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誰かがカーテンを開いたのか、朝の陽光が俺の瞼を容赦なく抉るように差し込んできた。
重い瞼をこじ開けようとすると、オークに棍棒でぶん殴られたみたいに頭がガンガン鳴った。
俺はうめき声を上げ、イモ虫みたいにソファの上で転がり回る。
昨夜の酒の残骸が胃の底でまだ暴れてる感じがした。
俺が借りている冒険者向けの宿は古いが、その分だけ安くて広い。
石膏の壁が薄汚れていたり多少欠けているが、そんな細かいことを気にする奴は冒険者には少数派だから何の問題もなかった。
窓辺のカーテンが風に揺れて微かな音を立てる。
外からは街の喧騒がぼんやり聞こえてくる。
......ああ、今日もこの世界は回ってるんだな。
俺は二日酔いで死にそうだというのに。
「兄貴!起きなさいよ!いつまで寝てるの!?」
突然の怒鳴り声に俺の体がカエルのように跳ね上がった。
リナだ。
彼女の小さな手が俺の肩をガシガシと揺さぶる。
頭痛が酷くなり、腹の奥から何かが込み上げてくる。
止めてくれ!
おええ、吐きそうだ.....。
「ま、待ってくれ.....。このままじゃ起きる前にお前に殺されちまうよ」
「待たない!依頼を受けにいくって言ったわよね!」
リナは俺の目の前で仁王立ちし、両手を腰に当て、指で足をトントンと叩いてる。
金髪が陽光に輝いて、まるで怒りの化身みたいだ。
朝から元気が有り余っているな。
これが若さか...。
「頼む、もう少し......もう少しだけ寝かせてくれ......」
俺はソファに顔を埋めようとするが、リナの手が俺の首をガシッと掴んで止める。
細い腕なのにやたらと力強い。
そこらのモンスターよりもだ。
妹分の成長を実感できたことに喜びが湧いてくるが、それ以上の痛みに耐えきれず、俺は「グエエ」と悲鳴を上げながら体を起こした。
「ほら、起きて顔を洗う!そんな寝ぼけた顔で外を歩くつもり?」
「分かった.....、分かったから大声を出すのは止めてくれ。頭の中で響いて堪らねえ」
俺は死にそうになりながらソファから立ち上がった。
その時、懐から1枚の紙が滑り落ちた。
なんだこれ?
ショボショボする目を擦りながら目を通すと、そこには「売買契約書」という文字が並んでいた。
「貸して」
リナが俺の手から紙をひったくる。
紙に書かれた内容をチラリと見たリナは、訝しげに俺の鼻先に契約書を突きつけてきた。
「これ、店を買う契約書じゃない。山猫亭って何の店?なんでこんな店を買ったの?」
リナの言葉に俺の脳裏でフラッシュバックが走った。
酒場。レイジ。唐揚げ。契約書......。
一瞬で二日酔いの頭痛が吹き飛び、今度は血の気が引いて頭がクラクラとしてきた。
ああ、ヤバい。
「貸せ!」
俺は慌ててリナから契約書を奪う。
こいつは間違いなく契約書だ。
しかも、商人ギルドが作成した正式なもの。
魔法のインクで書かれた、俺の乱雑なサインが妖しげに青く光っていた。
この状況を前に、俺の悪い頭がようやく回転を始めた。
震える手を抑えながら、なんとか契約書の中身を読んでいく。
契約相手はレイジ。
山猫亭という店を買う。
店にいかなる問題があっても契約は撤回されない。
なんだこれと思っていると、横から契約書を覗き込んでいたリナが下の方の文章を指差した。
「これ何?金貨1000枚?兄貴、頭おかしいんじゃないの!?私がいない間に何やってんのよ!」
リナの声が部屋中に響き渡った。
俺は目を凝らした。
確かに店の購入代金として金貨1000枚の文字が書かれている。
......金貨1000枚?
俺の稼ぎの20年分だぞ!
