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19/26

◆深淵殺しのアイオリス(前編) ★

木こり野郎ことアイオリス視点の過去の話になります。

 私の故郷オルセイスは、石畳が朝露を吸い、白く高い壁が陽を返す城壁都市だった。

 城の中庭には清水の湧く小さな泉があり、水の精霊が住まうとされていた。


 オルセイスは都市国家連合に属し、その領主の家に生まれた私は、幼い頃より城で剣を習い、礼法を覚え、泉の精霊に祈りを捧げた。精霊と対面したことはなかったが、時折、そこに神秘を感じることがあった。

 その頃の私は、いずれ父の跡を継ぎ、この街と共に生きていくのだと信じていた。


 ――全てが深淵に飲み込まれるまで。


※※※※※


 この世界に最初の災厄がいつ現れたのかは分からない。

 ただ、祖父がまだ剣を握る前から、既に「予兆」は始まっていたという。


 どこからともなく現れる異形。黒い穢れを纏った、刃の通じない怪物。

 それは原野や海、山脈や深い森の向こう――人の目の届かない場所から来た。


 神や精霊の力を借りた魔法は通用した。厄介だが、まだ対処できた。

 初めに「それ」を見つけた者は、地面に空いた「穴」だと思ったそうだ。

 怪物はその周辺から現れ、穴は魔法で破壊できた。穴が消えれば、怪物は現れなくなる。


 だから人は、穴を潰せば終わるのだと――思っていた。


 穴はあちこちで見つかった。人の目の届かない場所に、ポツポツと発生していた。

 その頃から、少しずつ、人の祈りに応えない神や精霊が出始めたという。


 父の代になる頃には、それは「黒禍」と呼ばれ、国や都市を脅かす脅威と見なされた。

 人々はそのために同盟を結び、有事に備えようとした。


 ――その脅威が、どのように、どこまで広がっているのかを知らぬままに。


※※※※※


 オルセイスの地図には、城壁の外側にいくつかの小村と交易路の印が引かれている。

 それらは食料と労働と税を運び、城壁の内側の平穏を支える血管のようなものだった。


 予兆は、地図の外側から来た。


 最初に消えたのは商隊だった。

 街道沿いの宿が一つ、二つと空になり、次に、馬だけが戻ってきた。

 荷車は引きちぎられ、革紐は黒い泥で固まり、馬の目だけが、何かを見たまま乾いていた。


 生き残った御者は言葉を失っていた。喉は動くのに、声にならない。

 呻きに混じって漏れたのは、たった一つの単語だけだった。


 ――黒禍。


 領主館の広間で、父は重臣たちと顔を寄せ合った。私はまだ若く、本来会議に同席する資格などない。

 だが領主の息子という肩書きは、時に年齢を踏み越えさせる。私は壁際に立ち、剣帯の重さを確かめながら、彼らの会話を聞いた。


「”芽”は、野営地の近くにあったと。丈は人と同程度。やはり、”枝葉”は見当たらなかったそうです」

「獣に襲われたそうです。二人、置いてきたらしく……」

「……既に異形化していると思った方がよろしいですな」


 飛び交う言葉は黒禍に関するもの。座学で習った言葉が現実へと降りてくる感覚。

 私は父の横顔を盗み見た。


 私が受け継いだ金の髪と青い瞳。皺と傷跡の刻まれた威厳ある顔。

 父は動揺を見せず、ただ静かに顎に手をやり、次の手を選んでいた。

 この街の平穏は、父の冷静さの上に載っている。私はそう信じていた。


「魔術師を三名連れて行け。祝福の槍の持ち出しを許可する」


「承知しました」「すでに手配を」「招集、鐘を鳴らせ」


 討伐部隊はすぐに出立した。


 斥候が森を巡り、術師が地の気配を嗅ぎ、種を見つければ魔法で潰す。

 怪物には普通の剣や槍は致命の一撃とはならないという。

 だが、足止めと壁にはなる。その間に魔法で焼き、滅ぼす。

 神や精霊の加護の宿った武器であれば仕留めることもできる。


