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◆聖アイオリスの巡行 ★

 街道に設けられた検問所は、昔なら税と盗賊のためにあった。

 今は違う。税はついでで、主目的は――黒い禍いを通さないためだ。


「次」


 木枠の門に吊られた鉄鈴が、風ではなく人の手で鳴る。

 徴税吏のヴァルターは、日が傾き始めた街道を眺めながら、喉の奥で唾を飲み込んだ。


 荷車の車輪が泥を噛む音。馬の鼻息。家族連れの泣き声。

 その雑多な生活音に耳を澄ませながら、彼はもうひとつの気配を嗅ぎ取ろうとする。


 黒禍の匂い。

 腐った油だと言う者もいる。濡れた皮、焦げた髪、血と蜜を煮詰めたようだと囁く者もいる。

 どれも違う。たぶん、どれにも似ている。言葉が追いつかない匂いだ。


「荷台、開けろ。布も外せ」


 命じると、男が渋々頷き、縄を解いた。荷は干し肉と麻布と、樽が三つ。

 樽の口は蝋で固められている。


「封蝋か。中身は?」


「油でさァ。灯の。匂いが漏れると、獣が寄ってくる」


 油。夜を越えるための命綱だ。

 獣や魚の脂を煮詰め、濾したものが広く用いられる。

 松明や篝火の火をより強く、長く持たせる。

 禍いは闇の向こうから人知れず這い寄ってくる。

 誰もがそんな恐れを抱きながら暮らすようになって、もう長い。


 ヴァルターは樽の側面を指で弾き、耳を寄せた。

 液体の鈍い揺れ。水より粘い。

 獣除けのための封蝋による密閉があってなお漂う生臭さ。正常だ。


 ここで終わるはずだった。

 次の旅人を見た瞬間、検問所の空気が一段冷えた。


 黒い。髪と瞳が黒い。肌も、土に煤を混ぜたようだ。

 この国に――いや、この世界に、その色を持つヒトは本来ない。


 それを纏うものは二つに一つだ。


 黒禍に喰われた異形。

 あるいは――深淵殺し。


 それは人類の守護者の呼び名であり、忌避の烙印でもある。

 魔を以て魔を制する者。黒禍を武器に宿して黒禍を斬る者。

 世の終焉に抗う刃であり、人の世に溶け込んだ毒でもある。


「……名を」


 ヴァルターの声は、我ながら乾いていた。


「――アイオリス」


 返ってきた声は、濁りがない。思慮深く、刃のように折れない。


 兵が槍の柄を握り締め、背が伸びる。物見櫓の弩兵が、矢筒の存在を思い出したように肩を固くした。

 規定通りだ。規定が役に立つ相手かどうかは、別として。


 旅人の背には長柄の戦斧。

 ヴァルターの視線が、そこで止まる。


(……違う)