酒に注ぎ込んでなくとも、そんな金はあるはずがねえ。
「待て待て、リナ。落ち着け。これは......投資だ!お前も転生者たちが大成功した話は知ってるだろ?レイジは転生者で、あいつが始めた唐揚げ屋で一攫千金だって言ってたんだよ。その店を俺が買って、でかく儲けるって寸法だ」
俺は必死に昨日のことを思い出しながら弁解する。
しかし、リナの目は冷たい。
そりゃ当然だ。
俺も手酷く酔ってなきゃ、こんな話には飛びつかない。
彼女は腕を組み、ため息をついた。
「投資?あんな胡散臭い男の話が信じられるとでも?とにかく店を見に行きましょう。契約をキャンセルしないと」
リナの瞳には苛立ちと心配が混じっている。
その言葉に俺は頷いた。
やっちまったものは仕方ねえ。
いや、俺が言うのもなんだが、今ここでそんなことを言い合っても時間の無駄だ。
今やるべきことは失敗のフォロー。
モンスターから一発いいやつを貰った後のように、とにかく被害を最小限に抑えなくちゃならねえ。
幸い代金はまだ払ってない。
金を回収しないと意味がないから、レイジもこの街から逃げるようなことはしてないはずだ。
俺は急いで顔を洗い、水をがぶ飲みして酔いを無理矢理覚ます。
俺たちは急いで宿を出て、店のある場所へと走った。
この街の大通りはいつも朝市や屋台でごった返してる。
パンや肉の焼ける香りがどこからか漂い、露店のおっさんが「新鮮なモンスターの肉だよー!」と叫んでる。
屋台では朝飯に飢えた住民のため、様々な料理を売っている。
丸いパンにチーズや砂糖を振りかけたもの。
小麦粉を水で溶いて薄く焼き、中に挽き肉や野菜を放り込んで、ソースをかけて巻いたもの。
粥に肉や魚を骨ごと突っ込んだごった煮。
普段ならじっくり眺めようとするところだが、今は屋台に群がる客が道を塞いでいるのに苛つくだけだった。
リナが俺の袖を引っ張り、路地裏の方を指差す。
確かにこっちの方が早え。
俺は走りながら考える。
レイジの奴を捕まえたとしてどうする?
どうやって契約をキャンセルさせる?
......クソっ、俺の頭じゃ名案が思い浮かばねえ。
目当ての店がある庶民街の隅へと足を進めると途端に景色が変わった。
石畳が土を固めた地面に代わり、建物の壁に落書きが目立ち始める。
大通りの店にあったようなガラス窓はなく、全部木の板で出来ている。
とはいえ、手もつけられないほど荒れてるわけじゃない。
スラム街に比べれば随分とマシだ。
契約書に書かれた住所によると、山猫亭は庶民街の南端、市場の喧騒から少し外れた路地にある。
立地としては可もなく不可もなくといったところ。
このあたりは路地でもそれなりに人の通りがあるから、飲食店をやるには悪くない。
そして、ようやく着いた店は......正直、期待外れだった。
店の見た目はいたって普通の木造の建物。
派手な看板が最大の特徴で、黄色地に太い黒字で「山猫亭」と書かれている
外から見る限りでは、まあ、20人くらいは入れそうだ。
外壁はところどころ塗装が剥げかけていて、埃が積もった木箱が店の前に放置されている。
店の扉は閉まったままで、通行人は誰も入ろうとしない。
閑古鳥が鳴く、ってこういうことか。
いや、朝早いから店がまだ開いてないだけって可能性もあるぞ。
「兄貴、本当にここ?なんか......寂しいわね」
リナが不安げに呟き、俺の背中を押す。
俺は意を決して店の扉を押した。
軋む音がして、中の空気が流れ出す。
埃っぽくて、かすかに油の匂いが......いや、なんか変な臭いだ。
取って時間が経った魚みたいな生臭さがする。
店内は薄暗く、閉じられた木の窓から差し込む光がぼんやりと照らしてる。
床には薄っすらと埃が積もっていて、客がいないのは昨日今日の話じゃなさそうだ。
