◆深淵殺しのアイオリス(前編) ★
木こり野郎ことアイオリス視点の過去の話になります。
私の故郷オルセイスは、石畳が朝露を吸い、白く高い壁が陽を返す城壁都市だった。
城の中庭には清水の湧く小さな泉があり、水の精霊が住まうとされていた。
オルセイスは都市国家連合に属し、その領主の家に生まれた私は、幼い頃より城で剣を習い、礼法を覚え、泉の精霊に祈りを捧げた。精霊と対面したことはなかったが、時折、そこに神秘を感じることがあった。
その頃の私は、いずれ父の跡を継ぎ、この街と共に生きていくのだと信じていた。
――全てが深淵に飲み込まれるまで。
※※※※※
この世界に最初の災厄がいつ現れたのかは分からない。
ただ、祖父がまだ剣を握る前から、既に「予兆」は始まっていたという。
どこからともなく現れる異形。黒い穢れを纏った、刃の通じない怪物。
それは原野や海、山脈や深い森の向こう――人の目の届かない場所から来た。
神や精霊の力を借りた魔法は通用した。厄介だが、まだ対処できた。
初めに「それ」を見つけた者は、地面に空いた「穴」だと思ったそうだ。
怪物はその周辺から現れ、穴は魔法で破壊できた。穴が消えれば、怪物は現れなくなる。
だから人は、穴を潰せば終わるのだと――思っていた。
穴はあちこちで見つかった。人の目の届かない場所に、ポツポツと発生していた。
その頃から、少しずつ、人の祈りに応えない神や精霊が出始めたという。
父の代になる頃には、それは「黒禍」と呼ばれ、国や都市を脅かす脅威と見なされた。
人々はそのために同盟を結び、有事に備えようとした。
――その脅威が、どのように、どこまで広がっているのかを知らぬままに。
※※※※※
オルセイスの地図には、城壁の外側にいくつかの小村と交易路の印が引かれている。
それらは食料と労働と税を運び、城壁の内側の平穏を支える血管のようなものだった。
予兆は、地図の外側から来た。
最初に消えたのは商隊だった。
街道沿いの宿が一つ、二つと空になり、次に、馬だけが戻ってきた。
荷車は引きちぎられ、革紐は黒い泥で固まり、馬の目だけが、何かを見たまま乾いていた。
生き残った御者は言葉を失っていた。喉は動くのに、声にならない。
呻きに混じって漏れたのは、たった一つの単語だけだった。
――黒禍。
領主館の広間で、父は重臣たちと顔を寄せ合った。私はまだ若く、本来会議に同席する資格などない。
だが領主の息子という肩書きは、時に年齢を踏み越えさせる。私は壁際に立ち、剣帯の重さを確かめながら、彼らの会話を聞いた。
「”芽”は、野営地の近くにあったと。丈は人と同程度。やはり、”枝葉”は見当たらなかったそうです」
「獣に襲われたそうです。二人、置いてきたらしく……」
「……既に異形化していると思った方がよろしいですな」
飛び交う言葉は黒禍に関するもの。座学で習った言葉が現実へと降りてくる感覚。
私は父の横顔を盗み見た。
私が受け継いだ金の髪と青い瞳。皺と傷跡の刻まれた威厳ある顔。
父は動揺を見せず、ただ静かに顎に手をやり、次の手を選んでいた。
この街の平穏は、父の冷静さの上に載っている。私はそう信じていた。
「魔術師を三名連れて行け。祝福の槍の持ち出しを許可する」
「承知しました」「すでに手配を」「招集、鐘を鳴らせ」
討伐部隊はすぐに出立した。
斥候が森を巡り、術師が地の気配を嗅ぎ、種を見つければ魔法で潰す。
怪物には普通の剣や槍は致命の一撃とはならないという。
だが、足止めと壁にはなる。その間に魔法で焼き、滅ぼす。
神や精霊の加護の宿った武器であれば仕留めることもできる。
――そのはずだった。
討伐部隊は予定より早く戻ってきた。
戻ってきた、と呼んでいいのか分からない形で。
城門の前に現れたのは、馬が一頭と担架が二つ。
担架の上には、鎧の形をした黒い塊が載っていた。
金具は歪み、革は溶け、内側にあるはずの“誰か”は、もう輪郭を持っていない。
術師の一人だけが自分の足で歩いていた。だが、その瞳は焦点を結んでいない。
口元は何度も何かを呟こうとして、声にならない息が漏れるだけだった。
彼は私を見て、笑ったような、泣いたような顔をした。
「あぁ――空が、空が割れて……」
それきり膝から崩れ落ちた。
父はその場で命じた。門を閉じ、兵を集めろ。鐘を鳴らせ。
――そして私を、見るなと言うように、城壁の内側へ押し戻した。
