第2章
窓辺からは小鳥の囀りが一日の始まりを知らせ、早朝の日射がカーテンからこぼれる。東側の部屋の窓は明かりで溢れ始め、真っ暗だった明久の部屋を少しずつ照らし始めていた。明久はそんな朝の素晴らしい情景の中で、未だにベッドの上で昨日の事を引きずっていた。朝の柔らかな日差しに照らされながら、横に置いてあるデジタル時計に顔を向ける。
寝られなかった。
明久は、その時計の示す時刻を見ると深々と溜息をつく。昨日からずっとあの事件のことを考えていたが、結局心の整理がつかないまま朝を迎えてしまった。今の明久の心の中には憂鬱や戸惑い、恐怖といった様々な感情がうずめきあっていて、どうも心は晴れ晴れとしない。ずっと当たり前だと信じていた世界が、全く違うものに変質してしまった。その事を明久が受け入れるのには、一夜という時間はあまりにも短すぎた。明久は気分が浮かないまま足をベッドから下ろすと、明久は右手を前に上げて、手首に付いているミサンガを見つめた。ミサンガはカーテンから漏れた日に照らされ、明久の動きに合わせて静かに揺れる。その様子からは、明久の命を左右するほどの重大な役割を持っているようにはまるで見えなかった。明久は目覚まし時計の設定を解除すると、ベッドの上からゆっくりと降りて自分の部屋を出た。階段を降りて、まっすぐリビングに向かうとドアノブを握ってドアを開ける。リビングの中では、ソファーの上で少女がスースーと寝息を立てながら寝ていた。
ソファーの上で寝ている少女とは、昨日明久が契約した相手である女神之ユキのことである。異世界から来て、この世界に帰る場所も、寝る場所もなかったユキは、価野との話が終わったあと、ユキは自分の向かうべき場所について困っていた。だから、どこに向かえばいいのか途方に暮れていたユキをみかねて、明久はこの家に連れてやってきたのだ。本当は、母が留守にしているから、母の部屋で寝させてやるつもりでいたのだが、夕飯のために買い出しに言っている間にソファーで寝てしまっていたため、変に動かしてやるのも悪いと思い、そのままにしていた。
明久はその事を思い返しながら、ユキが寝ているソファーを静かに横切ると、食器棚の中からコップを取り出した。食器棚の隣にある冷蔵庫の中から牛乳を取り出して、さっき取り出していたコップの中へと注ぐと、牛乳パックを冷蔵庫の中に戻し、立ったままコップに口を付けて飲む。牛乳は一口、また一口と明久の口の中へと入り、柔らかな味わいを口の中に広げる。すると、ソファーの上で横になっていた少女はモゾモゾと体を動かしながら、体を起こした。
「あ、起きたか?」
明久がコップから口を離して問い掛けると、少女は寝ぼけ眼を擦りながら明久に訊く。
「あれ、なにここ・・・?」
「覚えてないか? 昨日お前が帰る所が無いって言うから、一旦俺の家に来ることになったんだ。そしたらお前この家に来てすぐに寝ちゃったんだよ。まあ、ちょうど母親は昨日から仕事でしばらくの間家を空けることになっていたし、妹には、リビング入って来んなって言っといたから大丈夫だったけど」
「寝てた・・・?」
「ああ、家に着いて俺がまた弁当買いに行っている間にぐっすりとな」
それを聞くと、ユキは一言「そうだったっけ」と言って、顎が外れそうなぐらい大きなあくびをした。明久はそれを見ながらテーブル横にあった椅子へと腰掛ける。部屋の中では静かに時計の秒針が時を刻み、家の外では、まだ小鳥の囀りが聞こえる。ユキと明久はそんな中で、何をするわけでもなくしばらくの間ぼんやりとしていた。静かな部屋の中で聞こえるちょっとした音は、二人の間に流れる時間をよりゆったりと感じさせた。普段はいつも遅刻間際まで寝ていて、朝にこういったゆったりした時間は無いからか、たまにはこういった時間も悪くない。そんな事を思いながら、明久はゆったりとした朝の空気に心を落ち着かせた。すると、ソファーの上にいたユキは、ソファーからちょこんと足を下ろして目を丸くしながら目の前にあるテレビの液晶画面を見つめた。
