痛い。

 私は水面を覗き込んだ。


 そこにいたのは――溶けた怪物ではなかった。

 触角も、鱗も、裂けた口も牙もない。

 ただ、黒髪と黒い瞳を持つ、傷跡の浮かぶ浅黒い肌の男が映っている。


 私は、自分の手を見た。

 両手の指を動かした。一本ずつ、確かめるように。握って、開いて、また握る。


 ……戻ったのか。

 いや、戻されたのか。


 視線が、泉に浸かった斧へ落ちた。


 水の中で、銀の刃が静かに光っている。

 そこには黒い血管も、穢れた染みも、あの不気味な脈動も――ない。


 喉の奥が、ひきつった。


 この泉は――”彼女”は、私だけを浄めたわけではなかった。

 あの刃、“深淵殺し”そのものから、黒禍を洗い流していた。


 ”彼女”は黒禍を、最初からそこに無かったもののように消し去った。


 慈悲深いだけの精霊なら、穢れた私を見て眉を曇らせたはずだ。

 だが“彼女”は、変わらぬ微笑みを向けた。


 嫌悪も恐怖もない。人も穢れもあるがままに見つめ――深淵だけを退ける。

 それが、この泉の理なのだ。


 いや。


 水面に映る自身の顔に目を向けた。

 黒い瞳、黒い髪、浅黒い皮膚――完全に元に戻ったわけではない。


 両の掌と指を見つめる。

 “深淵殺し”として長く刃を振るい、同化し、皮膚ごと引き剥がしてきた。

 その塞がることのない傷が、痕として残っている。


 銀の輝きを取り戻した斧とは異なり、この身は未だに黒を抱えている。

 黒禍は私に深く行き渡り、もはや引き離すことが叶わないのだろう。


 だが、それでも――生かされた。

 穢れごと、この世から消し去ることも出来たはずなのに。


 胸の奥が熱を持った。


 怒りでも妬みでもない。別の火だ。

 剣を握らせ、足を進ませるために、私がずっと欲しがっていた火。


 私は、泉へ向けて膝をついた。

 祈りなど捨てたはずだった。捨てて、毒を掴んで、黒へ沈んで、死に向かって進んできた。


 だが、今は違う。

 私は、あの夜オルセイスで届かなかった場所へ、ようやく言葉を落とす。


「……私に、生きよと――そう言うのですか」


 声は掠れていた。喉がまだ焼けている。

 それでも言った。言わずにいられなかった。


「恨みを抱いて祈りを捨て、神秘を嘲笑ってきたこの私などに――」


 水面は静かだ。風はない。波紋も起こらない。

 けれど私は、昨日の奔流を知っている。

 この清い水が、穢れた汚泥に染まらぬ強さを持っていることを知っている。


 泉は何も応えない。

 凪いだ鏡のような水面が、陽の光を私に照り返してくるだけだ。


 だが、私は知っている。


 ”彼女”はここにいる――私が今、生きていることこそ、その証だ。

 私自身が諦め、見放していたこの命を、”彼女”は見放すことなく掬い上げた。


 ――もはや私は、“深淵殺し”ではいられないだろう。


 再び毒の刃を握り、命を歪めながら殺すものに成り果てるのは、救いに対する冒涜だ。

 だが、深淵を退ける意志まで捨てるつもりはない。


 この泉の前にして、私はまだ何者でもない。

 だが、“何者でもないもの”としてやり直す機会を与えられたのだ。


「どうか、この命を貴女に捧ぐことを御赦しください」


 ”彼女”の微笑みが、この穢れ病んだ世界に対する抗いなのだとすれば、私はそれを守るものでありたい。


 ”彼女”が人を見捨てぬ慈悲を抱き続けているならば、私も人を見捨てぬものであろう。


 ”彼女”がこの世に深淵の存在を認めぬのならば、私はその意志をこの身で示す。


「この身はただ、貴女のために――」


 清き泉は、私の誓いにさざ波一つ立てない。

 そこに、あの変わらぬ微笑が重なっているように思えた。


※※※※※


 誓いの言葉を口にしても、泉も森も、何も変わらない。

 水面は凪いだまま、陽の光を受けて淡く揺れ、私の声だけが空気に残って薄れていく。


 元より応えが返ってくることを期待していたわけではない。


 奇蹟を当然だと思えるほど、私は傲慢ではない。

