2.水から奮い立たせる 〇
目が覚めると俺は水になっていた。
俺の中を小魚が泳ぐ――その事実をどう言えばいいのか分からない。
触れている感触も、ぬめりも、温度も、なにもない。
ただ、自分の意識の隅に”魚がいる”。
たとえば、肌に魚の映像を投影されたら、触れなくても落ち着かないだろう。
今の俺はそれに近い。だから出来るだけ直視しないように、意識を別に向ける。
見えるものは空だけだ。
夜空には満天の星と二つの月。
片方は大きく丸く、ほのかに赤みを帯びている。
もう片方は三分の二ほど欠け、青白い。
最初は、水面越しに光る”眼”に見下ろされているみたいで落ち着かなかった。
けど二つの月は軌道が違うらしく、時間が経つほど離れていって、やがて視界から消えた。
俺の視界に映る空は、木々の囲いに切り取られている。
何の木かは分からない。枝と葉が重なり、ぐるりと俺を囲んでいた。
月が見えなくなってしばらくして、空が色づく。
黒が紺になり、紺が青になり、青が白を帯びていく。
少しだけ身構えていたが、太陽は一つだった。
赤でも黒でもない、白く眩しい光。
眩しさを感じないのは、光が優しいからじゃない。俺に眼球がないからだ。
水越しの世界が少しだけ輪郭を取り戻す。
木々の影が薄まり、葉の一枚一枚が、揺らぎの中で形になっていく。
森だ。鬱蒼とした森の中に――俺はいる。
俺はどうやら、森の中の泉らしい。
広さを測る物差しはない。
けど感覚的には、子供の頃の四畳半に近い。
寝転べば手足は伸ばせる。だが広くはない。
壁と天井に囲われているような安堵と、逃げ場がない窮屈さが同居している。
水底の中央は砂利で、外に向かうほど泥と落ち葉が増える。
深さは数十センチ――たぶん、そんなところだ。
その砂地の一部が、ぷくぷくと呼吸するように動いていた。
湧き水だ。
どうやら俺(泉)は、そこから発生している。
この泉に小川は流れ込まないし、流れ出しもしない。
森の中にぽつんと存在する、孤島みたいな泉だった。
泉の中には、小魚がいる。
小さくて透明なエビがいる。
にょろにょろした虫みたいなのもいる。
水草、藻、苔――ここに昔からいたのか、どこから来たのかも分からない連中が、勝手に生きている。
こいつらは俺の中で勝手に増えて、勝手に死んで、勝手に循環してきたのだろう。
当然、こちらには無反応だ。
話しかけても返事はない。
文句を言ってもなにも変わらない。
俺がいま”俺”だと思っている意識だけが、水底でじたばたしている。
風が吹くと落ち葉が舞い降り、水面に浮いて、じわじわ沈む。
水底に堆積していく。
これが泉の底の泥の原材料だ。原価ゼロ、出荷予定なし。
落ち葉は思ったより厄介だった。
最初は景色だった。森の泉なら普通だろ、と無理やり納得した。
けど量が増えると、水面が覆われる。
外の世界が見えにくくなる。
視界が狭くなる。
ただでさえ世界が揺れて見えるのに、上まで塞がれると、閉じ込められた感じが一気に強くなる。
空も木々も、葉の隙間から滲む光の斑点になる。
息苦しくはないのに、息が詰まる。
早く沈め。沈んで腐れろ。
そんなことばかり考えてしまう。
雨が降る。
雨は視界を俺のぐちゃぐちゃにする。
水面が乱れて、外の景色が砕ける。
木々がばらばらに揺れて、空が千切れて、二つの月が滲んで溶ける。
騒がしくて鬱陶しいイベントだ。
なのに――なぜか、気分が浮き立つ。
ざわざわする。くすぐったい。
全身を撫でられているような、跳ね回りたいような、妙な喜びが湧く。
嬉しい。楽しい。……気持ちいい。
その感覚が来るたびに、俺は自分を奮い立たせる。
(やめろ。喜ぶな。俺は人間だろ)
……いや、人間だった、だ。
雨に濡れて嬉しいなんて、普通の人間はしない。
濡れるし、寒いし、服が張り付いて気持ち悪い。面倒しかない。
なのに今は、雨が降ると心が浮く。水面が踊るのが気持ちいい。
人間じゃなくなった。
その事実を、雨が何度も突きつけてくる。
それが楽しくて嬉しいのが、気味が悪い。
時々、鳥がやってくる。
水面に影が落ち、嘴が突っ込まれる。
針みたいな舌が忙しなく動き、水を舐めるみたいに飲む。
連中は水際でばしゃばしゃ水浴びする。
羽根を広げて震わせ、雫を飛ばす。
腐葉土になりかけの黒い葉をほじくり返し、虫やエビを攫っていく。
動物も来る。鹿っぽいの、鼠っぽいの、ウサギっぽいの。
茂みからヌッと現れて、きょろきょろ周りを警戒してから水を舐め、喉を鳴らす。
それ自体は、まあいい。仕方がない。
俺は逃げられないし、言葉も出せない。手も足も出ない。
飲まれるのも浴びられるのも、抵抗のしようがない。
けど――汚されるのは嫌だった。
砂や泥が巻き上がり、水底の澱が舞う。
視界が茶色く曇る。
そして、もう一つ。
鳥がぽとりとフンを落としていく。動物もやる奴はやる。
俺の中のエビや小魚、虫も、まあやっている。
こいつらは俺の中で生まれ、俺の中で死んで腐っていく。
水の中で何をされても痛みがあるわけじゃない。変な味がするわけでもない。触感もない。
ただ、気分が悪い。
口の中の雑菌を、目に見える形で突きつけられたみたいな嫌悪感だ。
”汚い”と思ってしまう感情だけが、濁りみたいに溜まっていく。
(やめろ。マジでやめろって。俺はお前らの風呂でもトイレでもねぇ!)
