フィフスエレメント(前編)
あの最悪な一日から、何日か経った。
別の化け物が来やしないか、しばらくは気が気じゃなかったが――翌日も、翌々日も異変はない。
森と泉は、今日も静かだった。
静かすぎて、落ち着かない。
俺の中で水草はいつも通り揺れている。エビも小魚も変わりない。
水位はあの日の夕暮れまでには元に戻っていた。それには驚かされた。
前よりも明らかに湧水の出が良くなっている。理由は不明だ。
敵を倒したからレベルが上がりましたって? それなんてRPGだよ。
普段なら「じゃあ能力の検証でも」と思うところだが、今はそんな気分になれずにいた。
胸の奥――いや、岩盤の湧き出し口の奥に、粘土でも詰まってるみたいな感覚だ。
黒いドロドロの化け物を浄化した記憶と、逃げていった背中と、持ち逃げされた種。
考えないようにすると、逆に考えてしまう。
だって仕方がないだろ。それを思い出させるものが、水底に陣取ってるんだ。
木こり野郎の戦斧。
殺意満点のクソデカい刃だけじゃなくて、今はその長い柄までもが完全に水没している。
あのお漏らし盗っ人野郎の仕業だ。
あのクソ野郎は黄金の種だけじゃなく、この斧まで持ち逃げしようとしやがった。
それにしくじった結果が、このザマだ。
水底の砂利に埋もれた銀の斧は、水面から降り注ぐ陽の光を浴びて輝く。
その反射光が俺の中に普段とは違う光芒を描く。
揺らめく光のせいで、水面が波打っているような錯覚を得て落ち着かない。
水流を巻き上げて、砂利を被せて埋めてみたりもした。
けど、隠して見えなくなると――別の感情が、こぷっと湧いてくる。
――なんか、俺が斧を盗んだみたいじゃないか?
(いや、そんなことはない。これは木こり野郎が不法投棄してったゴミだ)
この泉は俺なんだから、泉の中のものをどうしたって俺の勝手だろ。
そう思う。
思うけど、今までよりも、水没しきった今の方がなんか嫌な気分だ。
錆びてボロボロになったら浄化で消せるのか?
そんな風になるまで、ずっとこれを水底に置いたまま過ごせって? 冗談じゃない。
でも、この斧は俺には重た過ぎて動かせない。
水流で押して転がすくらいなら出来る。
だが、下手に動かせば水底が荒れるし、また中の連中を巻き込む。
全力でやれば何とかなるかもしれないが、今はそんな気分じゃない。
「……はぁ」
溜息の代わりに、水の中身をぐるりと循環させる。
水底の砂利がふわりと舞い上がり、ぶく、と気泡が上がる。
水面がわずかに揺れて、差し込む光の角度が少し傾いだ。
その時。
砂の間で、何かがきらりと光を跳ね返した。
金属の反射光とは違う。もっと鈍くて、薄い。
(……なんだ、あれ)
水草の影、砂利に半分以上埋もれたガラス瓶みたいなものがあった。
丸っこい胴に、短い首。口元には、茶色っぽい塊がすっぽり覆い被さってる。
……封、か?
コルク栓の上から蝋で固めるやつ。
漫画か何かで齧った知識だ。
前に泉を拡張しようと思った時、砂利は一通りひっくり返したことがある。
その時にはあんな物は無かったし、木こり野郎が落としてったわけでもない。
なら、考えられる元凶は一つ。
あの盗人野郎の持ち物だ。
俺の中に飛び込んだ拍子に、落っことしていったものだろう。
あいつのことを思い出すだけで、苛立ちと嫌悪で水面が沸きそうになる。
俺はクールな冷泉だ。湯になるわけじゃないけどな。
水流を動かして、瓶の周りの砂利を削って全体を露出させる。
瓶のガラスは無色。だが、透明度はそんなに高くない。
技術かコストの問題だろう。透明度の高いガラスって、加工の難易度が跳ね上がる。
ただ、薄っすらと透けて見える中身には色がついている。
黄色っぽい色。
波をぶつけて瓶を転がしてみると、中の液体は瓶の動きより少し遅れて回る。
水よりも粘度が明らかに高い。
酒……いや、油か?
