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俺の名前はカイル、28歳の冒険者だ。
いや、冒険者なんて言葉は埃を被った古い鎧みたいに、俺の体にしっくり来なくなっちまったよ。
昔はよ、10代の頃は違ったさ。
村の外れで剣を振り回し、森のゴブリンどもを想像しながら木の枝をぶった斬ってた。
このバルハラムの街に来て、冒険者ギルドの扉をくぐったあの日。
今日から俺の冒険者生活が始まると胸が熱くなって、トップクラスの英雄たちみたいに名を馳せようって誓ったんだ。
ドラゴンを倒して村を救い、酒場で自慢話に花を咲かせ、金貨の山を築く......そんな夢を見てた。
けど、現実は残酷だ。
憧れの英雄みたいに一撃で巨大なモンスターを沈めるなんて、俺には夢のまた夢だった。
今の俺はいつものように冒険者ギルド併設の酒場で、独り酒を煽っている。
適当に伸ばしっぱなしにした茶色の髪をガシガシと掻きながら、意味もなく周囲を見渡す。
夕暮れ時のこの店はいつだって賑やかだ。
壁は煤けた木板で、ところどころにモンスターの角や牙が飾られている。
冒険者たちが勝手に飾りだして、店主が面倒になってそのままにした年代物だ。
カウンターの向こうでは太った店主がジョッキにビールを注ぎ、酔った冒険者たちがジョッキをぶつけ合いながら笑う声が響き渡る。
離れたテーブルでは、若い冒険者たちが大声で自慢話を繰り広げてる。
「おい、知ってるか?遂にワイバーンを一撃で仕留めたぜ!」
「嘘つけ、テメェの剣じゃオークにすら負けるくせに!」
こんな馬鹿騒ぎはこの店じゃ日常茶飯事だ。
煙草と酒の匂いが混じり合った空気は鼻を突くが、いつの間にかそれが心地よく感じるようになった。
俺の指定席はカウンターの隅っこで、埃っぽい魔法のランプの光がぼんやりと差し込むだけ。
俺みたいな落ちこぼれの席だ。
ジョッキの2杯目が空になったところで、ふとため息をついた。
今日こなした依頼は街外れに出たリザードマンの群れ退治。
報酬は銀貨3枚。
庶民なら贅沢しなけりゃ30回くらいは飯を食える額だ。
中堅冒険者としては物足りない金額だが、1日の稼ぎとしては悪くない。
だが、トップクラスの冒険者たちがドラゴン狩りで金貨をザクザク稼いでる横で、俺の人生はこれかよと不貞腐れるくらいの額でもある。
昔はよかった。
若い頃は将来を有望視されてた。
実力派のパーティーメンバーもいて夢見てたさ。
でも、いつしか壁にぶち当たって伸び悩み、20歳を過ぎた頃から酒瓶が俺の相棒になった。
自分への不甲斐なさに憤るより、酔いの心地よさが勝っちまったんだ。
今じゃ、知り合いの冒険者たちは俺を見て「あの野郎、また酔っ払ってやがる」って苦笑いする。
俺もそれでいいさ。
少なくとも今日も生きてる。
だから今日も、妹分の生活費を除いて残った金を酒に替える。
俺は店主に声をかける。
「もう1杯くれ」
店主は髭を撫で、呆れながらため息をついた。
「カイル、またか。リナに怒られるぞ。お前みたいな馬鹿正直なヤツが、酒で身を滅ぼすのは見たくねえな」
「心配すんなよ。俺は不死身だぜ。......まあ、明日から本気出すさ」
ジョッキが滑り込んできて、俺は一口で半分空にした。
雑味のある苦い泡が喉を滑り落ち、胸の奥のモヤモヤが少し溶ける。
冒険者の酒場はこんなもんだ。
夢破れた男たちの溜まり場さ。
壁際のテーブルでは、男エルフの弓手が魔法のハーブを巻き煙草にし、煙を吐きながら遠い森の話を呟いてる。
床は埃っぽく、時折誰かのブーツが床板を軋ませる音が響く。
外の通りから馬車の車輪が石畳を転がる音が漏れ聞こえてくる。
この街は夕暮れ時でも活気がある。
売れ残りを処分しようとする商人たちの叫び声、街灯を点ける魔法使いの呪文の残響、夜の闇市で売られる怪しげなポーション。
けど、俺には関係ねえ。
ただ酒を飲むだけだ。
「兄貴!またこんなところでサボってんの?」
突然の声に俺はジョッキを置いて顔を上げた。
酒場の入口から、こんなやさぐれたところに場違いな金髪の少女がずんずん入ってくる。
リナだ。
14歳の快活な少女で、俺の......なんつうか、妹分だ。
