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雨降って……

作者: 山奥一登


 別れよう。

 彼が昨晩の晩酌で使ったであろうグラスを洗いながら、私はそう決めた。

 ……別に何か、劇的に嫌なことがあったわけじゃない。ただチリツモで限界が訪れたというだけだ。

 自分で使った皿を片付けない。

 掃除をせず、私がしても気がつかない。

 服は脱ぎっぱなし。靴下は裏返しのまま。

 そんな些細なこと? と思う人もいるかもしれない。でも、以前まではやっていたことだ。やらなくなるとその変化は目につきやすい。そして、そういう「やらないこと」は次第に多くなっていくものだ。今はこれだけでも、これからどうなるか。そしてそれが毎日積み重なると、大きな不満になる。私は彼の恋人で、世話係じゃない。


 財布だけを持って家を出た。

 空はどんよりとした雲に覆われていて、晴れ間は見えない。最近ずっとこんな天気だ。偏頭痛持ちの私にはこの気候すら敵に思えた。

 梅雨が近い。じめじめとした空気が身体にまとわりついて、更に嫌な気持ちになった。

 時間帯が良かったのか、行きつけの喫茶店は空いていた。お好きな席に、とのことだったので初めて来た時と同じ窓際の席を選んだ。

 店内に流れる控えめな音量のクラシック。それに聞き入れるほどの落ち着きは、商売としては困りものかもしれないけれど、私にはありがたかった。

 運ばれてきたアイスコーヒーを飲みながら、これまでの彼との日々を思い出す。そもそも私は、何で彼と付き合ったのだろうか。


 出会いは大学のゼミだ。歓迎会の時にいきなり彼が猛アピールをしてきて、最初は軽薄なやつ、という印象だった。以降も続く、しつこいくらいのアプローチを鬱陶しくも思った。というか「しつこい」と言ったこともあった気がする。……だけどいつの間にか、私は彼に惹かれてしまい、何度目かの告白でOKをした。あの時の彼の喜びようは今でも覚えている。

 就職すると同時に同棲を始めた。だけど同棲してからはお互いに慣れない仕事に苦戦して、帰ってきても寝るだけの日々が続いた。でもそれは今だけだろう、そのうち慣れればまた、と思って耐えることができた。一年目の終わり頃にはようやく余裕ができたけど、二年目に私の勤務時間が夕方から深夜帯になったことですれ違いは加速してしまった。私が帰ったら彼は既に眠っていて、私が起きた時には彼は出勤している。生活リズムが違うのは仕方がないし、喧嘩しているわけでもない。でも……。


 気付いたら別れを考えるまでになっていた。

 こんなはずじゃなかったのに。

 窓の外を見ると、アスファルトが黒く濡れ始めた。そして真っ黒に染まるまで時間はかからなかった。灰色があっという間に侵食されていく様をぼんやりと眺め、そういえば、傘持ってきてないな。他人事のようにそう思った。

 会計を済まし外に出る。雨が止む気配はない。……別に濡れてもいいや。そう思い軒先から出た時だった。

「おーい、ユキー」

 私を呼ぶ声がして驚いた。背の高い彼は傘を大きく掲げてこちらに小走りで向かってくる。

「今日仕事じゃないの」

「半休とったんだ。ユキも休みみたいだったし」

「そうなんだ」

 意外。ちゃんと把握してたんだ。

「うん。でも家に帰ったらいないし、しかも傘もスマホも置きっぱなしだったから、もしかしてと思って」

 そう言って彼は傘を私の方に寄せた。

「帰ろう」

 あ。

 彼が傘を寄せるのを見て、私は彼に惚れた時のことを想い出した。


 ちょうどいまくらいの季節だろうか。何度目かのゼミの飲み会が終わり、外に出ると雨が降っていた。店内が賑わっていたのと酔いで全く気が付かなかったが、結構などしゃ降りだった。私が傘を持っておらず困っていると、彼が折り畳みの傘を私に渡してくれたのだ。

「俺は普通の傘あるから。それ使いなよ」

 そう差し出された傘を、私は有り難く受け取った。私は数人の友人とともに、彼より先に店を出た。

 翌日、彼に傘を返すためにゼミを訪れると彼の姿はなかった。

「風邪だってよ。昨日びしょ濡れで帰ったからそのせいかもな」

 ゼミの仲間からそう聞いて、彼が私のために自分の傘を差しだしたのだと知った。そういえばあの時、彼は「傘はある」と言っていたが傘を持っていなかった。酔いが回っていたためそこまで気が付かなかった。

「彼の家の場所、教えてもらっていい?」

 私は彼に連絡を入れ、彼の家に向かった。

……たしかあの時だ。それまで鬱陶しく感じていた彼のアプローチが愛おしく思えるようになったのは。

 私のことを、本当に好きなんだと実感できた瞬間は。


 私は過去から現在に帰ってくる。目の前には、あの時より大人びた彼。

今度はどちらかが濡れる心配はない。一つの傘で、同じ場所に帰ることができる。

「ありがと」

 私は彼と同じ傘に入って歩き出す。

「……ここ、やっぱり気に入ってたんだ」

 さっきまで私がいた喫茶店を見ながら彼は言う。一緒に来たこと、覚えてたんだ。それも意外。

「うん。雰囲気良かったし、結構頻繁に来てる」

「そうなんだ。今度また二人で来ような」

「……うん」

 先ほどまで別れを考えていたのに、私はその提案にあっさりとうなずいてしまった。久々に感じる彼の優しさが、私の心に沁みていく。

「……ていうか、何で私の傘持ってきてくれないのよ」

 私はそう言いながら彼に寄りかかった。涙が出そうになるのを誤魔化すために、そんな素直じゃない言葉しか言えなかった。

「たまにはこういうのもいいかなって」

 彼は笑いながら言った。

「……たしかに」

 私は彼の腕を抱いて、寄りかかるように歩いた。彼は歩きづらいだろう、よろよろと左右に行ったり来たりしている。でも何も言ってこなかった。

「……ねえ、最近靴下裏っ返しのまま出してるよ」

「……ごめん。気を付ける」

 私の文句を、彼はちゃんと受け入れてくれた。

「それに洗い物も。今日も私が洗ったんだから」

「……ごめんって」

 私は溜まっていた不満を吐き出していった。彼は私を素直に受け止めてくれた。私は彼のことが好きなのだと、改めて実感した。




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