(……うわ、気持ち悪)
反射的にそう思った。
俺の中にある、水じゃない液体。それも黄色っぽいもの。
それだけで、あの“ぬるい熱”の記憶が喉元までせり上がってくる。
思い出したくない。二度と。
何より、油だぞ、油。「水と油」の油だ。
水面に油膜なんて漂ったらと思うとゾッとする。
身体を創った時にヌルヌルしてたら――やだやだやだ。
臭そうで、傷みそうで、腐ったら厄介そうな感じ。
絶対に蓋なんて開けたくない。
でも、なんかの拍子にガラスが割れたら最悪だ。
破片が残るのもクソだが、中身が漏れ出す方が我慢ならない。
波を立てて外へ放り出すのも駄目だ。
外で中身が漏れて土に染みて、雨で俺の中に流れてきたら……
(……浄化、試してみるか)
瓶ごとだし、たぶん無理だ。
中の液体に触れてないし、容器越しだ。
でも、あの黒いのに比べたら、このくらい大したことないじゃね?
効いたらラッキー。効かなきゃ、粘土層に埋め込んで封じ込める。
そう考えて、軽い気持ちで意識を流す。
(浄化)
水の中で、瓶を包むように清浄な流れを走らせる。
……妙な、手応えがある。
抵抗というか、引っかかりというか。
「は?それ、俺に言ってんスか? ガラスなんスけど俺」みたいな舐めた感じ。
(うるせえ。ここは俺の縄張りだ。俺に従え。浄化、浄化、浄化!)
全然幸いじゃないことに時間だけは腐るほどある。
半ば意地になって浄化を重ねているうちに、ちょっとした手応えを感じて――
次の瞬間。
(……お?)
瓶の中身から色が抜け落ちた。
あの黄色くて、とろっとして、見るからに不快な液体が――なんということでしょう。
瓶の中身は澄み切って、一見すると何も入ってなさそうなほどの透明度になった。
けど、転がしてみれば動きで液体が入っているのがわかる。
その水面の挙動で、中身は水だと確信できる。
だって、俺、水だし。
なんか心なしかガラス自体の透明度も上がってる気がする。
……いや、汚れでもこびり付いてたんだろう、たぶん。
一瞬、達成感が湧きかけて――すぐに打ち消す。
中の爆弾が処理できただけで、外側のガラス瓶っていう産廃がそのまま残ってる。
結局、中身が何だったのか分からないままなのも薄気味悪い。
何よりも、だ。
(あの盗人野郎の置いていったもんだぞ、これ)
泉の中で粗相して、化け物を連れてきて、盗みまでしていったクソ野郎。
そいつの残していった忘れ物なんて、ロクでもない。見ていたくない。
中身が透明になろうが、澄んでいようが、関係ない。
水流で瓶を少し遠ざけて、泉の隅に追いやる。
ついでに、まだ片付けてない落ち葉を流して上から積もらせる。
隠蔽工作、完了。
(斧の方と違って、こっちは隠してもまるで心が痛まねぇな。ハンッ)
そんなことを考えたら、また斧の存在が気になってしまった。
ああ――ほんと、最悪だ。
※※※※※
その翌日、森が薄く湿って、木漏れ日がいつもより柔らかい日――葉を踏む足音がした。
泉でいる時の音は振動として俺の中に響いてくる。
その伝わり方、速さ、硬さ、強弱で、水面に映らないものでも多少は判別できるようになった。
来た。これは、あいつだ。
日によって来たり、来なかったりする、あの木こり野郎。
ついに来やがった。
俺は湧水の出口に砂利を流し込んで気泡を止めた。
水面が揺れないように、何も見せないように。できる限り、いつも通りに。
(……来んなって言ってんだろ。言ってねえけど。察しろよ、バカが)
足音は俺の見える範囲よりだいぶ先で止まった。
――いや。
止まった、というより、足取りが乱れた。
踏みしめる音が一拍遅れたり、乾いた枝がバキッと折れたり。
