〇◆ひろがって、ふえる ★
それから、俺の恐怖の日々が続いた。
木こり野郎は今までも毎日来ていたわけじゃなかった。突然押し掛けてくるから心の準備ができない。
祈りも同じだった。
日に何度か届く時もあれば、何日も来ないこともある。
俺の都合を察して配慮しろって言ったよなぁ、ゴルァ!(言ってない)
既読スルーも試した。黙る時もあったが、だいたいは――続く。
怖いのは、聞いてて気が滅入るからじゃない。
むしろ“湧いてくる”方だ。名前を呼ばれて、増えるのが嬉しいと思ってる俺がいる。何それ怖すぎ。スパチャで価値観ブッ壊れるやつじゃん。
ぶっちゃけ浄化は、俺にとってそんなに疲れる行為じゃない。
だから、あれこれ考えずに早く済ませたい一心で、着信、即、浄化。半ば無意識で浄化して、浄化して、浄化した。
うおおおン! 俺は水力浄水機だ!
ルーチンに落とし込むと、多少は心の余裕も戻る。
色々から目を逸らして趣味に没頭しつつ日々を過ごし――そのうち、やっと湧水も落ち着いてきた。
ただ、今まで畔だった場所はもう俺の底になった。
木こり野郎が跪いてた辺りを小魚がスイーッと泳いでいる。
あの日、鹿もどきを浄化するのに湿地にした周辺一帯も、全部、俺。
ダム湖の底に沈んで失われた風景、みたいなものを感じる。沈めてんのも俺だが。
今の俺の広さは、八畳間、改め――うん、わかんね。
中高の頃の教室くらい? あれって何畳だ……?
(もう泉っていうか池じゃね? 泉ってなんだ……? 俺だ)
急拡張のせいで森の地形が崩れたり、小川が勝手にできたり、みたいなのは今のところない。
今のところ地盤は安定してるっぽい。
……つまり、俺の牢屋はワンルームから、大広間の牢屋になっただけだった。
畜生が。
※※※※※
ふと、森の方からざわざわと音が響いてきた。
(……ん?)
最初は木こり野郎かと思った。けど足音が違う。もっと多い。
枝を払う音。荷が揺れる音。金具の音。湿った土を踏む人の足。それが不規則に、雑多に混じり合っている。
俺は反射的に身を潜めた。
水面の波を殺す。泡を沈める。水草の揺れすら止める。泉としての呼吸を止める感じ。
(俺は水。ただの綺麗な水たまりだ――)
見つかったら終わる、という根拠のない確信だけが背中を押してくる。
木々の間から、人が出てきた。
――五、六人。いや、もっといる。人の数ってだけで目が泳ぐ。
肩に担いだ板。縄で縛った丸太。背負子に釘や金具の箱。
腕は太く、手は固い。顔つきが「仕事」の人間だ。ガテン系。
しかも男、男、男。むさ苦しい。
(なんだこいつら……どっから来た? 何をしに?)
この森の泉、木こり野郎が来るまで人っ子一人来なかった。
そんな場所に、偶然この人数が来るわけがない。
連中は泉を見て、いったん立ち止まった。
見回して、もう一度見回す。互いに何か言い合う。顔には戸惑いが混じってる。
「□□□、□□□□?」
「□□□□……□□□□□?」
言葉は分からない。
分からないが、男の一人が地図みたいなものを取り出した瞬間、確信した。
知ってて来た。偶然じゃない。
そして――こいつらは見るからに大工。
目の前には、風光明媚で澄みきった美しすぎる泉こと俺。
(……別荘!……俺の畔に別荘を建てようとしている奴がいる!)