 深淵殺しの武器なら、一目で分かる。

 無機物なのに血管みたいな筋が走り、黒い粘液が滲み、滴る。

 近づけば喉がひりつく。頭の芯がざらつく。


 しかし、男の戦斧にはそれがない。

 刃は銀に近い光を持ち、柄は使い込まれた木の色をしている。

 傷はあるが、穢れはない――むしろ、清浄さすら感じられる。


 深淵殺しが、深淵殺しの武器を持っていない。翼の無い鳥を見たような違和感。

 そして、何よりもあの名乗り。


「……アイオリス、だと……?」


 ヴァルターは掠れた声で反復し、一歩踏み出しそうになり、踏みとどまる。


 背後で、兵が小さく囁き合った。


「死んだはずじゃ……」

「……誰も帰らなかっただけだ……」


 その名に、列が再びざわつく。

 半年前、国ひとつを呑む深淵で消息を絶った英雄。

 死んだか、怪物になったか、自害したか。

 どれであってもおかしくない結末しか想像できなかった男。


 髪や瞳、肌が黒に染まっているのは深淵に触れた者の証だ。

 だが、それに留まらない肉体の変容こそが、深淵殺しの抱える宿業だ。


 アイオリスと名乗ったこの男には、黒化はあるが、異形ではない。


 偽者――そう考えるのが自然だ。それでも、ヴァルターの目は否と叫ぶ。

 偽りと不実を見抜いてきた、ただそれだけが頼りの目だ。


 だとすれば、彼は、アイオリスはその身の穢れを雪ぎ、人の世に舞い戻ってきたことになる。


 奇跡という言葉が思い浮かんだ。

 あまりにも安直で、捉えどころのない言葉。

 だが、目の前ある現実を、他の言葉で呼べなかった。


「き……貴殿は、本当にあの、アイオリス殿なのか……しかし、その姿は」


「我が女神の名に懸けて、偽りは口に出来ない」 


 答えに逡巡がない。

 逆に、問いかける側の喉が怯えている。


 兵が唾を飲む音が、やけに大きい。

 列の後ろから子どもが泣き、母親が口を塞いで黙らせる。


 男――黒い旅人は、検問所の内側へ一歩近づこうとし、そこで止まった。


 そして、胸元と腰に手を当てた。

 祈りの所作だ。


 腰にあるのは小さなガラス瓶。口元は茶色い蝋で固く覆われている。

 油瓶だろう――そう判断するには、妙に澄みすぎていた。

 中身は透き通って、空に見えるほどだ。


 男が瓶に触れる手つきは、武器を扱うもののそれではない。

 祭壇に触れる指先のように、慎重で、優しい。


「私は征かねばならない」


 黒い瞳がヴァルターを射抜く。殉教者のような真摯さと、断固たる意志。


「我が神は示された。この道を進み、この斧を以て穢れを断て、と」


 示された方角は関所の先――人跡の薄い原野と山々。

 そこに何があるのか、誰も知らない。知らないからこそ、喉が鳴る。


「……神、と仰られたか……貴殿は神の託宣を授かったと……?」


 アイオリスが然りと頷く。迷いのない顔。しかし、狂人には見えない。


 古き神々や大精霊が沈黙して久しい。

 祈りが届かないことこそが、終わりの予兆だと嘆く者もいる。

 なのにこの男は、まだ届いているのだと言う。

 