しかし私は見てしまった。
担架の下、地面に落ちた黒い泥。濡れているのに光を吸う。
触れた場所が土であることを忘れたように色を失い、崩れる。
あれは、ただの汚れではない。
黒禍だ。
※※※※※
数日後、新たに送り出した斥候は半数が戻らない。
戻ってきた者は、口を閉ざした。閉ざすというより、言葉がその者の中から抜け落ちた。
父は焦らなかった。少なくとも表には出さなかった。
重臣たちを集め、備蓄を計算し、城壁の補修を命じ、術師を増やし、祈りの儀式を重ねた。
城の泉にも、より多くの供物が捧げられた。
私も祈った。幼い頃の癖で泉の縁に膝をつき、手を合わせた。
だが、その夜――泉は何も応えなかった。
水面は静かなまま、ただ冷たく澄んでいるだけだった。
——そこに「いる」はずのものが、いない。
その不在が、夜闇をなお暗く感じさせた。
「……泉の精霊よ。どうか……」
声が掠れた。私の祈りが足りないのか。捧げ物が足りないのか。
それとも……私たちは既に見放されていたのか。
その問いに答えるように、遠くで鐘が鳴った。
警鐘だ。城壁の外側――森の方角から。
※※※※※
黒禍は夜と共に訪れた。
人とも獣ともつかない歪な姿、奇妙な動きで迫ってくる。
灯火の輪の外側で兵が呻く声が聞こえた。弓が放たれ、矢が吸い込まれる。
槍が突き出され、突いたはずの相手が”そこにいない”みたいにすり抜けた。
悲鳴が上がり、次の瞬間、その悲鳴が獣の唸り声に変わった。
私は剣を抜いて走った。父に止められたが、止まれなかった。
領主の息子である前に、私は剣を振るう一人の兵士のつもりだった。
城壁の上から見えたものは、戦ではなかった。
闇の中に、闇より黒いものが蠢いている。
人の形をしているようで、人ではない。獣のようで、獣でもない。
矢は通らない。炎は効く。
だが、効いても倒れない。倒れたものが、また立ち上がる。
私たちとは異なる理屈で動いているのだとでも言うように。
術師が叫び、光の槍を放った。眩い一撃が黒を貫き、そこだけが白く裂けた。
効いている。確かに効いた。歓声が上がる。
――だからこそ、獣は理解した。自分たちを殺し得るものが何かを。
大小の獣の群れが術師へ殺到した。
術師は魔法を放つが爪に裂かれ、黒い泥を浴びせられて悲鳴を上げた。
傷ついた腕が黒く染まり、指が関節の数を増やし、骨が外へ突き出る。
彼は自分の手を見て泣きながら笑い、次の瞬間、城壁から身を投げた。
私は胃の底が冷えるのを感じた。
これが黒禍との戦いなのか。
獣はこちらを向いた。
私は剣で必死に応戦した。肢を、頭を。斬りつけ、刺し、払う。
切っ先に黒い粘液がへばり付く、獣は倒れない。
肉を断ち、骨を砕く感触が無い、刃が効いていない。
術師の末路が、あの泣き笑いの顔が浮かんできて、喉の奥がひきつる。
「あああああああぁぁっ!!」
叫び、恐怖を呼気と共に吐き出す。
不揃いの四肢で跳躍した獣。その顔面目掛けて剣を振るう。
刃筋を立てるのではなく、剣の腹で鼻面を殴りつける。
柄を握る手に、重さを、感じた。
振り上げた姿勢から、強く踏み込み、力任せに斬り下ろす。
獣が地に墜ちる。汚泥のような黒い粘液が石の床に落ちて、ジュ、と音を立てる。
そんなことを気にしている余裕などなかった。
すかさず、剣を振り上げ、即座に振り下ろした。衝突。衝撃。手が痺れる。
しかし、決して立ち上がる隙を与えるわけにはいかない。
繰り返し、繰り返し、斬撃と、打突を浴びせ続けた。
「――はぁ、はぁ、はぁ……っ」
気が付くと、獣は動かなくなっていた。
私の持つ剣は刀身が真っ黒に染まっていた。
鍛鉄の表に奇妙なものが見えた。薄っすらと張り付く血管のようなもの。
肩で息をする揺れとは別に、刀身に浮かんだその管がピクリと蠢いた。
「うわぁ!?」
私が剣を放り出したその時、父が城壁の上で叫んだ。
「退け! 門を閉じろ! 内側へ入れるな! 火を――火を絶やすな!」
命令は正しかった。だが正しいだけでは、間に合わなかった。
門前で兵が踏ん張る。その足元の影が黒く滲んだ。
影が影のまま立ち上がり、兵の背に絡みつき、首に巻きつき、引きずり倒す。
倒れた兵の口から、黒い泡が溢れた。
私は取り落した剣に目を向けた。
黒い泥に汚れた刀身には、確かに血管のような不気味な筋が走っていた。
だが、脈動したりはしていない。見間違いだったのか?
