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*みずのなかにいる*

 目が覚めた――と、いつものように思った。


 いつもなら、瞼の裏に朝の光が滲む。布団の重みが胸に乗って、寝返りを打てばシーツが擦れる音がする。エアコンの風、遠くの車の走行音、部屋干しのワイシャツの生乾きの匂い。

 起きる前の世界って、だいたいそういう雑な情報の束で出来ていた。


 今はまるで違う。

 薄く滲んだ視界の向こうで、何かが光っている。

 けれど輪郭が溶けていて、どこにも焦点が結べない。

 目玉を動かしている感覚もないのに、視界そのものがゆらゆら歪んでいた。

 ぼんやりとした光が二つ、薄暗さの向こうに浮かんでいる。


 音も変だった。世界がくぐもっていて遠い。近いものだけがやけに大きい。

 音というより振動だ。ざわめきが体を揺らしたかと思うと、次の瞬間には「内側」まで届く。


 肌……いや、肌って何だ。

 冷たいのにぬるい。境界が曖昧で、自分がどこまでなのか分からない。

 空気に触れている感じがなくて、ずっと何かに包まれている。

 沈んでいるのに苦しくない。息が止まった不快感もない。――呼吸をしていない?


 体は動かない。というより、「動かすための手足」が見つからない。

 腕を上げようとしても指先がない。足を伸ばそうとしても、伸ばすべき足がない。

 金縛りかと思ったが、寝具の重みも肌触りもない。布団に移った体温もない。

 どこにも重さを感じない。仰向けでも、うつ伏せでもない。


 これは何だ。


 夢か? そう思って必死に「起きよう」とする。

 起きろ。起きろ。目を開けろ。

 体を動かせ。叫べ。

 ……叫べない。喉が、ない。

 喉がない? そこで思考が引っかかり、ぞわりとした。


 視界の先に暗い空がある。木々の黒い影が、ぐにゃりと揺れている。

 森。張り出した枝、黒い葉。天井がない。空がある。夜空だ。

 その空に、ぼんやり光るものが二つ。


 月? いや、月が二つ?


 片方は丸く、片方は少し欠けている。俺の知ってる夜空に月が二つあったか?

 夢としか思えない。でも醒めない。醒める気配がない。金縛りか?

 いや、こんな景色は知らない。


 じゃあ、死んだ? 死んで――幽霊になった?

 幽霊って、こんなふうに何かに包まれるのか。月が二つある世界に行くのか。

 まとまらない思考がぐるぐる回る。

 俺のいつもの悪癖が顔を出す。「最悪の結論」を先に置いて、それで全部を説明しようとする癖だ。

 死んだ。だから手足がない。だから声が出ない。だから変な視界と音。

 ……そう結論づけかけた、その瞬間。


 視界の隅を、すっと何かが横切った。

 銀色の線。しなやかな曲線。尾ひれが一振りして、闇に溶ける。


 小魚だ。


 俺の意識が固まった。

 魚がいる。魚が、俺の視界の中を泳いだ。魚がいる場所は――ここは、空じゃない。

 水の中だ。


(……え?)


 水。

 俺は、水の中にいるのか。

 だから視界が揺れる。だから音がくぐもる。だから――苦しくない。

 ……いや、その理屈はおかしい。水の中なら溺れるはずだ。苦しいはずだ。

 なのに俺は、沈んだまま平然としている。


 水面の向こうに外の世界がある。二つの月が、にじむように映っている。

 木々の影が、水越しに揺れている。


 俺の「視界」は、水を通して外を見ている。

 ……水を通して……本当にそうか? 俺はどこにいる?


 怖い。


 理解できなさすぎて怖い。けれど同時に、包まれていた感覚がすっと説明される。

 冷たいのにぬるい。境界が曖昧。手足がどこにもない。


 森の中の、水たまりみたいな場所。苔の匂い。

 上から見えるのは木々と空と二つの月だけ。

 誰もいない。人の声もない。文明の気配もない。


 俺はいま、水――泉なのか?


 どこなんだここは? 俺は死んだのか? いつ? なんで?

 名前……名前、なんだっけ。あれ? 俺の名前、思い出せない。なんで?

 記憶の中から自分の名前を掴もうとした。指のない手で、石鹸みたいに言葉がすり抜ける。

 ――ぬるりと滑って。音も形も引っかからない。

 手には何も残らないのに、泡だけが「そこに在った」と主張してくるような。


 俺という意識があるのに、俺自身の名前が思い出せない。

 これはなんなんだ。どうなっている?


 そのとき、小魚がもう一匹、暗がりから近づいてきた。

 恐る恐るというふうに、俺の「内側」を覗き込む。……いや、見てはいない。

 小魚は俺の中をぬるりと通り抜けていく。俺を認識している様子はない。


 それでも俺は、どうしようもなく、それに縋りたくなった。


(……おい)


 返事はない。もちろんだ。どう見てもただの魚だ。

 銀色の腹。感情のない真ん丸な瞳。背びれが一枚、腹びれが一枚、先が二つに割れた尾びれ。


 返事はなくても、誰かに話しかけたという事実が、俺という存在を繋ぎ止めてくれる気がした。


(なぁ、おい。ここ、どこだよ)


