揺蕩う境界、揺蕩う檻 ★
あのイケメン――いや、水を飲んで吐きやがったあのクソ野郎――の気配が森の奥に消えて、ようやく世界が「森と泉」だけに戻った。
鳥の声。葉擦れ。風。水面を撫でていく光。ああ、やっといつもの森だ。
なのに、視界の端には銀色の戦斧が刺さったままだ。朝日を受けて白く光っている。
金属の光沢は主張が強過ぎる。俺の泉に突き立った違法建築だ。
目に入るたび、あの熱っぽい黒い目と、しかめた面、黒いゲロが蘇ってきて、水面がむずむずする。
(ムカつく、ムカつくぅ……うぅ、忘れろ……平常運転。今はもっと大事なことがあるだろ)
あいつのことはもうはいい。考えない。それより今は検証だ。検証。
昨日までの俺は、何もかもぶっつけ本番だった。パニックで。勢いで。事故ってばかりだった。
意識が「彼女」に移ったこと、盛大にブチまけて気絶したこと。
あれは、なぁなぁにしとくわけにはいかない。
今後の人生、泉生?を左右する一大事だ。
変な横槍が入らないうちに、まず、やれることからやる。
早出か残業で独りになった時の方が仕事ってのは捗るんだ。
(俺は今、何ができる。どこまでできる)
まずは安全なやつから。水フィギュアだ。
俺の手の代わりと言ってもいい水の塊。
頭の中でざっくり形を思い描く。
フォルムは鋭角的、高機動型、ウイングは展開式。
左右対称のスマートなボディにロングバレルのライフル。
形をざっくり思い描くと、水がその形に「なりたがってる」みたいに整っていく。
歪み、無し。気泡、無し。可動域、良し。
(……ん、なんか、調子良いな? 手癖ってレベルじゃなくないか?)
よく分からんが、上達したってことでヨシ!
じゃあ、次。
これに意識を移せるかだ。
俺はそれを「彼女」で二度体験している。出来るはずだ。
意識を水フィギュアに寄せてみる。
水フィギュアの頭部の位置から見える世界を想像する。
泉を見下ろすあの感じに視点を切り替えようと四苦八苦してみた。
がっ……駄目っ……!
……何度やっても、俺の意識はそっちに移らない。
「これは水だけど俺じゃない」みたいな壁を感じる。
水フィギュアは、ただの人形のままだった。
※※※※※
――じゃあ、「彼女」は何なんだ?
観賞用に造った等身大の美少女フィギュア。
俺の性癖と理想の結晶で、俺が「人間であること」を忘れないための器。
作ること自体がもう儀式みたいになって、精魂込めて造り上げた俺の――
そう思った瞬間。
世界が、ひゅっと細くなった。
水が集まる速度がさっきとは違う。速いどころじゃない。
そこに鋳型でもあるみたいに、水の方からそこに集まっていって形を為す。
髪が伸びる。ゆるくウェーブを描いて流れる。透き通った流れが淡い水色に色づく。
髪の毛の一部が渦を描いて捻じれ、枝分かれして枝角になる。
耳が尖って幾本もの骨に分かれ、その間に皮膜が生じて鰭となる。
体格は細く、しなやかに。でも、出るところは出て、線は円い。
現実寄りのグラマーではなく、イラスト寄りのグラマー。
フィギュアだからこそ許される非現実的なリアルを詰め込んだわがままボディだ。
泉から水流が立ち昇って、胴に、脚に、肩に、腕に絡みつく。
衣のひだが生まれ、透けるような薄さでありながら、層を重ねて光を遮って揺れる。
そして、出来上がるのと同時に――意識が一気に引き抜かれた。
(っ――)
足の裏に冷たい水の感触。空気が肌を撫でる。
胸のあたりにずしりとくる重さ。背中に触れる長い髪が。腕を動かせる。指を握れる。
呼吸がある……みたいな錯覚がある。
俺は、水面の上に立っていた。
見下ろせばそこに泉がある。
俺の本体はあれのはずだ。なのに俺はその外側にいる。いや、こっちが本当の俺なのか?
