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神様のミサンガ  作者: よしふ
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こ、ここは・・・。

 明久は重く閉じていた瞼を開くと、目の前の景色を見た。そこには、もう先ほどまでの何もない真っ白な地平線はどこにもなく、また、元の世界の、あの殺伐とした事件現場の十字路に戻っていた。そして、目の前にはさっきの契約を交わしたユキが立っている。明久はそれを見ると、地面に手をついて立ち上がろうとした。そして、気付いた。さっき殺人犯に襲われてできた怪我がいつの間にか治っていることに。

「上手くいったみたいだね」

 ユキは明久に優しく微笑みかけると、明久はさっき殺人犯に刺された腹をさすってみた。

制服の布地の感触はあるものの、刺された痛みも、傷の痕もどこにもない。むしろ体は軽く、調子は良くなっているぐらいだった。明久は体が何ともないことを知るとユキを驚いた様子で見た。もちろん、ユキのことを信じていなかったわけではない。信じていたからこそ、あの時ユキの説得に応じて契約を交わしたのだ。それでも、今起きていることのすべてが日常からかけ離れた出来事なだけに、明久には理解するのに少し時間がかかりそうだった。しかし、ユキはその余裕すら与えないぐらいすぐに、何かに気付いたように視線を移した。

「これは・・・」

明久はユキの向けた視線の先を辿る。すると、そこには先ほどと何ら変わりのない状態で多くの人たちが地面の上で横たわっていた。もう、何人に息があって、何人が絶命したのかさえ分からない。そんな中で、明久とユキだけがその場に屹立(きつりつ)している。空の雲は日差しの照る間さえないほど(つら)なり、余計にその光景を冷たく感じさせる。明久は何をすればいいのかさえ分からずに呆然としていると、ふと、自分の右手首に変な紐の感触があることに気付いた。自分の腕を前にやって裾をあげると、そこには見たこともないミサンガが括り付けられている。

「何だこれ・・・」

いつの間にか腕についていた、(こん)と青、白の三色が斜めに入った色美しい輪っか状の紐。本体を構成する一本一本の糸が、つややかに三色に彩る、ミサンガ。そんな優雅にも控えめなミサンガが、明久の右腕にすらりと垂れ下がっていた。明久はユキの方へと目をやると、自分の右手首に付いたミサンガについて訊いた。しかし、ユキもこのミサンガについて「知らない」と言って首を横に振る。明久も、自分の記憶を思い返してみたが、全くこのミサンガをつけた覚えなどなかった。今日、下校するときにはこんなものなどなかったし、あの白い世界の中にいた時も、こんなものはついてなどいなかった。いつの間についたのか。明久は不思議そうに右手首のミサンガを見つめたが、やはり答えは分からない。

すると、今度はどこからか騒音が聞こえてきた。そちらの方へと視線を向けると、さっき明久が弁当を買ったスーパーが視界へと入る。騒音は、物の壊れる音から次第に人の悲鳴へと変わっていった。どうやら、この騒音はスーパーの中で鳴り響いているものらしかった。

「まさか、さっきの殺人犯。今度はスーパーの中に入ったのか・・・!?」

 明久はすぐさまそれが殺人犯の仕業だと分かった。騒音に合わせて、次第に明久の鼓動も強くなる。自分は生き延びただけで状況は何も変わっていない。それが分かると、明久の中にあった恐怖が再び呼び起こされた。

 しかし、明久が緊張で顔をしかめるのと同時に、突然、明久の視界が色褪せたようにほのかに暗くなっていった。それと同時に、スーパーから聞こえていた悲鳴も聞こえなくなる。さっきまで路上に倒れていた人たちの姿が途端に見えなくなり、向こう側の道路を走っていた車の音も、電線にごま粒みたいにとまっていた鳩も、まるでパソコンの電源が切れたかのように忽然(こつぜん)と消える。

「な、なんだ!?」

 明久は、急に辺りが静まり返って様子が一変したことに驚いた。十字路から移動したわけではないのに、明らかに明久たちの周辺の雰囲気はがらりと変わっている。空気も、色合いも、まるで生気の感じられないひんやりとした世界になっていた。