「ん? テレビが見たいのか?」
少女に訊くと、明久はテーブルの上に置いてあったリモコンを手に取って電源を付けた。すると、朝の静かなリビングの中に、女性のニュースキャスターの声が響き渡る。
「わ! びっくりした」
ユキは、突然明かりのついたテレビ画面に驚きながらも、一切目を離すことなく画面の中のニュースキャスターを見つめる。明久は、そのテレビに夢中になっているユキを見て、少し可笑しく思いながら飲み終わったコップを台所に片しに行った。
「―――さて、次のニュースです。最近出没警戒が出されていた連続殺人事件の犯人が、昨日の午後四時頃、某スーパーマーケット付近で姿を現し、再び無差別に通行人を襲撃した模様です。尚、今回の事件に捲き込まれた被害者は十一名にも及ぶとみられ、うち四名が死亡、二名が意識不明の重体、その他にも、骨を折る、打撲等の被害を受けました。目撃者の証言によりますと、その殺人犯は、通行人を襲撃している間に突然姿を消したらしく、警察が駆けつける頃には、もう犯人の姿は無かったとの事です。この事について、警察側は―――――――――」
テレビに昨日の事件の事について放送されると、明久はテレビの前に立ってそのニュースに釘付けになった。
どうやら、ミサンガが切れて契約が白紙に戻されたとしても、その契約者がそれまでに行ってきた事実までは、無かったことにはならないらしい。また、ミサンガが切れたことによって、殺人犯がもうこの世には存在しないという事も、こっちの人達は気付いていないようだった。
でも、だとしたら何も知ることが出来ずに残された遺族の人達があんまりだろ―――。
明久は、テレビを見つめながら拳を握りしめると、今回の事件にやるせない感情を覚えた。
「明久、あんまり気にしちゃダメだよ?」
ユキは、そんな明久の様子を見かねたのか、声をかけてきた。
「昨日の事件、確かに人はたくさん死んじゃったけど、でも、明久だって被害者なんだよ? 明久がそんなに責任感じる必要はないよ」
そう言って、ユキは優しく明久のことを励ました。ユキの言葉を聞くと、明久は強く握りしめていた拳を緩める。
「ああ、そうだな・・・」
明久はユキに対して小さい声で応えた。この子の言葉には、人の心を落ち着かせてくれるような力があった。明久は強張らせていた顔を元に戻すと、ユキの優しさに小さく心の中で感謝する。少女は、小さな体で自分より身長の高い明久を見上げると、優しく笑みを浮かべた。
「えっと、女神乃ユキ、だったよな? じゃあユキって呼んでいいか?」
明久がユキに問い掛けると、ユキは「うん」と答えた。それを見て、明久はゆっくりとした口調でユキに訊いた。
「ユキは、元々あちらの世界にいたわけだけど、その、ユキのもともといたもう一つの世界ってのは、こっちの世界みたいに、普通の暮らしをしてるものなのか?」
ユキはその質問を聞くと、少し困ったような表情を見せた。
「うーん・・・・、ごめんね。あっちの世界にいたときのこと、私、実はあんまり覚えてないんだ」
「覚えてない?」
「うん。確かにあっちの世界にいたっていうことは分かるし、死葬空間とか、自分が疫病神だっていう簡単なことは覚えているんだけど、それ以外のことはあんまり覚えていないんだ。気づいた時には、もう死葬空間に移動していたし、そこで明久のことを見つけたから」
その言葉に、明久は残念そうに「そうなのか」と言った。この世界とは別にもう一つの世界があるという話を聞いて、どういった世界なのか気になっていたのだが、どうやら駄目なようだった。明久はユキにも気付かれないぐらいに表情を曇らせたが、またすぐに顔を上げてユキに質問した。