 魚は尾を振って、ゆっくりと去っていく。

 たった今、勝手に拠り所にしようとした相手に、あっさり置いていかれる。

 胸の奥が、ひゅっと冷えた。


 ……やばい。俺、これ、一生このままなんじゃ――


 水面に、影が落ちた。

 夜空に雲が流れてきて、月明かりの片方を遮っていた。

 雲の切れ間から、欠けた方の月がこちらをジッと見下ろしていた。


 ※※※※※


 名前が思い出せない。


 その事実に気づいた瞬間、ぞっとした。

 背筋が凍る――背筋なんて今の俺にあるのか分からないのに、意識の芯だけが冷たく締め上げられる。


 思い出そうとする。必死に手がかりを掴もうとする。

 でも、名前だけがすぽんと抜け落ちている。名札の部分だけ綺麗に剥がされたみたいに。


(……いや、待て。落ち着け。名前、俺の名前は……)


 記憶をかき集める。細かいことから拾っていけば、そのうち引っかかるはずだ。

 そういう作業は得意だった――はずだ。

 嫌なことほど、勝手に頭の奥から浮かんでくる。


 仕事。


 朝、起きなければいけない理由。出かけなければいけない原因。

 電車の時間を逆算して、朝飯を食って、歯を磨いて、着替えて。


 ――ああ、いやだ。


 会社の名前も業界もはっきりしない。なのに感情だけは鮮明だ。

 怒鳴り声。ねちねちした嫌味。自分勝手な要求。いい加減な指示。

 押し付けられるだけ押し付けられて、フォローはない。そのくせ結果と責任だけは求められる。

 早出。残業。休日出勤。有休消化? なにそれ。


 「やる気」とか「成長」とか、世の中にはそういう言葉もあった気がする。

 けど俺の中ではいつも別の言葉に翻訳されていた。


 ――「お前がやれ」「黙ってやれ」「代わりはいくらでもいる」。


(……ああ、こんなの思い出すな。胸くそ悪い)


 次、家族。


 これも輪郭はぼやけているのに、刺さるところだけ鋭い。昔から周りと比べられてきた。

「○○君はできるのに」「○○ちゃんはもう内定」


 娯楽は悪みたいな顔をされて、押さえつけられて、正しいことをしろと説教された。

 あれをするな、これをするな。あれをやれ、これをやれ。このくらいできないの?

 大人になってからも親が言うことは決まっていた。


「早く結婚しろ」「家庭を持て」「大人になれ」


 まるで俺が結婚できる前提みたいに言うのが腹立たしかった。そう簡単にできるわけないだろ。

 ……いや、腹が立つってことは、俺はそれを気にしてたってことだ。

 言われてムカつくくらいには。笑って聞き流せないくらいには。


 学生時代の友人。いた。たしかにいた。けど今は――疎遠だ。

 社会人になって一人暮らしを始めてから、連絡もしなくなっていった。

 別に喧嘩したわけじゃない。休みが、時間が合わなかった。

 自分の時間が惜しかった。だから自然に薄まって、消えた。


 一人暮らしをして、独りになって。

 自由になった金は、全部ひとりの趣味に吸い込ませた。

 それだけが俺の“自分のもの”だったから。


 ああ、そうだ。


 趣味。


 アニメ。ゲーム。フィギュア。


 記憶の中で、それだけが色を持っていた。

 仕事の忙しさの合間に家に帰って、鍵を閉めた瞬間。そこだけが俺の聖域だった。


 誰にも邪魔されない。誰にも見られない。誰にも笑われない。

 寝食を忘れて没頭した。金と時間を溶かした。

 疲労も、嫌味も、怒鳴り声も、趣味に没頭してる間は全部薄まっていった。


 俺はその時間のために生きてたんだ。


 仕事にやり甲斐なんてなかった。苦痛なだけだ。生活するため。

 趣味のための金を稼ぐため。それだけで回してた。


 曖昧な記憶のくせに、結論だけは妙にしっくりくる。


(……なんか、ロクな人生じゃねえな)


 その認識が、逆に、奇妙な安堵感を連れてくる。


 今、ここには仕事がない。

 上司もいない。電話もチャットもない。押し付けも残業もない。

 家族の説教もない。結婚しろもない。比較もない。


 ――しがらみがない。


 それは救いのはずだった。

 なのに次の瞬間、意識のどこかがきゅっと縮む。


 ここにはアニメがない。ゲームがない。フィギュアがない。

 パソコンもない。インターネットもない。SNSもない。


 当たり前だ。ここは森の泉だ。二つの月が光ってる。

 文明の匂いもしない。俺の部屋――聖域じゃない。


 積みっぱなしで手をつけていなかった漫画。

 買っただけで満足していたプラモ。苦労して並んだのに袋も開けていない限定版。


 ――全部、残したままだ。


 残したままで、二度と手をつけられないかもしれない。

 そう思った瞬間、焦りが跳ね上がった。喉がないのに叫びたい。

 手足がないのに暴れたい。どこにも行けないのに、ここから出たい。


 視界がちゃぷちゃぷと揺れる。

 自分が揺らしている。俺の「体」が、勝手に波打っている。


(……やめろ。落ち着け。落ち着こうって)


 でも落ち着ける材料がない。名前すらない。声もない。手足もない。

 ただ水の底で、二つの月を眺めてるだけだ。


(これから……どうすりゃいいんだよ)


 小魚がまた、すっと横切った。見向きもされない。

 魚にとっての俺は、自分の暮らす「世界そのもの」でしかない。


 人間だった頃、地球とか宇宙の意思を感じ取ったことがあるか?

 そんな奴、ただの電波かスピリチュアル扱いで笑い者だ。


 けど、この際、どんな奴だっていい――


(なあ、誰か……誰かいないのか……?)


 孤独は苦痛じゃないはずだった。

 でも、本当の意味で孤独の中に放り出されることの恐怖が、今さら追いついてくる。


 水面越しの月が二つ、ざわざわと揺れて見えた。

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