※※※※※
俺は水面の下で、じわ、と沈んだ。沈んだのは水じゃない。心だ。陰キャ心が泥みたいに底でのたくった。
生活のためじゃない。こんな辺鄙な場所に“本宅”は建てない。
つまり――金持ちの道楽。俺を景色にして、俺を消費するやつ。
(はぁ~? 俺の泉はてめえらのステータスじゃねえんだ、ふざけんなよ)
反射で僻みがこじれた。こじれにこじれた。
よし。邪魔してやろう。
姿は見せない。見せたら負けだ。ロクなことにならない。
存在を明かさず、陰湿に、しかし小賢しく。怖がらせて帰らせる。
――まず、軽いジャブ。
道具を下ろし始めた瞬間、水面の端っこだけ、ちょい、と揺らす。ぱしゃ。
濡れた土が靴に貼りついて、誰かが小さく声を上げた。
よし。異変に気づけ。
……ところが、連中は逃げない。泉を見て、互いに頷き合って――
(やめろ、やめろ、やめろ)
案の定、誰かが両手を胸の前に寄せた。帽子を取るやつ、片膝をつくやつ。
そして口が動く。
「□□□□……」
「□□□□□……」
(お前らも拝むのかよぉぉ!!)
違うだろ。そこはヒソヒソ不安になれよ。なんで作業前に祈りを挟むんだよ。
次。第二弾。
今度は“嫌な湿り気”だ。雨も降ってないのに工具が濡れてる、みたいなやつ。
水フィギュアを影に忍ばせて、工具箱の隙間をびしゃびしゃにしてやる。地面に濡れ跡も残す。
(気味悪いだろ? 現場、変だろ? 帰れ?)
……しかし反応は、最悪の方向に転がった。
濡れた工具を“捧げ持つ”みたいに取り出して、泉を見て、また拝む。
「□□□□……!」
「□□□□□□……!」
(直筆サインでも貰ったみたいな顔すんな!!)
第三弾。もうこうなったら、はっきりわかる怪異を起こすしかねえ。
水面の中央に、手の形をした水フィギュアを作って、にゅ、と出す。
掌を広げる。指をくい、と曲げる。ほら、怖いだろ。未知だろ。不気味だろ。
……連中は、一歩下がった。
よし。
よし……?
下がった、そのあと、膝をついた。
(跪くな!! 祈るな!!)
悟った。こいつらに妨害は効かない。
むしろ、やればやるほど“ありがたがられる”。
(最悪だ……俺の嫌がらせが燃料になってる……木こり野郎の同類かよ)
連中は結局、作業を始めた。
俺が濡らした道具は、妙に丁寧に台に置かれ、予備が出てきた。現場は強い。合理が強い。
……で、よく見れば材料が少ない。家を建てる量じゃない。
木を切る気配もない。迷いのない段取りで、杭を打ち、紐を張り、水平を取る。
形が立ち上がっていく。
泉に向けて正面を作る。
高床の台座。祭壇みたいな構造。生活の匂いがない。
(これ……お社、じゃね?)
別荘じゃなかった。
最初から祈りの場だ。こいつらは、俺が“いる”前提で来ている。
そして、その前提を用意できるやつ――
(木こり野郎、絶対お前だろ、これ! 余計なことしかしねえなぁオイ!)