「じゃあ、お前の契約した理由ってなんだ?」
「契約した理由?」
「ああ。俺たち人間が契約するのは元の世界に戻るためだろ。だけど、それじゃあお前たちには全くメリットがないじゃないか。お前たちが、俺たち人間と契約する理由っていったい何なんだ?」
「うーん。たぶん、それは自分たちの存在を保つためじゃないかな? 昨日、価野さんっていう人も言ってたけど、あちらの世界はこっちの人間が想像してできた世界なの。だから、こちらの世界の人が架空の存在を完全にいないって否定しちゃったら、あちらの世界の者たちは存在を保てなくなっちゃうんだ。実際に、こっちで信じる人がいなくなっちゃって、消えちゃったのもいるしね。だからじゃないかな、少しでもこっちの世界の人たちに自分たちの存在を知ってもらいたくて、契約しているのは」
明久は、あちらの世界の住民たちの契約する理由が、自分たちと同じように自らの存在を保持するためだという事に少し面喰ってしまった。神という自分より上の存在という先入観が、この驚きに起因しているのだろう。しかし、昨日価野という人物の話と照らし合わせると、ユキの言う事もあまり不思議のないことなのかもしれない、と明久は思った。自分たち人間が想像したことで誕生したという世界、これが人間の考え方一つで変異してしまうということを危惧するのは、あちらの世界の者たちにとってはきっと普通のことなのかもしれないからだ。そのうえ、こちらの世界に住んでいる人たちは、科学が発達して考え方が現実的になってきているため、より存在が希薄で危ういものになりつつあるのだろう。特に、現代の人たちは河童や幽霊など架空の存在を全く信じていない人も少なくない。だから、こういう機会を通して、自分の存在を確実なものにしたいのだろう。そう考えると、明久の胸中にずっと昨日からつかえていたものが、すっとどこかに消え去っていった。
「お前も、そういう理由で契約したのか」
明久が訊くと、少女は少し悩んだように首を傾げる。
「私は・・・、ちょっと違うかな。あの時、死葬空間の中で明久を見つけたときね、なぜか、無性に思ったんだ。この人を死なせちゃいけない。元の世界に帰さないといけないって。何でそう思ったのかは自分でも分かんないんだけど、確かにそう思って。それで、明久と契約しようって思ったの」
明久はユキの言葉を聞くと、横にあったテーブルにもたれかかる。確かに、昨日契約する際にユキから自分の存在を広めてくれ、信じていてくれなどということは一言も言われていない。もしかしたら、本当に助けたいの一心で契約してくれたのかもしれない。そう思うと、嬉しさが明久の心の中に込み上げてくる。
「なあ、ユキは何か、お願いとか、やってほしい事ってあるか?」
「え?」
「だって、お前にわざわざこっちの世界に戻してもらったのに、俺が何もしないんじゃ契約って言えないしさ」
明久はユキに微笑みかけると、「ユキは何かお願いとかはないのか」と言った。すると、
ユキは悩んだ表情で首を傾げる。
「うーん。今はあんまりお願いっていえるようなものはないなー」
「何にも?」
「・・・うん」
ユキはきまりの悪い表情で手をもじもじと動かした。彼女はきっと、自分に対して言ってくれた善意に応えられない事を、申し訳なく思っているのだろう。それが分かると、明久は笑いながら返した。
「まあ、今決めなくても大丈夫だから。しばらく考えて、決まったら俺に教えてくれよ」
ユキは明久の優しい笑みに、一瞬呆気にとられたような顔をした。しかし、その後すぐに頷くと、嬉しそうに笑みを返す。ユキの柔らかな笑顔は、明久の中にあった様々ないやな感情を一段と落ち着かせる。まるで、少女が持つ純粋な心によって、明久の心まで綺麗になっていくかのようだった。昨日あった恐怖感など、まるでなかったかのように心が洗われる。
