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神様のミサンガ  作者: よしふ
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2

空を覆う雲は数日経っても晴れることはなかった。街を歩く人々の姿は、どこか憂鬱で疲れたように元気がなく、明久の目に写るものも、全てが活気を失くし色褪せているように見えた。空の雲は以前にもまして深く垂れこめ、人々の憂鬱をより深く大きなものにする。明久は、教室の窓辺にたれながら、教室の中を見つめた。授業を終わらせた先生は生徒の質問を受けて未だに教室の中に残り、そのほかの生徒は机に伏せこんで眠ったり、友達と何人か集まって話をしていたりしている。明久はその中の、廊下側、前から三番目の席を眺めた。その机は、静かに教室の床の上に、誰一人生徒を座らせることなくぽつりと存在している。その横の生徒たちは、疲れを表情に残しながらも、違和感が見えないように、何事もないかのごとく過ごしていた。その席は、いつも瀬々良木が友人の輪を作る指定席であり、彼女の普段の勉強席。いつもなら人望厚い彼女のその席も、今日は辺りに人の気配を作ることはなく、静かに彼女の帰りを待ち続けていた。

 瀬々良木はあの日以来、学校に来ていない。理由も、教師からの体調不良以外何一つ聞いていなかった。きっと、教師たちも深い理由は知ってはいないのだろう。普段、何気なく会話している彼女の友人も、あまり深い理由は追及しようとはしなかった。おそらく、自分だけが彼女の異変を知っているのだ。自分だけが、彼女の抱える闇を知っているのだ。

しかし、明久は自分が何をすれば良いのか、どうすれば、彼女の闇を拭い去れるのか、微塵(みじん)にも知ってはいない。彼女の連絡先なんて知りはしないし、知っていたところで力にはなれそうもなかった。ただ、ぐずぐずと考えては、時間だけが過ぎていく。彼女に対する心配の感情は、原動力として行動に移されることなく、日に日に明久の中に(つの)っていく。

第一、彼女の言った言葉は、明久自身、大きく胸に響いていた。ミサンガをしている自分たちは一体何なのか。一度死んでしまった自分たちは、何なのか。生きていると言えるのか。考えれば考えるほど分からなくなって、胸をきつく締め付ける。あの日から、明久の心の中は、ずっと瀬々良木が言った「何で生きているのかな」という言葉がぐわんぐわんと鳴り響き続けてやまなかった。

明久が遠くを見るように瀬々良木の机を眺めていると、横の席に座っていた杉村が弁当の白米を箸でつまみながら明久に言った。

「お前、なに見てるんだ?」

 冷めた口調がやけに明久の耳の中に響く。

「・・・いや、なんでもねえよ」

 俺は平静を装いながらそっけなく返すと、上履きのかかとを(へり)へとのせた。杉村は睨めっこしながら弁当箱の底をつつき、白米を箸にのせると、そのまま口の中へと運んでいく。それを横目に、俺は少し退屈な、憂鬱な表情を浮かべて、教室の天井に付いた蛍光灯の明かりを眺めた。

「・・・お前、何食ってるんだよ」

「弁当だよ、弁当。今朝ご飯食う時間がなくて、今、朝飯として食ってるんだよ」

「そうじゃなくてよ」

 そう言いかけて、明久は言うのをやめた。明久が言いたかったのは、食べているタイミングなどではなく、杉村の食べている弁当のことだった。弁当の箱の柄は黄色、ピンクを基調としていて、明らかに男子が好んで使うような弁当箱ではない。明久は呆れたように嘆声を漏らして「怒られても知らないぞ」と言うと、杉村は口を動かしたまま手に持った箸を明久に見せ、「いいんだよ」と返した。

「それよりお前、最近よく瀬々良木の机ぼんやりと眺めてるけど、瀬々良木の欠席のことがそんなに気になるのか?」

「な、お前気付いてたのか」

 若干慌ててしどろもどろに訊くと、杉村は呆れたような顔をしながら明久に答えた。

「まあ、気付いていたっていうか、お前最近やけにぼんやりしてることが多かったからな。何となく、そういうことなのかなと思ってさ。お前ら喧嘩でもしたのか?」

 その質問に、「そういうわけじゃないんだけどさ」と明久は言葉を濁らせる。心に陰鬱と残される悩みを少しでも吐き出して楽になりたかったが、自分の問題は極力自分の力で解決したい。濁らせた語尾が次に出ようとしていた悩みの言葉を押しとどめると、ゆっくりと沈鬱な感情の籠った吐息をこぼした。すると、その様子を眺めていた杉村は呆れた表情をしながら、口に弁当のおかずを放り込んだ。

「純粋に欠席のことを心配してるのかどうかは知らんけどな、相談する気もなしにそういう辛気臭い表情を俺の目の前でするのはやめろよな。俺はこの高校生活を十二分に満喫して過ごしたいと思ってるのに、その横で今にも溜め息が出てきそうな表情されたら、こっちまで気持ちがどんよりしてきちまう。高校の青春時代ってのはな、明るく馬鹿やって、楽しめたもんの勝ちよ」

 杉村はそう言いながらリスのように口の片側に含んでいたご飯を呑み込むと、横の机に置いてあった水筒のお茶を、二口ほど胃の中へ流し込んだ。明久はその言葉に少し励まされると、杉村の普段と変わりない態度に心で感謝した。やはり、こういう時いつもと変わらない人がいてくれるというのは、非常にありがたいことである。しかしまあ、その杉村本人にも変わらなければならない点がいくつかあるのだが。