言っても通じない。通じるはずがない。
俺は退屈や不快感を紛らわせようと色々試した。
頭の中でアニソンメドレーを流す。サビだけを繋げて延々ループさせる。
漫画やアニメの続きを妄想する。”次はこうなる”と勝手に補完して、勝手に盛り上がって、勝手に萎む。
水の中のエビや小魚に話しかける。
(産んだら産みっぱなしかよ……って自分で食うんかい!)
(おい、虫。後ろ、後ろ……あっ)
(お前、どっから湧いてきたんだ?土ん中?溺れてんじゃねえか)
来る動物にも文句を言う。
(浴びるのか飲むのか、どっちかにしろ!いや、水だけ飲んで帰れ!)
(俺は水洗トイレじゃねえ!他にも飲んでる奴がいるんだぞコラ!)
(お客さん困るんですよね、うちのキャスト食い散らかされちゃあ!)
当然、どこまでも一人相撲だ。
俺の言葉は俺の中で反響して、俺の中に沈む。
外へは届かない。誰にも引っかからない。
二つの月が動き、日が昇って沈む。
風が吹き、雨が降り、葉が落ちる。
鳥が来て、動物が来て、飲んで、浴びて、汚して、去っていく。
俺だけが置き去りだ。
そしてある日。
イノシシみたいな生き物が来た。
いや、”来た”じゃない。泥だらけの塊が、木々を割る勢いで突っ込んできた。
躊躇もなく水面へ――俺の中へ、バシャンと飛び込んだ。
砂利が、泥が、ほじくり返される。
泥、泥、泥。
水が一気に濁る。茶色い雲が泉全体に広がって、視界がゼロになる。
水底の落ち葉も舞い上がり、水草が引きちぎられる。
藻と苔がばらばらになり、エビと小魚が狂ったみたいな速度で端に逃げる。
(おい)
(おいおいおい!)
(ふざけんな!!)
我慢の限界が来た。叫んだ。
声は出ていない。喉なんてない。
なのに確かに叫んだ。怒りが、嫌悪が、拒絶が――爆発した。
その瞬間。
水が、すっと軽くなった。
濁りが”沈む”んじゃない。
拡散するんでも、薄まるんでもない。
茶色い粒子が――”いなくなった”。
視界が戻る。澄んだ水が戻る。
さっきまで俺の中にあったはずの汚れだけが、最初から存在しなかったみたいに消えている。
俺は唖然とした。
(……え)
何が起きた。
今、俺が、やったのか?
イノシシもどきは、何かを感じ取ったのか、水底を蹴って上がっていった。
蹄の沈んだ場所で腐葉土が舞い、少しだけ濁る。
――でも、その濁りは、さっきみたいに広がらない。
俺の中の水は、透明のままで踏みとどまっている。
(俺……か? 今の、俺がやったのか?)
試したくなった。
分からないが、分からないからこそ試したくなる。
落ち葉の周りの水に意識を向ける。
濁りを思い浮かべて、そこから”綺麗”を想像する。
水が、ほんの少しだけ透けた気がした。
さらに、別のことも。
怒りをほんの少しだけ外へ押し出すように、水面へ意識を向ける。
すると水面が、僅かに震えた。小さな波紋が広がった。
風じゃない。確かに波だ。
俺の意思で、水が動いた。
(……できるのか。俺が動かせるのか)
俺は、いままでただ”そこにある”だけだと思っていたのに。
透明に保てる。
僅かに波を立てられる。
たったそれだけでも――それは希望だった。
俺は泉になった。
ただし、ただの泉じゃないらしい。
(やるぞ……やってやる。俺は出来る泉になる!)