腹が立つ。腹はないが腹が立つ。噴水をぶち上げそうになったが我慢。
……ただ。
作業してる連中を見ていると、変なところで冷静になれた。
こいつら、仕事が丁寧だ。材料も道具も粗雑に扱わない。
泉を汚そうともしない。職人の顔をしている。
(……プロだ)
社畜精神が疼く。
職場で、現場で、役職は低くても本物の知識や技術を持ってる人がいる。
理不尽な要求や叱責ばかりの上司と違って、彼らは尊敬できる人だ。
ああいう人がいるから仕事がかろうじて回ってた。
俺もあんな風に――いつも死にそうな顔色を思い出す。
(いや、なりたくねえわ)
……うん、こいつらは悪くない。現場の人間は、必死にやってんだ。
仕様が悪い。発注元の気まぐれが悪い。つまり、大体、上流が諸悪の根源。
俺は水面を、ほんの少しだけ落ち着かせた。
妨害はやめる。どうせ発注元が諦めないなら、現場は続く。
上からの無茶な要求、二転三転する仕様、早まる納期――いやな渦が砂利を巻き上げる。
(文句は木こり野郎に全部ぶつけよう。お前だけは許さん、絶対にだ)
俺は気持ちを整理して、妨害工作から観察に切り替える。
すると、ふつふつと興味が湧いてくる。
この世界の建築って、どういう組み方なんだ。釘はどの程度貴重なんだ。
継ぎ手はあるのか。防水処理は――。
(……興味、出てきたな)
トンテンカン、という自然じゃない音が森に響く。
音が鳴るたび、形が整っていくのが小気味いい。
いつしか俺は、作業音と手順に聞き入りながら、むさ苦しい大工たちの仕事を、黙って見守っていた。
◆◆◆◆◆
とある泉の畔に、社を建立して欲しい。
最初に話が来た時、親方は渋い顔をした。
辺境だ。森の奥だ。
最近、どこかで魔樹が見つかって、伐られたって噂を聞いた。
救いだっていう奴もいるが、絶望がそこらに転がってるってことでもある。
人が踏み入っていない場所には、禍いが潜んでいるかもしれない。
――行きたくない、が本音だった。
だが、金が本音を殴って言うことを聞かせてくる。
潜んでいる恐怖より、見えている明日、明後日の生活だ。
「……あの旦那、正気かよ」
口ではそう言いながら、親方は結局、請けた。
大金。前金。材料もこちらで見繕っていい。釘も膠も、惜しむなと言われた。
泉の場所は聞いていた。地図も渡された。
「ここに清く澄んだ泉がある」「その泉には女神が住まう」
――あまりにも胡散臭い。正気の沙汰とは思えない。
半信半疑だった。
清らかな泉、高い山、深い森、神や精霊はそういった場所に住まう。
しかし、魔樹が現れるようになってから、神秘は遠ざかった。
仕事を請けさせるための誇張だろう。
そう思っていた。
……森を抜け、輝く泉をこの目で見るまでは。
枝を払って進むたび、空気の匂いが変わっていった。
湿り気があるのに、腐ってない。カビた臭い、土の匂いよりも水の気が強い。
冷えているのに、肌が粟立つ嫌さがない。むしろ逆だ。
胸の奥にこびり付いたヤニが洗い流されるような清浄な感覚。
「……おい」
誰かが小さく言って、足が止まった。
木々が開けた先に、そこがあった。
泉。
聞いていたより――広い。
小さな湧き口を囲む水溜まり、そんな想像は一息で崩れた。
畔は伸び、底は深く、澄みきった水が森の光をそのまま抱いている。
水面は鏡のように凪いでいた。
風が吹き、枝葉のざわめきが響いているというのに。
親方が、地図を見て、もう一度泉を見る。
紙が嘘をついてるように見えた。
嘘をついてるのは、むしろ自分の目の方だと分かるのに。
「……ここ、か」
誰かが唾を飲んだ。
それだけで音が汚れる気がして、皆、喉を鳴らすのを堪えた。
泉の周りだけ、奇妙に静かだった。
鳥が鳴かないとか、風がないとか、そういう話じゃない。
いる。ある。なのに――穢れたもの、騒がしいものが入ってこれない感じがした。
水際に降り立つ羽ばたきが離れていても聞こえてきた。
小鳥は何かを畏れるように水面にちょんと嘴をつけ、水を飲むと静かに飛び立った。
残したのは波紋一つだけ。それもすぐに収まった。
若い職人が気圧されたように、ごくりと喉を鳴らした。