遠くで別の友達と会話していた涼川は、杉村のことを見つけると、なにかとんでもない珍事でも目撃したかのように急いで杉村のもとへと寄ってきた。近付いてきた彼女の顔は怒りと興奮に満ちていて、ふんふんと息を吹きながら鼻を膨らませている。その姿を見た明久は、ああ、やっぱり、と杉村の懲りない姿勢に半笑いを浮かべた。

「ちょっと、あんたなに人の弁当食ってんのよ!」

 涼川が杉村の手にある弁当を取り上げようと掴みかかると、杉村はひょいと弁当箱を持ち上げてそれをかわした。

「いいだろ、別に減るもんでもないし」

「減ってんのよ! 私の今日のお昼が!」

「いや、物理的には減ってはいないね。ただ単にお前の弁当が俺のおなかの中に入ってるだけなんだから」

「屁理屈言ってんじゃないわよ! 私のおなかに入るべきお弁当だって言ってんでしょうが! ちょっ、あんた、その水筒も私のじゃない! 」

「知りませんー。そんなこと私には関係ありませんー」

「何いってんのよ、もう十六のくせして。ちょっ、いい加減返しなさいって」

「へ、いやだねー」

「返して」

「むーりーでーす」

「ムキ―!」

ムキ―?

 明久はそんな二人のやり取りに半笑いしながら、窓辺にもたれていた体を起こして教室をつと流し見た。先ほどまで生徒の質問を受けていた先生は、今はもう用を済ませて教室をあとにしており、机に突っ伏していた生徒は、相変わらず机におでこをのせて猫背のまま眠りについていた。教室の天井にある一つの蛍光灯は、もう役割を終えてつかなくなっている。その光景を見ると、明久は何となく曇りが続き、色褪せた教室に心を安堵させた。

「杉村」

「何だよ」

「お前、スポーツジムで休んでること、部活の奴らにもしっかり教えてやれよ?」

「お前、なんでそのこと!」

 明久が、弁当をとられて不機嫌な声をあげる杉村に顔を向けて、表情を柔らかくすると、杉村は驚きながら目を見開いた。横で弁当箱を取り返した涼川は、余計なことを、と目で訴えるように鋭い視線を送る。こんなやり取りが、今の明久にとってはたまらなく楽しかった。二人の視線を向けられて顔をそらした明久は、教室へと目を見やって表情を軽くした。

「風のうわさだよ、風のうわさ」

少し気分の晴れやかになった声は、わずかな騒音の響く教室の中で飛んでいくと、廊下までたどり着くことなくかき消された。


 その後、晴れることのない空の中で、明久含め生徒たちは淡々と授業をこなしていくと、みな疲れたように体を起き上がらせて帰路についた。少し足取りの速くなった放課後の帰り道は、まだどんよりと肌寒い。外を満たす太陽の光も、雲を通すことで灰色に変わっているみたいで、辺り一面が灰色に色塗られてうす暗かった。温暖化の続く地球で、こんなに肌寒いのも珍しい。明久は寒さから逃れるように体を縮こめて、外気に直接触れていた両手を制服のポケットの中にしまいこんだ。明日には晴れて五月の陽気を取り戻すと、今朝見た週間天気予報は言っていたが、本当に明日は晴れるのだろうか。朝の週間天気予報を思い返しながら明久は空を見上げると、鈍色にたちこめる空一面の雲を眺めた。

明久は普段から天気予報を見る癖はついていたが、その天気予報を信じることは少なかった。天気予報を見たところで、全く見当違いな結果が訪れることはままあったし、もしそれなりにあっていたとしても、わずかに時間がずれ込んで、結局傘が必要なくなるなんてことも良くあったからだ。最新の機器を導入したところで、未来のことなんて百パーセントそうなるだなんて断言できない。それでも、そんな予測を頼って日々を暮らしているのは、やはり、そんな予測にも何らかの緻密な計算、根拠があるからで、そんな英知に淡い期待を抱いてしまうためからなのだろうか。明久は空を眺めると、わずかに息を吐き出して、雲の先にあるはずの光景を想像してみた。明日には、晴れているといいんだがな。そんな淡い希望を空に()せると、明久はまた顔を前へと戻す。隣の塀の中にあるミカンのなる木は、寒そうに緑の葉を風に揺らし、光合成のために空の太陽をひたすら待ち続けている。明久の目に写る周りの景色は、いかにもしんみりとした寒々しいものばかりで、時折見えるこういった木々だけが、春の景色を(もよお)していた。辺りで見かける春の花々も、曇りの空に身をすぼめてみすぼらしい。

明久は閑散とした道の中歩みを進めると、そのまま自宅の玄関口までたどり着いた。少し歩調の強くなっていた足も、玄関手前でその動きを止められると、静かに両足がそえられる。ゆっくりと扉に手が触れ、ひんやりと冷たい感触が指先に伝うと、明久は特に何も考えることなく玄関の扉を開いた。

そこには、ユキが鬼気迫る表情で明久の帰りを待っている。何か、大変なことを明久に伝えようとしているかのように。とてつもないことが、目の前に迫ってきているかのように、そこに立っていた。明久は、一瞬何事かと自分の目を(みは)った。普段から、ユキが自分のことを出迎えに玄関先に来ることは良くあったし、珍しいことではなかったが、今回は明らかに様子が違った。最初から玄関先で明久のことを待つだなんて初めてのことだし、何より表情が険しい。明久はすぐにユキの異変に気付くと、「どうした」とユキに訊いた。