すると、二人のいたリビングのドアから、眠そうに目を擦りながら妹の春奈が入ってきた。春奈はリビングに入ると、擦っていた手をどけて明久に視線を送る。
「お兄ちゃん、昨日はなんでリビング入れてくれなかったの・・・」
そう言いかけて、春奈はすぐにユキの姿を見て動きを止めた。春奈はしばらくの間全く動くことなく明久とユキのことを凝視すると、突然すべてを悟ったように声を張り上げた。
「お兄ちゃんが、ついに犯罪やらかしたぁぁあ!!」
「なんで!?」
さっきまでの温かな気持など吹き飛ぶぐらい、明久はびっくりして春奈に訊き返した。しかし、明久の問い掛けにも関わらず春奈は慌てふためきながらリビングを出てドアを閉じた。明久はそれを見ると、急いでドアへと向かってドアノブを掴む。しかし、明久がドアを開けようとすると、ドアの向こう側から春奈がそれを制した。
「ごめんね、お兄ちゃん! お兄ちゃんにもそういう気持ちはあるよね!? 私全く気付かなかったよ!! だけどお兄ちゃん目を覚まして!! 女の子騙して家に連れてきたらそれは犯罪だよ!!」
「いや、ちょ、待て!! なんかお前誤解してる!! この子はそういう子じゃ・・・!!」
「昨日リビングに入るなっていうのはそういう意味だったんだよね!! お兄ちゃんも色々あったんだよね!? 私、分かるよ!! 分かるから!!」
「いや、違うって!! そういうんじゃないんだって!! とりあえず話を聞け・・・」
「私がいち早くお兄ちゃんの思いに気付いてあげるべきだったよね!! でもお兄ちゃん、安心して!! 今から私が警察に連絡してあげるから!!」
「ちょ、安心できねえ!! 何で警察呼ぼうとしてんだよお前! 何でもないって言ってんだろ!!」
「ああ、うちの家族の中にもついに犯罪者がでてしまったんだね。妹として私は悲しいよ、お兄ちゃん!!」
「く、こんの・・! ちっくしょ!! さっきから、お前・・・、とりあえず・・・、一回人の話を聞けぇぇぇえ!!!」
明久が抑えられていたドアを思いっきり引っ張って開けると、春奈は侮蔑と恐怖の入り混じった顔で明久を見た。そして、春奈は完全に引け腰のまま、おどおどと明久に訊いた。
「何も、やってないの・・・?」
「だからさっきからそう言ってるだろ・・・」
明久は疲れたように深々と溜め息をつくと、廊下に立っている春奈にもう一度リビングに入ってくるように促した。春奈は半信半疑の表情のままリビングに入ると、近くにあった椅子に腰掛ける。
「お兄ちゃんが無理やり連れてきたわけじゃないなら、この子は、一体どこの子なの?」
その言葉に、明久はやるせない感情で溜め息をついた。
「なんで俺が小さい子といるってだけで無理やり連れてきたことになんだよ」
明久は妹の信用のなさに少し心を痛めるが、弁解するための理由を考えるためにすぐに表情を切り替えて、一息ついてから春奈に言う。
「え、えっと、この子はだな、春奈はきっと知らなかっただろうけど、俺たちにとって、とっても遠い親戚にあたる子なんだよ」
「・・・へえ、初耳。いったい私たちとどういう間柄なの?」
「それは、俺たちのじいちゃんの・・・だな、いとこの姪の伯父の叔母のはとこの甥の友達の奥さんのご近所さんのところの三女だ」
「お兄ちゃん、メチャクチャだし、途中から親戚すら経由してないよ・・・」
春奈は呆れた表情で溜め息をついた。
「何か言えないような事情でもあるの?」
「・・・悪い、自分でもなんて言えばいいのか分かんなくてさ。でも、この家に泊めてやらないと、この子、帰る場所がないんだよ」