 昨夜の救いは、私が勝ち得たものではなく。与えられ、拾い上げられたに過ぎない。


 それでも、ほんの少しだけ――水面に立つ影を探してしまう。


 私はすぐ目を逸らした。望むこと自体が不遜に感じた。

 穢れを抱えたままの私が、あの美しきものを望もうなどとは――


 今は、まず、生き延びる準備をせねばならない。


 体は戻ったようで戻りきってはいない。息を深く吸えば肺の奥が痛み、肋がぎしりと鳴る。

 動ける――だが万全ではない。

 装備も足りない。食料もない。薬もない。鎧は半分以上が役に立たない鉄屑だ。


 武器はある。


 浄められ、元の姿を取り戻し、銀の輝きを帯びた私の戦斧。

 だが、泉に半ば没したそれを、”彼女”の赦しなく手にするわけにはいかない。


 そうなると、使えるのは自裁のための小刀一本のみだ。

 拾われた命を無駄にしないよう、慎重を期して行動せねばならない。


 畏れ多いという気持ちはあるが、この清らかな場所で一時の休息を取らせて貰うこととした。


 私は泉から少し離れた、畔の斜面が直接崩れない場所を選び、落ち葉と枝を集め、簡単な床を作った。

 土をならし、湿りを避け、背を預けられる木を背後に置く。


 大地は身体から熱を奪い、体力を損なう。黒禍ばかりが脅威ではない。

 手は勝手に動く。生き延びるために繰り返した作法が、意識より先に私を動かしていた。


 次に、水が必要だ。渇きは人を弱らせる。


 ものを食べずとも生きていけるが、水を断てば人は容易く死ぬ。

 泉の水には、直接触れるわけにはいかない。

 私という穢れを帯びた存在が、泉に触れることは避けるべきだ。


 小刀を取り出し、柔らかい木を選ぶ。刃を当て、薄く削り、芯をくり抜く。

 柄を作り、浅い椀の形に整え、柄杓にする。粗末だが、用は為す。


 出来上がった柄杓を手に、泉の縁まで近づいた。足は水に入れない。

 膝も土に深く沈めない。私は低く姿勢を落とし、祈りに似た間を置いた。


 水面に柄杓を触れさせ、静かに汲み上げる。透明な水が器に満ちる。

 光を受けて、ただの水が宝石みたいに見えた。


 私は柄杓を両手で捧げるように持ち、目を伏せた。

 祈りではない。確認だ。私は今から、彼女の水を”頂く”。


 冷たさが舌を撫で、喉を通り、胸へ落ちる。

 それは水である以上に、清さそのものが体内へ流れ込む感覚だった。


 ――その直後。


 身体の内側が、震えた。


 最初は小さな違和感だった。胃の奥で、何かが爪を立てるような。

 次の瞬間、それは臓腑を抉る鉤になった。


「……っ……!」


 声にならない。息が喉で引っかかる。背筋が弓なりに反り、視界が白く弾けた。

 胸の内側で、黒いものが暴れている。昨夜、外側から剥がされたはずの穢れが、体内の深い場所でまだ絡みつき、今、取り込まれた清さに焼かれている。


 痛みというより、矛盾が引き裂かれている感覚。

 “私”の中に巣食っていた“私でないもの”が、居場所を失ってもだえ、喚いている。


 私は柄杓を取り落とし、両手で腹を押さえた。指が白くなるほど力を込めても、内側の痛みは手で掴めない。吐き気がせり上がる。喉が痙攣し、唾液すら苦い。


 泉を汚してはならない。


 その一念だけで、私は必死に体を横へ向けた。膝をつき、土を握り、歯を食いしばる。

 視界の端で水面が、静かに揺れているのが見えた。揺れが、私の苦悶と無関係に美しい。


 痛みの波がもう一つ来た。


 骨を握り潰されるような圧が腹の芯へ落ち、私は砂利の上へ転がりそうになる。呼吸が途切れ、目の前が暗くなった。


 ――そのとき、気配が落ちた。


 風が止んだわけではない。音が消えたわけでもない。

 ただ、森が一瞬だけ「見守る」側へ回ったような、不可解な沈黙。


 私は顔を上げた。


 水面の上に、“彼女”が立っていた。


 夢ではない。幻でもない。朝の光の中で、彼女は水の上に「在る」。夜よりも残酷な朝の光が、隠しもせず、逃げ道も与えず、そこに「神秘がいる」という事実だけを突きつけてくる。