「契約者が、この辺にいる」

「は?」

「誰だか分からないけど、あまり良くない感じの契約者が、この辺で力を使っているの!」

 ユキの、今まで見たこともないような青ざめた表情に、明久はすぐに状況を理解した。すぐ近くで、能力を行使している者がいるのだ。何か、自分の私利私欲のために。それがおそらく一般人の身にも及んでいて、誰か関係ない人物が危険な目に遭っている。どんな方法で知ったのかは分からないが、確かに彼女はそのことを察知して、俺に教えてくれているのだ。

ユキの表情に、明久は一気に血の気が引いて青ざめていった。明久たちは鞄を置くのも忘れて家を飛び出すと、すぐにその契約者とやらのいる場所を尋ねた。ユキが家を出て、前を走って先導していくと、明久はそれを追いかける形で走っていく。恐ろしいほど心臓がばくばくと鼓動を打ち、焦燥感が湧きあがってくる。最初の事件現場と同じような光景が、目の前に広がっていたらどうしようかと、恐怖がおこる。どうして契約してからというもの、周りはみな、せわしなく動いていくのだろう。頭は目まぐるしく回って、明久の前へと踏み出す足をどんどん強くしていった。

ユキが案内していった場所は、家の近くにあった公園だった。最初に事件に出くわした際に、孝平さんが自分たちを連れていき、殺人犯と戦ったあの場所である。土地面積は市内の公園で二番目に広く、おおよそ六万平方メートルの土地の中に、テニスコート三面、夏の期間だけ開かれる市民プールなどが備えられている。昔からよくお世話になっていた、近所で馴染みの深い公園。その横にある道を二人で駆けていくと、横から見える公園の中の景色を見ていった。少し、中の様子を眺めるために、歩調を弱める。

本来なら横を通るまでもなく、公園手前の入り口から中へと入ることが出来るのだが、この辺の土地勘にまだ慣れていないユキにそんなこと知りはしなかった。自宅と公園の間には七階建てマンションが塞ぐように建っており、それを避ける形で公園へと向かわなければならなかったために、彼女の間違いはなおさら仕方ない。距離的にもさほど影響はないので、二人は慎重に歩みを進めた。横を走りながら別の入れる場所を二人で探していると、道の先から見知った顔が見えてくる。明久たちはその人物と対面すると、ちょうどこの公園の入り口付近で立ち止まった。

「明久・・・?」

「瀬々良木、お前、なんでこんな所に・・・!」

 明久の困惑の声に、彼女は口をつぐんで、下に俯いた。顔はひどくやつれていて、その表情に元気はない。少し言葉に迷っていた二人も、すぐにユキの言葉に呼び戻されて、顔をはっと前へと起こした。

「明久、今また契約者の嫌な感じがした! あっち!」

 ユキに手を引かれると、明久はそのまま公園の中へと連れられて行く。明久には何も感じられないが、ユキの表情はさらにもまして険しかった。明久の踏み出す足も自然と強くなっていく。やつれた表情を見せていた瀬々良木は、二人が公園へと入っていくのを見て、若干戸惑いつつも、気になって二人についていった。

中は低木(ていぼく)が場所を区切るように一直線に続いており、そこを境に、遊具のある広場、季節を彩る木々の植えられた自然豊かな芝生広場、道を舗装された広場と三つに分けられている。明久たちが入った広場は道を舗装されているところで、低木や草木が公園の景観を良くするように植えられていた。三つの広場が低木で区切られているとはいえ、明久の身長であれば遊具の方も充分見渡すことができる。しばらくの間辺りを見渡していた明久も、低木の奥の遊具広場に視線がいくと、すぐに一人の少年がそこにいることに気付いた。ブランコと滑り台の中央辺りの、一歩手前に、視線が止まる。

「あれは・・・!」

 そこにいたのは、事件翌日に見かけた万引きの少年だった。距離が少しあるので若干ぼやけては見えるが、確かにあの時の少年だ。顔にはほとんど理性がなく、恐ろしいほど表情が殺気に満ちている。その手には、小さな男の子が苦しそうに首を掴まれてもがいていた。足は地面についておらず、顔は必死に空気を吸い込もうと苦しそう。明久はすぐさま低木を乗り越えて、その少年のもとへと駆けていった。駆けながら思い切り体当たりをすると、男の子の首から手が離れ、少年は勢いよく地面に倒れこむ。

「おい、君、今すぐここから逃げろ!」

 明久はすぐさま地面に尻もちをついてむせかえっている男の子に声を張り上げた。思っていたよりも声は上擦り、自分でも気持ちが高揚しているのが分かる。男の子は明久の声を聞くと、若干咳きこみながら立ちあがり、ふらふらと重心の定められない体を必死に動かしながら去っていった。

「明久! 早く空絶をかけて!」

 ユキの叫ぶ声が聞こえると、明久は力強く手を空に挙げる。その右腕は勢いよく頭上の空気を切り裂き、括りつけられたミサンガをはためかせた。

「空絶!」

 その声とともに、一気に空の果てから上へと覆い包むように、空絶が展開されていった。空の雲は以前にもましてなおさら暗くなり、隙さえあれば明久たちをいつでも襲いかかろうと機会をうかがっているようである。少しひんやりとした五月の風は、ぴたりと動きを止める。そして、明久は下ろした右手を拳へと変えると、目の前に倒れこんでいる少年を怒鳴った。