それを聞くと、春奈はユキに視線を移した。ユキは、今の時代ではなかなか見かける事のない古びた和服を着ており、そのみすぼらしい布地にはところどころ継ぎ接ぎの痕すらあった。そんな服を身に纏ったユキを見て、春奈は細々とした声で「そう・・・」と呟いた。
「ねえ、君、名前はなんていうの?」
「名前? 女神之ユキっていうよ」
「ユキちゃんか・・・。ユキちゃんは、帰るお家がないって聞いたけど、それって本当? 誰か知っている人とかとも連絡取れないの?」
「えーと、うん。私もこっちに来るとは思ってなくて。何でこっちに来ちゃったのかすら分かんないの・・・」
「そっか・・・。お兄ちゃんが連れて来ちゃったってことだよね」
「おい」
明久はすぐさま春奈を睨みつけたが、春奈はそれを気に留める様子もなく続けた。
「私の家、あまり広くないし、今はお母さんも仕事で留守にしてるけど、私たち基本的に拒んだりはしないからさ、ユキちゃんは、いたい時にこの家にいてくれて大丈夫だよ」
さっきまでハチャメチャなことを言っていた春奈も、今は落ち着いた表情でユキを見つめた。ユキも、春奈の言葉に対して静かに頷く。すると、春奈は明久の方にも顔を向けて言った。
「お兄ちゃんも、言えないような事情があるなら今は言わなくてもいいけど、とりあえずユキちゃんていう子が家に来たっていう事はお母さんに相談しとくね。身内じゃない人が関係している以上、私たちだけで抱えられるような問題じゃないし、これからの事も相談しないといけないから。もちろん、どうしても話せない理由だったら、無理に話してくれなくてもいいけど、でも、それでも私たちに教えてくれる気になったら、いつかちゃんと教えてよ?」
春奈が口を尖らせると、明久もユキと同じようにゆっくりと頷いた。春奈は明久が頷くのを見ると、緊張を解いたように肺の中の空気を吐き出す。
春奈は昔から、家族の中でもしっかりとした性格だった。さっきのように時折取り乱すこともあるが、こういう事になるといつも決まって取り締まるのが春奈だ。そして、中学に入ってからはその性格がより顕著なものになっていた。もしかしたら、中学二年という多感で錯雑とした感情の時期にいる春奈は、少しでも背伸びをして自分を大人として見てもらおうともがいているのかもしれない。
春奈は部屋の壁に掛けてあった時計に視線を移す。
「さてと。私、そろそろ朝練だから準備しないと」
一言言って椅子を立ち上がると、そのまま伸びをしてリビングを出て行った。明久も、それを見て、壁にかかった時計に視線を移す。
「俺もそろそろ準備しないとだな」
明久は台所へ向かって冷蔵庫を開くと、中を覗きながらユキに訊いた。
「ユキも何か朝ご飯食べるか? 昨日、夕飯食べる前に寝ちゃって、何も食べてないだろ」
「え、いいの?」
「ああ、あんまり料理が上手とは言えないけど、朝に何も食べないんじゃ元気も出ないだろ」
明久は冷蔵庫から卵とウインナー、牛乳を取り出すと、冷蔵庫を閉めてユキに言った。
「それじゃあ、どの椅子でもいいから自由に座って。俺が朝ご飯作ってあげるから」
それを聞くと、ユキはテーブルの横にある近くの椅子を引いて、その上にちょこんと体重を乗せた。ユキが椅子に座ったことを見ると、明久は冷蔵庫の中を確認して、朝食の準備を始めた。そして、しばらくの間、キッチンの前に立ちながら、目玉焼きとウインナーの簡単な朝食を作った。
作り終えた三人分の朝食を皿に盛り付けると、明久はテーブルへと持って行って皿をそれぞれの椅子の前に並べた。
「ちょっと時間無いから、簡単なのしか作れないけど」
そう言ってお茶碗にご飯をよそってユキの目の前に置くと、食器棚から箸を取り出してユキに手渡す。お茶碗に盛られた炊き立ての白米は、人の食欲を誘う美味そうな匂いと共に、もくもくと白い湯気を立てている。ユキはそれを目の前にすると、食べようともせずに、ただ目を丸くさせてじいっと見つめていた。