わけが分からない――のに、分かってしまう。
ああ、やっぱりこの身体はもう観賞用じゃない。
俺そのものなんだ。
(……なんだよ、それ……ふざけんなよ)
怒りが先に出た。
俺の理想と性癖の産物なのに、俺が眺められないってどういうことだよ。
理不尽だ。最高に手間暇かけた作品を自由に鑑賞できないなんて酷すぎる。
俺は水面に座り込む。理屈は分からないが沈まない。僅かに波紋が広がるだけだ。
波が収まると鏡のように平らな水面が俺の姿を映し込む。
水鏡に映る自分を見て、製作者の脳が勝手に拍手を始める。
「可愛い」「綺麗」「エロい」「神秘的」が、同居して喧嘩してない。
造った俺が言うんだから間違いない――完成度たけーなオイ。
なのに、だ。
俺の理想を体現したこの姿を見ても心が熱くならない。
製作に打ち込んでた時の俺は、取り憑かれたみたいに夢中で、偏執的で、恋をしていた。
乳を盛れ。太腿は見せてけ。キテる。これはクるぞ。ここは絶対に刺さる――
そういう、男のやましさとムラムラを煮詰めた熱があったはずなのに。
(……いや、待てよ? これって「自分の作品じゃ抜けない」的な……?)
創作界隈でよく聞く話だ。それが俺にも起こってる?
それとも、自分が女の身体になったら、いきなり興奮できなくなるものなのか?
自問自答して、答えが出ないまま、嫌な可能性が浮かぶ。
(まさか、心が体に引っ張られてるんじゃないか……?)
ゾワっとした。
俺が俺じゃなくなってきてる、とか。考えたくない。
ただでさえ、泉なんかになっちまったのに……心までおかしくなるとか。
雨の日のあの高揚感を思い出す。
そして、あのイケメーーゲロ野郎の前でも気持ちが勝手に浮き立ったあれも。
(いやいや!ない!それはない、ない!)
……違う。違うったら違う。
俺があいつに感じるのは僻みだ、怒りだ。不快と恐怖だ。
俺がメス堕ちとかありえない、外から上書きされてたまるか。
それを認めたらおしまいって気がする。考えない方が良い。
水の底がぐるぐる渦巻いて砂利が舞い上がって、魚が端っこに逃げた。
それを見ないように意識を逸らして、羽衣の端を掴んだ。
「……よし、脱ごう!」
俺は正気だ。
これはれっきとした検証作業だ。
この身体を創った時に仕込んだキャストオフ仕様――
製作者として、男として試すべきだ。そうだろう?
薄衣の隙間に指を差し込む。
一体成型みたいに指が止められることはない。
作り込みはちゃんと生きていた。意図した機構が残ってる。
するり、と薄衣が肌の上を滑り落ちて素肌が覗く。
陽の光を、風を、素肌で直接感じる。
布を布らしく動かせるのは、PVC製じゃないからこその芸当だ。
しかも、ただの布と違って水らしいエフェクトや動きもバッチリ。
(この仕様で造れるって気付いた時は祭りだったなぁ!)
製作者目線の高揚感を持ち出して、気分を盛り立てる。
そうしようと思ったのは、別の感情がぶわっと湧き上がって来ていたからだ。
それは――恥ずかしさだ。
裸を見たことに対する恥ずかしさじゃない。
晒したこと、見られたらってことへの恥ずかしさだ。
自分の部屋で衣装パーツを剥ぎ取ってるんじゃない。
この森で、外で、俺が自分から脱いで裸になったんだ。
痴女とか野外露出とかR-18な言葉が思い浮かぶ。
いや、誰も見てないし。森だし。俺が泉ってことは、家みたいなもんだし。
エビと魚しかいないのに、恥ずかしいとか無いだろ。
なのに、勝手に顔が熱い気がする。妙に生々しく思える。
違う。俺が感じたかったのはこういうのじゃない。
(もっと、あるだろ。男として! このスケベボディに思うことが!)
