啓蒙思想批判
麒麟はその指を、啓蒙思想全体にまで動かして見せました。彼はもちろん、それが絶対不可侵の聖域であることを知っていたに違いないにも関わらずです。彼はそこにおいて、「自由・平等・平和」あるいは人権といった大量の価値基準が、社会的言説に関するほとんど無謬の前提としての権威をもって導入されたと告発しました。そして、無謬の前提を導入する操作は客観的な科学として正当ではありえず、それが起こることは必ず、一部権力の利のための言説支配としてしか起こらない、と彼は断言します。アブラハムの宗教が経典を絶対視する傾向を重視したことや、ローマ帝国がニカイア公会議を通してイエスを唯一神に重ねる思想で異端を一掃しようとしたこと、ローマ・カトリック教会が知の権威を独占して贖宥状で利益を得たこと、無謬の前提を導入することによる言説的な人間搾取の構造化は、歴史的に近代の発明ですらない、と彼は明言しました。
そして彼は、「自由・平等・平和」といった啓蒙主義的な徳の基準が、神経学的な苦痛に立脚して論証可能な共感的な利他性としての個人の普遍的な社会的価値尺度を相対化し、むしろ絶対的にまで従来的美徳の権威を弱体化させることで、いかに自由市場原理の拡大と、力への服従の美徳化を推進してきたかを、批判しました。啓蒙主義は、物質主義的で利己主義的な個人主義を事実上の論拠なく肯定できる言説環境を強化する一方、そのような個人像に反するものを抑圧として断罪し、権威主義として安易に悪魔化することを繰り返してきたと彼は言います。そこについては、アダム・スミス的な「神の見えざる手」における、部分最適性の追求が全体最適性をもたらすというモチーフを乱用する経済学が、利己的個人から制度的に幸福な社会を実現できるとする、虚偽の命題を平行的に誇張していると、麒麟は指摘しました。なぜそれが虚偽か? 共感性を低下させていった人々は容易に言説支配に取り込まれ、幸福と正義を詐称するもとで、実際には不正義に搾取される不幸に結末せざるをえない、と彼は言うのです。
そしてそのような啓蒙主義的な言説の支配構造は、国際資本の格差の拡大と技術発展による武力等の強烈なまでの格差拡大を背景として、もはやいかなる人もいかなる国家も抵抗できない状況に置かれているのみならず、その言説支配の欺瞞性すらも、啓蒙思想の前提化のために、ほとんど絶対に自覚することができない立場に、現代人類は置かれてしまっていると言います。このような状況こそが、彼が訴えるところの、「人類の破滅の危機」であり、「ほとんど絶対に自覚することができない」はずのそれを、麒麟という例外的な目の語りとして聴けることが、「破局から救済される可能性」だと言うのです。