 ――そのはずだった。


 討伐部隊は予定より早く戻ってきた。

 戻ってきた、と呼んでいいのか分からない形で。


 城門の前に現れたのは、馬が一頭と担架が二つ。

 担架の上には、鎧の形をした黒い塊が載っていた。

 金具は歪み、革は溶け、内側にあるはずの“誰か”は、もう輪郭を持っていない。


 術師の一人だけが自分の足で歩いていた。だが、その瞳は焦点を結んでいない。

 口元は何度も何かを呟こうとして、声にならない息が漏れるだけだった。

 彼は私を見て、笑ったような、泣いたような顔をした。


「あぁ――空が、空が割れて……」


 それきり膝から崩れ落ちた。


 父はその場で命じた。門を閉じ、兵を集めろ。鐘を鳴らせ。

 ――そして私を、見るなと言うように、城壁の内側へ押し戻した。


 しかし私は見てしまった。


 担架の下、地面に落ちた黒い泥。濡れているのに光を吸う。

 触れた場所が土であることを忘れたように色を失い、崩れる。


 あれは、ただの汚れではない。


 黒禍だ。


※※※※※


 数日後、新たに送り出した斥候は半数が戻らない。

 戻ってきた者は、口を閉ざした。閉ざすというより、言葉がその者の中から抜け落ちた。


 父は焦らなかった。少なくとも表には出さなかった。

 重臣たちを集め、備蓄を計算し、城壁の補修を命じ、術師を増やし、祈りの儀式を重ねた。

 城の泉にも、より多くの供物が捧げられた。


 私も祈った。幼い頃の癖で泉の縁に膝をつき、手を合わせた。

 だが、その夜――泉は何も応えなかった。

 水面は静かなまま、ただ冷たく澄んでいるだけだった。


 ——そこに「いる」はずのものが、いない。


 その不在が、夜闇をなお暗く感じさせた。


「……泉の精霊よ。どうか……」


 声が掠れた。私の祈りが足りないのか。捧げ物が足りないのか。

 それとも……私たちは既に見放されていたのか。


 その問いに答えるように、遠くで鐘が鳴った。


 警鐘だ。城壁の外側――森の方角から。


※※※※※


 黒禍は夜と共に訪れた。

 人とも獣ともつかない歪な姿、奇妙な動きで迫ってくる。


 灯火の輪の外側で兵が呻く声が聞こえた。弓が放たれ、矢が吸い込まれる。

 槍が突き出され、突いたはずの相手が”そこにいない”みたいにすり抜けた。

 悲鳴が上がり、次の瞬間、その悲鳴が獣の唸り声に変わった。


 私は剣を抜いて走った。父に止められたが、止まれなかった。

 領主の息子である前に、私は剣を振るう一人の兵士のつもりだった。


 城壁の上から見えたものは、戦ではなかった。

 闇の中に、闇より黒いものが蠢いている。

 人の形をしているようで、人ではない。獣のようで、獣でもない。


 矢は通らない。炎は効く。

 だが、効いても倒れない。倒れたものが、また立ち上がる。

 私たちとは異なる理屈で動いているのだとでも言うように。


 術師が叫び、光の槍を放った。眩い一撃が黒を貫き、そこだけが白く裂けた。

 効いている。確かに効いた。歓声が上がる。


 ――だからこそ、獣は理解した。自分たちを殺し得るものが何かを。


 大小の獣の群れが術師へ殺到した。


 術師は魔法を放つが爪に裂かれ、黒い泥を浴びせられて悲鳴を上げた。

 傷ついた腕が黒く染まり、指が関節の数を増やし、骨が外へ突き出る。

 彼は自分の手を見て泣きながら笑い、次の瞬間、城壁から身を投げた。


 私は胃の底が冷えるのを感じた。

 これが黒禍との戦いなのか。


 獣はこちらを向いた。


 私は剣で必死に応戦した。肢を、頭を。斬りつけ、刺し、払う。

 切っ先に黒い粘液がへばり付く、獣は倒れない。

 肉を断ち、骨を砕く感触が無い、刃が効いていない。


 術師の末路が、あの泣き笑いの顔が浮かんできて、喉の奥がひきつる。


