◆深淵殺しのアイオリス(後編) ★
後半は6話「ファーストコンタクト」の別視点になります。
「よぉ、坊ちゃん、連中の殺し方を教えて欲しいんだって?」
そう言って笑った男には、二列目の歯があった。
笑い方だけが人間で、その顔には深淵の底みたいな暗さが棲んでいた。
深淵に届くという武器を探し回って辿り着いたのが、“深淵殺し”を名乗るこの男の元だった。
本当の名も素性も知らない。私も聞かれなかった。
男はただ、私の腕と脚、呼吸の仕方と目だけを見て言った。
「復讐か」
「……はい」
「新人は歓迎するぜ。すぐ足りなくなるからな」
彼は拍子抜けするほどあっさりと、深淵を殺す武器を渡してきた。
長い柄の、刃の大きい斧。刃は欠け、筋が走り、黒い脈のような模様が薄く浮いていた。
「細かい理屈は知らん。だが、そいつなら届く」
持て、と言われて触れた瞬間、掌の内側がぞわりと粟立った。
この世のものではない「理屈」に触れたのだと、身体が理解した。
「普通の鉄は奴らに届かない。届かないならどうする? 近づいていくんだよ、こっちから」
この世ならざるものを倒すために、この世ならざるものへ武器を、そして自分自身を近づけていく。
その結果、自らが化け物と成り果てることになっても。
“深淵殺し”は、武器も、使い手も狂気と共にあった。
※※※※※
皮肉なことに、その狂気は私に馴染んだ。
浸蝕された武器を振るっても、心身への影響が小さかった。
初めてあの武器を握った夜、私は吐かなかった。眠れなかったが、狂いもしなかった。
代わりに、腕の内側に黒い筋が一本走った。血管のようで、血管ではない。
皮膚の下で、別の法則が芽吹き始めた印だ。
髪は金が鈍り、土に濡れた灰の色を経て、やがて黒へ沈んだ。
瞳も同じように青を失い、深い夜の色を宿した。
こちら側へようこそ、と誰かが言った。私には鏡を見る暇すらなかった。
変容は奪うだけではなく、戦う力を与えた。
膂力が増した。骨が折れにくくなった。痛みが遅れて届くようになった。
人間の限界が薄紙みたいに破れ、私はそこを踏み越えていった。
それでも、代償は確かに積み上がる。
夢の中で、故郷の旗が裂ける音がする。父の背が燃える。叫ぶ民の声が、獣の遠吠えに重なる。
目覚めると喉が乾いているのに、水を飲みたくなくなる。清いものが、怖くなる。
深淵殺しは国や立場を越え、魔樹が現れれば駆けつける。定住も軍属も肌に合わない。
いつ異形になるか分からない者を、家も街も抱えきれないからだ。抱えきれない社会は、私たちを遠ざける一方で、便利に使った。
魔樹を倒せば称賛の声を浴びた。だがそれは、触れたくないものを遠くから持ち上げる時の声だった。
ありがたい、汚らわしい、恐ろしい――同じ口で全部言う。
それで構わなかった。私は深淵を殺す者で、深淵に殺され損ねた者だ。そこに居場所がないのは当然だ。
何より、仲間が出来た。
背中を預けられる者。刃が通らない相手に、笑って槌を叩き込む者。祈りを捨てたのに、夜だけは静かに手を組む者。
復讐者、殉教者、狂人。どれも否定できない顔ぶれだった。
私たちは、魔樹の種を潰し、芽を刈り、苗を折り、幹へ挑んだ。
生涯で遭遇できる数には限りがあると誰かが言ったが、私は“引き”が強かった。向かう先で、大小問わず魔樹と当たり、そのたびに狩った。
いつしか名が立った。人に見せられぬ顔になり、兜を取れなくなっても、名だけは広まる。
私の知らぬところで、私の名は持ち上げられ、貶され、望まれ、失望される。
どうでもいいことだ。
私に深淵殺しの何たるかを教えた男は、私よりずっと先に異形と化し、私が討った。
彼は、深淵殺しの最期が何であるかを、その身で教えてくれた。
私もいずれ、そうなるのだと。
※※※※※
世界樹の森――天に届く巨木の立ち並ぶ霊場。
その中に、魔樹が紛れ、育っていた。
私と仲間たちがそれを見つけた時には、既に手遅れだった。