 ヴァルターは衝動に膝を折りそうになり、耐えた。

 門番は、跪いてはいけない。


「承知しました……御止め立てはいたしますまい」


「感謝を。今は多くを語れない」


 アイオリスは戦斧を掴み、石突を大地に据える。

 土を噛む重たい音。陽を拾う銀の刃。濡れたような輝き。


 目前で武器を示されても、誰も動けなかった。

 滝壺の前に立ったみたいに、冷たく澄んだ気配が立ち込めた――そう感じた者が、確かにいた。


「……ご武運を」


 ヴァルターの口が勝手にそう言った。


 アイオリスは深く頭を下げ、門の内側へ足を踏み入れる。


 その背に、兵の若者が声を投げた。


「どうか! 一つだけ! 御方の……神の御名を!」


 不躾な願い。礼儀など、畏れや渇きの前では足枷とはならなかった。


 アイオリスは立ち止まり、振り向いた。

 躊躇がなかった。拒むより先に、名が先にある者の顔だ。


「――イズミール」


 名が落ちた。

 水面に小石が沈むみたいに、静かな波紋だけを残して。


 その日、その場に、名だけが刻まれた。

 意味も由来も知らないまま――決して忘れられない形で。


 黒い英雄が去った後、誰かが小さく、その音を真似た。


「……イズ、ミール……」


 声は震えていた。

 けれど、その震えは恐怖だけではなかった。


 渇きが、希望の形を取りはじめる。

 その瞬間を、ヴァルターは目の当たりにした。


※※※※※


 二つの月が昇り始めると、夜の闇は駆けるよりも早くやってくる。

 関所の篝火は、闇に勝つためというより、闇に負けないふりをするために燃えていた。


 通過の列は途切れ、門の鉄鈴も黙り込んでいる。

 代わりに鳴るのは、風と、火の爆ぜる音と、見張りの足音だけだ。


 物見櫓の影で、若い兵――先刻、神の名を乞うた男――は、壁にもたれて膝を抱えていた。

 喉が渇いてた。乾きが引かない。水を飲んでも、何かがまだ足りない。


 掌を開く。

 矢筒の錆びた留め具に皮膚を切られた、指の腹が擦りむけている。

 血は止まっている。たいした傷じゃない。


 なのに。


 薄く黒ずんだ筋が、皮膚の下に一本――細く走っているように見えた。


 鏃にはわずかだが黒禍が浸してある。

 そうでなければ、深淵の異形には通用しないからだ。

 その効き目は深淵殺しの武器には遠く及ばない。

 だからこそ、身に生じる穢れも少なく済む――その筈だった。


 矢筒自体にまで浸蝕が及んでいたというのか。


「……」


 若い兵は、指先でその筋を撫でて、息を殺した。

 見張りが気づくような音は立てたくない。怖がっていることを見せるのは、恥だ。


 けれど、恐怖は恥より根深い。


 昼の黒い英雄。

 あの目。あの瓶。あの“澄みすぎた”静けさ。

 そして――落ちた名。


「……イズ、ミール……」


 口の中で転がすように呟くと、自分の声が自分の耳に変に響いた。

 言葉としての意味は分からないのに、音だけが妙に滑らかに喉を通る。


 若い兵は、震える手で傷口を押さえ、もう一度だけ、息と一緒に名を落とした。


「……イズミール」


 祈りの仕方など知らない。

 だから彼は、ただその名に縋った。


 その瞬間、痛みが引くというより、冷える感覚が走った。

 氷を当てたような冷たさではない。深い井戸の底に手を浸した時みたいな、澄んだ冷えだ。


 若い兵は息を呑み、指を離した。


