第9話 太公望、釣りから帰らず
「世界が騒ぐほど、魚は逃げる。」
サロマ湖の朝。
霞の中で、一本の釣り竿が静かに揺れていた。
太公望は、いつもの岩の上で座っていた。
風もない。
話題もない。
ニュースもない。
つまり、最高の朝だった。
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しばらくして、空がばさばさと羽音を立てた。
白い羽根が落ちる。
ルシファー先輩だ。
「……また逃げてきたのか?」
「はい……広告部が地獄新聞に買収されかけてまして……」
「そうか。じゃあ座れ。」
太公望は隣を指した。
ルシファーはほっとしたように腰を下ろした。
湖面に二人の影が並ぶ。
「何もしてない時間って、いいですね。」
「してないわけじゃない。魚を待ってる。」
「釣れてませんけど。」
「信仰も魚も、待てば寄ってくる。」
「いや寄ってこないですよ……」
風が吹いた。
竿先がかすかに動いたような気がした。
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その後ろから、水しぶきと共に妲己が現れた。
全身ずぶ濡れだ。
「はぁ〜、地獄温泉のロケが流れたのよ。で、気づいたらこっちに来てたわ♡」
「歩いて?」
「転送ポータル♡」
「……禁止されてるだろ、あれ。」
「いいの、リフレッシュ休暇よ♡」
妲己は勝手にルシファーの膝の上に腰を下ろした。
「ちょっ……妲己さん!」
「ルシファー、あなた肩が凝ってるわよ?」
「地獄より地獄です……」
太公望はため息をついた。
「魚がまた逃げた。」
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続いて神様も現れた。
手にはクーラーボックスと焼きそばパン。
「差し入れ持ってきた!」
「お前も逃げてきたのか。」
「いや取材だよ! “湖畔で語る愛と光”特集!」
「帰れ。」
しかし神様はどっかり座り込み、焼きそばパンを半分にちぎって太公望に差し出した。
「ほら、うまいぞ。」
「焼きそばが信仰を超えた味をしているな。」
「でしょ!」
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やがて閻魔も現れた。
仕事用のスマホを握りしめたまま、地獄色のスーツで。
「……妲己が消えたと思ったらやっぱりここか。」
「休暇よ♡」
「お前の休暇、いつも職権乱用だろ。」
「閻魔も座れば? この湖、静かで癒されるわよ♡」
「いや俺は――」
ドサッ。
もう座っていた。
ルシファーと妲己に挟まれて、閻魔は悟った。
(逃げられねぇ……)
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そしてしばらく誰も喋らなかった。
風がそよぎ、波が岩を撫でる音だけが響く。
世界が静かだった。
妲己がぽつりと言う。
「……こんな静かな時間、いつぶりかしら。」
ルシファー「地獄も天界も、音が多すぎるんですよ。」
神様「スレも更新止まってるな……」
閻魔「誰も燃えてない……いいことだ。」
太公望はにやりと笑った。
「お前たち、静かにしてろ。魚が笑ってる。」
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日が暮れ始め、湖は金色に染まった。
太公望はゆっくり竿を引いた。
何かが、確かにそこにいた。
けれど釣り上げない。
ただ、静かに糸を緩めた。
「釣れたんですか?」ルシファー。
「いや、もう十分だ。」
「何がです?」
「平和だよ。」
妲己は目を細め、湖に頬杖をついた。
「ねぇ、太公望。」
「なんだ。」
「この世界、まだ救えると思う?」
「救う? そんな大層なこと、俺にはわからん。」
「じゃあ?」
「魚を釣って、笑えるうちは大丈夫だ。」
閻魔が笑い、神様が笑い、ルシファーがほっとした。
妲己は黙って、ただ湖面に映る光を見つめていた。
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夜になり、みんな眠ってしまった。
太公望は火をくべながら、小さく呟いた。
「……世界は静かにならん。だから、せめて釣り糸くらいは静かであれ。」
風が答えるように波を撫でた。
月が昇る。
湖面が揺れ、魚が跳ねた。
妲己「ねぇ、次は温泉回でしょ?」
閻魔「お前の休暇多すぎる。」
ルシファー「でも……行きたいですね。」
太公望「また釣り竿持っていくか。」
神様「いや温泉に釣りは関係ないだろ!」
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次回予告
第10話「天照、初のスレ出演」
ついに、太陽が掲示板に降臨する。
――「あの、初めてなんですけど、どうやって炎上するんですか?」