あいつの呼吸の気配が、普段より速くて、重い。
(……なんだよ。落ち着きねぇな)
木こり野郎は畔の手前で、固まった。
俺は知っている。
畔の土には色のムラがあり、湿地を作って掻き回した跡が乾いて畝みたいに残っている。
穢れた爪で抉られた土と草。黒い滴りの点々が、嫌でも目に付く。
祭壇は砕けた木片になって散り、杯も皿も泥濘に埋もれていた。
そして――あの花もない。粗い木彫りの、ハスっぽい何か。何処に行ったか分からない。
散々な有り様だ。
どこからどう手を付けていいか、手を付けて良いものなのか分からなくて放置してた。
木こり野郎は、ゆっくりと膝をついた。
いつもの祈りの姿勢じゃない。
地面を確かめるように、指で土を掻き分けて、泥に塗れた杯を掘り出した。
それは踏まれでもしたのか真っ二つに割れていた。それを、呆然と見つめている。
「……□□□□……?」
声が、掠れていた。
熱っぽい祈りじゃない。喉の奥を引っ掻くみたいな、乾いた声。
俺には言葉は分からない。けど、今のはたぶん――問いかけだ。
木こり野郎は立ち上がって、水面に目を向けた。
視線が泳ぐ。手が震える。あいつの視線が探しているものは想像がつく。
あいつの落した戦斧。
前は柄が水面から突き出ていた。今は倒れ込んで水底だ。
パッと見では無くなったように思えるんだろう。
木こり野郎は一歩、また一歩と泉に近づいてくる。
泥濘になってから乾いた畔の土は踏むたびに足の下で崩れる。
その度に、あいつの肩がぴくりと跳ねる。
(……なにをそんなビクついてやがんだよ、お前)
俺の中で、気まずさが膨らむ。
盗人野郎が来たこと。祭壇をぶっ壊されたこと。粗相されたこと。
化け物が来たこと。黄金の種を持ち逃げされたこと。斧を沈められたこと。
後始末をサボってウダウダ過ごしてたこと。
全部、俺にとっては汚点だ。
俺は負けたわけじゃない。化け物はきっちり浄化した。
別に、木こり野郎相手に取り繕って気を遣う必要なんてない。説明の義務も無い。
(どうせ言葉も通じねぇんだし、どうしようもないだろ)
……でも、なんか嫌なんだ。
ちゃんとしろって言われ続けて、説教を食らってた頃みたいに。
自分でも理由が分からない引っかかりが、腹立たしい。
木こり野郎は泉の縁で膝をついた。
水面を覗き込んでくる。いくつもの傷跡の走る顔 。
黒い瞳が水面の揺らぎを受けて、濡れた光を帯びているように見えた。
前髪に隠れたもう片方の目の下にも傷があることを、俺は今さら知った。
喉が動く。息を呑んだ。
――そうだ、呼吸ってあんな感じだった。なんて益体もないことを考える。
奴は視線を巡らせ、水底に沈む斧を捉えた。
反射的な動作だったんだろう、水面に手が伸びかけ――止まった。
何かを畏れるみたいに指先が水面の寸前で震えてから、硬く握り込まれた。
触れたいのに触れられない、触れたら壊れると思ってる、みたいな。
あいつの顔が歪む。
眉間が寄って、唇がわなないて、目の奥の光が揺れる。
さっきまでの焦りとは別の、もっと深い揺れだ。
俺にとってはただの不法投棄野郎だ。元化け物のくせにイケメンでムカつく。
勝手に祭壇を建てて、勝手に祈って、勝手に供物を捧げて、勝手に通ってくる。
何の因果であんな化け物になって、ここに来たのかも知らない。
あんな鎧を着込んで、こんなクソ重い戦斧を持ち歩いてたんだから、ガタイ相応に腕っ節も立つんだろう。
如何にも強キャラですって顔と雰囲気を持ってる。
なのに、今、こいつは――本気で怯えてる。
ビビってる。情けないツラだ。
……それでやっと気付いた。
(ひょっとして、こいつ――俺が死んだとか思ってないか?)