魔樹は巨木の森の中で縦横に枝葉を伸ばし、土と水と大気を深淵へ塗り替えていた。
かつて樹の大精霊や花神の住まう地だと謳われた森は、魔境となっていた。
異形と化した鳥が群れ、獣が木々の間を這い、息を吸うだけで喉が痛む。
清いものが汚れていく速さが、目に見える場所だった。
これはもう、一国の問題ではない。都市国家連合の同盟を一つ二つ動かしても足りない。
兵を差し向けたところで、怪物が増えるだけだ。
助けはない。退路を保つこともできない。行けば戻れぬ道で、進んでも果たせるとは限らない。
「行くでしょ」
誰かが気軽に言った。気軽に言えるようになるまで、痛みと恐怖を擦り切らせてきたのだ。
「行くだろ」
別の誰かが頷いた。頷く動きが、祈りの代わりみたいに見えた。
皆が私を振り向いた。私が否と言えば翻意して諦めるつもりだという顔。そうは言わないだろうと確信している顔。
私は黙って頷いた。
私たちの死に場所が決まった。
※※※※※
世界樹の森は、入った瞬間に匂いが違った。湿り気があるのに、生命の匂いがしない。
木の幹に触れると樹皮がぬめり、指先が黒く染まる。吐き気が来る。――身体が慣れ始めている。
進むほど、異形の密度が増した。獣だけではない。人の形も混じっている。
かつて巡礼だった者、巫女だった者、伐採の男だった者。目に映るたび、胸の内側が冷える。私は“未来の自分”を何度も見た。
戦いは削り合いだった。
武器が届く代わりに、こちらも届かれ、削がれる。
仲間が一人、目を伏せたまま立ち止まり、次の瞬間、牙の生えた口で笑って己の首に刃を宛がった。
止める暇は無かった。迷いは遅れになる。弔いの言葉もなく、私たちは駆けた。
別の仲間が叫び、魔法陣を展開し、裂け目を縫い留めようとして――黒い枝に貫かれた。
血が落ちる前に黒い泥が吸い、身体の輪郭が溶け、声が獣の唸りに変わる。
私は歯を食いしばり、振り下ろし、叩き割った。
何度も、何度も。
最後に残ったのは、私と、魔樹だけだった。
亀裂の幹は空へ伸び、枝葉は空を裂き、世界の外側の色が滲んでいる。
斧を振るたびに腕の骨が悲鳴を上げる。痛みは鈍いのに、壊れていることだけは分かる。
私は怒りで立っていた。復讐で立っていた。罪悪感で立っていた。
最後の一撃で、幹が裂けた。
裂け目が悲鳴を上げるように震え、空気が反転し、森が一瞬だけ「昔の匂い」を取り戻した気がした。
花の香り、清水の気配。――あまりにも短い幻。
一度、零れ落ちたものは戻らない。
黒く染まった泉と、燃え落ちる旗が脳裏に焼き付いている。
※※※※※
どれほど歩いたか分からない。森を出たのかどうかも分からない。
月を見た記憶がある。二つあったはずの月が、一つに重なって見えた気もする。
私は歩く。立ち止まれば、仲間の声が聞こえそうだった。聞こえた瞬間に、私は戻れなくなる。
だから歩いた。斧を引きずり、血の出ない唇を噛み、骨の内側が軋むのを無視して歩いた。
私は生き残った。また生き残ってしまった。
胸の奥が空洞になって、そこへ黒い風が吹き込む。怒りも悲しみも、もう形を作れない。
ただ、歩かせる衝動だけが残る。生きよと言った父の声が、遠くでひび割れて聞こえる。
剣を学んだ意味を、これから作ると誓った夜がある。
私が、それを作れたのか、壊したのか――もう分からない。
私は彷徨い続けた。
人里へ向かったのか、深淵へ沈んだのか、私自身にも判然としない。
すぐに命を絶つべきだ、と叫ぶ声が聞こえた。
それは私の声のようでもあり、仲間や師、父、そして、オルセイスの民の声のようでもあった。
だが、私はその声に耳を貸さず、歩き続けた。
何かを探すように。何かから逃げるように。
そして、いつしか――水の気配が濃い深い森の中にいた。
※※※※※
森の空気は清浄だった。
世界樹の森に立ち込めていた、血と蜜を溶かしたような腐臭とは違う。
喉の奥に貼りついていた黒い味を、ほんの僅かに薄める冷たさを帯びていた。
私はそれを嗅いだ瞬間、安らぎよりも先に、腹の底に暗く煮えたぎるものを感じた。