「お前何やってんだよ! あのままやってたらあの子死んでたぞ!」

 明久は声を(すご)ませて、少年のことを睨みつけた。少年に、返事はない。ただゆっくりと地面から立ち上がると、服についた汚れを手ではらった。

「お前、あの時の万引きの少年だよな! 何でこんなことするんだよ!」

 少年はなおも返事をしない。静寂(せいじゃく)に包まれた空を重たそうに俯き、自分の目の前へとゆっくり両手を出した。

「お前―――」

 言いかけて、ユキは明久のことを止めた。

「明久、もう駄目! その子、もう瞳に理性が感じられない!」

 何とも無慈悲な言葉。受け入れがたい現実。説得でどうにかしたいという明久の思いに反して、少年の耳には一切明久の言葉は届いておらず、ただ公園の空気を小さく震わせるだけ。少年は、重たく肩にのしかかってくる空を仰ぎながらふっと柔らかく息を吐き出すと、突然なんの前触れもなく手元に現れた大鎌を手に持って、明久に襲いかかってきた。明久の目の前に、全長一メートル近くの大鎌が迫り来る。

 それを明久は目をよく()らしながら、太刀筋を見極めて横へと避けた。鈍く黒光りする刃に写った自分の視線が、ギラリと明久のことを睨みつける。凍るような視線。冷たく反射する自分の顔。横顔を写した錆びついた刃を明久は横目に見ると、一気に少年へと向かって地面を蹴り出し、自分の拳を少年目掛けて力強く放った。明久の拳は少年の顔面直前まで接近し、少年の顔をえぐろうと襲いかかる。刹那、明久の拳は大鎌の柄に受け止められ、逆に勢いを殺されてはたかれてしまった。明久は痛みで手首を押さえようとするも、その余裕すら与えられずに大鎌の横ぶりが明久に襲いかかり、空気とともに明久の体まで分断しようとした。明久は慌てて屈みこんでそれをかわすと、少年へと体当たりする。少年は後ろへとよろけながら体勢を立て直すと、不満でもぶつけるかのように、地面に唾を吐き捨てた。少年の表情はやはり感情を失ったように色がなく、唾を吐き捨てた表情すら茫洋(ぼうよう)としていて不気味だった。

少年は持っていた大鎌を持ち替えると、刃の方を上にして明久に一撃、二撃、と攻撃する。明久はまばたきもせずにその一撃を手ではらうと、次の二撃目も体をのけぞらして避けた。すぐに迫りくる三撃目。明久はそれを後ろに跳んで逃れると、少年から少し距離をとって次の攻撃に備える。

不気味な顔。契約者同士の熾烈(しれつ)な攻防。少し油断すれば、相手に取って食われてしまうような、息継ぎさえ許されない緊張感。そんなコンマ何秒の駆け引きの中、明久たちの張りつめた空気は途切れることなく続いていた。ゆっくりすることなど許されない。視線を逸らすなどもってのほか。少しの温かさも、優しさも介在することのない空気。その中で、戦闘を眺めていたユキとその横に並ぶように立っていた瀬々良木は、固唾(かたず)をのんで見守る。辺りを暗くする空絶は、戦いとはそういうものなんだと、明久たちをあざけるように眺めている。かくも人間とは面白いものなのかと、どうしてこれを笑わずにいられようかと、重たい空気を、重力さえ重たくして明久たちにたちこめた。明久たちは重たい空気に小さく息を吐き出すと、再び足先に力を込めてお互いに向かって蹴りだす。緊張はさらに増し、空気のわずかな振動さえも耳が捉える。お互いの駆け引きもどんどん熱を帯びて、ギリギリの闘いが繰り広げられた。常人を超えた、契約者同士の闘い。

二人のその様子を眺めていた瀬々良木は、何もすることが出来ずにただ呆然とする。なぜ同じ力を持ちながら自分は明久の手助けが出来ないのだろうと、なぜ自分はこんなにも無力なんだろうと、心の中で幾度となくせめぎ合っては、自分のことを責めていた。横にいるこのつぎはぎだらけの和服を着た少女ですら、明久のことを辛抱強く待っているのに、そんな感情すら湧かない自分が、とてつもない薄情者のようで心が痛かった。なんで、同じ立場にいるはずの私は、こんなにも弱くみすぼらしいのだろうか。どうして明久は自分と同じ立場なのに、こんなに強く生きられるのだろうか。そんな気弱な感情ばかりが自分の中に占拠していることが、悔しくてたまらなかった。

瀬々良木がその誰にも気付かれることのない葛藤(かっとう)に心を悩ませていると、横から二十歳前後の青年が姿を現した。すらっとした体系に、爽やかな顔立ちの持ち主。少し焦りを表情に見せながらも、その表情には生まれつきのものなのか、変わらぬ落ち着きのようなものがある。

「これは?」

青年は明久たちの戦闘に顔を向けると、眉を寄せたまま瀬々良木に訊いた。明久たちの靴底が地面に擦れる音、戦闘をする音が、瀬々良木たちの耳の中で強弱つけて響く。少年が人を襲っていて、明久がそれを見て止めに入ったんですと、瀬々良木は返そうとするも、途中でやめて、出かかった言葉を喉の奥へと押し込んだ。言ったところでこんなこと、誰でも二人の戦闘を見れば予測できることだったからだ。青年だって、こんな答えを求めているわけではない。彼はもっと、戦闘の本質的なところを見ているのだ。その本質的なところなど、自分でも分かりはしないのだけれど。

