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もしもその願望が現実ならば

 甘い匂いが鼻をつく。これまでに嗅いだことのない、何とも言えない良い香りだった。

 

「……誰かの香水か?」

 

 そう尋ねれば、皆首を傾げる。

 所員の中には香水をつける者もいる。番の香りは本能的に理解するから、誰が香水をつけていても問題がないとして禁止していない。

 これほどまでに良い香りなのに、誰も気が付かないのか? まさかと思って香りを辿れば、それは書類だった。事務員が届けに来たただの書類。それから、抑制剤が完成しているとするなら、時間的に効果が切れていることに気付く。

 

「……この書類は誰が?」

「え? えーと、確かカルラ……カルラ・バスケスとかいったかな。少し前に事務員として雇われた女性ですよ」

 

 カルラ・バスケス……。

 きっと人間だろう。同じ獣人であれば番がそばにいて普通でいられるはずがない。

 抑制剤を作っている身ではあるが、同じ獣人同士なら同じ気持ちで相手を求められる。ただ相手が人間であれば話は別だ。人間は番が分からない。分からないのに、一方的に情をぶつけられるのだ。これほど迷惑なことはないだろう。たとえ相手が王侯貴族だろうとなんだろうと、母のように愛する相手がいたなら尚更だ。

 

 父は竜人としては理性的なほうで、母の気持ちを尊重した。母は婚約者との婚姻を望んだが、母方の祖父母は貴族らしい考えの持ち主であり、公爵家である父との婚姻を母に強制した。

 全てを諦めて嫁いできた母に、父は懸命に尽くした。それは今でも変わらない。竜人は番を何よりも大切にする。幼い頃の私は弟や妹が欲しいと言って父を困らせた。母はただ静かに微笑んでいた。

 だが、私が生まれた後、父は母を求めなくなったのだそうだ。スペアが生まれたのだから、義務は果たしたことになる。大人になってからそのあたりの事情を聞き、私の中のすべての辻褄が合った。

 父は番である母を愛しているが故に、これ以上母に無理を強いたくなかった。なにより愛されないことが苦しかったのだろう。竜人の番となると、相手が竜人でないかぎり寿命差が大きい。竜人は己の命を分け与え、余命を同じぐらいにするのだ。それを父は母にしていないという。母も望んでいないだろうが。

 母は子供である私や兄に愛情深く接してくれるが、時折どこか遠くを見ることがあった。あれはきっと、愛していた、いやもしかしたらまだ愛している元婚約者のことを思っているのではないだろうか。


 自分の番がもし人間だったなら──そう思ったら耐えられなかった。私は父と兄に番を認識できなくなる抑制剤を研究開発する機関を作りたいと願った。

 番を求めるのが本能とはいえ、それが故に起こる問題も多くあった。王侯貴族は政略結婚もある。番ではない相手とも婚姻を結ばねばならない。つまり、困るのだ、番という存在がいると。本来なら喉から手が出るほどに求める存在が、問題の種となることがある。婚姻後に番を見つけ出し、本妻を蔑ろにしてしまうことにでもなれば、いくら番がそういうものだと理解していても本妻の心情は穏やかではないだろう。政略結婚で愛が双方になかったとしてもだ。心はそんなに簡単なものではない。

 

 父と兄は私が番を認識しない抑制剤の研究所を作りたいと申し出た時、反対しなかった。意外なことに母だけが反対した。何故今更という気持ちなのかもしれない。自分だけが犠牲になったようで嫌なのかもしれない。母は優しい人だが、心の中に触れられたくない部分というのは誰にでもある、母にとってはそれがそうなのではないだろうか。

 

「ただ彼女、もう辞めたらしいです」

「……そうか」

 

 もしこの香りが彼女のものならば、彼女は私の番の可能性が高い。私の前から去ってくれてよかった。

 望まぬ婚姻など、不幸しか呼ばない。

 

「それにしても所長は番を徹底して嫌いますね」

「番が嫌いなのではない、双方の思いが等しくない関係が嫌なだけだ」

「でもそれは政略結婚だって同じでしょう」

「それはそうだが、寿命までは変わらんだろう」

「あぁ、そうか、寿命を分け合うんでしたね」

 