椅子やテーブルは細かい傷だらけで、中には明らかに傾いたり傷んでいるものもある。
テーブルの上の皿に目が留まった。
見た目は少し黒ずんだ小麦色の揚げ物っぽい何かが皿に乗っているが、どうも生臭い異臭はそれが発生源のようだ。
飲食店に飾っていいものじゃねえだろ。
おいおいまじかよと思っていると、店の奥から女性が出てきた。
「ごめんなさい、店は今はやってないの」
店主らしき赤髪の女性が申し訳なさそうにしている。
パッと見て30歳くらいだが、彼女の顔は疲れ切ってて目元にクマが浮かんでいた。
背中まで伸ばした髪は紐で縛っているがあちこち乱れていて、エプロン姿はお世辞にも整っているとは言えない。
俺は咳払いして契約書を差し出した。
「あの、俺、カイルっていいます。レイジからこの店を買いました。昨日サインして......でも、えっと、キャンセルしたいなと思って」
俺のしどろもどろな説明を聞いて、彼女の目が見開かれた。
「レイジ......あの人はまだ帰ってきてないのよ。あなたがこの店を買ったって......本当?」
彼女は信じられないといった表情で契約書を受け取って、視線を落とす。
そして、顔を青ざめさせた。
「金貨1000枚......そんな大金でこの店を?嘘でしょ?」
そりゃそうだ。
この店をどんなにかさ増ししても金貨1000枚なんて値段はつかない。
土地と建物込みで金貨50枚くらいが妥当だ。
「信じられない......。私はメアリー、この店の店主よ。埃だらけの店で申し訳ないけど、お茶を出すから話を聞かせてくれる?」
メアリーがそう言ってテーブルの1つを指し示す。
「ええ、俺も色々と聞きたいことがあるので......」
俺はリナの方を振り返り、顎で椅子を指した。
とにかく話を聞かなきゃどうにもならねえ。
**********
メアリーから聞いた話を要約するとこうだ。
この店は元々メアリーと死んだ夫が始めた飲食店だったが、腕の良い料理人だった夫の死を切っ掛けに経営が傾いた。
彼女はなんとか店を続けようとしたが、夫とは違って彼女の料理の腕は並で、客足を呼び戻すことは出来なかった。
どうしようかと悩んでいるところにレイジが現れ、唐揚げという異世界の食べ物で店をやり直そうと言われた。
メアリーも転生者のことは知っていたので藁にも縋る思いで頼った。
だが結局大失敗に終わる。
唐揚げは不味く、店は大赤字で潰れる寸前まで追い込まれていた。
「えっと、もしかしてアレが唐揚げってことか?」
俺は震える指で遠くのテーブルに置かれている怪しげな皿を指差した。
「なんとかして料理を改善しようとしたんだけど......やっぱり上手くいかなくて」
メアリーは心底申し訳なさそうに頷いた。
改善しようとしてアレかよ。
そりゃ売れるわけがねえ。
俺は立ち上がって件の皿の前に立つ。
4つの塊は少し黒ずんだ茶色をしていて、表面は脂ぎってテカテカしている。
腐った魚のような匂いが鼻を突く。
こんな料理がレイジの世界じゃ大人気だってのか?
匂いはアレだが味は抜群ってことなのか?
「......試すしかねえか」
「えっ、兄貴、本気で言ってる?」
俺の言葉に反応したリナは恐る恐る皿を覗き込む。
「兄貴、ほんとに食べるの?なんか、ヤバそうだけど......」
「大丈夫だ、リナ。転生者様の知識だぜ。カリッとジューシーだってさ!」
俺は自分を騙すように叫んだ後、覚悟を決めて唐揚げを1つ摘み、目をつぶって口の中に放り込んだ。
一瞬で獣脂のクドい匂いが広がる。
我慢して噛む............肉が硬え。
肉の味が薄い上にパサパサに乾いた粘土を食ってるようで、「鳥の肉なんて食わねえよ」というこの街での評判通りだ。
調味料の味はするが肉とのバランスが酷く悪い。
いや、それより、この臭い!
