EX(119.18).水面に影を結ぶもの ◇★
『――お前に似てんじゃねえの?』
イズミールは腹に手を添えたまま、何かに思い当たったようにこちらを見た。
つい先ほどまで迎えに行くと張り切っていたミュルナは、よく分かっていない顔でこちらを見る。
もしも、私自身がミュカレの立場にいたとしたら――
「……そうかもしれない」
『認めんの早っ。もうちょい考えろよ』
「考えた上で答えたつもりだが」
『いや、まぁ、お前はそうだろうけどさぁ……』
彼女は困ったように眉を下げ、それから自分の腹を撫でた。
ミュルナも真似して手を伸ばし、目を輝かせた。
ミュカレがまた、あの掌の向こうで動いたのだろうか。
彼女から離れたくないという、その気持ちは私にもよく分かる。
見えるところ、手の届くところに彼女がいるだけで安堵するし、別れて行動する時は行き先を知っておきたい。
戻ると分かっていても、姿が見えるまでは落ち着かない。
至極、当然のことだ。
まして、彼女の内で生まれ、声を聞き、いつでもその存在を感じていられるのなら。
そこから出たくないと願うのは、無理もないことだとすら思う。
けれど、それは本当に私だけに由来するものだろうか?
源流と混ざり、己を保てなくなりかけたあの時――
イズミールは最後に身を置く場所として、私の中を望んだ。
今、健やかに母の内を巡っているというミュカレとは、まるで事情が違う。
だが、大切な相手と最後まで共に在りたいと望む気持ちを、私も彼女から受け取っている。
『おい……何、笑ってんだよ』
「君にも似ているのだろうと思っていた」
『は? 俺?』
「ああ」
彼女は腹を見下ろし、もう一度私を見た。
『……そりゃ、俺の子でもあるわけだし、似たとこくらいあるだろうけどよ』
少し口を尖らせたが、それ以上は追及してこなかった。
今はあの子たちもいる。あの時のことは言わずにおいた方がいい。
イズミールは手を伸ばしてミュルナの髪をバシャバシャとかき混ぜ、そのまま隣に座り直させる。
撫でられたミュルナは、母の腕に嬉しそうに頬を寄せた。
貝殻を片づけていたミュリナが、ムッと口を結んで、反対側の腕へと駆け寄って縋り付く。
ミュシアがその後を追いかけて、膝の上に飛び込んだ。
あの子たちの考えだって、聞いてみて初めて分かることはまだまだ多い。
私とイズミールに似ているからといって、ミュカレの気持ちまで分かったつもりになるべきではない。
ただ、あの子なりに外へ出たくない理由があるのかもしれない。
そう考えると、返事のない呼びかけをただ続けていた時とは、少し違った気持ちで待てるように思えた。
※※※※※
『よし。ちょっとアプローチを変えるか』
ミュシアを膝へ乗せたイズミールが、私たちを見回した。
『今まで俺ら、「なんで出社しねえの?」「はよ出てこい」ってばっかだっただろ。
でも、ミュカレ側からしたら「なんで?」って話なんじゃねえのか?』
イズミールが膨らんでいない腹をぽんと叩いた。
『だって、ここにいればママ付き、姉ちゃん付き、家賃ゼロ、外敵ゼロ、水質最強だ。
どう考えても福利厚生が強すぎるんだろ。はー、俺ってば優良物件すぎるわ』
「自分を住処のように例えるのはどうなんだ」
『ここの水、全部俺なんだから似たようなもんだろが。
けど、俺の中と、湖の中は違う。おい、外に出たらどんな得がある?』
『ミュルナ! だっこする!』
『……いっしょに、あそぶ』
『しぁーと、エビごっこ!』
『そうそう。出てきたらこんなに楽しいぞって、教えてやれ。
おい、ショム、お前も当事者だからな? 裏方のつもりでサボろうったってそうはいかねえぞ』
『ミュルナ、ブチョー!』
『カチョー……いいかんじに、する』
『いっしょにひらひら~!』
『よし。何して遊ぶか、ミュカレに教えてやれ! プレゼンだ!』
『『『ミュ!』』』
元気よく答えたあの子たちは、さっそくミュカレと何をして遊ぶかを話し始めた。
「外でどのように過ごすのかを、君たちが教えるのだな」
『きこりやろうも! いっしょ!』
「ああ。私にもできることがあれば、手伝おう」
『甘い! プレゼンはバトルだ!