「あああああああぁぁっ!!」


 叫び、恐怖を呼気と共に吐き出す。

 不揃いの四肢で跳躍した獣。その顔面目掛けて剣を振るう。

 刃筋を立てるのではなく、剣の腹で鼻面を殴りつける。


 柄を握る手に、重さを、感じた。

 振り上げた姿勢から、強く踏み込み、力任せに斬り下ろす。


 獣が地に墜ちる。汚泥のような黒い粘液が石の床に落ちて、ジュ、と音を立てる。


 そんなことを気にしている余裕などなかった。


 すかさず、剣を振り上げ、即座に振り下ろした。衝突。衝撃。手が痺れる。

 しかし、決して立ち上がる隙を与えるわけにはいかない。

 繰り返し、繰り返し、斬撃と、打突を浴びせ続けた。


「――はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 気が付くと、獣は動かなくなっていた。


 私の持つ剣は刀身が真っ黒に染まっていた。

 鍛鉄の表に奇妙なものが見えた。薄っすらと張り付く血管のようなもの。

 肩で息をする揺れとは別に、刀身に浮かんだその管がピクリと蠢いた。


「うわぁ!?」


 私が剣を放り出したその時、父が城壁の上で叫んだ。


「退け! 門を閉じろ! 内側へ入れるな! 火を――火を絶やすな!」


 命令は正しかった。だが正しいだけでは、間に合わなかった。


 門前で兵が踏ん張る。その足元の影が黒く滲んだ。

 影が影のまま立ち上がり、兵の背に絡みつき、首に巻きつき、引きずり倒す。

 倒れた兵の口から、黒い泡が溢れた。


 私は取り落した剣に目を向けた。

 黒い泥に汚れた刀身には、確かに血管のような不気味な筋が走っていた。

 だが、脈動したりはしていない。見間違いだったのか?


 だとしても、もう、その剣を使う気にはなれず、誰かの落した槍を拾い上げた。

 元の持ち主がどこでどうなっているか、考えたくもない。


 柄を握り締める。腕が震えた。恐怖ではない、と自分に言い聞かせた。

 これは怒りだ。怒りだから震えるのだ。――そう思いたかった。


 しかし、その怒りさえ何に向ければいいのか分からず、私は闇雲に駆け回り、武器を振り回した。


※※※※※


 ぴちゃん、と小さな水音が聞こえて。


 私は城の中庭、泉の傍らで目を覚ました。


 夜が明けていた。寒さに身が軋む。

 頬に手で触れると朝露に濡れていた。

 周囲は異様に静まり返っている。


 脇には穂先を失った槍が落ちていた。

 黒い汚泥が柄にこびり付いていた。無我夢中で振り回した記憶はある。

 だが、戦うためだったのか、逃げ回るためだったかも定かではない。


 城が静かになったのは勝ったからではなかった。

 静かになったのは、「生きて動くもの」が減っただけだった。


 城壁はいまだ健在だった。


 だが、その壁は最早、人を守るための姿をしていなかった。

 脈動する黒い血管のようなものが走り、石壁が呼吸するように蠢いていた。


 そして、森の方角。空に向かって伸びていく亀裂が見えた。

 幹のように太い裂け目は枝分かれし、ねじれ、広がっていく。


 成長するたび空の傷口を広げ、樹のように育つ。

 人は自分の知る言葉でしか形容できないから、あれを樹と呼ぶのだ。


 魔樹――その名は、恐怖に形を与えるためのものだ。


 名をつければ理解した気になれる。理解できないものほど、名を欲しがる。

 だが、人があれをどう理解しようと、あれは世界を侵し、蝕む。

 罅割れた空は、血と汚泥と廃油を混ぜた色をしていて、滲んで見えた。


 私は口を押さえ、悲鳴を飲み込んで中庭へと駆けた。

 清らかな泉を覗き込み、血を吐くような声で必死に呼びかけた。


 精霊よ、どうか、どうか応えてくれ。私たちをお救いください――と。


 静かに整った水面は、恐怖と絶望に歪んだ顔をただ映していた。


   挿絵(By みてみん)


