大臣と女王の決定的な溝
老大臣は、玉座の間に一人で立っていた。
この部屋に立つのは、
何度目になるだろうか。
かつては、
王の背後に控える場所だった。
今は、
女王と向き合う場所になっている。
それだけで、
時代が変わったことを、
嫌というほど実感させられた。
⸻
「……入りなさい」
女王の声が、
奥から響いた。
大臣は、一歩、前に出る。
女王は、玉座に座っていた。
王冠を載せ、
背筋を伸ばし、
視線は、少し高い位置にある。
だが大臣は知っている。
この姿勢は、
威厳のためではない。
――倒れないためだ。
⸻
「進言がございます」
「聞きましょう」
声は、冷静だった。
だが、余白がない。
大臣は、
一瞬だけ、言葉を探した。
「……民の反発が、広がっております」
女王は、瞬きひとつしない。
「想定内です」
「ですが、今のままでは――」
「国は、持ちます」
女王は、即答した。
その速さに、
大臣の胸が、かすかに痛んだ。
⸻
「陛下」
――この呼び方を、
使うべきか、
一瞬、迷った。
だが、
もう戻れない。
「民は、敵ではありません」
女王の視線が、
初めて、
大臣の方へ向いた。
「知っています」
「ならば、なぜ……!」
大臣は、
思わず声を強めた。
女王は、
それを咎めなかった。
ただ、静かに言った。
「敵にしないためです」
⸻
大臣は、言葉を失った。
理解できてしまったからだ。
民の声を拾い続ければ、
判断は遅れる。
遅れれば、
混乱が広がる。
混乱は、
血を呼ぶ。
――彼女は、それを知っている。
だが、それでも。
「……それでも、対話という道が」
「時間があれば、選びました」
女王は、淡々と答えた。
「ですが、今はありません」
⸻
沈黙。
玉座の間に、
重たい空気が落ちる。
大臣は、
かつての姿を思い出していた。
庭園で、小鳥を見つめていた少女。
下町で、子供にパンを差し出した王女。
あの子は――
こんな言葉を、
こんな顔で、
言う子ではなかった。
「陛下……」
声が、
わずかに震えた。
「あなたは、まだ……」
その先を、
女王が遮った。
「“まだ”ですか」
その声は、
初めて、
感情を含んでいた。
「大臣」
女王は、
ゆっくりと立ち上がった。
「私は、もう“途中”ではありません」
「選びました」
「戻る道も、残していません」
⸻
大臣は、
何かが、
完全に崩れる音を聞いた気がした。
「……あなたは」
言葉を、
絞り出す。
「あなたは、あまりにも……」
女王は、
一歩、前に出た。
「分かっています」
「優しすぎた」
「だから――」
女王の声が、
低く、確かなものになる。
「優しさを、捨てました」
⸻
その言葉は、
刃だった。
大臣は、
初めて、
後ずさった。
「捨てた、のではありません」
彼は、
必死に言った。
「押し殺しているだけだ」
「陛下は――」
「やめてください」
女王の声が、
はっきりと、
拒絶を帯びた。
「それ以上、私を“少女”に戻さないで」
⸻
その瞬間、
大臣は悟った。
――もう、言葉では届かない。
彼女は、
“理解される”ことを、
選ばなかった。
“誤解される”ことを、
選んだのだ。
国のために。
⸻
「……承知いたしました」
大臣は、
深く、頭を下げた。
それは、
忠誠の礼だった。
同時に――
別れの礼でもあった。
女王は、
何も言わなかった。
ただ、
視線を戻し、
玉座に座った。
⸻
その背中を見ながら、
大臣は思った。
――私は、
彼女を止められなかった。
――いや。
止める覚悟を、
持てなかった。
⸻
玉座の間を出た後、
大臣は、
長い廊下を歩いた。
足音が、
やけに大きく響く。
もう、
あの子を、
名前で呼ぶことは、
できないのだと。
それを、
誰よりも早く、
理解してしまったのは――
皮肉にも、
彼自身だった。