そして、静かになってから一分も待たないうちに、またもスーパー側の方角から激しい破壊音が鳴り響く。破壊音がやんでひっそりとした空気が辺り一帯を支配すると、最初に明久が殺人現場を見つけた曲がり角から、殺人犯が理性すら感じられない表情で再び姿を現した。その姿を見ると、明久の体はまた脈を強く打ち始めた。明久とユキは緊張気味に唾を飲み込む。殺人犯は二人を見ると、獲物を見つけた虎のように眼光を鋭く光らせた。そして、手に持っていたナイフを持ちかえると、明久たちに何かを告げるわけでもなく、いきなり明久目掛けてナイフを投げつける。

一直線に足に向かったナイフは、明久がとっさに足を避けるとコンクリートであるはずの地面に勢いよく突き刺さった。そして、ナイフを投げると同時に走り出していた殺人犯は、息する間もなく明久の目の前まで詰め寄り、ナイフに気を取られていた明久に自分の握り拳を殴りつけた。明久は直前まで殺人犯が詰め寄ってきていたことに気がつかず、拳をもろに受けて後ろに弾き飛ばされる。明久は空中で必死に体勢を立て直すと、地面に足をつけて勢いを止めた。

殺人犯はその様子に少し驚いた表情を見せた。常人であればあの速度のナイフは避けられないものだったし、弾き飛ばされても空中で体勢を整えるなんてなかなかできることではないものだったからだ。明久本人もそのことには気付いていたが、それでも殺人犯を目の前にして気を抜くほどの余裕はなかった。明久はこちらを見つめる殺人犯を睨みつけると、攻撃に備えて構える。

殺人犯はそれを見ると、もはや理性すら感じられない笑みを浮かべた。殺人犯は足元に刺さっていたナイフを右手で引き抜くと、明久に一気に迫って上から大きく斬りかかった。明久はそれを横にかわすと殺人犯の左わき腹に拳を向ける。しかし、明久の拳は殺人犯のもう一方の手で受け止められ、一度振り下げられた右腕は、肘打ちとして再び明久に襲いかかった。明久は避ける事も出来ずに殺人犯の肘打ちをくらうと、よろけて後ろへ数歩さがった。肘打ちで視界がぐらつく。しかし、明久はすぐに地面に足を踏みしめて拳を強く握りしめると、視界がもとに戻らぬうちに、もう一度殺人犯に拳を力一杯殴りつけた。適当に放った一撃だったが、上手い具合に殺人犯の顔面を捉える。殴りつけると同時に口の中を切ったのか、殺人犯の口から血が飛び散った。

 ところが、殺人犯はひるむどころか笑みを浮かべ、応戦する調子で明久の体に拳を殴りつけてきた。まだ視界の定まっていなかった明久は、為す術もなくそれに捕まる。男の拳で明久は尻もちをつく形で地面に弾き飛ばされる。

「っぐ!!」

 明久は地面に体を強く打ち付けながらも、すぐに殺人犯へと視線を向ける。しかし、男はもう既にナイフの切っ先を明久に向けて、飛びかかっていた。

もう、間に合わない。

 直感でわかる、無慈悲な現実。

それは、明久の頭の中を一瞬のうちに支配する。

 もう、何をやっても無意味だと。何をやっても間に合わないと。諦めにも似た感情が、明久の脳裏をよぎった。

 しかし、そのとき。

 男のナイフが明久の目の前まで迫った瞬間、突然男の体が、何者かによって弾き飛ばされた。

「なっ・・・!!」

男の体はトラックに撥ねられたかのように突き飛ばされると、地面に体を強く擦りつけて勢いを止める。それは殺人犯にとっても、明久にとっても予期していなかった出来事だった。二人とも、いきなりのことに何が起きたのか理解できない。しかし、殺人犯が体を起こしてそれを確認する暇もなく、殺人犯を弾き飛ばしたそれは、明久の腕を引っ張り、近くにいた少女の腕も掴んで、強制的に二人をどこかに連れて行った。音のなくなった十字路に、殺人犯一人が取り残される。