「俺の名前は価野孝平。俺は彼が契約するきっかけになった事件に関わって、ミサンガのことについて教えた人間だよ。君の名前は?」

「瀬々良木夏芽です」

「そうか、君は明久君のあとに契約した人間か」

 価野はそう言って、明久たちの戦闘に顔を戻した。

戦闘は少年が優勢になっていた。明久は後手に回り、攻撃を受け流すか避けることに全神経を集中させている。その表情には、油断も隙もない。ただひたすら攻撃を避けては、自分の攻撃の機会を(うかが)っている。それでもなお、対する少年には隙など全くなく、攻撃の手を休めることなく続けていた。

どんな状況下でも、武器を持っている方が確実に戦闘は優位に進められる。これは契約者同士の闘いにおいても同じことが言えるだろう。少しでも戦闘を有利に進めたいのであれば、手近なものであれ、その場しのぎのものであれ、結局手元に多くあった方が良いに決まっている。今の二人の状況下においても、その常識的事実は変わらなかった。少年が全長一メートル近くの、いかにも死神の絵と一緒に描かれているような、あの大鎌を手にしているのに対して、明久は武器という武器を何一つ持っていない。それは、この戦闘において、明らかに明久が戦闘を不利に進めている大きな要因の一つになっていた。明久はどうにか相手の懐に潜り込もうとするも、一メートルというリーチのある大鎌に(さえぎ)られて攻めるにも攻めきれない。避けるにも、全てが全て避け切れるわけでもなく、何度となく攻撃を服に掠めている。

「少し、戦況が不利に傾いてきているな」

 価野は二人の戦闘を見ながら、眉をひそめた。

「このままだと、彼は負けるかもしれない」

 価野の言った、現実的観測。瀬々良木は緊張の増す空気に呑まれながら、ゆっくりと空気を呑み込んだ。価野の言葉が頭の中で反響する。勝てない。かてない。カテナイ。

勝てなかったらどうなるのだろうか。明久は? ミサンガは? 切られたら死んでしまうんだよね。明久、死んじゃうの? 死という逃れられないものに抗って、それでもなお、明久はその死に勝つことなく死んでしまうの? そんなの、嫌だよ。そんなの、あまりにも不条理だよ。頭の中で何度も響き渡り、消えることなくただ膨張していくだけの瀬々良木の言葉は、どんどん彼女の中の不安を掻き立てて、彼女を混乱させていった。その様子を見て、価野は、「そんなに心配しないで」と彼女の不安をなだめる静かな声で言った。

「まだ彼が絶対に負けると決まったわけじゃない。彼は、俺たちが思っている以上に強い力を秘めているはずだし、ここで負けるほど弱い人間でもない。もし、仮に負けそうになったとしても、俺が必ず助け出してみせるから大丈夫だよ。俺、こう見えても戦闘には割と自信があるんだ。特にこの公園敷地内は俺のテリトリーだからね。絶対に明久君を死なせるようなことはしない」

 固い決意とともに発せられる力強い言葉。表情は瀬々良木を落ち着かせるために優しさを保っているものの、瞳の裏にある、その決然たる思いは決して隠し切れてはいなかった。


 闘いは正念場。少しずつ優位に立ち始めている少年に対して、反対に、明久はどんどん不利になっていく。さっきまで避け切れていた少年の大鎌も、危うくまともに食らいそうになる回数は増えていた。ここでどうにか流れを変えなければ、この闘いは確実に明久の負けになるだろう。少しずつ不利になっていく戦況の中で、明久はどうにか流れを変えるべく、自分の次の一手を模索していた。どうすればこの戦況をひっくりかえせるのか、どうすれば、この闘いを勝利することができるのか、必死に頭を回転させて考える。

 そして、その答えはある一つの少年の癖として見つかった。それは、少年の戦闘の中で見せた、一つの攻撃パターン。彼が横に大鎌を大きく振りきった際に、後から出してきた明久の攻撃を、必ず大鎌の()、もしくは刃の側面を使って防ぐというもの。もしこの時、自分の拳を防ぐために出てきた大鎌の柄を、ただ単純に殴り付けるのではなく、自分の手で掴んだとしたら? タイミングをずらして、別の角度から攻撃したら? 

 しかしこれは、明久本人にも確信の持てるものではなかった。これはあくまで明久の中に違和感として生じた考えの一つであって、必ず彼が次も同じようなパターンで来るとは限らなかったからだ。ただでさえ多岐にわたる戦闘パターンの中で、これを過信して実行に移せば、それを逆手に取られて戦況をさらに不利に落とされることも考えられる。そしてその不安や懸念は、明久に実行に移す機会を遅らせ、より明久の勝算を低くしていく。  

実行するか、実行しないか。この選択は、明久の中で目まぐるしく回転しては、より明久のことを悩ませた。実行しなければ確実に負ける。しかし、それを逆手に取られたら一気に戦況は転じて負けへと直結する。急がなければならない焦燥(しょうそう)と、もしものときの恐怖が、明久に同時に襲いかかって、なおのこと明久の行動を鈍らせていた。

 そして、そのほんのわずかな行動の鈍さに気付いた少年は、明久と同じように一瞬の焦燥にかられ、判断を誤った。理性を失っても、戦闘における感情や知性というものは消えていないのかもしれない。明久が攻めあぐね、攻撃にどこか躊躇いのようなものが見えたとき、少年は、まさに明久が待っていたあの大鎌の大きな横振りを明久に加えようとした。その横振りに素早く反応した明久は、すぐさま下へと屈みこんでその攻撃を避ける。少年の大鎌の横振りは大きく的を外れ、何もない虚空を勢いよく突き進むと、そのまま野球のバットを振り切った時のように明久の頭上で空を切った。ゆっくりと、二人の間に時間が進む。焦りと、チャンスと、恐怖が入り混じった、一瞬の中の、永遠。明久は手のひらに自分の全神経を注ぐと、力強くがら空きになった少年の前へと手を押しやった。