お前も何を言うかちゃんと考えとけよ?』
おどけた物言いだが、彼女の言わんとするところは分かる。
ミュカレはまだ、私に気を許してくれていない。
彼女なりに、私が輪に入りやすいよう計らってくれているのだろう。
「……分かっている。ありがとう」
『なら、ヨシ!』
イズミールは満足したように頷き、膝の上のミュシアを下ろした。
『引きこもってる神様を、外でどんちゃん騒ぎして釣り出す。
うちの国じゃメチャクチャ有名で由緒正しいやり方なんだぞ』
「君の故郷にも、出てこない神がいたのか」
『いたんだよ。天の岩戸に引き籠もった奴に、総出で追い込みをかける話で……。
まぁ、説明は後だ後! 今は我が家の引きこもり様の湖底デビューだ!』
その言葉を聞いたミュシアが、イズミールの腹を両手でぺちぺちと叩く。
『みゅかれさま~!』
ミュシアは声を上げて笑った。
何が可笑しかったのか、母の周りをくるりと回って、また同じところへ戻ってくる。
イズミールも笑いながら腹を撫で、あの子たちが思い思いに話すのを聞いていた。
※※※※※
最初に飛び出したのは、やはりミュルナだった。
砂地に立って両手を大きく広げ、ミュカレと何をして遊ぶのかを話し始める。
『ミュカレ! でてきたら、ミュルナがだっこする!』
『おう。まずそれだったな』
『およぐ! とぶ! ミュルナがいっぱいおしえる! カンケリもする!』
『全部お前がやりたいことじゃねえか?』
『おねえさんだから!』
『もう、お姉さんがただの万能フレーズになってんだよなぁ……』
呆れ顔のイズミールをよそに、ミュルナは屈んで砂地を叩いた。
『ミュルナが、おしえるの! ここに、カンおいて――』
『……カン、ない』
『ここに、あるの!』
何もない湖底を示す姉に、ミュリナはしばらく黙っていたが、やがて自分の持っていた貝殻を一枚、その場所へ置いた。
『じゃあ、これ、カン』
『そう! これ、カン! きこりやろう、オニ!』
「……私か?」
『ミュルナ、かくれる!』
『おーい待て待て。ルール説明すっ飛ばして始めようとすんな』
イズミールの声が届く頃には、ミュルナは私の外套の後ろへ回り込んでいた。
振り返ると、一緒に回って姿を隠そうとする。
外套の裾を掴む小さな手だけが、足元から見えたままだった。
『……そこ、オニのうしろ』
『いない! ミュルナ、ここにいない!』
ミュリナが静かに指摘すると、ミュルナは大声で言い返した。
「ミュルナ。これは、見つけてもよいのだろうか」
『いいに決まってんだろ。お前が隠れ場所になってどうすんだよ』
私が身を屈め、外套の陰を覗くと、ミュルナは顔を両手で覆った。
「ミュルナ、見つけた」
『ヤーッ! みつかったー!』
『しぁー、けるのぉ!』
その隙にミュシアが貝殻の前へ飛び出してくる。
蹴り上げられる前にミュリナが貝殻を拾い上げ、胸に抱いた。
『これ、ばぁばがくれた。だいじ。ほんとにけっちゃ、だめ』
『んみゃー!?』
わぁわぁと賑やかなあの子たちを見て、イズミールは水面を振り仰いだ。
『……何を見せようとしてたんだっけ、俺ら』
イズミールはそう言いながらも、腹へ置いた手を動かしていた。
『ミュカレ、聞こえてるかー。お前の姉ちゃんたち、だいたい毎日こんなんだぞ』
『ミュカレも、かくれる! ミュルナと!』
『……ミュリナが、みつける』
『しぁー! カンけって、たすけるの~!』
母の前へ集まりかけたミュルナが引き返し、今度は私の手を引いた。
『きこりやろうも、こっち』
「ああ」
あの子たちは、私がここにいることを少しも疑わない。
大好きな母の周りに場所を作り、私の手を引いてそこへ連れていこうとする。
初めて出会った頃には、こんなふうに手を預けてもらえる日が来るとは思わなかった。
