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水から奮い立たせる

 目が覚めると俺は水になっていた。


 俺の中を小魚が泳ぐ――その事実をどう言えばいいのか分からない。

 触れている感触も、ぬめりも、温度も、なにもない。

 ただ、自分の意識の隅に「魚がいる」。


 たとえば、肌に魚の映像を投影されたら、触れなくても落ち着かないだろう。

 今の俺はそれに近い。だから出来るだけ直視しないように、意識を別に向ける。


 見えるものは空だけだ。


 夜空には満天の星と二つの月。

 片方は大きく丸く、ほのかに赤みを帯びている。

 もう片方は三分の二ほど欠け、青白い。


 最初は、水面越しに光る「眼」に見下ろされているみたいで落ち着かなかった。

 けど二つの月は軌道が違うらしく、時間が経つほど離れていって、やがて視界から消えた。


 俺の視界に映る空は、木々の囲いに切り取られている。

 何の木かは分からない。枝と葉が重なり、ぐるりと俺を囲んでいた。


 月が見えなくなってしばらくして、空が色づく。

 黒が紺になり、紺が青になり、青が白を帯びていく。


 少しだけ身構えていたが、太陽は一つだった。

 赤でも黒でもない、白く眩しい光。

 眩しさを感じないのは、光が優しいからじゃない。俺に眼球がないからだ。


 水越しの世界が少しだけ輪郭を取り戻す。

 木々の影が薄まり、葉の一枚一枚が、揺らぎの中で形になっていく。

 森だ。鬱蒼とした森の中に――俺はいる。


 俺はどうやら、森の中の泉らしい。


 広さを測る物差しはない。

 けど感覚的には、子供の頃の四畳半に近い。

 寝転べば手足は伸ばせる。だが広くはない。

 壁と天井に囲われているような安堵と、逃げ場がない窮屈さが同居している。


 水底の中央は砂利で、外に向かうほど泥と落ち葉が増える。

 深さは数十センチ――たぶん、そんなところだ。


 その砂地の一部が、ぷくぷくと呼吸するように動いていた。


 湧き水だ。


 どうやら俺(泉)は、そこから発生している。

 この泉に小川は流れ込まないし、流れ出しもしない。

 森の中にぽつんと存在する、孤島みたいな泉だった。


 泉の中には、小魚がいる。

 小さくて透明なエビがいる。

 にょろにょろした虫みたいなのもいる。

 水草、藻、苔――ここに昔からいたのか、どこから来たのかも分からない連中が、勝手に生きている。


 こいつらは俺の中で勝手に増えて、勝手に死んで、勝手に循環してきたのだろう。


 当然、こちらには無反応だ。

 話しかけても返事はない。

 文句を言ってもなにも変わらない。

 俺がいま「俺」だと思っている意識だけが、水底でじたばたしている。


 風が吹くと落ち葉が舞い降り、水面に浮いて、じわじわ沈む。

 水底に堆積していく。

 これが泉の底の泥の原材料だ。原価ゼロ、出荷予定なし。


 落ち葉は思ったより厄介だった。

 最初は景色だった。森の泉なら普通だろ、と無理やり納得した。

 けど量が増えると、水面が覆われる。

 外の世界が見えにくくなる。


 視界が狭くなる。


 ただでさえ世界が揺れて見えるのに、上まで塞がれると、閉じ込められた感じが一気に強くなる。

 空も木々も、葉の隙間から滲む光の斑点になる。

 息苦しくはないのに、息が詰まる。

 早く沈め。沈んで腐れろ。

 そんなことばかり考えてしまう。


 雨が降る。


 雨は視界を俺のぐちゃぐちゃにする。

 水面が乱れて、外の景色が砕ける。

 木々がばらばらに揺れて、空が千切れて、二つの月が滲んで溶ける。


 騒がしくて鬱陶しいイベントだ。


 なのに――なぜか、気分が浮き立つ。


 ざわざわする。くすぐったい。

 全身を撫でられているような、跳ね回りたいような、妙な喜びが湧く。

 嬉しい。楽しい。……気持ちいい。


 その感覚が来るたびに、俺は自分を奮い立たせる。


(やめろ。喜ぶな。俺は人間だろ)