腕っぷしも負けん気も強い荒くれ者が、徴税吏が前に立っている時みたいに大人しい。
それでも仕事だ。
板を下ろす。丸太を置く。箱を降ろす。手順が身体に染みついてるから、勝手に動く。
その瞬間だった。
ぱしゃ。
風はやんでいた。羽ばたきも聞こえてこない。だが、波が畔を濡らした。
ほんの指先で水を弾いた程度の音。だが、背筋の奥を撫でられたみたいに冷えた。
「今の……」
誰も言い切れない。言い切った瞬間、何かが確定してしまうのが怖い。
親方が、泉を見た。品定めの目じゃない。獣が罠を嗅ぎ分ける時の目に近い。
また、ぱしゃ、と小さく濡れた。
親方の隣の若い衆が、反射で帽子を取った。
誰かが片膝をついて、胸の前に手を寄せた。学も礼儀も知らない。
祈りの形なんて教わってないのに、身体が先にそれを作った。
「……」
声にならない音が喉の奥で潰れる。
その場にいる全員が、同じものに気圧されていた。
泉が、そこに「いる」。
荷を解き、材料と道具を分けて置く。
作業を始める。始めようとする。――だが神秘は続いた。
箱の蓋を開けた者が、硬直した。
中の金具が濡れている。工具が濡れている。水滴が縁を伝って落ちる。
「雨……降ったか?」
誰も頷けなかった。空は青い。葉は揺れていない。
なのに、箱の中の道具はしっとりと濡れて光っていた。
使い古された工具。
欠け、潰れ、ささくれ立った個所からは何度も錆が浮いていた。
その筈だった。
しかし、鉄は鋳造したての頃の輝きを取り戻していた。
傷の一つ一つに見覚えがある。確かに自分の道具だ。
だが、鉄が息を吹き返していた。
ありえないことだ。
若い衆が、震える手で槌を取り出した。
握る、ではなく、捧げ持つ。掌を返して、水滴が落ちないように慎重に。
そして、泉の方を見た。
恐れを抱いた顔だ。目が逸らせない。逃げるより先に、頭が下がる。
この場所は、ただ綺麗な水場じゃない。
黒い禍いが蔓延るこの世界で、これほど清浄が場所が在るということ、その理由を垣間見た。
――決定的だったのは、その次だ。
泉の中心で、水が盛り上がった。
泡じゃない。噴き上がりじゃない。形だ。形が、水から抜け出てくる。
嫋やかな手。
指のしなやかでやわらかな曲線。水でできているのに、生身より生々しい。
掌が開いて、ゆっくりとこちらへ向けられた。
拒絶でも、招きでもなく――そこに「いる」ことを示すだけの所作。
誰かが息を吸って、吐けなかった。
膝が折れる音が、いくつも重なった。
親方は、気づけば、額が土に触れていた。
自分が何をしているのか、遅れて理解した。
理解した瞬間、恥よりも先に、安心が来た。そうするのが正しい、と身体が言っている。
半信半疑だったはずの言葉が、今は重い。
その泉には女神が住まう。
いる。おられる――疑いようもない。
危険な辺境で、乗り気じゃなかった。
金に殴られて来ただけだ。あの旦那の顔も、金の匂いも、頭の中ではまだ生々しい。
でも、ここは違う。この場所には命や金を超えた神秘が息づいている。
自分たちは今、ただの大工じゃない。
釘を打つのも、柱を立てるのも。板を組むのも、ただの建築じゃない。
この場所の「伝説」に、手を入れる仕事だ。
それが恐ろしくて、誇らしくて、背中が熱くなった。
親方は土の匂いの中で、唇だけを動かした。
言葉は知らない。知らないから、せめて心の形だけを整える。
(……これが最期の仕事になったって構やしねえ)
誰かが、そっと顔を上げた。
泉は相変わらず澄んでいる。こちらを責めもしない。許しもしない。ただ、在る。
その在り方が、自分達が今この場に立っていることが「赦された」と感じた。
親方は立ち上がる。
仲間の目を見た。皆、同じ目をしている。顔つきが違う。
仕事の後に酒を飲むか、博打に興じることを考えている時とは別人だ。
真っ直ぐな目、逃げない目。仕事をする人間の目に、祈りの光が混ざっている。
「……やるぞ」
言った途端、声が震えた。
震えを誤魔化すために、親方は強く頷く。木槌を握る。
トン。
最初の一打が、森の静けさに沈んだ。
まるで、ここから物語が始まる音みたいに。