「いただきます、な」
明久は、手を動かそうとしないユキを起こすように言うと、自分はユキの向かい側の席に腰を下ろした。ユキは、明久の言葉を聞くと、一言「いただきます」と言って、朝ご飯を食べ始める。箸を使うのに慣れていないのか、使い方がてんで幼稚でおぼつかない。
「・・・・。美味しい!」
「・・・そうか?」
「うん! 美味しいよ明久! こんなに美味しいもの、初めて食べた!」
そう言うと、ユキは不慣れな箸を使いながらも、掻き込むようにご飯を食べる。
「明久。これはなんて言うの?」
「え? ああ、それはウインナーだ」
明久が教えると、ユキはまじまじとウインナーを見つめ、ぱくりと口に含んだ。ウインナーを一噛みすると、口の中に肉汁が広がり渡ったのか、途端にユキは美味しそうに頬を緩ませる。やはり、疫病神として神様の世界から来ていたとしても、その表情はこちらの子供となんら変わりないあどけなさがあった。明久は、ユキが美味しそうに朝食を食べるのを見ると、自分も目の前に用意しておいた朝食を食べ始めようとした。
しかし、明久が箸を取って朝食を口に運ぶ暇もなく、ユキはすぐにご飯粒のついた顔でお茶碗を明久のもとに差し出してきた。
「・・・お前、食べるの早すぎないか?」
明久は呆れたようにユキの顔を見つめると、溜め息交じりで再び箸を動かす。
「悪いけど、昨日朝の支度し忘れててご飯がもうそれと春奈の分しかないんだ。今、一応炊飯器でご飯炊き始めたけど、あと四十分ぐらいかかるし、とりあえずおかわりはなしな」
すると、ユキは駄々をこねるように隣の席に置いてあった朝食を指差した。
「えー。じゃあこのお皿のやつ食べたい」
「それは愛奈の分だ」
明久はユキに言いながら、白米を口へと運んだ。ユキはその様子を見るとしかめっ面で明久の事を睨む。明久はそんなユキを気にすることなく、黙々と朝食を食べ続けた。しかし、ずっとこちらを見られているせいだろうか。美味しいと言われていた筈の朝ご飯が、いつになく不味かった。
朝食を食べ終え、朝の支度をすると、明久は履き慣れて底が擦り減ってしまった靴を履いて、家を出た。春奈は、中学一年生で俺と登校する距離が違い、部活動にも精を出しているようなので、明久より少し早めに家を出ている。ユキはと言うと、特に他に行くあても無いので、家で待機する事になった。まあ、昼食の準備はしておいたし、それなりに暇を持て余した時の対処法も言っておいたのでそこまで問題は無いだろう。家のドアを閉め、念の為戸締りとして鍵を閉めると、そのまま学校へと歩き始める。空を見上げると、昨日の曇り空とはうって変わり、雲一つない快晴となっていた。その空の下を、もう春ではあるが、冬の名残である寒さに身を縮めながら、一歩一歩学校へと足を進める。
しかし、足を前へと出すことに集中して、雑念を消そうとしても、昨日の事が未だにこびり付くように頭の中に留まって、忘れることが出来ずにいた。今までの当たり前だった現実が、昨日のたった一日で簡単に非現実へと移ろいでしまった事で、昨日まであんなに何気なく歩いていた道も、今はあまりにも違うものに見えてしまう。そんな道を、少しでもいつもの日常に戻したくて、いつも通りの歩幅、いつも通りのペースで、普段と変わらない歩き方をするように心掛けながら、学校へと向かった。
ただ、いつもなら必ずと言っていいほど通学の途中で通るあのスーパーの前は、明久はいつの間にか避けるように迂回して、違う道を歩いていた。
いつも通りに、いつも通りでない道を歩いていると、不意に後ろから声を掛けられる。
「明久、おはよう」
その言葉を聞くと、明久は振り向いて声の主が誰かを見た。そこには明久と同じクラスの瀬々良木夏芽が、笑みを浮かべながら立っている。すると、瀬々良木はその柔らかな髪を風になびかせながら、軽快に明久の横に並んで顔を覗き込んだ。