引っ張られていた腕が離されると、二人は自分たちのいる場所を見渡した。気付くと、二人は駐車場の奥の道路の、さらに向こう側にある公園にいた。そして、二人の(そば)には、先ほど自分を引っ張ったと思われる青年が立っている。明久は驚いて青年を見つめるが、緊張で思うように口が動かせない。さっきから突然のことばかりで、何が起きているのかを考えることさえ面倒だった。すると、青年はスーパーの方角を睨みつけながら、「これで、ひとまずは撒けたか・・・?」と呟く。

青年はすらりとした体系の優しそうな雰囲気の人間だった。青年は驚いた表情をしている明久たちに顔を向けると、優しそうな笑顔に変えて申し訳なさそうに謝った。

「悪いね。本当はもっと穏やかにいきたかったんだけど、もう少しであの殺人犯、君に襲い掛かってきそうだったから」

明久は開いていた口を一度閉じると、唾を飲み込んでもう一度口を開いた。が、明久が言葉を発するよりも早く、青年は思い出したように付け加える。

「ああ、俺は別に君たちを襲うために君たちを引っ張ってきたわけじゃないから、あんまり心配する必要はないよ」

 青年は二人に落ち着いた調子で言った。そして明久の腕に付いていたミサンガを見て、一瞬表情を曇らせたかと思うと、またすぐに表情を戻して訊く。

「君たちは、さっき契約をしてきたのか?」

「え? ああ・・・。はい」

「・・・そうか。・・・悪いね、本当はもっと早く駆けつけるべきだったのを」

 そう言うと、青年は悔しそうに苦笑いを浮かべた。青年の見せるその表情には、明久を騙してやろうなどといった感情は全く感じられない。むしろ、本気で明久を労って、すぐに助けに来ることができなかったことを嘆いている表情だった。どうして、こんなに自分のことで悔しそうな顔をするのか。明久には、今目の前で起きている全てのことが疑問だった。この青年は一体何者なのか。今の明久にはそんなことさえも分からない。今、自分の身の周りに起きていることも、自分の置かれている状況がどういったものなのかも、今の明久にはまったく説明できない。ただ、今起きていることを、この青年は確実に自分より知っている。それだけは、明久にも確かに分かることだった。明久はかすかに震えていた唇に、ゆっくりと力を込めると辺りの様子に目を向けながら言った。

「あの、ここ。さっきと全く雰囲気が違うんですけど、ここは一体何なんですか?」

「ここかい? ここは空絶という空間だよ。見た目は元の世界と同じだけど、生物などが存在しない世界なんだ」

 青年は踵を返すと、公園のさらに奥へと突き進む。それを見ると、明久たちも置いて行かれないように後をついて行った。

「契約者は全員が共通して使えるから、君にもたぶん元の世界から自由に出入りはできると思うよ」

「俺にも・・・?」

 明久は驚いて自分の手のひらを眺めた。自分にもこんな世界に自分の意思で自由に出入りできる。それを聞くと、明久は少し不思議な気持ちになった。

「まあ、この世界にいても元の世界では普通に時間は流れているけどね。そして、誰かがこの世界に入ると、近くにいた契約者も強制的にこの世界に送られるんだ。さっきこの世界を展開したのも実は俺だよ」

青年は振り向くと、明久たちを見て微笑んだ。この人の笑顔は、人の気持ちを落ち着かせる。初対面だったが、すぐに危険な人じゃないと分かった。すると、青年は思い出したように口を開いて明久たちに言った。