今では、あの子たちのうち誰かがいないだけで、私はその姿を探してしまう。
ミュカレも、いつかこの手を取ってくれるだろうか。
そうあってほしいと願いながら、私はミュルナの隣へ座った。
『みゅーっ、みゅっみゅ、みゅーかれーっ!』
ミュシアが歌い始めると、ミュルナが立ち上がって手を広げた。
ミュリナも片手を繋がれ、引かれるままに歩き出す。
三人は手を繋いで輪を作り、湖底を離れると、ゆっくりと回り始めた。
水の衣の裾や長い髪が、水の動きに沿って広がっていく。
湖の底を、穏やかな水の流れと歌声が巡る。
『お、また動いてる。……お前、ほんとあの歌、好きだなぁ』
イズミールが腹へ話しかけていた。
ミュシアはそれを聞くと、いっそう大きな声で歌い出す。
『ミュカレ、いっしょ! こっちきて! おてて!』
ミュルナが繋いでいた片手を離し、水底の母へ向かって差し出した。
そのせいで回りながら輪が崩れ、三人はバラバラの方向に流されていった。
『みゅいーっ!?』
『ミュルナ……おばか』
『んみゃー』
私は近くを漂っていたミュリナの背を受け止め、足が下へ向くよう支えた。
『ん……ありがと』
「ああ」
ミュリナは私の膝へ手をついて姿勢を戻すと、流されて行った妹の方へ向かう。
ミュシアは水流に身を任せたまま、ミュカレの名を歌い続けていた。
ミュルナは遮二無二に泳いで戻ってくると、ミュカレのいる腹へ向かって手を振った。
今はまだ、あの呼び掛けに応える声はない。
けれど、イズミールの表情を見るかぎり、あの子たちの呼ぶ声は届いているのだろう。
※※※※※
あの子たちが再びイズミールの元に集まった。
『ほら、こいつら楽しそうだったろ。お前も、その気ならいつでも混ざれるんだからな』
イズミールは腹へ語りかけ、ミュシアの手を軽く握った。
『手ぇ繋いで。今みたいに一緒に歌ったり踊ったりしてみたくないか』
『みゅかれ、ここー!』
『おう。場所空けといてやってな』
ミュシアは素直に横へずれた。そこがミュカレの場所だと決めたらしく、空いた場所に近づくなと言わんばかりに両腕を広げてみせる。
イズミールはその様子を眺めてから、手を自分の腹へ戻した。
『……出てきたって、俺と離れちまうわけじゃねえよ』
いつものように軽い調子で言いかけ、彼女は少し口を閉じた。撫でる手つきが、ゆっくりになる。
『俺はここにいる。お前が出てきたら、俺が抱っこしてやる』
『ミュルナも!』
『おう。お前もな。……でも、最初くらい俺にさせろよ』
そう言ってミュルナの額を指で押すと、彼女はまた腹を見た。
『なあ、顔、見せろよ。お前がどんな顔してんのか、気になるだろ。
名前呼んで、こっち向いてくれたら嬉しいしさ』
私は、彼女の横顔から目を離せなかった。
腹の中にいる子へ声をかける時、イズミールはときどき、誰かに聞かれていることを忘れたような顔をする。
今も、照れ隠しの言葉を探さず、返事を待ちながら微笑んでいた。
ミュルナたちを腕へ迎える時に、幾度も見てきた顔だ。
もう、状況に流されて仕方がないから面倒をみているわけではない。
彼女は今、自ら選んだ末にこの幸せの中にいる。
それが何よりも嬉しかった。
『なあミュカレ、俺たちの話、分かってんのか?』
問いかけたまま、しばらく腹を眺めていたが、それ以上の変化はなかったらしい。
イズミールは小さく笑い、手を下ろした。
『まあ、聞いてるってんならいいや。俺は待ってるからな』
ミュルナが、私の隣へやって来て、外套の裾を掴んだ。
『ママとミュルナのあと、きこりやろうも、だっこしていいよ』
「そうか……ああ……楽しみだな」
『うん!』
頷いた頭を撫でると、ミュルナはその手に少しだけ身体を預けた。
イズミールが立ち上がったのは、ミュシアがまた踊り出した時だった。