「この道通ってるとこ初めて見たけど、明久の家ってこっち側だったの?」
それを訊かれると、明久は何と答えれば良いのか言葉に迷った。確かに普段ならこの道はあまり登下校路として用いない道だ。そうでなかったとしてもここは街灯の灯る事のない質素な住宅街のため、大した用の無い限りあまり使う事のない道であった。この道を通るのは、この住宅街に住む住民か、普段の見慣れた光景に飽きた散歩やランニングをする健康志向の人間ぐらいだろう。しかし、明久はここの住宅街に住んでいる訳では無いし、ましてや健康に気を使っている訳でもない。瀬々良木の顔を見ると、明久はまるで、犯罪を起こしていないのにアリバイの無いことを問い詰められている容疑者の気分になった。
ただ、幸いな事に瀬々良木がそれ以上俺に言い及ぶこと事は無く、「めずらしいね」とだけ言って話題を切り替えた。
「そういえば明久、昨日の現代文の宿題やった?」
「・・・宿題?」
言われると、俺は昨日の宿題考査をする前に手渡された、追い打ちともいえる宿題を思い返す。よくよく考えてみると、受け取って鞄に入れてから、一切手を付けていない。「あ・・・・」
明久は昨日の学校での事を思い出すと、一言にも足りない言葉を漏らした。もちろん、昨日のあの事件が原因で忘れていたのだが、そんな事、理由に出来る筈もない。
「あーあ。現代文の杉山先生って怒ると凄い怖いの知ってるでしょ? こりゃ、雷が落ちますな」
瀬々良木は嬉々とした表情で俺の顔を見ると、ご愁傷様とでも言うかのように憐みの目を向けた。その顔を見ると、自分の責任ではあるのだが、瀬々良木の事を恨めしそうに睨めつける。
「まあ、宿題出すタイミングとしては少し無理もあっただろうし、もしかしたら他の人達も忘れてるかも知れないね。意外と杉山先生もそんなに怒んないかもよ?」
本当にそうだといいんだがな。
俺は二酸化炭素がいつも以上にこもっていそうな溜息を深々と吐くと、まるで生気の無い幽霊のような顔をした。なんだか、やけに今朝の登校が憂鬱に感じる。もう既に帰りたい気分になってきたな。
しかし、ここまで来て学校をサボるわけにもいかないので、泣く泣く俺は学校への歩みを止めることなく進めた。瀬々良木も、それに並列しながらついてくる。すると、学校の校門前まで辿り着いたとき、不意に、右手首にふわりと揺れる紐を括りつけた少女が目に入った。
その姿に、俺は息を詰まらせて立ち止まる。透き通るような白皙の顔に、肩にかからない程度の、ショートカットの髪の毛。落ち着いた冷たい雰囲気のある表情に、何よりも、右手首に括りつけられたミサンガ。そのミサンガの少女を、明久はまるで魂でも抜かれたかのように見入った。すると、そんな様子を不思議に思ったのか、瀬々良木は俺につられるように足を止めた。
「どうしたの?」
「―――え? いや。・・・なんでもない」
瀬々良木に言われ、すぐに正気を取り戻すと、俺は何事もなかったかのように笑顔を作ってみせる。しかし、瀬々良木はそれを不自然に感じたのか、さっきまで俺が見つめていた先へと視線を送って何に驚いていたのかを確認する。
「もしかして、三郷さんのこと見てた?」
「・・・みさと?」
俺は瀬々良木の言葉を訊き返す。
「そう、秋月三郷さん。隣のクラスにいる子だよ」
それを聞くと、もう一度前へと顔を戻す。さっきの少女はもうその場を通り過ぎ、そのまま校舎内へと入ってしまっていた。
「三郷さんがどうかしたの?」
「・・・いや、何でもない」