サラサラした金髪を動きやすいように短くまとめ、布の服の上に皮の軽鎧を身につけ、短剣を腰から下げている。
足には鎧をつけず、短いパンツの下にレギンスを履いた格好で動きやすさを重視していた。
腰の左右には魔法のポーションや煙幕が詰め込まれた小さなバッグをぶら下げている。
その姿はまさに索敵から戦闘までこなす狩人やレンジャーといったところだ。
3年前のあの日、俺は酒場帰りに路地裏を歩いてた。
雨が降りしきる中、ゴミの山に埋もれるように倒れてるガキを見つけたんだ。
それがリナだった。
両親を流行り病で失い、食うや食わずのストリートチルドレンに落ちていたところにたまたま出くわしたわけだ。
薄汚れた頰がこけ、ボロボロの服の隙間から骨が浮き出た体が見えて、俺は昔の自分を思い出した。
夢を追って村を出たはいいが金もコネもなく、ギルドで受けた依頼に失敗して飢えと寒さに震えた初級冒険者の日々。
思わず手を差し伸べて、「よし、飯食おうぜ」って連れてった。
それ以来、こいつは俺の頭脳担当となり、俺は体力担当になった。
そう、恥ずかしながらリナが俺を引っ張ってる。
こいつは俺を「兄貴」と呼ぶが、実際は俺の面倒見役だ。
叱るのも作戦を考えるのも全部リナ。
俺みたいな駄目人間をなんで見捨てないのか。
きっと拾われた時の恩義だろ。
俺はジョッキを口に運び苦笑する。
あのガリガリの体が今じゃ筋肉もついてモンスターとも戦えるようになり、世界の終わりを見つめるようだった顔が笑みを見せてくれる。
それだけで俺の人生も捨てたもんじゃねえなと思う。
リナはカウンターに肘をつき、俺のジョッキを睨みつけた。
普段なら快活な顔立ちに大きな瞳がキラキラしてるが、今は眉間にシワが寄ってる。
いつものお説教モードだ。
「兄貴、また飲んでるの?明日狙ってる依頼を受け損ねたらどうすんのよ!あの薬草採取の依頼、簡単で報酬いいんだから!」
リナの声は鋭いが目には心配が滲んでる。
俺はジョッキを置いて彼女の頭を軽く撫でる。
リナはムッとして手を払うが嫌がってるわけじゃねえ。
「今日の依頼の報酬、全部ここに消えたんでしょ?明日の朝ごはん代もないんじゃないの?」
俺はにへらと笑ってジョッキを傾けた。
「おいおい、リナ。いくら俺でもそんなすぐには使い切れねえよ。それに酒は冒険者の活力源さ。ほら、果実水奢ってやるからお前も座れ」
「いらないわよ!兄貴みたいな呑兵衛の真似なんてしたくないの!」
リナはぷんすか怒って俺の肩をぺちん!と叩く。
力は弱いけど心が痛い。
こいつは俺の馬鹿さを容赦なく突き刺すんだよな。
でも、それが嫌じゃない。
むしろ、こいつの叱咤が俺の堕落した日常の唯一の清涼剤だ。
「ったく、わかったよ。明日から本気出すって。薬草ついでに適当なモンスターでも狩って小遣い稼ぎしようぜ!」
「はいはい、いつもの口だけね。ちゃんと寝てよ兄貴。明日の朝一で依頼を受注しにいくからね」
リナはため息をつきながら、俺の隣の椅子に腰を下ろした。
それを見るや否や、店主が音もなく彼女好みのハーブを使った甘い炭酸水を出してくる。
この店の連中は皆リナの味方だ。
リナはそれを啜りながら俺を睨む。
このままだとまたお説教が始まりそうだ。
そんな時だった。
酒場の扉がキィと軋んで開いた。
入ってきたのは見たこともない男。
黒髪をきっちり撫でつけ、汚れてよれたスーツという珍しい服を着ている。
紺色のジャケットに、上等そうな白いシャツ。赤いネクタイまでしてやがる。
眼鏡の奥の目は疲れと苛立ちで曇っていた。
この街じゃこんな格好は浮きまくりだ。
街の連中は布やら麻やらの服を着ている。
絹のローブを着た貴族か、魔法使いのマント姿の方がよっぽどマシだ。
男はカウンターに近づき、店主に声をかけた。
「ビールを一杯。......いや、もっとマシな酒はないか?」
店主が怪訝な顔でジョッキを差し出す。
「これがうちの最高だぜ旦那。街一番のビールだ」
男は一口飲んで顔をしかめた。
「......ふん。相変わらずこの世界の酒は不味いな。薄くて、雑味だけが強い。地球のビールならもっと泡がきめ細かくて......。転生するにしてももっとマシな世界があっただろ」
その言葉に俺の耳がピクッと反応した。
「地球」?「転生」?