 そして、私の呼びかけに応えは、あった――だが、それは――


 ごぽり、と水底から浮かび上がる黒い泥の形で現れた。

 黒煙が広がるように、汚泥が清水を染め、穢していく。


「あ……あぁ……」


 その光景を目の当たりにして。私は理解してしまった。


 ――オルセイスは、終わる。


※※※※※


 精霊の泉は穢された。

 水面に浮かぶ黒いものは、泥ではない。煙でもない。


 ――あれは、浸し蝕むものだ。清らかであるはずのものを、清らかである理由ごと奪っていく。


 私は後ずさった。足が石畳に触れているのに、踏みしめた感覚が遅れてくる。

 体がここにあって、心だけが半歩ずつ置き去りになる。


「若君ッ! ご無事で!」


 背後から、金属の擦れる音と荒い息。振り向くと、兵士が二人、駆け込んできた。顔中に煤と汗。片方は頬が裂け、血が乾いて黒い線になっている。


「お探ししておりました! どうか、こちらに! 」


 私は答えられなかった。喉が動かない。泉の穢れが、舌の裏に張りついたみたいに言葉を奪う。


 兵士は私の視線の先を見て、ほんの一瞬、固まった。次の瞬間、迷いを潰すように叫ぶ。


「……戦場は城下に移っております——」


 言い切れず、唇を噛む。兵士の目は、私を見ているようで、私の背後の“何か”を見ている。


「御領主様が……お呼びです。民を退避させます。若君も、すぐに」


 退避。避難。――逃げる、という言葉を、彼は口にしなかった。

 口にした瞬間、崩れそうになることを知っている目だった。


「父が……?」


「はい。ご健在です。南門を解放し、外へ流す手配をしております。若君は、民の列へ。今ならば、まだ道が生きています!」


 まだ。そう、まだ。


 私は中庭から引き剥がされるように走った。石畳を踏む音が軽く、遠い。

 駆け下りる石段がはいつまでも続くように感じた。長い悪夢のように。


 城を出た後、一度だけ振り返った。

 オルセイスと都市国家連合の二つの旗が、風にはためいていた。

 まだここに居る、置いていかないでくれと叫んでいるように感じた。


 城下町の南側は、戦いの音と、悲鳴と怒号に溢れていた。

 それでも、城で感じたあの静けさに比べればまだ良い。まだ、生きている。

 門前の広場に築かれた陣に重臣、近衛、術師、そして父がいた。


 父は私を見ると、ほんのわずかに眉を下げた。

 叱責でも安堵でもない。ただ、何かを決めた時の目をしていた。


「アイオリス」


 名を呼ばれる。それだけで、胸の奥に溜まっていたものが押し上がる。

 泣き声になりそうな息を、私は歯で噛み殺した。


「民はペリエレスへ向かわせる。荷は最小。女子供を先に。門はここ一つに絞る」


 父は、言葉の端々に体温を乗せなかった。体温を乗せれば、命令が揺らぐからだ。

 揺らげば、列が乱れ、乱れれば、死ぬ。


「父上……父上も……」


 言い終わる前に、父は首を横に振った。


「私は残る」


 静かだった。静かすぎて、広間の空気が一瞬、凍った。


「あれらを壁の内側に押し留める。溢れれば退避の時間が消える。次は別の都市だ」


 重臣が一人、声を震わせた。


「領主様、それは——」


「この城は、この街の名は私と共にある」


 父は短く切り捨てた。決断は、既に血肉になっている。誰が何を言っても変わらない。


「この街の運命は、私が背負う。お前たちは民と共に行け。――アイオリス、お前もだ」


 私の肩に、父の手が置かれた。鎧越しの重さ。私はその重さを知っている。