 ……いや、人間だった、だ。


 雨に濡れて嬉しいなんて、普通の人間はしない。

 濡れるし、寒いし、服が張り付いて気持ち悪い。面倒しかない。

 なのに今は、雨が降ると心が浮く。水面が踊るのが気持ちいい。


 人間じゃなくなった。

 その事実を、雨が何度も突きつけてくる。

 それが楽しくて嬉しいのが、気味が悪い。


 時々、鳥がやってくる。

 水面に影が落ち、嘴が突っ込まれる。

 針みたいな舌が忙しなく動き、水を舐めるみたいに飲む。


 連中は水際でばしゃばしゃ水浴びする。

 羽根を広げて震わせ、雫を飛ばす。

 腐葉土になりかけの黒い葉をほじくり返し、虫やエビを攫っていく。


 動物も来る。鹿っぽいの、鼠っぽいの、ウサギっぽいの。

 茂みからヌッと現れて、きょろきょろ周りを警戒してから水を舐め、喉を鳴らす。


 それ自体は、まあいい。仕方がない。

 俺は逃げられないし、言葉も出せない。手も足も出ない。

 飲まれるのも浴びられるのも、抵抗のしようがない。


 けど――汚されるのは嫌だった。


 砂や泥が巻き上がり、水底の澱が舞う。

 視界が茶色く曇る。


 そして、もう一つ。


 鳥がぽとりとフンを落としていく。動物もやる奴はやる。

 俺の中のエビや小魚、虫も、まあやっている。

 こいつらは俺の中で生まれ、俺の中で死んで腐っていく。


 水の中で何をされても痛みがあるわけじゃない。変な味がするわけでもない。触感もない。

 ただ、気分が悪い。


 口の中の雑菌を、目に見える形で突きつけられたみたいな嫌悪感だ。

「汚い」と思ってしまう感情だけが、濁りみたいに溜まっていく。


(やめろ。マジでやめろって。俺はお前らの風呂でもトイレでもねぇ!)


 言っても通じない。通じるはずがない。

 俺は退屈や不快感を紛らわせようと色々試した。


 頭の中でアニソンメドレーを流す。サビだけを繋げて延々ループさせる。

 漫画やアニメの続きを妄想する。「次はこうなる」と勝手に補完して、勝手に盛り上がって、勝手に萎む。


 水の中のエビや小魚に話しかける。


(産んだら産みっぱなしかよ……って自分で食うんかい!)

(おい、虫。後ろ、後ろ……あっ)

(お前、どっから湧いてきたんだ?土ん中?溺れてんじゃねえか)


 来る動物にも文句を言う。


(浴びるのか飲むのか、どっちかにしろ!いや、水だけ飲んで帰れ!)

(俺は水洗トイレじゃねえ!他にも飲んでる奴がいるんだぞコラ!)

(お客さん困るんですよね、うちのキャスト食い散らかされちゃあ!)


 当然、どこまでも一人相撲だ。

 俺の言葉は俺の中で反響して、俺の中に沈む。

 外へは届かない。誰にも引っかからない。


 二つの月が動き、日が昇って沈む。

 風が吹き、雨が降り、葉が落ちる。

 鳥が来て、動物が来て、飲んで、浴びて、汚して、去っていく。


 俺だけが置き去りだ。


 そしてある日。


 イノシシみたいな生き物が来た。

 いや、「来た」じゃない。泥だらけの塊が、木々を割る勢いで突っ込んできた。

 躊躇もなく水面へ――俺の中へ、バシャンと飛び込んだ。


 砂利が、泥が、ほじくり返される。

 泥、泥、泥。

 水が一気に濁る。茶色い雲が泉全体に広がって、視界がゼロになる。

 水底の落ち葉も舞い上がり、水草が引きちぎられる。

 藻と苔がばらばらになり、エビと小魚が狂ったみたいな速度で端に逃げる。


(おい)


(おいおいおい!)


(ふざけんな!!)


 我慢の限界が来た。叫んだ。

 声は出ていない。喉なんてない。

 なのに確かに叫んだ。怒りが、嫌悪が、拒絶が――爆発した。


 その瞬間。


 水が、すっと軽くなった。


 濁りが「沈む」んじゃない。

 拡散するんでも、薄まるんでもない。


 茶色い粒子が――「いなくなった」。


 視界が戻る。澄んだ水が戻る。

 さっきまで俺の中にあったはずの汚れだけが、最初から存在しなかったみたいに消えている。


 俺は唖然とした。


(……え)


 何が起きた。

 今、俺が、やったのか?


 イノシシもどきは、何かを感じ取ったのか、水底を蹴って上がっていった。

 蹄の沈んだ場所で腐葉土が舞い、少しだけ濁る。


 ――でも、その濁りは、さっきみたいに広がらない。

 俺の中の水は、透明のままで踏みとどまっている。


(俺……か? 今の、俺がやったのか?)


 試したくなった。

 分からないが、分からないからこそ試したくなる。


 落ち葉の周りの水に意識を向ける。

 濁りを思い浮かべて、そこから「綺麗」を想像する。


 水が、ほんの少しだけ透けた気がした。


 さらに、別のことも。


 怒りをほんの少しだけ外へ押し出すように、水面へ意識を向ける。

 すると水面が、僅かに震えた。小さな波紋が広がった。


 風じゃない。確かに波だ。


 俺の意思で、水が動いた。


(……できるのか。俺が動かせるのか)


 俺は、いままでただ「そこにある」だけだと思っていたのに。


 透明に保てる。

 僅かに波を立てられる。


 たったそれだけでも――それは希望だった。


 俺は泉になった。

 ただし、ただの泉じゃないらしい。


(やるぞ……やってやる。俺は出来る泉になる!)

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