 黒ずんだ筋は――そこにあるのか、ないのか、判別がつかない。

 痛みが引くというより、奥へ退いた。

 ざらつく不安も、一段だけ遠のいた――そんな気がした。


「……っ」


 喉の奥が、勝手に鳴った。

 笑いになりかけて、慌てて手で口を塞ぐ。泣き声みたいな音が漏れた。


 やめろ。

 誰かに見られたら、面倒なことになる。


 ――面倒なのは、分かっている。

 分かっているのに、胸の奥で何かがほどけるのが止まらない。渇きが、少しだけ満たされる。


 足音。


 彼は反射的に背筋を正し、立ち上がった。

 近づいてきたのは、徴税吏のヴァルターだった。火の粉の匂いをまとっている。見回りだ。


「まだ起きていたのか」


「はっ……」


 若い兵は敬礼の形を取りかけ、思い直して拳を胸に当てた。

 今夜は、それが一番自然な所作に思えた。


 ヴァルターの視線が、兵の手に落ちる。

 血の匂いに敏い職だ。傷があるのは隠せない。


「手を出せ」


「い、いえ、これは……」


「出せ」


 命令ではない。だが拒めない声だった。


 若い兵は掌を差し出した。

 ヴァルターは火明かりに透かすようにして見て、眉間を僅かに寄せた。


「……擦り傷だ。だが……」


 言いかけて、ヴァルターは口をつぐむ。

 黒禍の話を、軽々しく口にする癖は、ここでは誰も持たない。言葉が呼ぶものがある。


 若い兵の喉が勝手に動いた。

 止める前に、こぼれていた。


「……さっき……あの名を……」


 ヴァルターの目が細くなる。

 疑いではない。問いだ。確かめる目だ。門番の目。


「名?」


「……イズミール、です」


 口にした瞬間、空気が一段だけ薄くなった気がした。

 火が揺れた。風が抜けた。あるいは、ただの錯覚。


 ヴァルターは即座に叱責しなかった。

 代わりに、若い兵の掌を指先で軽く押し、傷口を確かめる。


「……鏃には触れていないな?」


「……は、はい、矢筒の留め具で……」


「痛みは?」


「……えっと、その……あの名を唱えたら、楽に……」


 自分でも馬鹿みたいだと思った。

 それでも、嘘ではない。恐怖の汗が引くのが分かった。


 ヴァルターはしばらく黙って、若い兵の顔を見た。

 そして、関所の暗がり――外の闇に目を向ける。


 彼は徴税吏であり、関所の番人だ。

 人は税を取り、通す、無法者と穢れは通さない。その為にいる。

 だが今日は、そのいずれでもない者を通した――いや、見送った。


 あの時、あの場で神秘に触れたと感じた者は少なくない。


「……その名は、軽々しく口にするな」


 低い声。叱責ではない。釘だ。


 若い兵は頷いた。頷くしかない。

 だが、その頷きの奥で、止められない未来が顔を覗かせていた。


 人は乾いている。

 痛みには耐えられるが、乾きは絶望と死を齎す。

 一度、潤いを知れば何度でも口にしようとするものだ。

 それが水ではなく、蜜であっても。毒であっても。


 あの男――アイオリスは何かを成し遂げる者の顔をしていた。

 彼が再びこの世にその名を轟かせる時、何が起こるか――


 若い兵士の顔を見た。

 刺された釘を魚の小骨くらいにしか思っていなそうな顔。


 もしアイオリスが望まなくても、あの場で刻まれた名は――渇いた者たちに望まれ、広まっていくだろう。


※※※※※


 「――見つけた」 


挿絵(By みてみん)