 納得して頷く彼は人間だ。番という仕組みに関心があり、この研究所に研究者として入った。

 

「それにしてもバスケス嬢は本当に人間だったんですかね」

「それはどういう?」

 

 書類をめくりながら彼は言葉を続ける。

 

「どう見ても人間なのに、彼女が所長を見つめる目は、恋する女性のもの以上だったから、気になってたんです」

 

 竜人は容姿が整っているらしく、好意を向けられることが多い。番を認識できない人間は特にその傾向が高い。

 

「とても美人だったから、すぐに相手も見つかるでしょうね。知り合う前に辞められたのは痛手でした。少ししか話したことはないですが、すごく気さくで良い人でしたから、恋人は無理でも良き友人になれたかも」

「……珍しく口数が多いが、手も動かしてくれると助かる」

「すみません、珍しく所長が雑談に応じてくださったのが嬉しくて喋りすぎました」

 

 慌ててその場を去る所員の背中を見送り、もうすぐ消えてしまうだろうその香りに脳が反応する。

 抑制剤は完成していたのだと身をもって知った。まさかこのような形で知ることになるとは思わなかったが。

 服用したのが一ヶ月前のことだったから、現在の薬効としては毎月の服用が必要になる。それを研究結果として記さねばならないが、それはやめておくことにした。

 

 抑制剤を服用しようとして、手を止める。番である彼女がいないのなら、私はもう抑制剤は不要だ。少しの間は彼女が残した余韻に反応するだろうが、それもそのうち消えるだろう。

 そう思うのに、その香りが失われることが少し寂しかった。たとえば忘れていったハンカチのようなものがあったら……と考えて頭が痛くなった。これではただの変態だ。

 彼女は人間であり、私は竜人だ。彼女が番の分かる種族であれば良かったのに。……未練がましい自分に嫌気がさす。

 抑制剤を研究する立場でありながら、そんな愚かな考えをしてしまう私は、結局のところ番という仕組みそのものに狂わされている者達となんら変わらない。

 

 気分転換にと所長室を出る。

 知らぬ間に番はここに来て、そして去って行った。

 カルラ・バスケス。私の番。

 休憩室からほんのりと番の香りがし、足を向けてしまう。自分のことながら思うが、番というのは厄介すぎる。

 

「あーあぁ、さびしー」

「カルラと仲良かったもんね」

 

 彼女の名前を耳にして、思わず耳をそばだててしまう。そんなことをしなくても竜人は耳が良いので聞こえてしまうのだが、意識がそちらに向くのが分かる。本当に、私は何をやってるんだ。

 

「仕事覚えるのも早かったし、話もしやすかったし、続けてほしかったー」

「本当だよねー。実家から帰って来いって言われたんだっけ?」

 

 ほんの少ししかいなかったと聞いているのに、随分と慕われている。

 

「そうそう」

「そういえばカルラの祖父母と両親って番なんだって」

「え? でもあの子人間じゃなかった?」

「そういうのも先祖返りっていうのか知らないけど、遠い祖先に竜人がいたらしいよ。だから祖父母も両親も番が認識できたんだって」

 

 ざわり、と肌が粟立つ。

 もし彼女が祖父母や両親と同じで番を認識できていたとして、抑制剤に心血を注ぐ私を見たとしたなら──。

 全身から血の気が引く。

 そんな……待ってくれ……。

 

 我に返る。

 今はそんな余計なことを考えている暇はない。もし本当に彼女が番を認識できるとするなら、今すぐ彼女に許しを乞わねばならない。私を許してくれなくてもいい。彼女を、番を傷付けてしまった己が許せない。

 いや、全部言い訳だ。僅かな可能性を信じたい、確かめたい。もし彼女が番を認識できるなら。自分を受け入れてくれるなら……。

 

 所長室に戻り、しばらく不在にしても問題ないように準備していく。それから彼女の出身についても、職権濫用ではあるものの調べておいた。


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