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敢えて、失ったものを数えてみたいのだ

作者: 人間様

 人生はないものねだりである。そして、”ある”ことを認識することが幸福である。と、私は考える。幸せになる方法は、元々なかったものを手に入れるか、元々あったものを敢えて”ある”と認識することだ。しかし、前者はあまりに難しすぎるし、後者は人間には高尚過ぎる。私は、長い人生の間に何も手に入れる事がないとは思わない。ただ、人は手に入れる事が出来なくなって初めて、それを手に入れる事が出来たのだと気付く。もしくは、手に入れる事を怠った後に、その価値に気付く。そして、受動的な選択によって手に入れたものは、元々あったも同然である。

 私はそういった意味では十分に愚かであったし、愚かであった数を数えることでより一層愚かになった。人生は環境を受け入れてから始まる。自分の人生の始点を自分で決め、初めてそこから本当の意味での自分の人生が始まる。それまでは所詮他人が介在する要素を残し、マイナスを他人に押し付けているだけに過ぎない。私の人生は失敗の連続だった。それは世間的な意味合いも含まれるし、私個人の感性としても失敗と数える事の出来る経験が数多くあった。”だった”という表現を使う程私は人生を終わらせてはいないが、それでも私の今までの人生は、普通の人より多くを失ったと感じている。勿論そんなものは客観的に推し量れる道理はないが、”ろくでなし”という言葉が存在している時点で社会的にあるべき人物像は無意識の内に共同体が定義している。私は随分とその定義から外れた人生を送ってきた。親に対して掛けた迷惑か、時間の使い方か、対人関係の失敗か。いずれにしても、私の人生は人生の出来不出来を意識する事にはもう随分と沈んでいた。その面に関して、特別他人に責任を求めたり、過去の自分を責めたとて全く人生は進展しないので、最初からそうであったのだと、変えようのない過去に対するある程度の諦めはつけている。しかし、そうやって割り切っても尚、人生には自らが損なったものを明確に意識せざるを得ない瞬間が存在する。

 さて、ここまでは長い前置きに過ぎない。ここからがこの文章の本題であり、私を今悩ませている最たる思考だ。私はここ最近、”学”を追い求めている。この一言だけでは随分と抽象的だが、それでも私はその抽象的なたった一文字に抱く印象を、自分も身に付けたいと切に願っている。時たま、学が趣味と結びついた人たちがいる。数学者の幼少期のエピソードは、大体趣味としての数遊びから始まり、狂信的ともいえる程の数学への愛に終わる。私は実際、関わる人々からそのような片鱗を感じることはあれど、明確に人生観を改めなおす程の存在には出会ってこなかった。或いは、学のない自分が羨望せざるを得ない存在との邂逅を無意識の内に避けていたのかもしれない。しかし、その瞬間は避ける事が出来ない。私はとうとう、自分の人生の空虚さを身に染みて感じる人と出会ってしまった。その人の前では、私はあまりに惨めだ。

 ”学”というものに懐疑的な時期があった。というのも、私がより造形深くありたいと願う方向性は、大体私が生まれ持ったものから派生し育むことが出来たからだ。それはある意味見識の自生とも言える。そうして手に入れた見識は、学として机上で知るだけの代物よりもはるかに人生に於いて実践的である。大抵の人は、私が生きて考えていつの間にか手に入れているものを、教科書から教えられて初めて、名前として知ることが出来るのだと思っていた。実際、私の観察眼は物の良し悪しを、もしくは物事の良し悪しを鋭く見分ける事が出来た。その成長に必要なのは先人の有難いお言葉などではなく、経験する事のみだ。学とは、賢い人々の思考に名前を付けただけなのだと思っていた。勿論、より即物的な学問は別にして。

 その人は、自らの言動の節々から学の何たるかを私に教授してくれた。私は本当に、ただ生きているだけだったのだ。その人は、興味関心や好奇心から来るモチベーションを学の域まで伸ばすことの出来る人だった。それは、ただ楽な方に逃げ、光る板と会話するだけの中高生時代を送り、その現状を何とかして肯定しようと思考の世界に逃げていた私にとっては大変な事で、即ち生きる全ての時間を有意義に使う事の出来る生き方に映った。私が自らを損なっている間に、その人は自らの憧れや興味を基に”学”と私が呼ぶものを着々と積み上げていた。或いは、その人も私と同じ感覚なのかもしれない。私がその人に対して学があると認識しているその内実は、その人にとって学ですらなくただの趣味の範疇に留まっているのかもしれない。しかし、たとえそうだったとしても、自分とその人の知識量、賢さ、現状の社会的地位の差を意識しない訳にはいかない。