待てよ......こいつは転生者だ!
俺はジョッキを叩きつけるように置き、男をマジマジと見つめた。
転生者だか転移者だかといえば、別の世界から来た奴らのことだ。
この世界じゃこいつらの噂は絶えねえ。
謎の知識で大金持ちになった伝説が世界中にゴロゴロしてる。
蒸気機関を搭載した船を作って交易で荒稼ぎした奴や、未知の作物で農園帝国を築いた奴らだ。
歩く金山みたいな存在だぜ!
「よお、兄さん!この席が空いてるぜ。一杯奢るから座れよ!」
男はこちらを振り返り、俺をチラリと見た。
少し警戒した目つきだが、タダ酒の誘惑に負けたのか俺の隣の席に腰を下ろした。
リナは怪訝そうに男を睨んでる。
「兄貴、何よ急に。知らない人に絡むなんて......」
リナがそう言いかけたところで、店の入口から顔を覗かせた婆さんが彼女を呼ぶ声が聞こえた。
それに気付いたリナは立ち上がり、「変なこと企まないでよ」と言い残して、カウンターの上に銅貨を置き入口へ向かう。
彼女の金髪が揺れるランプの光に照らされて、キラキラ光る。
リナはすぐに談笑を始め、笑い声が漏れ聞こえてくる。
あいつは友達多いんだよな。
俺は仕切り直して男に向き直る。
「待たせて悪かったな。俺はカイル、冒険者だ。さっきの独り言が聞こえたぜ。『地球』だって?あんた転生者か転移者だろ?」
男はビールを一口飲んで肩をすくめた。
「......レイジだ。バレたか。隠す気もなかったけどな。俺は転生者だよ。元の世界で死んだと思ったら、いつの間にかこの格好でこの世界にいたんだ。このクソみたいな世界に来て、もう1年か。最初は現代知識で荒稼ぎするつもりだったのに、ろくなもんじゃない」
俺は興奮を抑えきれずジョッキをぶつけた。
「すげえな!転生者って、歴史に残る大成功者ばっかだぜ。話聞かせてくれよ。その手の話が好きなんだ!」
レイジは苦笑いを浮かべた。
「ふん、期待外れだよ。俺の知識は半分以上役立たずさ。簡単に作れる物は既に作られてるし、手の込んだ物を作ろうとしたらこの世界の素材が追いつかない。......まあ、今は一発逆転の目処がついた。『山猫亭』って店で、唐揚げ屋を始めたんだ」
「唐揚げ?なんだそりゃ?」
「俺の世界の料理だ。鶏肉を下味をつけて、衣をつけて油で揚げる。シンプルだけど、クセになる味さ。誰だって生きてれば腹は減る。食べ物は金を稼ぐのには持って来いだ。下手に小難しい工業品を作ろうとするより、最初からこうすりゃよかった。俺の知識なら絶対売れる商品になるはずだ。一攫千金は目前だ」
レイジの曇った目が初めて輝いた。
その自信たっぷりの姿に俺の胸がざわつく。
俺は店主から新しいジョッキを2つ貰い、1つをレイジに押しつけた。
「凄えな!詳しく聞かせろよ。鶏肉って、鳥モンスターの肉か?この辺じゃ、狩るのが面倒な上に不味いから誰も食わねえよ。逃げ足速くて、肉は固くてパサパサ。俺は昨日も一羽狩ったけど、素材を取った後は捨てちまったぜ」
この街で人気なのは豚や牛のモンスターだ。
脂の乗った丸々と太った猪のモンスターとかでもいいが、鳥モンスターはどいつも細くて肉が少ないからなおさら見向きもされねえ。
だが、レイジは不思議そうにする俺を笑い飛ばした。
「ハハ、そんなもんか?いや、俺のレシピなら違うさ。特製の調味料で柔らかく仕上げるんだ。醤油をベースに......まあ、細かい話は置いといて。想像してみろよ。きつね色に揚げられてカリッとジューシーで、噛むたびに脂と旨味が爆発する。皆が夢中になるに違いない!」
その言葉に俺の頭が熱くなった。
唐揚げ......聞いたことねえけど、レイジの熱弁は本物っぽい。
なんといっても転生者様の知識だぜ?