刹那。

明久の手元には、自分の予想した通り、大鎌の柄の部分が現れていた。これは、明久の偶然の産物だったのかもしれない。突然じゃんけんを仕掛けられて、思わずグーを出してしまうような、そんな何でもないような駆け引きだったのかもしれない。しかし、明久はその駆け引きに勝った。思わず出してしまったグーを予測して、しっかりとパーを出して、明久は勝った。それは、この現実において紛れもない事実であり、明久の予測があっていたことを裏付ける結果であった。

明久はそのまま目の前に出された柄を掴み取ると、柄を離さないようにがっちりと両手で掴んだ。少年は距離をとって大鎌から明久を振り払おうとするも、明久の掴んだ手は決して大鎌の柄から離れることはない。二人はいがみ合いながら大鎌を左へ、右へ、相手から奪うために大きく振り動かした。右へ、前へ、後ろへ、下へ。二人とも、必死の表情を呈しながら、相手から大鎌を奪おうとした。少年は、決して大鎌を離そうとしない。明久も、決して諦めることなく少年から大鎌を引き離そうとする。これは、二人にとって戦況を変える大きな分岐点だった。特に明久にとっては、これは戦闘の流れを変える、千載一遇のチャンスなのだ。この好機を逃せば、次は決して明久に主導権などめぐってこないだろう。そうなれば、その後の二人の勝敗は目に見えて分かってくる。大鎌を少年から奪い取ることが出来ずに、ずるずると戦況が不利になっていく明久。勝利を逃し、最終的にミサンガを切られてしまう、最悪の結末。これは、明久にとって、最も避けるべき未来だった。そして、その戦況を変える大きな分岐点の終わりは、そう時間をかけることなく二人にやってくる。

少年が大鎌の柄から片手を手放したのだ。

もちろん、もう一方の手は大鎌から離されてはいない。明久が振り払って、嫌々引き離されたわけでもない。少年が、自発的に片方の手を大鎌から離したのだ。二人の間をするりと抜けて。戦闘の熱を、一気に凍りつかせていくように。

その途端、明久の視界はぐるりと回り始める。少年の体が宙に浮かび、大鎌を持ったもう片方の腕を軸に、緩やかに、滑らかに回転する。そして、回転の流れに沿()って足が自分の顔に目掛けて跳んでくると、明久の視界は突然岩で殴りつけられたようにぐらついた。一瞬、何が起きたのか明久は理解できなかった。突然自分の視界が回転したかと思ったら、そのすぐに視界がぐらついているのだ。わけがわかるはずもない。明久は、ぐらつく視界の中で、必死に大鎌の先にいる少年へと見やった。そこには、大鎌を持つ手を軸に空中で優雅に旋回(せんかい)する少年が一人。その姿を見て、明久はやっと先ほど何が自分の身に起きていたのかを理解した。

少年は、大鎌から片手を離すこともなく自分に蹴りを入れたのだ。自分の大鎌を持つ腕を軸に。軽やかな体さばきで。こんなこと、明久には考えることさえできなかった。本来の現実の闘いなど、取っ組み合いに近付けば近付くほど、子供同士の喧嘩のように幼稚で見るに堪えないものになるのに、少年の闘いには、そんなものを感じさせないほどの華麗(かれい)さがあった。明久は目を凝らす。自分の闘っている相手を。自分の相手をしている敵の凄さを。そして、再び全身に力を籠める。それでもその敵を打ち負かそうと。絶対に負けてなんていられないと。力強く拳を少年へと振りかざした。今度は少年の腕を掴み取るべく、拳を広げて目一杯少年のもとへと押しやると、地面に着地しようとする少年の腕を、大鎌の柄のときと同じように握り締めた。

その瞬間、明久の手から少年の中に向かって、勢いよく何かが流れ込んでいく感覚に陥った。自分の中から、どんよりとした、黒く重たい何かが、少年の中に入っていく。

不思議な現象。今までに味わったことのないような感覚。何かが、自分の中にあった何かが、この片腕を通して流れていくような感覚。そんな感覚が、触れ合った手のひらと腕を通して二人を襲った。少年はとっさに明久の腕を振り払って後ろへと距離を取ると、明久を警戒して大鎌を構えた。何が起きたのか、何が二人の体を通り過ぎたのか、二人は何一つ理解できない。ただ、二人は確かに感じた。自分たちの触れ合ったところを通して、何かが体の中を流れていったのを。

明久は大鎌を結局奪い取れずに終わったことさえ忘れて、突然の不思議な感覚にあっけらかんと表情を緩めた。少年は突然のことに驚いて、奪い返した大鎌を構えてすぐに次の攻撃態勢をとれるようにした。お互い何が起きたのか全く理解できていない。ただ両者距離を取り合って、相手の動きを注視した。体を流れていったあの黒く重たい感覚はもうすでに体の中には残っておらず、戦闘による体の火照(ほて)りと、不思議と高揚する感情のみが体を支配する。

