そして、フロントランナーは草を食む
ジャパンカップから一夜明けた。
厩舎は報道陣とファンでごった返していた。
朝からテレビ局、スポーツ新聞、YouTuber、果ては地元の小学生新聞まで取材に来る始末。
そんな中、当の本人――いや、本馬のフロントランナーは。
「……モグモグ」
ひたすら青草を食んでいた。
「スターになったんだぞ!?ちょっとは凛としろよお前!」
担当厩務員・マツオが半泣きで叫ぶ。
「凛と草食ってるから許して」
助手がすかさずボケを被せてくる。
周囲が浮足立っていても、馬は馬。GⅠ馬になったところで、やることなんて変わらない。
朝ごはん、トレッドミル、放牧、昼寝、夕ごはん、そしてまた寝る。
記者が興奮して尋ねる。
「次は有馬記念ですか!?ドバイですか!?凱旋門賞!?」
調教師・佐久間は言った。
「いや……どうしましょうね。有馬も悪くはないが……」
と、そのとき。横から厩務員マツオが口をはさんだ。
「先生、すみません。あの馬、有馬の中山競馬場の坂、登ったことありません」
「……あ」
皆、言葉を失った。
だが、そんなフロントランナーにもドラマは続いていた。
そして彼の周囲が変わり始めた。
調教の時計を出せばすぐにSNSで拡散、新しいゼッケンを着せれば即座に写真が出回り、取材陣が寝ワラを取り替える瞬間すら写真に収めようとする
「おい!その寝ワラGⅠ仕様とか言って売るつもりか!?」
「500円でファンに配るって広報が……」
「やめろやめろやめろ!」
さらには、馬主の娘(小学生)がフロントランナーをモデルに絵本を作成。
その名も――『のーまーくの ばけものうま』
絵本の中のフロントランナーは、なぜか耳が4つある。
ある日、ジャパンカップでフロントランナーに抜かれて敗れた三冠牝馬リリアントが放牧地から帰ってきた。
「……お前、本当に勝ったんだな」
厩舎裏で、リリアントがぽつりと呟いた。
「あんたが前にいるのが信じられなかったよ。ずっと後ろ姿しか見たことなかったのに」
フロントランナーは、なにを言うでもなく、ただ静かに鼻を寄せた。
「バカみたいな大逃げだった。でもさ、あたし、ちょっとだけ――かっこいいって思ったんだ」
リリアントの目に、涙がにじんでいた。
「……悔しいけど、ありがとう。もう一度、勝ちたいって思えたのは、あんたのおかげだよ」
ふたりは黙って、しばらく同じ空気を吸っていた。
伝説から1ヶ月後、ファン感謝デーでフロントランナーは公開調教に登場。
スタンドに集まった約4万人の大歓声の中、田村騎手が騎乗して馬場を軽やかに駆ける。
だが――
途中で草を見つけて止まり、モシャモシャと食い始めた。
場内は大爆笑。実況が叫ぶ。
「これがノーマーク王者、フロントランナー!走っても、食べても、自由奔放!」
調教師の佐久間が笑いながら言った。
「まったく……“絶対”を覆した馬が、次に覆すのは“常識”かもな」
芝生に寝転ぶ馬体。ファンの笑い声。どこまでも穏やかな空。
フロントランナーは今日も、何にも縛られず――モグモグと草を食んでいる。
GⅠ馬?ヒーロー?
そんな肩書きは、彼にはどうでもよかった。
彼はただ、走りたいときに走り、食べたいときに食べ、そして誰にも縛られずに生きていた。
その姿こそが、競馬ファンにとって何よりの癒しとなり、
そして――ちょっぴり泣ける理由になった。