化け物になってた時のこいつと、この前、浄化した鹿もどきのことを思い出す。
初めて全力で水をぶち込んだ時、たぶん俺はこいつを「戻した」。
だから、こいつは俺を神様みたいに崇めてるんだろう。
そこが荒らされ、台無しにされてるのを見つけた。
俺は泉だから、見た目じゃ生きてるかどうか分からない。
そうか。俺、こいつの聖域にされてたんだな。
(いや、勝手に認定すんな。この泉は俺で、俺の聖域だぞ)
木こり野郎は水面に向かって両手を組み、深々と頭を下げる。
「□□□□□……□□□□、□□□□……っ」
声が、震えていた。
言葉は分からない。けど、分かる。
泉に信仰が捧げられる。
(……おい。やめろ)
その声音は、祈りというより――縋りつくような懇願だ。
湧水が、じわっと増える。
俺が増えていく心地良さ――それが答え合わせみたいで嫌だった。
今はそういう気分じゃない。そういう気持ちよさが挟まってくるの、無性に腹が立つ。
(これは俺の身体の仕様だ。俺のせいじゃない)
木こり野郎はさらに声を重ねる。
何度も、何度も。
水面に落ちる呼気が波紋を作って、俺の胸――いや、湧き口の奥をざわつかせる。
俺の中の「外」と繋がっている部分が、痛いくらい主張してくる。
いや、それは俺の中の「増えた部分」が騒ぎ立てているのかもしれない。
――うるさい。
やめろ。
そんな顔するな。
まるで俺が、死んだみたいじゃねえか。
(……勝手に殺すな、祈るな。心配すんな……)
俺は拳を握る代わりに、水底の砂利をきゅっと締めた。
水流が一瞬、固まる。エビがびくっと跳ねた。悪い。
木こり野郎は顔を上げた。
目の縁が赤い。泣いてない。けど、泣く一歩手前の顔だ。
それが――別の意味で、気まずかった。
(……お前さ。いくら何でも推しすぎだろ)
いや、推しとかそういう概念をこの世界で通じる気がしない。
でも、俺の中の前世の語彙が勝手にそう呼ぶ。
崇敬か、信仰か、執着か――どれにしたって、重い。
こいつはイケメンだけど、クソ重たい奴だ。
病むと、とんでもないことを仕出かすタイプの。
俺は泉だ。
泉である俺に、そんな顔を向けられても困る。
困る……んだけど。
このまま放っておいたら、こいつはずっとここで祈り続ける気がした。
勝手に水に入られても困る。下手をすると、俺の中に身投げしてきかねない。
(いやいやいや。……でも、やりそうなんだよな、こいつ)
盗人野郎が飛び込んできた時とは別のざわつきが、胸の奥に生まれる。
ありえない、と言い切れないくらい祈りが強い。
(……クソ。仕方ねぇ)
俺は腹を括った。括る腹がないから、腹ごと創るしかない。
水底の新しい水を集めて水面へ送る。
水の柱が立ち昇り、鋳型に吸い寄せられるように人の輪郭を形作る。
髪となる水が淡い水色を帯び、ゆるやかな波を描いて垂れ落ちる。
その一部が渦を巻き、枝角の形を取る。
耳は尖り、鰭へと変わり、水の生き物の名残を宿す。
細くしなやかな肢体が形を得て、
泉から立ち昇る水流が衣のように絡み、薄い層を重ねて揺れた。
――完成と同時に、意識がすっと引き抜かれる。
俺の性癖と理想を体現した姿。
俺の形。
髪の先が水のまま揺れて滴る。
肩が、腕が、胸元が、ひやりと空気に触れる感触。
俺は水面に立って、いつもの「穏やかな微笑」のまま、畔に跪く木こり野郎を見下ろした。
心情なんかお構いなしに、顔だけ慈悲ぶるこの身体、本当にムカつく。
「……」
声を出すか迷った。
どうせ通じない。通じないけど、声を出すと余計に勘違いされそうな気がする。
だから、まず視線だけ向けた。
木こり野郎の瞳が、俺を捉える。
次の瞬間――あいつの全身から、力が抜けた。
肩が落ちて、胸が大きく上下して、息を吐く。
危うく膝が崩れそうになって、それを踏ん張って耐える。
……心底、ほっとした顔。
(うわ。やっぱ重てぇ……)
木こり野郎は震える手で胸元を押さえた。
それから、俺に向かって――ゆっくりと、深く、深く頭を下げた。
「□□□□……□□□□□……」
今度は、泣きそうな声じゃない。
泣きたいのを飲み込んで、必死に整えた声。
その必死さが、また面倒くさい。
ため息の吐き方なんてとっくに忘れた俺は、とりあえず首を横に振っておく。
じっと見つめられる気まずさがマジで耐え難い。
「死んでねえよ。俺は泉だぞ。泉が死ぬか……見りゃ分かんだろうが」
独り言のノリで考えたことが、声として漏れた。
(あ……やべ)
そうだわ、今、身体があるんだった。
……仕方ないだろ。
口で喋ってるつもりはないのに、形を持つと音が出る。ぼっち舐めんな。
俺に声をかけられたと思ったのか、木こり野郎は感じ入った顔で頷いた。
いや、勝手に何を納得してんだお前は。
――あぁ。これ、また面倒な感じになりそうだな。