「あと、言い忘れていたけど、通行人の人たちはもう心配しなくても大丈夫だよ。俺が殺人犯のもとへと駆け付けている間に、救急車の方も連絡しておいたから」

青年は公園の遊具エリアに入って遊具の横をそのまま歩くと、今度はユキの方に視線を移して(いぶか)しそうに顔をしかめた。

「ところで、君も契約者なのか? どうも普通の契約者と雰囲気が違って見えるんだが・・・・」

 青年は不思議そうにユキを見つめると、ユキは可愛らしい顔を青年に向けて言った。

「私は、この横にいる人と契約を交わした相手だよ?」

「え? ちょっと待て。それじゃあ君はこの子の神様だって言うのか!?」

「うん」

 青年は驚いた様子で口をあんぐり開ける。

「驚いたな。俺も契約する際は確かに契約相手に会ったが、こっちの世界で他人の契約相手にあったのは初めてだ」

明久はその言葉に驚いて歩調を強めた。

「え? あの、待って下さい。あの変な世界で契約したのは他にもいるんですか?」

「ああ、君以外にも契約を交わした人間は結構いるよ。・・・でも、君みたいに契約した神が現人神(あらひとがみ)としてこちらの世界に現れた例は初めてだよ。何か特別な契約でもしたのか?」

 青年は二人に尋ねたが、二人とも何も答えられずに口を塞いだ。契約を交わしたといっても、明久たちは指きりをしただけだ。答えられるわけがなかった。青年は二人が黙り込むのを見ると、鼻から息を出して言った。

「まあいいや。きっと、何か特別な理由でもあるんだろう」

 青年は顔を前に戻すと、また自分たちの歩く先を見据える。明久たちも、それを後ろとも横ともいえるような、微妙な角度で追い続けた。

「そういえば、お前は一体なんの神様なんだ?」

 明久は、ふと、思い出したようにユキに尋ねた。

「あれ? 言ってなかったっけ」

 少女が聞き返すと、明久は「ああ」と頷いた。神と言っても、この世界には八百万(やおよろず)もいると聞く。そんな中でもユキはどんな種類の神なのかぐらい、明久も知りたかった。

「私は、たぶん皆がいう、疫病神っていう神だと思うよ」

「は?」

 ユキの言葉に、明久は絶句した。あまりに驚きの回答に、明久は息をすることさえ忘れていた。

「私はあんま気にしてはいないんだけどね」

「・・・・や、いやいやいや! お前が気にしなくても俺がきにするってーの! 何だよそれ、嘘だろ!? 俺はお前が神だって言うから信じたんだぞ!」

「でも、結局同じ神様だよ」

「そりゃそうだけど!!」

 明久はそこまで言って口を閉じた。確かに、最初に会ったときもこんな古びた着物を着ている人間が神様だと名乗ること自体が不自然だと感じた。なぜ、こんな服装をしている少女の言うことを簡単に受け入れられたのか、今考えるとすごく不思議だ。明久は自分が契約した相手が疫病神だということが分かると、不安や緊張感どころか今歩くための気力すら失くしていった。

「あれ。おーい、おーい。何で止まってんのー?」

お前のせいじゃ、お前の。

明久は心の中でそう呟くと、深々と溜め息をついた。

 しかし、前を歩いていた青年は顔を途端に強張らせたかと思うと、すぐに後ろの二人に「来た」と言った。

 青年の声に反応した二人は、青年の先に視線を向けた。青年の奥には、先ほどの殺人犯が体を揺らしながらいつの間にか立っていた。それを青年は睨みつけると、明久たちに「退()がっていて」と言う。明久たちは青年に従ってその場から数歩下がると、青年はゆっくり息を吐き出す。そして、静かに「いくぞ」と言って、地面に付いた足に力を入れた。

 刹那、青年は一気に殺人犯へと飛び込み、目の前に空気すら分断させる勢いで右足蹴りを入れた。殺人犯の体はおはじきのように横に突き飛ばされ、地面に体を擦り付ける。しかしすぐに殺人犯は手をついて立ち上がると、今度は殺人犯から青年へと跳躍して距離を縮めた。殺人犯の手に持っていたナイフは、流れるような動きで一撃、また一撃と青年に襲いかかってくる。まるで、生きた蛇のように怪奇的で、おぞましい動き。青年はそれを目を凝らしながらかわし続けると、青年は殺人犯目掛けて蹴りを入れた。殺人犯は突然の蹴りに反応することもできずにそのままビリヤード玉のように突き飛ばされると、近くにあった木の(みき)に体を打ち付ける。青年は蹴った足をゆっくり地面に下ろすと、さっきまでの優しさなど全く感じられない声で言った。