清い水。精霊の住まう泉――沈黙と拒絶の記憶。
オルセイスの中庭にあったあの泉を思い出した。
朝露が石畳に白く残り、清水が何も知らない顔で光を返していた場所。
私はそこに膝をつき、祈り、呼びかけ、縋り、願った。
だが、あの夜、泉は沈黙した。
静かに澄んだまま、私の顔を映し、最後まで応えぬまま、黒い泥に沈んだ。
だから私は、信じないと決めたのだ。清いものは、最後に裏切る。
神秘は人に応えない――そうやって生き延びてきた。
なのに今、私は水の匂いに引かれて足を進めている。
骨が軋み、鎧の内側で筋が焼けた縄みたいに張って、呼吸は浅い。唇を舐めても血の味はしない。
舌の上に残るのは穢れた泥だ。吐いた泥を踏み、踏んだ泥がまた私の膝を引く。
斧の柄が掌の形を覚えすぎて、もはや手と武器の境が曖昧だった。
草が途切れ、木立が割れた。
そこに泉があった。
小さくもない。大きくもない。だが、あり得ないほど「澄んで」いた。
月明かりが水面に落ちた場所だけでなく、水の底にまで光が届いている。
喉の奥で笑いが鳴りかけた。乾いた笑いだ。
どうしてだ。世界はこんなにも穢れて病んでいる。土も水も空も、あっという間に塗り替えられる。
清いものは奪われ、清い理由ごと剥ぎ取られる――なのに、ここは。
ここだけが、あの夜の前みたいな顔をしている。
そして。
水面に、誰かが立っていた。
最初は、月の反射が作った像だと思った。水鏡の上に、幻が乗っているのだと。
だが違った。足は沈まず、影は水の下に落ち、姿は揺れない。細い肢体が静かに立ち、薄い衣のようなものが水の光をまとう。
髪は淡い色――夜の底でさえ色を失わない、どこか春先の清澄さを含んだ色だった。
――美しい。
それは、刃のように私の胸へ突き刺さった。
世界はこんなにも穢れているのに。
土も水も空も、黒い枝に裂かれ、命は音もなく歪み、祈りは届かず、救いは遅れ、私たちは毒に浸って戦い、戦いのたびに人の形を手放していく。
――それなのに、なぜ。
なぜ、お前だけがそんなにも澄んでいる。
なぜ、あの日、オルセイスの泉で応えなかった。
私たちが醜く穢れ、腐り落ちていくこの世界で、なぜ、そんなにも美しい。
怒りが湧いた。
妬みが湧いた。
同じだけ、縋りたい衝動が湧いた。
ぐちゃぐちゃに混ざって、呼吸が喉で詰まる。もはや毛髪ではなくなった髪が蠢く。
兜の内側が熱い。熱いのに、頬が冷える。
泣くのか、吐くのか、叫ぶのか――そのどれもが、もう私には似合わない気がした。
水の上の存在は、こちらを見た。
目が合った、と言えるのか分からない。
けれど、確かに“向けられた”。
――微笑んでいた。
穏やかな微笑みだった。
哀れみでも、嘲りでも、勝者の余裕でもない。
夜明けの前の水面が、ただ静かに光を返すような、そんな表情。
清浄な森、透き通った水面、空に浮かぶ交わらぬ月。
それらを見つめている時と変わらぬ眼差しで、私を見た。
その微笑みが、私の中の何かを壊した。
踏み出そうとした足が、言うことをきかない。
斧の柄を握っていた手がほどける。指の感覚が遠い。骨の内側が軋む音だけが、やけに大きい。
明け渡せ、と身体が言った。お前も人で無くなれ、と。
やめろ、と別の声が言った。生きよ、と。
どちらも私の声だった。
腕が、指が軋み、捻じれ、形を変えていく。握力が抜けた。
私は斧を取り落とした。
私を“深淵殺し”たらしめる毒の刃。多くの魔樹を狩り、多くの堕ちた仲間を殺めた刃。
重い音が地面に響き、穢れた刃が泉に浸かり、水面を乱す。飛沫が跳ねる。
黒く染まったオルセイスの泉が脳裏に蘇った。
私が運んできた穢れが、この清浄な泉を穢してしまうのか――
だが水面は濁らない。むしろ黒を拒むように、淡い波紋が走った。
それを見届ける前に膝が崩れた。
視界が揺れる。乱れる。滲んで溶けていく。
私が私でないものになっていく。
水面の上の存在は、動かない。逃げない。怖がらない。