 ――いる。幻ではない。夢でもない。


 痛みの最中に現れたせいで、現実の方が歪んでいるのかと疑いかけた。

 “彼女”の身体から滴る滴は、水面に触れても波紋を生まない。


 やはり、彼女はこの泉の化身なのだ。


 彼女は、こちらへ顔を向ける。


 声が落ちてきた。


――~――(てめぇ、この野郎――)


 胸の内側が震えた。昨夜と同じ、歌うような、囁くような、波紋が言葉になったみたいな音。

 意味は掴めない。だが、私に向けて放たれたものだと確信する。


 “彼女”の顔は、変わらぬ微笑みだった。

 私の苦悶も、吐き気も、醜い穢れも、すべてを見下ろしてなお、揺れない静けさ。


 声がもう一つ降ってくる。


――~~――~(おかわりだこらぁ)(!!)


 寄せては返す波のような調べ。心が洗われるような幻妙の歌声。

 それに応じるように、水が、立ち上がった。


 水は螺旋に渦を成しながら水面から柱のように伸び、蛇のようにうねり、その首をこちらに向けた。

 奔流が向かってくる。私を吞み込み、押し流すに足る巨大な水の塊が迫る。


 水が私の身体を呑み込む。呼吸が奪われ、身体が押し流される。

 土と葉の上を転がされ、背中が地面を擦り、視界が空と木々を乱暴に入れ替える。


 臓腑の奥で蠢いていた黒いものが、ぎり、と悲鳴を上げる気配だけを残してほどけた。


 私は泥の中に膝をつき、ようやく息を吐いた。


 水流が引き、私は木の根元で咳き込みながら身を起こした。手が土を掴む。指が震える。だが、もう痛みは臓腑を抉らない。胃の底の冷たい空洞が、水で満たされるように落ち着いていく。


 顔を上げる。


 顔を上げると、“彼女”は水面に立ったまま、ずっとこちらを見ていた。

 見守っている――そうとしか言いようがない微笑のまま。


 陽の光が枝角の輪郭をくっきりと縁取り、淡い髪が水面の反射を拾って虹のように揺れる。

 鰭のようなひだが、肩口や背に影を落とす。人の形をしているのに、人とは違う。

 纏う衣は流れる水そのもの。透き通って肌を透かし見せながらも、陽の光を浴びて輝く小川のよう。


 月の光の下で垣間見たのは、儚い幽玄の美だった。

 だが、陽光に照らし出された“彼女”は、生命の輝きに満ち溢れていてる。


 精霊――という言葉では、足りない。


 ……龍。


 伝承に聞く龍神の特徴と、どこか似ているように思う。

 角と鰭、そして水を自在に操り、水底に住まう龍の神。

 精霊よりも神に近い存在。泉に舞い降りた龍の化身――それこそが“彼女”なのではないか。


 その推測は、私の胸の奥で確信に変わっていく。


 私は、足元のふらつきを押さえながら泉へ戻った。

 一歩ずつ、慎重に。畔に近づきすぎぬよう距離を測り、そして、膝をついた。


挿絵(By みてみん)


