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山猫亭の店内は夕暮れの柔らかな光に包まれていた。
窓から差し込む橙色の陽が、テーブルの木目を優しく撫でる。
店内は揚げ油と唐揚げの匂いがまだ残り、鼻をくすぐる。
魚醤のような耐えがたい臭みはないけれど、これはこれで少しばかり嫌気がしてくる。
テーブルには10種類の鳥肉から作った唐揚げの皿が並び、冷めかけた塊が所在なさげにしていた。
カイルの兄貴は椅子にもたれかかるように座り、胸と腹をひたすら撫で続けるだけの生き物と化している。
メアリーさんは厨房で片付けをしていて、鍋や食器を洗う音が静かな店内に響いていた。
私はテーブルに肘をつき皿の山を睨む。
食べきれない。
試食しないといけないとはいえ、3人で食べるにはあまりにも多過ぎた。
胃が悲鳴を上げてる。
まだ10種類分の肉も残っているというのにだ。
そもそも仮に美味しかったとしても、揚げ物ばかり食べ続けられるはずがない。
パンやサラダで口直しをしなければ、2皿食べるのが精一杯でしょと不満げに口を尖らせた。
「兄貴、これどうすんの?捨てるのもったいないけど、明日の朝には固くなるわよ」
私はフォークで唐揚げをつつく。
メアリーさんが調味料を工夫したおかげでかなり改善されたけど、肉そのものがまだ美味しいとまでは言えない。
ポーションで柔らかくなったけど、肉の繊維が舌に残り、パサパサの後味が喉を乾かす。
「どうすんのって言われてもな……。もう食えないけど、捨てるのも嫌なんだよな」
兄貴はそう言って頭をガシガシと掻いた。
苦労して食材を集め、手間暇をかけて作った料理。
それを失敗作だからとゴミ箱に放り込むのはなんとなく嫌だ、という兄貴の気持ちも分かる。
恐らく自分の努力の結晶を自分が否定するように感じるのだろう。
でも、このままでは食べきれない問題は解決しない。
明日食べようにも、明日は明日で他の肉を試さないといけないから、先送りにしたところで意味はない。
メアリーさんが厨房から顔を出し、タオルで手を拭きながら言った。
「以前ならご近所さんたちに配ったりしたのだけれど、これを配るのはちょっとね……」
どうやら、美味しくないと分かっているものを配るのに抵抗があるようだ。
彼女の赤髪が夕陽に染まって優しく揺れる。
疲れた笑みを浮かべる姿が、なんだかお母さんみたいに見えた。
「美味しくなくても文句を言ってこない相手か……」
そんな都合のよい相手がいるはずもないかと諦めかけたが、窓から覗く外の光景を見てふと1つのアイデアが思い浮かんだ。
私は立ち上がり、紙袋をカウンターから引っ張り出した。
粗末な茶色の袋。
唐揚げの持ち帰り用に市場で買った安物だけど丈夫な代物だ。
「私が貰っていい?」
兄貴が目を丸くし、腹を撫でる手の動きを止めた。
「何に使うんだよ?」
「ちょうどいい処分先があるの」
そう言いながら、紙袋に唐揚げを放り込んでいく。
1つの紙袋には入り切らないから、適当に袋を分けながら詰め込んだ。
私の行動を見てメアリーさんも首を傾げた。
「リナちゃんどうしたの?持って帰るの?」
「配ってくるの。味に文句を言わない相手にね」
私はそう言ってウインクする。
2人はよく分からなかったようで、顔を見合わせて不思議そうにした。
**********
紙袋の山を抱えて店を出て少し歩くと、裏路地は夕陽が生み出す影で薄暗くなり始めていた。
路地の奥へと足を踏み入れると、市場の喧騒は遠く、通行者の姿を見かけなくなる。
代わりに見かけるのは野良犬やストリートチルドレンたち。
スラム街では周囲の大人たちにいいようにされるため、少し離れたこのような場所で身を寄せ合って生きている。
彼らはギャングたちのように強盗まがいの行動には出ない。
やり過ぎれば追い出されると知っているからだ。
でも、ゴミ箱を漁って食糧を探すのにも限界があるから、いつも腹を空かせている。
かつての私のように。
集団は少し奥まった場所にいた。
廃墟みたいな古い倉庫に、10人以上の子供たちが座り込んでいる。
皆薄汚れた格好をしているが、私は集団の中心に立つ黒髪の少年に目を留めた。
同い年くらいかな?