 幼い頃、剣の稽古で膝を擦りむいた時も、馬から落ちた時も、父は同じ重さで私を立たせた。


 だが、今は違う。


 手は、私を立たせるためではない。

 押し出すための手だった。


「いつか、必ず、取り戻す日が来る。その日まで生きよ」


 父は言った。嘘だと分かっている声だった。嘘を、嘘として言う強さがそこにあった。

 誰もが嘘を必要とする。希望という名の、最後の梁を。


 私は喉の奥で音を殺し、ただ頷いた。頷くしかなかった。


 開いた門に、民が流れ込む。荷車、布袋、赤子、震える老人、泣き叫ぶ犬。

 誰もが、何かを抱えている。抱えたまま、捨てられないまま、捨てたくないまま、走る。


 私は列の外を歩いた。歩くのに、足が震えた。剣を持つ手が空っぽで、胸の中が冷えていく。

 兵士が道の両側に立ち、何度も怒鳴って、列を整え、止まる者を押し、転ぶ者を引き起こし、泣く子を抱えて前へ運ぶ。


 後ろで、鐘が鳴り続けた。

 警鐘ではない。弔鐘みたいに重い音だった。


 城壁の向こう、空が赤く割れていくのが見えた。裂け目が枝を伸ばす。

 光ではなく、闇の線が、空を引き裂きながら育つ。


 そして、城は、城の形をしたまま、黒い何かに抱かれ、沈んでいく。


 父の旗が見えた。城壁の上――あの背がそこにある気がした。

 隣に立つのは、臣下。近衛。術師。――この街を作ってきた人々。


 城塞の内側から黒煙が上がった。火を放ったのだ。災厄を焼き払うために。


 ――彼らは、最期までそこにいた。


 民の列が森へ吸い込まれる頃、城の方向から、獣とも人ともつかない遠吠えが上がった。

 歓声に似ていた。胃が反転しそうになる。


 誰かが祈った。知らない言葉で。知っている神ではない誰かに。


 私は振り向かなかった。

 振り向けば、歩けなくなる。歩けなくなれば、列が詰まる。

 詰まれば、後ろから押し潰される。押し潰されれば、赤子が死ぬ。


 私は前だけを見て歩いた。見ているのに、何も見えていなかった。


※※※※※


 それからの日々は、場所ではなく数でしか覚えていない。


 父が先触れを送っていたから、同盟に属する都市ペリエレスは私たちを追い返しはしなかった。

 だが、門扉を閉ざし、流民と化した私たちを城外に留め置いた。


 黒禍の穢れを伴っているかもしれないからだ。

 私たちの中から化け物と化す者が現れるのではないかと、彼らは城壁の上から恐怖の目で見ていた。


 潔白とされるまでに半月を要し、怪我人や病人の多くが命を落とした。

 人として死ねたことだけが彼らの救いだった。


 難民は同盟都市の各地へ散った。大きな都市は受け入れを誓うふりをして、門の外に仮の幕屋を張り、そこへ押し込んだ。小さな村は怯えて戸を閉め、施しのパンを投げるように渡した。


 家族は別々の都市へ。職人は手を求める街へ。老人は親戚を頼って別の門へ。誰もが、追い払われない場所を探して移り住む。移り住むという言葉は、あまりにも優しい。――漂着であり離散だった。


 私は、領主の息子だった。だった、という過去形が、口の中で鉄の味をした。


 ある夜、焚き火の前で、男が私を見つけた。目が赤い。酒の匂い。泣き腫らした顔。心の置き場のない顔だ。

 私も同じ顔をしていた。


「若様よぉ」


 そう呼ぶ声に、敬意はなかった。責めるための呼び方だった。


「あんたが、剣を学んだのは、何のためだ」


 私の返事を待たず、男は続けた。


「ご領主様は街に残った。ご立派だ。英雄様みてえだ。……けど、俺たちは何だ?