勢いよく回ってくる小さな身体を両手で受け止め、向きを直して送り出す。
『あんまりはしゃぐと、またデカい渦が出来ちまうだろうが。
ミュリナ、ミュルナ、お前らで重りになってやんな』
イズミールに呼ばれたミュルナとミュリナはミュシアの両手を取り、今度は離さないように、しっかり手を握りながら踊り始める。
イズミールはそのまま私の方へ目を向けた。
『……で。最後、お前な』
「私の番か」
『お前だけ営業成績ゼロなんだからな。そろそろ一件取ってこい』
「仕事でやっているつもりはないのだが」
『うるせえ、うちはアットホームな職場なんだよ。俺が家で、俺が職場だ』
私が立ち上がると、イズミールは口元を緩めた。
『俺のこと、心の中まで追っかけて来た奴が、今更そんな顔してんなよ。
ひたすらしつこくて、重たくて、クソ真面目なのが、お前の取り柄だろうが』
彼女がこちらに向かって、拳を突き付けてきた。
『やってみせろよ、木こり野郎』
私自身、己の執着を度し難いと思うことがある。
彼女は、それを今さら直すべき欠点として扱わないでくれる。
そんな彼女だからこそ、私は何度でも溺れてしまうのだろう。
「……ああ」
私は外套の裾を払って、彼女の前へ立った。
※※※※※
イズミールは腹に手を添えたまま、そこを見下ろしていた。
さっきまで動いていた流れが静まったのかどうか、今度は聞かなかった。
ミュカレは、これまで私の声に答えてくれなかった。
それでも、イズミールが元気に動いていると教えてくれれば安堵した。
私への返事の有無で、この子への思いが変わるわけではない。
「ミュカレ」
呼ぶと、ミュシアたちの歌声が少し小さくなった。
「君がイズミールのそばにいたい気持ちは、私にも分かる。
私も、出来ることなら彼女から離れたくない」
『出来ることなら、ねえ?』
「……いつも傍にいたい」
『よろしい』
イズミールは少し顔を赤らめたが、目は逸らさなかった。
私が続きを話すのを待っている。
「姉たちは、君に会える日を楽しみにしている」
『ミュルナ、まってる』
『ミュリナも』
『おねーさん、なるのぉ!』
三つの声が添えられた。私は頷き、言葉を続けた。
「私もそうだ。君に会いたい。この手に抱いて、君が何を好むのか、何を嫌がるのか、君から教えてほしいと思っている」
イズミールの指が、腹の上で止まった。
私はその動きに目を留めたが、彼女が何も言わなかったので、もう少しだけ続けた。
「外へ出て来ても、君は決して一人にはならない。イズミールも、姉たちも、私もいる。
私は、君とイズミールを守りたい。皆が安心して暮らせるように、そばにいたい」
『……あ』
イズミールが腹へ両手を当てた。
『ミュカレ?』
呼びかける声が、先ほどまでと違った。
三人が一斉にこちらを向き、私も思わず半歩近づく。
「どうした」
『待て。なんか、今――』
言葉の途中で、彼女の掌の下で青白い光が淡く灯った。
「イズミール!」
『い、いや……大丈夫だ。俺はなんともねえんだけど。
あ……待った。これ、なんか出そうかも!? え? マジ? いま!?』
水色の衣の表面へ、小さな波紋が広がる。
そこから膨らんだ水が、彼女の手の間を抜け、前へと流れ出した。
私の声にも、応えてくれたのだろうか。
差し伸べかけた手を止め、その流れを見守った。
『おぉ……で、出ちゃったよ……産んだのか、これ……?』
イズミールも苦しんでいる様子はなく、離れていく水を掴もうとはしなかった。
その水が、周囲の湖水とは違う輪郭を持ち始めた。
丸く寄り集まったところから細い手足が伸び、二つの小さな足が湖底に触れる。
『ミュカレ! ミュカレ!』
ミュルナが声を上げた。
その間にも、揺れていた輪郭はさらに形を定めていく。
髪がふわりと広がり、左右に角が伸び、耳の位置でヒレが開いた。