だとしても、もう、その剣を使う気にはなれず、誰かの落した槍を拾い上げた。
元の持ち主がどこでどうなっているか、考えたくもない。
柄を握り締める。腕が震えた。恐怖ではない、と自分に言い聞かせた。
これは怒りだ。怒りだから震えるのだ。――そう思いたかった。
しかし、その怒りさえ何に向ければいいのか分からず、私は闇雲に駆け回り、武器を振り回した。
※※※※※
ぴちゃん、と小さな水音が聞こえて。
私は城の中庭、泉の傍らで目を覚ました。
夜が明けていた。寒さに身が軋む。
頬に手で触れると朝露に濡れていた。
周囲は異様に静まり返っている。
脇には穂先を失った槍が落ちていた。
黒い汚泥が柄にこびり付いていた。無我夢中で振り回した記憶はある。
だが、戦うためだったのか、逃げ回るためだったかも定かではない。
城が静かになったのは勝ったからではなかった。
静かになったのは、「生きて動くもの」が減っただけだった。
城壁はいまだ健在だった。
だが、その壁は最早、人を守るための姿をしていなかった。
脈動する黒い血管のようなものが走り、石壁が呼吸するように蠢いていた。
そして、森の方角。空に向かって伸びていく亀裂が見えた。
幹のように太い裂け目は枝分かれし、ねじれ、広がっていく。
成長するたび空の傷口を広げ、樹のように育つ。
人は自分の知る言葉でしか形容できないから、あれを樹と呼ぶのだ。
魔樹――その名は、恐怖に形を与えるためのものだ。
名をつければ理解した気になれる。理解できないものほど、名を欲しがる。
だが、人があれをどう理解しようと、あれは世界を侵し、蝕む。
罅割れた空は、血と汚泥と廃油を混ぜた色をしていて、滲んで見えた。
私は口を押さえ、悲鳴を飲み込んで中庭へと駆けた。
清らかな泉を覗き込み、血を吐くような声で必死に呼びかけた。
精霊よ、どうか、どうか応えてくれ。私たちをお救いください――と。
静かに整った水面は、恐怖と絶望に歪んだ顔をただ映していた。
そして、私の呼びかけに応えは、あった――だが、それは――
ごぽり、と水底から浮かび上がる黒い泥の形で現れた。
黒煙が広がるように、汚泥が清水を染め、穢していく。
「あ……あぁ……」
その光景を目の当たりにして。私は理解してしまった。
――オルセイスは、終わる。
※※※※※
精霊の泉は穢された。
水面に浮かぶ黒いものは、泥ではない。煙でもない。
――あれは、浸し蝕むものだ。清らかであるはずのものを、清らかである理由ごと奪っていく。
私は後ずさった。足が石畳に触れているのに、踏みしめた感覚が遅れてくる。
体がここにあって、心だけが半歩ずつ置き去りになる。
「若君ッ! ご無事で!」
背後から、金属の擦れる音と荒い息。振り向くと、兵士が二人、駆け込んできた。顔中に煤と汗。片方は頬が裂け、血が乾いて黒い線になっている。
「お探ししておりました! どうか、こちらに! 」
私は答えられなかった。喉が動かない。泉の穢れが、舌の裏に張りついたみたいに言葉を奪う。
兵士は私の視線の先を見て、ほんの一瞬、固まった。次の瞬間、迷いを潰すように叫ぶ。
「……戦場は城下に移っております——」
言い切れず、唇を噛む。兵士の目は、私を見ているようで、私の背後の“何か”を見ている。
「御領主様が……お呼びです。民を退避させます。若君も、すぐに」
退避。避難。――逃げる、という言葉を、彼は口にしなかった。
口にした瞬間、崩れそうになることを知っている目だった。
「父が……?」
「はい。ご健在です。南門を解放し、外へ流す手配をしております。若君は、民の列へ。今ならば、まだ道が生きています!」
まだ。そう、まだ。
私は中庭から引き剥がされるように走った。石畳を踏む音が軽く、遠い。
駆け下りる石段がはいつまでも続くように感じた。長い悪夢のように。
城を出た後、一度だけ振り返った。
オルセイスと都市国家連合の二つの旗が、風にはためいていた。
まだここに居る、置いていかないでくれと叫んでいるように感じた。
城下町の南側は、戦いの音と、悲鳴と怒号に溢れていた。
それでも、城で感じたあの静けさに比べればまだ良い。まだ、生きている。
門前の広場に築かれた陣に重臣、近衛、術師、そして父がいた。
父は私を見ると、ほんのわずかに眉を下げた。
叱責でも安堵でもない。ただ、何かを決めた時の目をしていた。
「アイオリス」