 犬みたいに追い立てられて、他所の門の外で泥水を啜って、ただ生き延びているだけだ」


 火が弾けた。火の粉が飛んだ。その小さな明るさが、男の顔を一瞬だけ照らし、次の瞬間、闇に戻す。


「あんたは、生きている。あんたは、ここにいる。……なぜだ。なぜ、あんたが生きていて、俺の子が死んだ?俺たちの代わりに戦って死ぬのが、あんた達の役目じゃないのかよ!」


 身勝手な言葉だとは思わない。真理だ。

 領主が民から税を徴収するのは、庇護の対価だ。

 守れぬ盾に、役目を果たさぬ剣に価値はない。


 刃になって飛んできた言葉を、私はただ受け止めるしかない。

 いや、私は受け止めきれなかった。心が血を流す。血とともに築きあげてきたものが失われていく。


「私は……」


 言いかけて、止まった。言い訳になる。何を言っても、言い訳になる。


 男の背後で、別の者が笑った。


「再建? 取り戻す? どうやってだ。領主の息子様は、今はただのお荷物だろ」


 お荷物。私はそれを否定できなかった。


 私は年若かった。剣を振るえると思っていた。守れると思っていた。

 ――何もできなかった。何一つ。


 ただ、逃げただけだ。


 父が命を賭して残してくれものを、その”時”を「未来」に変える術が私にはない。


 夜の冷え込みが骨の内側まで染みていく中、私は焚き火の光を見つめた。燃えているのに、温まらない。温かさは、私の中に横たわる”何か”に遮られていた。


 それの名前を、私はもう知っていた。


 黒禍。


 魔樹。


 深淵。


 そして――己の無力だ。


 私は唇を噛み、血の味がしないことに気づいて、ますます惨めになった。


 このままでは、私は生き残っただけの人間になる。守れなかった罪を抱えたまま、行き場を失くした民と共に朽ちていく。


 それだけは――耐えられなかった。


 私は剣を握り直した。

 握り直したのは、鋼ではない。自分の中の何かだ。


 取り戻す。再建する。救う。守る。


 その言葉が今は嘘でしかないなら、嘘を真実に変えるしかない。


 ――ある街で噂を聞いた。


 黒禍を殺すことが出来る武器があるのだという。

 神や精霊、魔法の力を借りずとも、殺し得る武器が。


 それは魔樹に、深淵にすら届くのだと。

 毒を以て毒を制す、穢れをその身に招く外法だとも聞いた。


 それを振るい続け、行き着く先は異形だとも。


 構わない、と思った。


 神にも、精霊にも頼らない。頼れない。

 いざという時、振るえぬ刃に意味は無い。

 助けを乞う声に応えられねば意味が無い。


 彼らが人を救わぬのなら、私がそれにならねばならない。

 この身を毒に浸して、あれらを殺す刃になれるなら――


 私はただ、深淵を殺す者となろう。


 私はその夜、難民の幕屋を抜けた。背後で誰かが私の名を呼んだ気がしたが、振り向かなかった。振り向けば、また”何もできない私”に戻る。


 二つの月が雲に隠れた、暗い夜だった。

 だが、あの空の裂け目の黒さとは違う。これは、まだこの世界の黒だ。


 私は歩く。歩いて、剣を学んだ意味を、これから作る。


 父が、オルセイスがくれた時を、ただの過去にしないために。

           挿絵(By みてみん)

<TIPS>

「穢れた直剣」

 忌まわしい汚泥に塗れた直剣

 刃は潰れ、切っ先は欠け、武器としての価値は低い


 それでも、刃がこの世を外れたなら

 この世ならざるものにだけは、届き得る


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