 旅路の果て、裁定者は己の使命を見つけた。

 恐れはない。清き泉と誓いの銀が共に在る。


※※※※※


 ある関所にて、知られざる神の名が世に刻まれてから数日後――


 人跡及ばぬ原野。空に向かって伸びる裂け目――深淵の魔樹が、根元から断ち斬られていた。

 幹は倒れない。倒れる代わりに、空へ縫い込まれるようにして「塞がって」ゆく。

 そこに在ってはいけないものが、世界によって埋め立てられる。


 深淵殺しの一団が、この地に魔樹があると突き止め、辿り着いた頃には――すでに、手遅れのはずのものが手遅れではなくなっていた。


 空に残る枝の広さ――亀裂の広がり――は、ぞっとさせられるほどのものだった。

 縦横無尽に走ったヒビから、空の欠片が落ちてきそうな光景。

 魔樹と向き合う度に根源的な恐怖を掻き立てられる。

 だが、その空の傷痕は徐々に薄れつつある。


 もし自分たちがこれほどの規模の魔樹に挑むことになっていたら。

 いったい、どれだけの犠牲が必要だったか。


 根元に、一人の男がいた。

 黒い髪。黒い瞳。だが、手にした戦斧は黒禍の穢れを纏っていない。

 ありえない――その感覚が、喉の奥で砂のように鳴った。


 男が振り返った。

 ありえないものが、もう一つそこにある。


 深淵殺しのアイオリス。――死んだはずの英雄が、そこにいた。

 それも、黒に染まりながら、なおも人の輪郭を保ったままで。


「あんた……アイオリス、なのか? けど、その姿は」


「あんたがこれをやったのか!? 独りで!?」


 問いが飛ぶ。声の調子が揃わない。怒鳴りに近い者もいれば、震えが混じる者もいる。

 誰もが、同じ一点を見ている。


 黒禍の武器が、ない。


 深淵殺しの一団が背負う刃は、どれも“向こう側”の血管を走らせ、黒い粘液を垂らしていた。

 鞘に納めていても匂う。触れれば指先が鈍る。視線を合わせただけで胸の奥がざらつく。


 身体だって、武器と同じだ。

 鱗の浮いた皮膚、増えた関節、歪んだ輪郭。

 ――それが深淵殺しとして生き延びる代償で、いずれ死に至る道だ。


 なのに、目の前の英雄は、まともな身体で清い銀の刃を握っている。


 矛盾が、一団の喉を締めた。


 隊の先頭に立つ男が、半歩前へ出る。

 鎧の継ぎ目から覗く皮膚は、黒い鱗が薄く浮き始めていた。深淵殺しとしては浅い。

 だが浅い者ほど、恐れの輪郭がはっきりしている。


「……答えろ。いや、答えてくれ。これは国崩し級だ。一人でどうにかできるはずがない」


「そんな武器で、どうやって――」


 言いかけた言葉が、喉で乾いて砕けた。


 アイオリスは、その問いに頷きも否定もしなかった。

 ただ一瞬、彼らの武器の纏う穢れに目を向けて――すぐに視線を逸らす。

 嫌悪ではない。痛みを見ないようにする目だ。


「……今は、多くを語れない」


 それだけ言って、背を向けた。


「おい!」


「待て、アイオリス!」


 呼び止める声に、英雄は足を止めない。

 まだ、用事が済んでいないという歩幅だった。討伐のあとの足取りではない。


 魔樹の根元に立つと、彼は腰に提げた瓶へ手を伸ばした。


 小ぶりなガラス瓶。口元は茶色い封蝋で固く塞がれ、割らぬ限り中身は零れない。

 中は透き通っている。空に見えるほど澄んでいる。

 陽の光を受けて、中身がわずかに揺れて煌めいて見えた。


「……水?」


 一団の誰かが、思わず呟く。

 それは灯りの油瓶に見える。旅人の腰にもぶら下がる、ありふれた形だ。


 だが、アイオリスがそれに触れる指先は、刃に触れる手つきではなかった。

 聖具に触れる手つきだった。

 熱を測るように、壊れものを撫でるように――慎重で、優しい。


 次いで、胸元へ手を当てる。

 それから、瓶を掌に包み込む。


 祈りの姿勢だった。

 言葉をかけることが躊躇われる真摯な姿。


 風が止んだ気がした。

 誰かが唾を飲む音だけが、やけに大きい。


「……イズミール――」


 吐息に混じる、短い名。


 一団の何人かが顔を見合わせた。今のを聞いた者と、聞けなかった者がいる。

 聞けた者も、確信は持てない。だが、胸の奥が勝手に反応する。


 渇いた場所に、水音が落ちたような――錯覚。


 次の瞬間。


 空が、動いた。


 風の向きが変わった。

 さっきまで頬に貼りついていた乾いた砂が、ふっと剥がれる。

 鼻の奥に居座っていた黒禍の匂いが、嗅ぎ慣れたはずの彼らの感覚から一拍遅れて逃げた。

 追いかけようとして、追いかけられない。


 魔樹の「幹」が、空へ溶けていく速度が目に見えて上がった。

 枝という枝、亀裂という亀裂が、縫い目をほどかれるようにほどけ、薄れ、消えていく。