相手が何かの攻撃を仕掛けてきたのか? 最初、明久はこの感覚を感じたとき、そのように思った。なにしろこの感覚は戦闘の最中(さなか)に生じたものだったのだ。相手方がそのように仕掛けてきたと考えるのが妥当だろう。しかし、少年の表情からはそのように行為を仕掛けてきたとは微塵にも思えない。少年が何かを仕掛けてきたのであれば、少年の表情にはおそらく笑みや、失敗したという悔しさが見てとれるはずだからだ。しかし、少年からはそのような表情を見ることは出来ない。ただ単純に、不思議な感覚にあてられて明久を警戒する表情をしている。

そもそもこの感覚は、少年からではなく、明久から少年に向けて流れていったのだ。もし少年が自分の体の中に異変を生じさせようと、自分にあの不思議な感覚を送り込んだのだとしたら、その感覚は、自分に向かって流れていくものではないのか。だとすればこれは自分自身がやったことなのか? 無自覚に、唐突に。

明久は自分自身の手のひらを見つめて、自分の中から流れていったものが何なのかを確かめようとした。明久の手のひらは普段と変わらず(つち)()色に染まっており、その様子からは変化を見ることはできない。ほんのわずかの間に起きた異変に、惑わされることなく平静を保つ現実。明久は手のひらから視線を戻すと、すぐさまその手を拳へと作り変えて、口角を再び引きしめた。

この感覚がなんなのかも確かに気になるところではあるが、今はとにかく少年とのこの闘いに集中したかった。二人は再びお互いを睨みながら、靴底を地面に擦らせて相手の隙を窺う。明久はブランコの(さく)の横で少年から視線を逸らさないように状態を低くし、少年も今か今かと息を殺していた。取り損ねた大鎌が、少年の手に依然として残っている。好機を取り逃した明久の代償は、この戦闘においてあまりにも大きすぎる。このまま、負けるのだろうか。明久の不安は、冷や汗として明久の額に滲んだ。

そして、一回のまばたきの間。少年は、ひらりと跳躍して明久の頭上を取ると、明久目掛けて大鎌を振り落とした。明久の心臓が一度の鼓動を終わらせる前に、一呼吸で肺に空気が満たされるよりも前に、襲いかかってきた。明久は横へと地面を踏み込むと、その斬撃(ざんげき)をギリギリのところでかわす。もっと余裕を持って避けるべきところなのだろうが、少年の攻撃は、先ほどにも増して鋭くなっていた。明久の着ていた制服には、斬撃によって綺麗な切れ込みが入れられた。

二撃目。少年は大鎌の横振りを先ほどと同じように明久に向ける。斬撃は片手で放たれたにもかかわらず力強く、かわした明久の耳にさえも空気を切り裂く音が聞こえてきた。まともに食らえば人の肉など簡単に分断できるだろう。横振りの隙の多い攻撃のはずなのに、明久はまともに攻撃に転じることさえままならなかった。空気は殺気でピリピリと痛く、息継ぐ間もない危険が明久を襲う。

三撃目。少年の大鎌の切っ先が地面へと向けられ、まるで振り子のように地面のすれすれを明久へと突き進んでいった。明久はジャンプしてそれを避けようとするも、切っ先は目標を見逃すことなく明久に向かう。そして、ついに切っ先が明久のことを捉えたと思った瞬間、少年の大鎌は固く無機質なものに遮られた。少年の手のひらに、鈍い衝撃が響き渡る。

少年の大鎌が、ブランコの柵に引っかかったのだ。明久を脅威から守るように。

そして、大鎌は明久の目の前で動きを遮られると、ちょうどブランコの柵とぶつかったところで真っ二つに折れた。折られた片方の大鎌は、明久とは全く違う方向へ跳んでいくと、刃の切っ先を下にして地面へと突き刺さる。少年の手元には、刃の失った、途中で折れた棒切れが一つ。使い物にならなくなってしまった大鎌だけが、少年の手に残されていた。

明久は地面へと着地すると、二つに折れた大鎌を交互に見た。戦闘に集中していたがために起きたミスだろう。少年は相変わらず理性の欠いた表情をしているが、その中には、自分の手持ちの武器を失ってしまったという悔しさも感じ取ることができた。そして、ただの棒切れになってしまった片方の大鎌を適当に地面に投げ捨てると、少年はいきりたった表情で明久に襲いかかってきた。そして、そのまま大鎌が折れたことなど何もなかったかのように再び何度も拳が繰り交わされた。自分が相手を殴りつければ相手が自分を殴り返し、相手が自分を殴ってくればこちらも殴り返す。

しかし、少年が大鎌を失ったことは大きい。

戦況はずるずると明久の側へと傾き、少年は不利になっていく。少年のもともとの戦闘能力も低くはないが、中学生の未発達の体では、どうしても高校生の戦闘能力には劣った。どんなに契約者だからと言ったところで、その現実は変わることはない。武器である大鎌を失った時点で、少年はかなりの不利を強いられることになってしまったのだ。

でもなぜ? なぜさっきの戦闘で、大鎌は折れることになったのか? その疑問は、明久の頭の中に提起されていた。なぜここに来て、自分に急に戦況を変える出来事が起きたのか。明久にとって、少し不自然に感じてしまうぐらいに、不思議でたまらなかった。今まで殺人犯や、切斗という男とそれなりに戦闘してきたが、どちらも急に闘いが好転することなどなかった。助けが来るか、去ってくれるかしなければ、確実に負けていたはずだ。それは、運がなかった以前に、戦闘力自体の問題。この闘いの少年においても、大鎌さえあれば変わりのないことのはずだったのだ。