 頭を垂れる。

 言葉を選ぶ前に、胸の奥から溢れたものが口になった。


「泉の龍よ……御身に心より感謝を、私は二度救われた」


 声は掠れていた。だが、昨夜より確かに声になった。

 言葉を吐くたび、胸の奥の黒が縮むのが分かる。水がまだ体内で働いている。


「……穢れたこの身に救われる資格があるとは思えません。私は――」


 言い訳が口をついて出た。だが、微笑は揺れない。


 言い訳のために跪いたのではない。赦しを請うために跪いたのでもない。

 私は、ただ事実を言うべきだ。


「――私は、御身に与えられたこの命を無為にしないことを誓います」


 私は顔を上げた。

 陽光の中の“彼女”は眩しすぎて、直視するのが痛い。けれど目を逸らせない。


「……泉の龍よ」


 その呼びかけが、口から出た瞬間、森の空気がわずかに張り詰めた気がした。

 水面の光が、ほんの一瞬だけ強く反射する。

 何も起きていないはずなのに、胸の奥で「何かが噛み合う」感触がある。

 言葉が、ただの音で終わらない。


 私は続けた。


「泉の女神よ――」


 呼んだ途端、泉の底で微かな波紋が生まれたように見えた。

 水面が一瞬だけ呼吸したように揺蕩う。


 私の祈りが、目の前の存在に「届いた」と感じた。


 “彼女”は相変わらず微笑んでいたが、その微笑の輪郭だけが、少しだけ深くなった気がした。

 返事はない。けれど、拒絶もない。


 その沈黙に、私は耐えられる気がした。

 祈りが届かぬ沈黙ではなく、見守る沈黙だからだ。


 私の祈りを受け取ってくださったのだ。


「私は、この命は貴女のため――……ッ!?」


 腹の奥が、またひくりと痙攣した。


 私は言葉を切り、喉を押さえた。胸が詰まり、胃が持ち上がる。

 次の瞬間、吐いた。


 真っ黒い、泥のようなものが地面に落ちた。

 粘り気のある不吉な黒。あの黒禍の残滓が、私の身の奥にまだ残っていたのだと、はっきり分かった。


 私は慌てて泉から顔を背け、地面に吐き捨てたまま、それを見下ろした。

 汚してしまった――と喉が冷える。だが、黒い塊は泡立ち、みるみる輪郭を失い、最後に薄い染みだけ残して消えていった。


 まるで、最初から「無かった」かのように。


 私は息を呑んだ。

 喉の奥が震え、涙が勝手に滲んだ。


 私の手は未だ浅黒いままだ。髪も、瞳もおそらく黒を残しているのだろう。

 だが、私の奥底に巣食っていたものは、今、この場で掻き消えた。


 安堵が胸に落ち、同時に、底の抜けた崇敬が満ち上がる。

 この存在は慈悲深いだけではない。黒禍を認めない。深淵をこの世の理から弾き出す。

 静かな微笑みのまま、世界の病を「病として存在させない」。


 世界は、神秘はまだ、人を見捨ててはいなかった。


 私は再び頭を垂れた。

 祈りを捨てたはずの私が、祈りでしか表せないものを、いま抱えている。


「ありがとうございます。我が救いの女神よ」


 言葉が、胸の奥で灯になった。

 これが、私がずっと欲しがっていた火なのだと分かる。

 怒りでも妬みでもなく、憎しみでもない。生きるための火。守るための火。


 頭を垂れながら、“彼女”の眼差しを感じる。


 見守られている、という実感が、胸に灯った火を確かなものとしてくれる。

 裁くでも、憐れむでも、命じるでもない。

 澄んだ眼差しが、私が「心の澱」を吐き切ったことを見届けている。


 そして――


 視線を上げると、水面には、ただ朝の光だけが揺れていた。


 “彼女”は、姿を消していた。


 消え方は、去ったというより、最初からそこにいなかったような――

 いや、微笑みの余韻のように、水面に波紋を残しておられた。


 泉は、変わらず澄んでいて、陽の光を浴びて煌めいていた。


※※※※※


 私はしばらく動けなかった。

 自分の呼吸の音と、森の鳥の声と、葉の擦れる音だけが、世界を満たす。


 やがて、私は立ち上がった。


 泉の周囲を整える。

 削れた土をならし、散らばった枝を片づけ、昨夜の痕跡を少しでも穏やかな形へ戻す。


 斧の柄だけが、水に刺さったまま残っている。だが、手を伸ばさない。今はまだ、その資格がない。


 ここから先は、与えられた命をどう使うかだけだ。


 私は壊れた鎧の残骸をまとめ、使える革紐や金具だけを拾い集めた。

 簡単な荷になるよう括り、背負える形にする。


 柄杓は捨てずに持つ。この泉に触れた品だ。

 神の前に立つには、格好も作法も要る。

 その最低限すら整えぬまま、二度も救われた。――次は、応える番だ。


 最後に、泉へ向かって一礼した。


「……生きて、御身の意志と共に」


 返事はない。

 だが、返事がないことが、もう怖くはなかった。


 私は森へ踏み出した。

 拾われた命を繋ぐ為に。

 人里を探し。衣と食を得て。再び神の前に立つための形を整えるために。


 そして、いつか――赦しを得て、あの銀の刃を手に取る日のために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