異国に嫁いだ姫の記憶
姉は、いつも少し先を歩いていた。
手を伸ばせば届く距離。
でも、完全に並ぶことは、なぜか許されていない気がしていた。
それが、姫にとっての「女王」だった。
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姫が初めてこの城に来たのは、まだ物心がつく前だった。
政のために養子に。
友好の証。
そんな言葉の意味を理解するには、幼すぎた。
ただ、覚えているのは――
大きな城と、知らない匂い。
そして、手を強く握ってくれた、ひとりの少女。
「だいじょうぶ」
その声は、震えていなかった。
だが、強がりでもなかった。
姉――
まだ王女だった彼女は、姫より少しだけ背が高く、
それでも大人たちの前では、いつも背筋を伸ばしていた。
「この子は、私の妹だから」
そう言って、姫を自分の後ろに隠した。
その時、姫は思った。
――ああ、この人の後ろなら、怖くない。
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城での生活は、息が詰まるほど静かだった。
笑ってはいけない場所。
走ってはいけない廊下。
触れてはいけないもの。
だが、姉は時々、その「決まり」を忘れた。
夜、侍女たちの目を盗んで、姫の部屋へ来る。
「ねえ、今日ね」
そう言って、他愛もない話をする。
庭で見た花の色。
書庫で見つけた不思議な数字。
城下から聞こえた歌。
姫は、その話を聞くのが好きだった。
姉の声は、
王族のそれではなく、
ひとりの少女の声だったから。
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小鳥の事件のことも、姫は覚えている。
あの日、姉はいつもより静かだった。
庭園を歩く途中、突然立ち止まり、
何かを見つめて動かなくなった。
姫も、同じ方向を見る。
小さな、小さな命。
「……怪我してる」
姫がそう言うと、
姉はゆっくりと頷いた。
「怖がってる」
その言葉に、姫は少し驚いた。
怪我のことではなく、
感情を先に口にしたからだ。
姉は、小鳥に近づいた。
侍女たちが息を呑むのが、分かった。
「静かにしよ」
姉の声は、柔らかく、しかし迷いがなかった。
姫は、その背中を見ていた。
――ああ、と思った。
この人は、
傷ついたものの目線まで、ちゃんと降りる人だ。
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小鳥が空へ飛び立った後、
姉はしばらく、空を見上げていた。
「ねえ」
姫が声をかける。
「よかったね」
すると姉は、少しだけ笑った。
「うん」
それだけだった。
でも姫は、その横顔を見て、
なぜか胸がきゅっと締めつけられた。
(この人は……)
喜んでいるのに、
同時に、何かを失ったような顔をしていた。
その意味を、姫はその時、分からなかった。
姉が変わり始めたのは、
「外」を知ってからだった。
下町から戻るたび、
姉の言葉は少なくなり、
笑う回数も減った。
それでも、姫の前では、
できる限り“姉”であろうとしてくれた。
「今日は寒かった?」
そう聞いてくる声は、
以前と同じようで、
どこか無理をしていた。
姫は、それに気づいていた。
でも、気づかないふりをした。
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姫がこの国を去ると知らされたのは、
十二歳の冬だった。
「婚姻が決まった」
大臣の声は淡々としていた。
外交のため。
平和のため。
国と国をつなぐため。
姫は、頷いた。
拒否という選択肢が、
最初から存在しないことを、
彼女は知っていた。
それでも――
姉の顔だけが、脳裏に浮かんだ。
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知らせを聞いた夜、
姉は何も言わなかった。
姫の部屋を訪れ、
いつものように椅子に座り、
しばらく黙っていた。
「……行くんだね」
その声は、静かだった。
「うん」
姫は答えた。
「怖い?」
そう聞かれて、
姫は一瞬、言葉に詰まった。
怖くないと言えば、嘘になる。
でも、怖いと言えば、
姉を困らせてしまう。
だから、こう言った。
「でも、姉さまがいるから」
姉は、その言葉を聞いて、
ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
そして、微笑んだ。
「そっか」
その笑顔は、
優しかったけれど――
どこか、決意の色を帯びていた。
⸻
出立の日。
城門の前で、
姫は姉と向かい合った。
姉は、王女としての装いだった。
だが、姫には分かった。
(今、ここにいるのは……)
――王女じゃない。
――姉だ。
「向こうでも、ちゃんと食べて」
「無理しないで」
「自分を守ること、忘れないで」
次々に言葉が溢れる。
姫は、思わず笑ってしまった。
「姉さまのほうこそ」
その瞬間、
姉は、姫を強く抱きしめた。
公の場では、
決して許されない行為。
でも、誰も止めなかった。
「……生きて」
耳元で、姉が囁いた。
「どんな形でもいいから」
姫は、抱き返した。
「姉さまも」
そう言ったとき、
姫は初めて、
姉の鼓動が、
わずかに速いことに気づいた。
⸻
異国は、すべてが違った。
言葉。
食事。
空の色。
姫は「王妃」として扱われ、
丁重に、しかし距離をもって迎えられた。
孤独は、
夜になると、はっきりと姿を現した。
それでも、姫は耐えた。
姉が、
きっともっと重いものを、
背負っていると知っていたから。
⸻
数年後。
噂が届くようになった。
――この国の女王は、
――絶対王政を敷いた。
――民の声を聞かぬ、
――冷酷な統治者だと。
人々は言った。
「変わってしまった」
「血の女王だ」
姫は、その言葉を、
一つも信じなかった。
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なぜなら、姫だけは知っていた。
姉が、
誰よりも人の声を聞いてしまう人だったことを。
聞きすぎて、
耐えられなくなったことを。
優しさのままでは、
守れないものがあると、
気づいてしまったことを。
⸻
姫は、夜ごと窓辺に立ち、
遠い空を見上げた。
「姉さま……」
もし、あの時、
自分がそばにいられたなら。
もし、
姉が弱さを見せられる相手が、
もう一人いたなら。
そんな考えが、
胸を締めつける。
でも、姫は分かっていた。
――それでも、姉は選んだ。
誰かに理解されるためではなく、
国を生かすために。
姫だけが、
その選択の“理由”を、
理解してしまった。
それが、
彼女の誇りであり、
呪いでもあった。