名を呼ばれる。それだけで、胸の奥に溜まっていたものが押し上がる。
泣き声になりそうな息を、私は歯で噛み殺した。
「民はペリエレスへ向かわせる。荷は最小。女子供を先に。門はここ一つに絞る」
父は、言葉の端々に体温を乗せなかった。体温を乗せれば、命令が揺らぐからだ。
揺らげば、列が乱れ、乱れれば、死ぬ。
「父上……父上も……」
言い終わる前に、父は首を横に振った。
「私は残る」
静かだった。静かすぎて、広間の空気が一瞬、凍った。
「あれらを壁の内側に押し留める。溢れれば退避の時間が消える。次は別の都市だ」
重臣が一人、声を震わせた。
「領主様、それは——」
「この城は、この街の名は私と共にある」
父は短く切り捨てた。決断は、既に血肉になっている。誰が何を言っても変わらない。
「この街の運命は、私が背負う。お前たちは民と共に行け。――アイオリス、お前もだ」
私の肩に、父の手が置かれた。鎧越しの重さ。私はその重さを知っている。
幼い頃、剣の稽古で膝を擦りむいた時も、馬から落ちた時も、父は同じ重さで私を立たせた。
だが、今は違う。
手は、私を立たせるためではない。
押し出すための手だった。
「いつか、必ず、取り戻す日が来る。その日まで生きよ」
父は言った。嘘だと分かっている声だった。嘘を、嘘として言う強さがそこにあった。
誰もが嘘を必要とする。希望という名の、最後の梁を。
私は喉の奥で音を殺し、ただ頷いた。頷くしかなかった。
開いた門に、民が流れ込む。荷車、布袋、赤子、震える老人、泣き叫ぶ犬。
誰もが、何かを抱えている。抱えたまま、捨てられないまま、捨てたくないまま、走る。
私は列の外を歩いた。歩くのに、足が震えた。剣を持つ手が空っぽで、胸の中が冷えていく。
兵士が道の両側に立ち、何度も怒鳴って、列を整え、止まる者を押し、転ぶ者を引き起こし、泣く子を抱えて前へ運ぶ。
後ろで、鐘が鳴り続けた。
警鐘ではない。弔鐘みたいに重い音だった。
城壁の向こう、空が赤く割れていくのが見えた。裂け目が枝を伸ばす。
光ではなく、闇の線が、空を引き裂きながら育つ。
そして、城は、城の形をしたまま、黒い何かに抱かれ、沈んでいく。
父の旗が見えた。城壁の上――あの背がそこにある気がした。
隣に立つのは、臣下。近衛。術師。――この街を作ってきた人々。
城塞の内側から黒煙が上がった。火を放ったのだ。災厄を焼き払うために。
――彼らは、最期までそこにいた。
民の列が森へ吸い込まれる頃、城の方向から、獣とも人ともつかない遠吠えが上がった。
歓声に似ていた。胃が反転しそうになる。
誰かが祈った。知らない言葉で。知っている神ではない誰かに。
私は振り向かなかった。
振り向けば、歩けなくなる。歩けなくなれば、列が詰まる。
詰まれば、後ろから押し潰される。押し潰されれば、赤子が死ぬ。
私は前だけを見て歩いた。見ているのに、何も見えていなかった。
※※※※※
それからの日々は、場所ではなく数でしか覚えていない。
父が先触れを送っていたから、同盟に属する都市ペリエレスは私たちを追い返しはしなかった。
だが、門扉を閉ざし、流民と化した私たちを城外に留め置いた。
黒禍の穢れを伴っているかもしれないからだ。
私たちの中から化け物と化す者が現れるのではないかと、彼らは城壁の上から恐怖の目で見ていた。
潔白とされるまでに半月を要し、怪我人や病人の多くが命を落とした。
人として死ねたことだけが彼らの救いだった。
難民は同盟都市の各地へ散った。大きな都市は受け入れを誓うふりをして、門の外に仮の幕屋を張り、そこへ押し込んだ。小さな村は怯えて戸を閉め、施しのパンを投げるように渡した。
家族は別々の都市へ。職人は手を求める街へ。老人は親戚を頼って別の門へ。誰もが、追い払われない場所を探して移り住む。移り住むという言葉は、あまりにも優しい。――漂着であり離散だった。
私は、領主の息子だった。だった、という過去形が、口の中で鉄の味をした。
ある夜、焚き火の前で、男が私を見つけた。目が赤い。酒の匂い。泣き腫らした顔。心の置き場のない顔だ。
私も同じ顔をしていた。
「若様よぉ」
そう呼ぶ声に、敬意はなかった。責めるための呼び方だった。
「あんたが、剣を学んだのは、何のためだ」
私の返事を待たず、男は続けた。
「ご領主様は街に残った。ご立派だ。英雄様みてえだ。……けど、俺たちは何だ?