口いっぱいに魚の内臓みたいな生臭さが爆発した。
「うえっ!」
俺は慌てて吐き出し、床に膝をついてゴホゴホと咳き込む。
埃が舞い上がって更に症状が悪化し、涙と鼻水がとめどなく溢れてくる。
まるでモンスターに投げつける目潰し玉を食らったみてえだ。
「げほっ!何だこれ!?レイジの野郎、こんなのを自慢してたのか!?」
苦しむ俺にビビりながら、リナも恐る恐る一口かじった。
そして、即座に顔を歪める。
「うわっ!メアリーさん、何これぇ!?」
メアリーは肩を落とし、彼女の目が遠くを見るように曇る。
「......それが唐揚げよ」
全てに絶望したようなか細い声で、メアリーは囁くように言った。
俺は咳を抑え、出されたお茶をゴクゴク飲む。
ハーブの苦みが口の中を洗う。
こんなに美味いお茶は人生初めてだった。
「この唐揚げをレイジの野郎が考えたってことかい?」
メアリーは頷き、皿を睨んだ。
「ええ。でも、レシピは単純よ。鳥の肉を調味料に漬けて、衣をつけて油で揚げるだけ。でも......レイジは料理下手なのよね」
最悪じゃねえか。
あいつ料理すらまともにできねえのかよ。
「周囲で取れる鳥モンスターの肉は硬くて不味いのに、『唐揚げは鳥を使うんだ』って無理やり使って。レイジの世界にあった『醤油』って調味料も見つからなくて。代わりに魚醤を......。あれは臭いが強すぎるのよ。この街の魚醤は特にそう。街の住人だって忌避してるのに」
リナが拳をテーブルに叩きつけた。
「魚醤!?それでこの臭いってことね。でも、なんでこんな料理を売ろうと思ったの?」
リナの顔には、「どう考えても売れないでしょ」という言葉が浮かんでいた。
メアリーは苦笑いを浮かべて目を伏せた。
「止めたわよ。でも、レイジは『慣れればクセになる』って。でもやっぱり客は一度食べただけで逃げ出して、すぐに誰も来なくなったわ。それで店は大赤字。レイジは悔しそうにしてたけど、失敗を受け入れられなかった。『この世界が悪い』って、料理を改善しようともしなかった」
メアリーの目から涙がこぼれ落ち、頬を伝う。
「私はなんとかしようとしたけど......どうしようもなくなって、赤字のせいで抱えた借金返済のために店を売ることになったの。そうしたら、レイジが『せめてもの償いとして、できる限り店を高く売ってくる』と言い出して、止める間もなく店の権利書を持って出ていって......それきり。慌てて探し回ったけど見つからず、途方に暮れていたの。そんなところにあなたたちが来たのよ」
店内に重い沈黙が落ちた。
唐揚げの臭いがますます濃く感じる。
俺は皿を遠くに押しやり、頭を抱えた。
あれだけ大興奮した店の中身がこれかよ。
胸の奥が痛くなってきた。
自分の馬鹿さ加減だけならまだしも、あの野郎はメアリーの人生まで狂わせやがったのか。
メアリーは子供がいないらしいから、この店は子供代わりみたいなものだっただろうに。
それを売るところまで追い詰めるとか、泣いて謝っても許されることじゃねえぞ。
「兄貴!これからどうすんの!?」
リナが俺の肩を掴んでガクガクと揺さぶってくる。
どうするったってよ......。
俺たちの絶望は店内にゆっくりと広がっていった。
**********
椅子に座りながら、メアリーはレイジの残した契約書を握りしめていた。
青い魔法インクの文字が指先に冷たい。
カイルの馬鹿正直な謝罪がまだ耳に残ってる。
あの2人が来る前、この店はただの墓場だった。
埃の匂いと夫の幻影だけが漂う静かな牢獄。
......あの人が残したこの山猫亭。
開店した日のことは今でも覚えてるわ。
あなたの大きな手が私の腰を抱いて、「これが俺たちの店だ」って。
あの人の腕が良かったから、店の席はすぐに埋まるようになって、客の笑い声が店の隅々まで響いてた。
子供はできなかったけど、この店が私たちの子供代わりだった。
でも、あの人が亡くなってからすべてが変わった。
腕の立つ料理人がいなくなって、私の腕じゃ味気ない料理しか出せなくて。
客たちも「味が落ちた」と去っていった。
途方に暮れて毎晩店で泣いてたわ。
このままじゃ店を失うのは分かってたけど、一人じゃ立ち上がれなかった。
必死になっても、技術や知識が追いつかない。
あなたがいない厨房はただの空洞だった。
レイジが現れた時、希望の光だと思ったの。
転生者の知識と別の世界の食べ物。
あなたが生きてたら、きっと笑って「試してみよう」って言ったでしょう。
でも、失敗だった。
なによりも許せないのはレイジを否定できなかったこと。
このままじゃ駄目だと思っていても、そこから自分の足で一歩を踏み出す勇気がなかった。
これが私の限界よ。
でも、カイルとリナが私の代わりに怒ってくれるのを見て、胸が熱くなった。
店を失う恐怖に足が震えるけど、せめてこの2人にはこれ以上の迷惑はかけたくない。
金貨1000枚なんて法外な値段は詐欺と変わらないし、なんとしても契約をキャンセルさせないと。




