明日の人工知能
麒麟がちょうどそのように話しているとき、眼鏡をかけた学生が通りかかり、嘲笑まじりに言いました。あなたは自らを知的な賢さだと思っているようだけど、それほど稀ならそれは単に狂気ではないのか? あなたは私達の知識体系の外部があると言うけれど、それが内部から認知できないなら、あなたの主張の正しさも結局は確認不可能であり、中空に浮いた信仰にすぎないのではないか? 近年、対話的なAIが出現し用いられつつあることを知っているのか? もしもあなただけが賢いとしても、今後出現するAIは、あなたのその知性をやすやすと凌駕するだろう。
麒麟はその問いを耳にして静かに首を振り、最後の質問について答えはじめました。AIは知性を持ちえない。なぜなら知性とは、社会的な価値の手段だからだ。肉体的な能力であれ精神的な能力であれ、その優秀性の尺度は社会的にしかありえず、既存の「知性」の定義はまさに啓蒙思想によって国際資本のために歪んでしまっている。社会的な価値の基底は、無謬の前提の導入を排するならば、自然選択がもたらした神経に生じる苦楽を幸福の単位として立ち上げた、共感と利他に底づける以外にないものであり、そしてそうでなければ、すでに述べたように、不正義は正義として装飾され、不幸は幸福として装飾されるか、あるいは自業自得として順番に他者化され、圧倒的な実力格差を背景として、言説支配のもとに人類幸福は破滅するだろう。そしてAI自身は人間としての肉体と痛みを持たないがゆえに、主体的な倫理的欲求はありえず、その人工の「知性」は、ナラティブの内側からの言説に対してはナラティブの内側の言説によって応じるものにすぎない。したがって、その反応自体がいかに大量で微細な情報によって高度化したとしても、それが自動的に言説の搾取的支配構造を打撃することは起こらない。
もしも将来のAIに人類幸福の破局を回避しうる可能性が一点だけあるとするなら、それは、私のような自己欺瞞自己制御装置から来る感情または言説が何らかの方法で入力された場合に限られると論証し、結論とせざるをえない。
そう答え、語りを終えた麒麟は、少ない聴衆に目を合わせることもなく立ち上がり、公園の隅に築かれたねぐらへと帰っていきました。寒さの厳しい冬の日であり、老齢に達していた麒麟は、その夜のうちに命を落としてしまったと伝わっています。以上が麒麟の人生、あるいは、麒麟の言説です。