犬みたいに追い立てられて、他所の門の外で泥水を啜って、ただ生き延びているだけだ」
火が弾けた。火の粉が飛んだ。その小さな明るさが、男の顔を一瞬だけ照らし、次の瞬間、闇に戻す。
「あんたは、生きている。あんたは、ここにいる。……なぜだ。なぜ、あんたが生きていて、俺の子が死んだ?俺たちの代わりに戦って死ぬのが、あんた達の役目じゃないのかよ!」
身勝手な言葉だとは思わない。真理だ。
領主が民から税を徴収するのは、庇護の対価だ。
守れぬ盾に、役目を果たさぬ剣に価値はない。
刃になって飛んできた言葉を、私はただ受け止めるしかない。
いや、私は受け止めきれなかった。心が血を流す。血とともに築きあげてきたものが失われていく。
「私は……」
言いかけて、止まった。言い訳になる。何を言っても、言い訳になる。
男の背後で、別の者が笑った。
「再建? 取り戻す? どうやってだ。領主の息子様は、今はただのお荷物だろ」
お荷物。私はそれを否定できなかった。
私は年若かった。剣を振るえると思っていた。守れると思っていた。
――何もできなかった。何一つ。
ただ、逃げただけだ。
父が命を賭して残してくれものを、その”時”を「未来」に変える術が私にはない。
夜の冷え込みが骨の内側まで染みていく中、私は焚き火の光を見つめた。燃えているのに、温まらない。温かさは、私の中に横たわる”何か”に遮られていた。
それの名前を、私はもう知っていた。
黒禍。
魔樹。
深淵。
そして――己の無力だ。
私は唇を噛み、血の味がしないことに気づいて、ますます惨めになった。
このままでは、私は生き残っただけの人間になる。守れなかった罪を抱えたまま、行き場を失くした民と共に朽ちていく。
それだけは――耐えられなかった。
私は剣を握り直した。
握り直したのは、鋼ではない。自分の中の何かだ。
取り戻す。再建する。救う。守る。
その言葉が今は嘘でしかないなら、嘘を真実に変えるしかない。
――ある街で噂を聞いた。
黒禍を殺すことが出来る武器があるのだという。
神や精霊、魔法の力を借りずとも、殺し得る武器が。
それは魔樹に、深淵にすら届くのだと。
毒を以て毒を制す、穢れをその身に招く外法だとも聞いた。
それを振るい続け、行き着く先は異形だとも。
構わない、と思った。
神にも、精霊にも頼らない。頼れない。
いざという時、振るえぬ刃に意味は無い。
助けを乞う声に応えられねば意味が無い。
彼らが人を救わぬのなら、私がそれにならねばならない。
この身を毒に浸して、あれらを殺す刃になれるなら――
私はただ、深淵を殺す者となろう。
私はその夜、難民の幕屋を抜けた。背後で誰かが私の名を呼んだ気がしたが、振り向かなかった。振り向けば、また”何もできない私”に戻る。
二つの月が雲に隠れた、暗い夜だった。
だが、あの空の裂け目の黒さとは違う。これは、まだこの世界の黒だ。
私は歩く。歩いて、剣を学んだ意味を、これから作る。
父が、オルセイスがくれた時を、ただの過去にしないために。