「この公園の敷地内は俺のテリトリーだ。この公園にきた時点でお前にもう勝ち目はない」

青年は冷たい表情で殺人犯を見つめると、ゆっくりと体を構える。その様子を、明久は呼吸すら忘れて見続けていた。さっき、自分が逃げる事さえかなわなかった相手と、同等に、いやそれ以上にこの青年は渡り合っている。しかも、普通じゃあり得ない身体能力で。それがあまりに衝撃的で、明久はしばらく何一つ言葉を発することができなかった。

殺人犯は自分の背中にあった幹にナイフを突き刺すと、ナイフを持ったまま後ろへと振り向いて、幹を両手で抱きかかえるようにがっしりと掴んだ。そして、全身に力を込めると、勢いよく木を根元ごと引き抜く。根元からはばらばらと土が落ちていく。根の長さは殺人犯の怪力を物語っていた。殺人犯は重さなどまるで意に介さないように幹を抱え込むと、そのまま一気に青年へ駆けて、青年のもとに木を振り落とした。しかし、青年もまた意に介さないようにふわりと避けると、そのまま殺人犯のナイフを持っていた手に膝蹴りをきめた。殺人犯の手と共にナイフが宙に弾き飛ばされる。

すると、青年は殺人犯のガラ空きになった腹部に、手の甲を力いっぱい殴りつけた。殺人犯は無抵抗なまま弾き飛ばされ、地面に体を擦り付けながら勢いを止める。青年は、宙に浮いたまま切っ先でくるくると円を描いていたナイフを手に取ると、それを、殺人犯に立ち上がらせる暇さえない速度で投げつけた。ナイフは殺人犯目掛けて一直線に飛び、殺人犯の右手首にナイフが掠める。そして、ナイフは右手首のすぐ横で地面に突き刺さった。ナイフの掠めた殺人犯の右手首の裾ははらりとはだけ、中に隠れていたミサンガが姿を現す。ミサンガは、青年が投げたナイフのために綺麗に切られ、殺人犯の腕から静かに地面に落ちた。

 すると、途端に殺人犯の体の周りが発光し始めたかと思うと、殺人犯の体は一気に、パアァァァ、と光の粒子になって消え失せた。

 二人の戦闘を見ていた明久は、その一部始終に衝撃を受ける。殺人犯のいたはずのその場からは、光がちらちらと儚く舞い飛び、次第に虚空へと薄れていく。光が消えてなくなるころには、もうすでに殺人犯の姿などどこにもなく、地面には殺人犯のミサンガとナイフがあるだけだった。

「な―――――――――」

明久は空気すら上手く吸い込めないようななかで、声を精一杯出した。しかし、その声に青年は耳を傾けることもなく、静かにナイフを投げつけた方向へと歩みを進ませる。青年はナイフの近くまで歩み寄ると、足を止めて、地面にあったミサンガを拾い上げた。ミサンガは、土がついて少し汚れているためか、それとも殺人犯の腕から離れて役割を終えたためか、どうもみすぼらしく見えた。青年は、手に持ったミサンガを苦々しい表情でしばらく眺めると、ただ立ち尽くして闘いを見ているだけだった二人に言った。

「君たちは、まだこの世界の事について、あまり知らないんだっけ」

青年は手に持っていたミサンガを強く握り締めると、重苦しい表情を向ける。

「それじゃあ付いてきて。俺がこの世界に付いて知っている限りのことを、君たちに話すよ」

 青年はそう言って明久たちから視線を逸らすと、再び振り返ることもなく歩みを進めた。明久たちは、青年が歩いて行くのを見ると、ナイフが突き刺さったままの殺人犯の消えた地面に顔を向ける。そこには、もう殺人犯の姿などない。明久は、それを暗澹とした面持ちで眺めた。さっきまで戦闘が繰り広げられていた事が嘘だったかのように静かで、それが一層、明久の気持ちを暗くさせた。明久たちはゆっくりと顔を前に戻すと、後ろ髪を引かれるような思いに駆られながらも青年について行った。



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