体は痩せているが大きな目が爛々と輝いて、手には短い棒を握っている。
彼だけが私の足音に反応してすぐに立ち上がり臨戦態勢を取っていた。
他の子供たちは彼よりも年下だから、守ろうとしているに違いない。
うん、たぶん彼がリーダーだろう。
「誰だ、お前。怖いもの見たさの金持ちのガキか?ここは俺たちの縄張りだ。失せろ」
少年は冷たい声で警告を発してきた。
言動はアレだが、いきなり殴りかからないあたりまともな人間みたいね。
それにしても自分のどこを見て金持ちと勘違いしたのか。
視線を落として自分の服をチラリと見て、すぐにその理由に思い至った。
鎧を外してもバッグや短剣は着けたままだったし、服も頑丈で小綺麗なものだから彼らからすれば金持ちに見えるのか。
そういえばこの装備を買う時に、兄貴が「命に関わる物に金を惜しむな」って叫びながらお金を支払ってたのを思い出した。
「お裾分けよ」
私が一歩踏み出すと、子供たちは一斉に後ずさった。
女の子たちはそのまま距離を取り、行く手を阻むように少年たちが身構える。
私は抱えていた紙袋を地面に置き、1つだけ袋の口を開けて一歩下がる。
ふと手を見ると油で少し汚れていた。
丈夫な紙袋でも唐揚げの脂を吸い取りきれなかったみたい。
店で出す時は紙袋の底に厚紙でも敷いた方がよさそうね。
開いた紙袋から匂いが広がり、子供たちの鼻がピクピクと動く。
油の匂いを察したのか目が貪欲に光り、紙袋に惹きつけられるように前に出始める。
でも、リーダーの少年が手で制すると動きをピタリと止めた。
ずいぶんと教育が行き届いているわね。
私が感心していると、少年が目を細めながらこちらを睨んできた。
「食い物......毒でも仕込んでんのか?」
「わざわざあなたたちに毒を食べさせる理由って何?」
「腐りかけの残飯を渡してくるクソ野郎がいたんだよ。腹を壊して寝込んだ奴もいる」
「ああ、なるほど」
警戒するのも当然ね。
以前は自分も同じ立場だったが、相変わらず世知辛い世界だ。
食べ物に文句を言える立場ではないが、そこに悪意を入れ込んでくるろくでなしに怒りが湧かないはずもない。
「ただの余り物よ」
私は紙袋を手に取り、中から唐揚げを1つ取り出してかじって見せた。
少し冷えた唐揚げはやっぱりいまいちだった。
毒じゃないとは言ったけど、自信を持って美味しいと言えないのが悔しい。
「毒じゃなくて唐揚げの試作品。鳥の肉を使った揚げ物よ。......そんなには美味しくないけど」
私は彼らによく見えるように唐揚げを突き出す。
彼らは唐揚げと言われてもピンときていないようだが、鳥の肉と言われて少し嫌そうな表情を浮かべていた。
「私も元はあなたたちと同じストリートチルドレンだったの」
私の言葉に子供たちが目を見開く。
私はそのままリーダーの少年へと近づいて、紙袋を突きつけた。
「生きたいなら食べなさい」
少年は少しだけ警戒を解いたようだが、代わりに今度は戸惑いの表情を浮かべていた。
「本当かよ……お前みたいな元気な奴が?なんで俺たちに?同情か、それとも憐憫か?」
彼の言葉には困惑と棘があった。
嘘を疑う心と、見下されることに反抗する心が入り混じっているのかもしれない。
私は笑って首を振った。
「同情?違うよ。自分が貰ったことを真似しただけ。強いて言うなら自己満足かな」
彼は少しだけ戸惑った後、紙袋を受け取って中を見た後、近くにいる子供に「食べていいぞ」と言って渡した。
他の子供たちも地面に置かれた紙袋に駆け寄り、皆が一斉に歓声を上げて唐揚げを凄い勢いで食べ始める。
味はいまいちでもまともな料理を食べるのは久々なのだろう。
「お前、名前はなんて言うんだ?」
「リナよ」
「俺はジョシュアだ。………この礼はいつか返す」
「そう。楽しみにしてるわ」
ジョシュアはそう言って握っていた棒を地面に置き、紙袋から唐揚げを取り出し頬張った。
サクサクという小気味よい音が響くが、ジョシュアは顔を少しだけしかめた。
「あんまり美味くねえ……」
それを聞いて他の子供たちも騒ぎ始める。
「パサパサだ!喉に詰まっちまうよ」
「鳥の肉ってスープで煮込まないと食えたものじゃないって誰かが言ってたぞ」
「腐って無くて腹が膨れるだけマシだろ」
皆が文句を言うが、それでも食べる手は止まらなかった。
それを見て私は思わず笑い声を上げてしまった。
この逞しさは大したものだった。
「もっと美味しくなるよ。約束する」
そんな彼らを見ながら、私は3年前の記憶に沈んだ。
似たような場所で、似たようなことをしている。
立場は逆だが、あの時の兄貴が何を考えていたのか少しだけ分かったような気がした。
記憶が胸を締めつけ目頭が熱くなる。
私は自分の頰をぺちん!と叩いて思考を切り替えた。
しんみりしてる暇なんてない。
「じゃあね」
ジョシュアたちに別れを告げて路地を駆け出した。
地面の感触が足裏に響き、夜風が髪をなびかせる。
山猫亭の灯りが遠くに揺れるのが見えた。