俺の中の人間性を奮い立たせて、たぷんとした胸を両手で掬いあげた。
手で隠し切れない大きさ、柔い重量感。しっとりもっちりした肌触り。
でも、触れてる感触がダイレクトに返ってくるからか、全然嬉しくない。
むしろ、この重みが俺なんだっていう生々しい現実感がじわじわくる。
おっぱい!おっぱい!と小躍りしたくなるあの興奮はどこにもなかった。
俺は大切なナニかを失くしてしまったようだ――
キャストオフの検証は壮絶な自爆に終わった。
しばらく、喪失感に打ちひしがれていたが気を取り直す。
そうだ、まだ終わったわけじゃない。
諦めた時点でゲームオーバー、現状はこの手で切り開くんだ。
これが俺の身体だってことは認めよう。
けど、この身体は水で出来ている。
水だったら俺の思い通りに動かせるはずだ。
(俺は男だ、誰が何と言おうと男なんだ……)
俺は男の尊厳を取り戻すべく奮闘した。
丹田?のあたりに集中し、記憶を呼び起こし、思い描く。
手に馴染んだ俺の相棒――必ず取り戻してやるからな!!
※※※※※
日が暮れて、二つの月が別々の方角から昇ってきた。
俺は水面で体育座りをしながらそれを眺めている。
(――なんの成果も!!得られませんでした!!)
男の身体に形を弄ろうとした。
ナニだけでも生やそうともしてみた。
ピクリとも反応しない。
動かそうとすると強烈な違和感を覚える。
じゃあ、と思って胸や背丈を小さくしてみたり、大きくしてみたりも試した。
……駄目だった。
出来るのはキャストオフだけ。表情すら変えられないことに気付いた。
形を変えようとした時に手応え自体はある。
でも、重たい岩の塊を押してるみたいな、力の足りなさを感じた。
この女、優し気でむちむちで柔らかそうなのに、とんでもなく硬いのだ。
……触り心地の話じゃない、たぶん、デザインとか存在的な話だ。
俺はこの身体に自分の理想を詰め込んだ。
ただの彫刻と違って動いている姿も想像した。
その頭に焼き付いたイメージがこの形で固定されてしまっている。
そんな感じがする。
このモデルデータでセーブしてあるから、ロードできるのはこの形だけ。
モデリングした範囲で動かせるけど、変更は認められない――みたいな。
(ふざけんなよ、俺は製作者だぞ!なんで俺の自由にならないんだよ!!)
この身体には色がある、手触りもある。水には見えない。
五感も人間だった頃に近い――ような気がする。少なくとも泉よりは。
けれど、やっぱり、決定的に人間じゃなくて、水で出来た美少女フィギュアだ。
表情すら変えられないなんて、動く仏像みたいなものだ。
いや、女神像か……。
自嘲して、空を見上げる。
二つの月は夜が更けるにつれて互いの距離を狭め、でも、重なることなく離れていく。
それがなんだか、戻れない、進めない、解決しない今の自分を思い起こさせてくる。
「はぁ……」
溜息を吐いて、水面から立ち上がる。
そうだ、折角歩けるようになったんだし、気分転換に散歩でもしよう。
そう思って、地面に足を踏み出した。
素足に感じる土と草の感触。足裏に自分の体重が跳ね返ってくる感覚。
この感じは「人間」っぽくて悪くはない。
幸い、砂利を踏んでも痛みは感じない。水だもんな。
さふ、さふ、と歩き出す。
夜風が髪を靡かせ、羽衣を揺らす。
この身体だと月や星の明りが、鳥や虫の声が近くに感じて心地良い。
実らない検証で泡立っていた気持ちが凪いでくるのを感じる。
森の方へ向かって一歩、また一歩と歩みを進め――
――ザァ、と視界が崩れた。
(……は?)
……気が付くと、俺はまた泉になっていた。
水面から「彼女」の姿は見あたらない。
ならば、ともう一度、身体を創る。
意識が切り替わる。
さっき、歩いていた辺りが水浸しになっているのが見えた。
人一人分を形作っていた水量。
「な……なん、だよ……これ」
距離にして、3m弱。
水の操作が効かなくなる限界距離と同じ。
結局。
俺はこの泉から、どうしたって離れられないみたいだった。