 彼我の差を、ただの環境の差として扱ってしまうのは簡単だ。しかし、そう考えたところで差は縮まらない。正当性などは個人の満足するしないの違いしかなく、実際に重要なのは何を成したかを自らで認識することだ。今すぐに、私がその人のようになれるとは思わない。そして、私の学の一切がその人と重なることは今後一生をかけてもないだろう。何より、それはあまりにつまらない生き方だ。私はその人のようになりたいのであって、その人になりたいのではない。私は私の積み重ねてきた人生から、自らがある程度は失敗だったと割り切ってしまうような人生から、それでも僅かに手に入れてきた何かを持って、それを伸ばすことでその人に並び立つ他ない。人生は始まった事を意識する前に始まっている。何度も言うが、人生の始点は自分で決めるのだ。

 結局、”学”とは何なのか。勿論その定義は個々人それぞれに、そして場面によって異なる。私が今回、その尊敬するべき人の尊敬するべき点を考えた時、それは意欲なのだと思う。私の今までの学習方法は(学校など実質的な義務的学習ではなく、自発的な趣味的学習の方法は)、自責の念から逃れる為に思考を回し、その成果を学としたり、興味関心のある動画をインターネットで見漁ったりなど、比較的すぐに報酬が与えられる形式のものが多かった。現代に於いて、コンテンツの伸びは報酬が与えられる速度、そしてその報酬が与えらえるまでの苦痛の少なさと比例するようにも思う。そうした、ある種中毒的なコンテンツが蔓延るこの現代で、わざわざ世間的に”学問”として扱われることのあるコンテンツを選べる人は中々いないと感じる。しかし、それは実質受動的な選択であり、自らの意思によって選んだと言うにはあまりに現代社会の構造によって作為的になっている。そういった趣味の、もしくは時間の使い方の一切が間違っていると言いたいわけではない。何なら、一切が間違っていない。しかし、意識しなくてはならないのは、それは受動的な選択でしかなく、”学”と認識するものの習得は太陽フレアのようにある程度の不定期性とランダム性を持っている。能動的な選択によって為される体系的な学習と比べた時、それはあまりにも歪だ。

 誰しもが知識人や賢人に対する憧れを抱いて生きていると思う。彼らがどういう姿をしているかは個々人の価値観に委ねられるが、恐らく殆どの人にとって自分より高尚な存在として描かれるはずだ。その高尚さは、受動的な学によっては満たされない。満たされた気になって、本物の賢人に出会ったときにその惨めさを思い知ることになる。恐らく、私は誰かからしたら学のある人間として映るだろう。それは精神の面に於いての造形深さ、良い物を知っている故の鋭い観察眼や、幼い頃に教育によって身に付けた学の勢いを殺さないようにしていることから来るものだろう。しかし、私はそのような面に於いてさえも、彼の人の憧れの対象にはなりようがないだろう。哲学書の中の私よりもずっと賢い先人たちの教えを履修済みだろうから。その人にとって、その人の人生が有意義で成功したものであるかは分からない。勿論その人はその人なりに、人間的に悩んでいるのだろうし、私が憧れているからというただ一点で神格化して扱うのは余りにその人の価値観や思想に失礼だ。ただ、一言で表すなら、感化だ。私はただ、その人の生き方を、趣味を、良いものだと思った。その人の隣で、その人の話す言葉の意味を十分に汲み取って話したいと、そう思ったのだ。

 さて、総括に入ろう。人生は失敗の連続だ。他者と比べ、自らの失ってきたものの数を数え、人を妬み、自分が持っているものを数えすらしないことが大半だ。皆自らの憧れの姿を持っていながら、過去を理由に、もしくは何かしらの理不尽を理由にそれを諦めている。私も正直、幼少期の大切な時間を適当に扱うのではなかったと激しく後悔している。過去への後悔の後、人はようやく今あるものを数えようとするだろう。そして、過去への後悔や反省が一層強まるかもしれない。あまりに弱弱しい自らの現状に嫌気が差してしまうかもしれない。手に入れたかすかなものを守ることで精いっぱいになるかもしれない。しかし、何かを始めるのに遅いかどうかは始めてみないと分からない。理由は憧れで十分だ。向き合い方も自分なりで良い。そうすればただ少しでも、そうでありたかった自分に近づける。前を向けと人は言う。あるものを数えろと人は言う。惨めさを覚えたなら、次に覚えるのは後悔だ。後悔を覚えたなら、次に覚えるのは憧れだ。憧れはいつも後悔の中にある。劣等感を直視するからこそ得られる感覚もある。だから敢えて、失ったものを数えてみたいのだ。

プロットも正しい文法も推敲もあったもんじゃないですが、ここまで完読してくださりありがとうございます。

正直、憧れの人へのちょっとねじ曲がった感情の消化として書いたので、その人の詳細とその人へのクソでか感情の詳細も書きたかったんですが、流石に気持ち悪すぎるので止めました。これも相当ですけど。

私の思考を残したこの文章が、何かしらの形で読者様のお役に立てればと思います。

良ければまた次回作もご一読ください。では。

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