そして、透き通った水の髪が、黒く染まった。
長い前髪の間から、青い瞳がこちらを向いた。
私は、身を動かすことも忘れていた。
黒。
その色を見た瞬間、深淵殺しだった頃から染みついた反射が先に立った。
だが、黒禍の気配はない。白い世界の中での黒いイズミールと同じだ。
イズミールの膝ほどの背丈の幼子が、私たちの間に立っている。
ミュルナたちのような透き通る水色ではなく、頬にも、衣から出た手にも、人に似た肌の色があった。
黒い上衣に、水色の帯。
見覚えがあった。
かつて私が身につけていた旅装を、幼い身体に合わせて縮めたような取り合わせだった。
けれど、長い髪に縁取られた頬や、目元の形には、妻の面影があった。
「……ミュカレ」
名を呼ぶと、その子は私から目を外し、後ろを振り返った。
イズミールが、立ったまま子を見下ろしていた。
伸ばした両手を途中で止め、唖然とした表情で固まっている。
「……ははうえ」
幼い声がした。
毎日、名を呼びながら待っていた声が、初めて私の耳へ届いた。
その言葉の意味を理解するより先に、もう一度聞きたいと思った。
ミュカレは母へ一歩寄り、その脚へ両手を伸ばした。水色の衣を掴んで顔を上げると、イズミールがようやく身を屈める。
『……お、おう。そ、そうだ。おっ、俺がお前の……は、ははうえ? だぞ』
髪へ触れる指が、少しだけためらった。
それから掌が幼い頭を包むと、ミュカレの目が細くなった。
『でてきた! ミュカレ、でてきた!』
『ミュカレ……いもうと……おとうと?』
『みゅーかれーっ! みゃー!』
母の傍らにいた三人が、身を乗り出した。
ミュカレは母の脚につかまったまま、声のする方を見た。
まだその場を離れようとはしなかったが、ヒレが小さく動き、三人の姿を追っている。
結んだ口が微かに緩んだ。
――ああ、ようやく、皆で顔を合わせられた。
イズミールがあの子たちへ笑いかけ、何か言おうとしていた。
その顔と、脚に寄り添う幼い子を見ているうちに、私の口元も緩んだ。
こんな日を共に迎えられた喜びを、彼女と分かち合いたかった。
イズミールの傍へ行き、この子を二人で覗き込みながら、もう一度その名を呼びたかった。
私は一歩踏み出し、イズミールとミュカレへ向けて手を差し出す。
「ミュカレ。私が君の――」
イズミールの衣を握っていた小さな手が離れる。
私の方へ来てくれるのかと思った。
だが、ミュカレは母から一歩前へ出ると、そのまま私とイズミールの間へ立った。
小さな両腕が、横へいっぱいに広がる。
『メー! ははうえは、ぼくがまもる』
踏み出しかけていた足を止めた。
母上。
ひどく懐かしい響きだった。
遠い昔に失い、二度と口にすることの叶わなくなった呼び名。
見上げてくる青い目は、イズミールの指に撫でられていた時とは違っていた。
眉を寄せ、口を固く結び、私が少しでも近づけば押し返そうとするように、掌をこちらへ向けている。
イズミールを守りたいと、私もつい今しがた口にしたばかりだ。
その同じ願いを、この子は私の前に立ちはだかって告げてきた。
『お、おい……ミュカレ?』
イズミールの声にも、振り返らなかった。
背後に母がいることを確かめるように、片足をわずかに後ろへ引き、小さな背を彼女の脚へ寄せる。
そして、私から目を逸らさずに言った。
『ちちうえ、ははうえをいじめる。わたさない!』
初めて「ちちうえ」と呼ばれた。
その呼び名を嬉しいと思う一方で、「いじめる」という一語だけが、胸の奥へ深く引っかかった。
かつて私は、彼女を求め続けることが、彼女に己の望みを強いることになってはいないかと疑っていた。
それはもう、答えを出したはずの問いだった。
だが、その古い疑いが今、私を「ちちうえ」と呼ぶ幼い声で、目の前へ返されていた。