金の匂いがする!
「おお、想像しただけで腹減ってきた!もっと話を聞かせてくれよ!あんたの世界の話とかさ!」
「いいぜ、俺が生活してた世界だと、小さな板が電気で動いてて......」
俺とレイジはその調子で酒を飲みながら話を続ける。
レイジは「酒が強くないから」と言って飲むペースを抑えるが、興奮した俺はむしろペースがいつも以上に早くなった。
気がつけばジョッキの山が出来上がり、俺はベロベロに酔っていた。
もう自分が何を喋っているのかもよく分かってねえ。
レイジの話は面白え。
それにどこか俺と似た空気を感じる。
俺はトップクラスの冒険者を目指して挫折した身の上だが、レイジの目にも同じやさぐれた影がある。
失敗続きだって呟く姿が写し鏡みたいだ。
「よし、レイジ。俺が手伝ってやるよ。唐揚げ屋、一緒にやろうぜ。俺に食材の狩りを任せろ!」
俺の言葉にレイジは目を丸くし、笑い出した。
「本気かよ?いや、でも俺の店、ちょっと問題があってさ......。あ、そうだ。そこまで乗り気なら店の権利書を売るよ。お前みたいな熱い奴に託すなら悪くない」
「店を買う?いいのかよ。お前の店だろ?」
「いいんだよ。やる気がある奴の方が上手くいく可能性が高いだろ?」
「確かにそうだ!流石転生者様、いいこと言うぜ!」
完全に酔った勢いだ。
頭のどこかで「待てよ」って声がしたけど、酒がそれを掻き消す。
レイジは懐から紙を取り出した。
魔法のインクで書かれた2枚の契約書。
文章に目を通すが頭には何も入ってこねえ。
「いいぜ、やってやる!」
俺はペンを握り、勢いでサインを書き込んだ。
レイジが「マジかよ、こいつ」と呟く声が遠く聞こえた。
だが、聞き返すよりも先にレイジは契約書の1枚を懐にしまい込み、空いた片手でジョッキをぶつけてくる。
「決まりだ、カイル!明日から大儲けだぜ。俺の夢、叶えてくれよな!」
レイジは立ち上がり、店を出て夜の闇に消えた。
俺は契約書を懐に入れ、カウンターに突っ伏して満足げに笑う。
そのまま寝落ちしそうになるが、戻ってきたリナに肩を揺すられてなんとか立ち上がった。
「兄貴、何を話してたの?あの男、胡散臭かったわよ」
「大丈夫だよ、リナ。明日から大儲けだぜ......唐揚げ屋だ。世界一の味だってよ」
そう呟きながら懐から金を出して店主に渡し、千鳥足で歩く。
俺は宿に着くなりソファに倒れ込んだ。
ベッドはリナが寝る場所で、俺の寝る場所はここだ。
頭ん中は黄金の唐揚げの山でいっぱいだった。
夢の中でさえ酒の泡が弾ける音がした。
**********
リナは酒場の外で知り合いの女冒険者と談笑していた。
すっかり日が落ちて暗くなり、街灯が石畳を白く照らしている。
知り合いの露店婆さんと立ち話してたけど、兄貴の酔った笑い声が酒場から漏れてきて、思わずため息が出た。
あの兄貴、今日も馬鹿やってる。
何の話をしているかまではよく聞こえないが、転生者という言葉は聞き取れた。
思わず眉をひそめる。
噂じゃそいつら金持ちになる人間は多いけど、胡散臭いのも多いわよ。
窓から酒場の中を伺うと、兄貴の目がキラキラしてるのが見えた。
ああ、また勢いで変なことに首を突っ込まないといいんだけど。
3年前、雨の路地でうずくまっていた時、兄貴が「飯食おうぜ」って笑顔で手を差し伸べてくれた。
あの温もりが自分の心の支えだ。
飢えと孤独に怯えながらもどこか全てを諦めていた自分が、今じゃ兄貴の隣で笑っている。
あの時の私は路地裏で死を待ってた。
ガリガリに痩せて手足の骨が浮いて、誰も近寄らないゴミみたいだった。
あの時、兄貴が通りかかって、私の目の前で何度も立ち止まっては迷って......。
以来、私は兄貴を叱る立場になったけど見捨てられないの。
馬鹿だけど兄貴が私に残された最後の希望なんだから。
ため息をつき星空を見上げる。
「兄貴、明日も一緒に頑張ろうね」
そう呟くとようやく胸のざわめきが静まった。
兄貴の馬鹿正直さが自分の小さな世界を照らす光だった。