ただ、こちらへ微笑を向けたまま、静かに立っている。
(……どうして)
声は出なかった。喉が人ではないものになっている。
兜の内側で、言葉が擦れて消えた気がした。
どうして救わなかった。
どうして今ここにいる。
どうして――こんなにも美しい。
答えは返らない。
返るのは、微笑みだけだ。
私の手が、勝手に伸びた。
掴みたいのか、突き倒したいのか、縋りたいのか、自分でも分からない。
穢れた籠手の先が、夜の空気を掻いた。
そのとき。
声が降ってきた。
『――~――~~――――』
それは、歌うような、囁くような、波紋が言葉になったみたいな音だった。
耳で聞くというより、胸の内側が震える。
しかし意味は掴めない。言語が違うのか、そもそも言葉ではないのか。私はただ、その声音に心奪われた。
次の瞬間、泉が――動いた。
水が立ち上がった。
奔流だった。鉄砲水みたいな粗暴さではない。刃のように鋭いのに、触れた瞬間だけは柔らかい。
重く、冷たく、清い圧力が、一気に私を包み込む。
息をする暇がない。身構えることさえ出来なかった。
だが、それは攻撃ではなかった。
身体の外側にまとわりついていた黒いものが、剥がされる感触がした。
ただ、汚泥を削ぐのではない。汚泥が“汚泥である理由”ごと、奪われる。
皮膚の下に芽吹いていた別の私ではない“何か”が、苦しみ悶えている。
痛い。だが痛みというより、間違いを正されていく感覚。
熱が抜けていく。
喉の焼けつく乾きが薄れ、代わりに、胸の奥の空洞に水が満ちる。
私は、浄められている。
そう理解した瞬間、怒りが暴れた。
今さら。今さら浄めるのか。
私が何を捨て、何を殺し、誰を叩き割り、どれほどの夜を引きずってきたと思っている。
――だが、その反抗すら、長く続かなかった。
清い水が、私の中の黒い衝動を押し流す。
空洞に巣食っていたものが、音もなく薄められてゆく。
私を深みへと歩かせるだけだったものが、静かに溶けていく。
私は抵抗する力と意味をを失っていった。
最後に見えたのは、水面の上の存在の顔だった。
その微笑みは変わらない。
醜く穢れきった私を前にしても、そこには嫌悪も恐怖もなかった。
私を醜い穢れだと――あってはならぬ歪みだと、否定したのではないのか。
そのことが、胸に刺さったまま抜けなかった。
憎みたいのに、憎めない。
救われたくないのに、救われてしまう。
こんな私が、まだこの世界に在ることを赦されていると思ってしまう。
『―~――』
囁きが、もう一度、耳ではなく心臓の裏を撫でた。
意味は分からない。
けれど、その響きが、どこか懐かしく、どこまでも清い。
――泉。
あの日、オルセイスで、私が失ったもの。
神秘の象徴――いや、神秘そのものが、未だ失われずにいた。
『いつか、必ず、取り戻す日が来る。その日まで生きよ』
父が遺した言葉が蘇る。
希望の形をした嘘。私を進ませるための気休め。
嘘を嘘のまま飲み込んで、死への恐怖から目を逸らして走ってきた。
復讐のため、“深淵殺し”となって、狂気の中に身を置いた。
いつの頃からか、成り果てて死ぬことが定めだと思っていた。
だが、神秘は――彼女は、私の諦めを赦さなかった。
穢れた私を見放そうとはしなかった。
私が取り落とし、忘れていたものを彼女は拾い上げてくれた。
※※※※※
水流に押し流された私を、森の木々が受け止めた。
水は私の兜の隙間へ入り、髪を濡らし、頬を撫で、唇へと伝わり、喉の奥へ染み渡る。
視界の先に暗い空がある。木々の黒い影が、風に揺れている。
夜空に光る二つの月が滲んで見えた。
私は涙を流していた。
悲しみでも、絶望からくるものでもない涙。
果てしない渇きの果てに、潤いを得たときの無心の涙だ。
視界が白く滲み、月の輪郭がほどけ、森の黒が遠ざかる。
意識が沈んでいく。
深みに落ちていくのではなく、揺蕩う水に浮かんでいるような心地。
その穏やかな波に身を委ねて、私は、意識を手放した。