 世界が、世界の側からそれを拒んでいる。異物を吐き戻している。


「……嘘だろ」


「……馬鹿な……なんだ、これは……?」


 誰かの声が裏返り、すぐに掻き消えた。

 音が出るより先に、喉が固まる。


 深淵殺しは知っている。

 魔樹は、斬れば倒れるものではない。壊せば終わるものでもない。

 根を断っても、裂け目が残れば深淵は残る。深淵が残れば、黒禍は残る。

 だから彼らは深淵に染まった武器で裂け目に触れ、同じ理で傷を広げ、世界を削り取るように戦う。


 それなのに。


 今、目の前では、世界が自ら傷を塞いでいる。


 アイオリスの祈りに合わせて、澄んだ気配が立ちのぼる。

 冷たいのではない。鋭いのでもない。

 深い井戸の底の静けさみたいな澄み方だった。


 それが届いた瞬間、彼らは息を止めた。


 祈りの名が落ちた途端、深淵に染まった武器が――ほんのわずか、身震いした気がした。

 深淵を殺す為の武器が、この清浄な空気に畏れを抱いて震えている。そう感じた。

 深淵殺しの名の由来であるこの武器は、彼らにとって、自信と恐怖を同時に抱かせるものだ。


 これなくしては戦えない。だが、これがあるからこそまともではいられない。 

 こんなものに頼らずに戦えるならば、と、どれだけ渇望したか。


 隊長格の男が、言葉を探して唇を噛む。

 噛んだ途端、血の味がした。

 ――嫌な味じゃない。生きている味だ。深淵の中では、そういう当たり前すら遠い。


「……アイオリス。今のは何だ。――その瓶は、どこで得た」


 問いかけに、英雄は振り向かない。

 祈りの手を止めないまま、ただ、短く告げた。


「……私はただ、使命を果たしに来ただけだ」


 男の声は淡い。だが淡さが、深い。

 その淡さのせいで、一団の武器が――一斉に、黙った。


 鞘の中で、黒い刃が湿った呼吸をする。

 いつもなら滲み出ているはずの粘液が、引き潮みたいにわずかに引いた。

 血管の筋が、脈を打つのをやめる。

 それは「弱った」のではなく――身を潜めたように思えた。


 アイオリスは最後にもう一度だけ瓶を胸元へ寄せた。

 ガラスの肌が、外気に逆らって薄く曇る。水滴がひと粒、封蝋の縁を伝いそうになって、伝わらない。

 割らぬ限り零れない。


 零れないのに――まるで、ここに泉がある、というような気配だけが濃くなる。


 そして、魔樹の根元――そこに残る最後の亀裂に向き直った。

 銀の戦斧を、ゆっくりと構える。


 深淵殺しの一団が反射で武器に手をかけた。

 敵はいない。敵はもういないはずだ。

 それでも身体が勝手に戦いを始める。恐怖が筋肉を操る。深淵の中ではそれが生死を分ける。


 ――刃が走った。


 音は、驚くほど静かだった。

 骨を断つ音でも、石を割る音でもない。

 水面に指を落とした時の、小さな抵抗――その程度の“こちら側の否”だけが残る。


 空の縫い目が、ほどけた。


 ほどける、というより――世界が、縫い目を引き締めた。

 裂け目の縁がひくつき、薄い痂皮みたいな光が剥がれて、風に溶ける。

 向こう側の色が最後に一度だけ瞬いて、押し戻される。

 空が、ため息を吐いたように見えた。


 ほどけた途端、裂け目は「無かったこと」になった。

 何かが弾けるでもなく、爆ぜるでもなく、ただ、世界がそう定めたみたいに消えた。


 一団の誰も、言葉を出せなかった。


 これは討伐ではない。――裁定だ。

 銀の刃は、深淵の存在を認めなかった。


 その場に残ったのは、痛いほどの静けさ。

 虫の羽音すら遠のいた気がする。代わりに、誰かの喉が鳴る。

 渇きが戻ってきたのではない。潤いを知った喉が、もう一度それを欲しがっている音だ。


 英雄は戦斧を下ろし、腰の瓶に触れた。厳かで、優しい手つき。

 それからようやく、一団へ向き直った。


 黒い瞳が、彼らの武器と、彼らの肌の黒筋と、彼らの恐れを一つずつ見ていく。

 そこに憐れみがあるのか、怒りがあるのか、誰にも判別できない。


 ただ、判別できないからこそ、背筋が伸びた。


「……私は救われた」


 一拍置いて、彼は続けた。


「今は、語れない。――まだ、授かっただけだ」


「だが、これで終わりではない」


 その言葉に、深淵殺し達は潮目の変化をはっきりと感じた。

 世界が、こちらへ戻ろうとしている――アイオリスが心を捧ぐ、あの名の下へ。

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― 新着の感想 ―
他の人からだと主人公ってこんなにチートだったんだ…
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