俺は浮かない表情のまま瀬々良木に返すと、またゆっくりと足を動かし始める。もちろん、ミサンガを付けているからと言って、必ずその人が契約者だということにはならない。しかし、ひとたび現実を知ってしまえば、ミサンガが目に入るという、たったそれだけのことでも現実に引き戻されてしまうような気がした。瀬々良木はその様子を怪しく思いながらも、何も訊くことなくついてくる。
校舎内に入り、いつものように上履きへ履き替えて階段を上ると、教室へ入って自分の席へと腰を下ろし、肩に掛けていた鞄を机の横へと引っかけて教室の中を見渡した。昨日と変わりない。そのことに、小さく安堵を覚えると、俺の存在に気付いた杉村が、SL機関車のごとく俺へと近付いてきた。若干興奮気味のまま杉村は俺の机の上に手を乗せると、鼻息の荒いまま昨日の事件のことを話し始める。
「明久。昨日の事件知ってるか? 昨日話したあの殺人犯、本当にこの辺で出たらしいぞ」
それを聞くと、俺は出来るだけ動揺を押し隠すように「ああ」と返した。
「しかも、それが出たの、この近くにあるスーパーらしいぜ」
杉村はテレビや新聞などのメディアから仕入れたのか、俺にも知らないような情報を口を休めることもなく話した。
どうやら、杉村以外の生徒もこの事件について話しているのか、ちらほら他の生徒の口からも事件についての話し声が聞こえた。この近辺の小学校では臨時的に休みにしている学校もあるそうだ。その事を知ると、自分の踏み込んでしまった世界の異様さを、改めて気付かされた。しばらく杉村の話を聞いていると、登校終了の時間がきたのか、チャイムが学舎内全体に鳴り響いた。
『皆自分の席に着いて。ホームルーム始めるぞー』
担任の湖声先生が教室へと入って来ると、廊下を出歩いていた生徒も、教室の中に散らばっていた生徒も、それぞれ自分の席へと戻っていく。俺に話をしていた杉村も、区切りの良いところで話を終わらせて、自分の席へと戻った。俺はそれを見送ると、教卓の前に立つ湖声先生に視線を移す。
湖声先生は拡声器を口元まで持ち上げながら、機械的に淡々と朝のショートホームルームを始めた。もう一年以上も見慣れた光景だから、あまり何とも思わないが、やはり人に何かをしゃべったり会話したりするときに必ず拡声器を使うという湖声先生はかなり稀有な存在なのだろう。俺もこの学校に来たばかりの頃は、驚愕で登校する際に道のりを間違えて変な施設に辿り着いたのではないかと目を疑った。まあ、今となってはもう見慣れてしまい、湖声先生に拡声器が無い方が違和感を覚えるのだが。
そんなことを考えながら俺は頬杖をつくと、何をするでもなくぼんやりと教室の片隅を眺めた。特に意味はなかったのだが、妙にそこを見つめていると心が落ち着いた。きっと昨日の事で頭が大分疲れているのだろう。湖声先生のホームルームの話も、どうもさっきから筒抜けで頭に入ってこない。その倦怠感すら覚える面倒な時間の中に自分がいることを知ると、俺は気だるい思いを少しでも晴らすように、溜息をついた。
そのまま、俺はショートホームルームが終わった後も、ゆっくりと流れる時に身を投じた。教室の中は昨日の事を忘れてしまいそうになるぐらいに、穏やかな時間だけが過ぎていく。周りの生徒も、事件について話していたのは最初きりで、その後は何事もなかったかのように他愛無い話をしていた。普段は面倒に思えていた筈の授業も、今日ばかりはそれが大切な時間なのだという風に感じた。
しかし、そう思えていたのも二時間目の前半までで、昨夜寝ていなかったせいか、睡魔が二時間目の後半に差し掛かってから波のように押し寄せた。やはり人間の体というものは至極単純に出来ているようで、睡眠をとらないで生活を送ることは出来ないらしい。俺はそれに抗う事も出来ずに重たくなった瞼を閉じると、机に這いつくばるように深い眠りへとついた。
まあ、その後四時間目の現代文の授業で杉崎先生に叩き起こされ、宿題をやっていないことを叱咤されたのは言うまでもない。