なのに、少年の大鎌は壊れた。真っ二つに、不幸にも。

それほど少年の大鎌は脆いものだったのだろうか。明久は自分が大鎌に触れたときの感触を思い返す。確かに大鎌の柄は木製であるが、それほど脆いものではなかった。それこそ、契約者の身体能力に合わせて作られたような、そんな代物(しろもの)だった。それが、たった一度の打撃だけで、折れたりするものだろうか。一つの疑問が、明久の中を侵食し始める。

そもそも、さっきの不思議な感覚は一体何なのか。あの黒く重たい、嫌な感覚は。さっきのあの黒く重たい何かは、少年の方へと流れていったが、そのことは少年の大鎌が折れたことと何か関係があるのだろうか。あの感覚は一体何なのか。自分たちと関係あるのか。

考えているうちに、こんなことではいけないと、明久は目の前の少年に意識を戻して、すぐに気を引き締めた。戦闘をしているというのに、今こんなことを考えているというのは、気の緩みでもある気がしたからだ。俺は今、この少年と戦っているのだ。この少年と、命のやり取りを。うつつを抜かしている場合ではない。負けたら、死ぬ。そんな状況の中にいるのだ。もしその中でうつつを抜かせば、たちまち取って食われてしまうだろう。俺はこの勝負に勝たなければならない。勝って、この少年を止めてやらなければならない。

明久は拳を交えながら小さく息を吐き出すと、以前にもまして拳に力を込めた。明久の体も少しずつ疲れてきている。これ以上闘えば、好転していた闘いはむしろ、再び少年の方へと傾くだろう。

明久は、疲労できしみ始めている体に(むち)打って、自分の拳をより強く握りしめると、拳の合戦を無理やり終わらせるように少年の顔面に渾身の拳をぶつけた。ひるんだ状態の少年に決して休む間など与えることなく体を(ひね)ると、今度は全力の回し蹴りを入れる。この闘い一番の蹴りが、少年の体に決まる。少年は勢いよく弾き飛ばされて公園の遊具に体を打ち付けると、そのままゆっくりと地面に崩れ落ちた。頭を打ち付けたのだろうか、すぐさま反撃にくる様子はなかった。明久は少年のもとへと駆け込み、動きを押さえ込むように少年に馬乗りになると、少年が呼吸できる程度に首元を押さえ付けた。

少年は動かない。ぐったりとしていて、表情からは殺気が消えている。さっきまで契約者として闘っていた少年も、今は柔らかな、中学生の表情をしていた。

もう少年が意識を失っていることは誰が見ても明らかだった。しかし、いつまた起きて明久を襲うかは分からなかったため、明久は絶対に気を抜いて首元を押さえている手を離そうとはしなかった。もし少年を取り逃がせば、いつかまた同じことを繰り返すだろう。そうならないためにも、彼を今のうちに拘束しておく必要がある。

少年の顔が、わずかに動いた。

「あれ、ここは・・・?」

 少年は明久に押さえ付けられながら、ゆっくりと辺りを見渡した。

「あの、お兄さんは? 何をしているの?」

 状況を把握できていないという顔だ。少年は首元の手に、少し苦しそうにしながら明久を見た。

「これは、えっと・・・、その、お兄さんのその傷は・・・」

 少し間を置く。状況を理解するために、(うつ)ろな頭を弱々しく回転させる。少年はおそらくもとの人格を取り戻している。先ほどの攻撃によって、頭を打ち付けたことによって、もとの普通の少年に戻っている。

 明久は少年の質問には答えなかった。答えずに、ただ少年の弱々しい表情を見つめて、どういう風に反応すればいいのか、戸惑っていた。さっきまで、闘っていたのに、本気で闘っていたのに、どんな反応をすればいいというのだ。

全く分からずに、少年の困った姿を、ただ見つめていた。

「ああ、そうか、そうなんだね」

 少年は、何かを悟ったように声を震わせた。

「俺が、お兄さんのことを傷つけていたんだね」

 ゆっくりと、途切れ途切れの言葉。顔立ちはまだ若い。言葉遣いは「お兄さん」と子供っぽさを残しながらも、「俺」と背伸びしているのが、また思春期らしい。契約者でさえなければ、この子も普通の男の子だったのだろうか。

「何となく、分かるんだ。お兄さんが、暗闇の中で、必死に俺と向き合ってくれていたのがさ。お兄さん、俺が悪いことしようとしてたの、とめてくれてたんでしょ」

少年の表情は歪んでいる。歪んで、必死に苦しみから逃れようと、空を仰いでいる。俺はこんな表情をさせるために、この少年と闘っていたのだろうか。明久は少年を押さえながら、悔しさが込み上げてきていた。

「でもね、駄目なんだ。俺、今でも感じてるんだけど、この暗くて嫌な感情、どうしようもなく心の中に満たされていって他の心を侵食していくんだ。悔しいんだけどさ、どうしてもこの心には勝てないんだ」

 少年の瞳には涙が浮かんでいる。悔しそうに、苦しそうに、涙を浮かべている。なんでそんな表情するんだと、明久は心が張り裂けそうになった。闘いに勝ったはずなのに、何一つ嬉しくなかった。

「ごめんね、お兄さん。こんなことで迷惑かけちゃってさ。本当はこんなこと、自分でどうにかするべきなのに」

 明久は何一つ答えられなかった。頷くことも、首を横に振ることもできなかった。ただ、笑顔を見せて強がっている少年が暴走しないように、押さえ付けておくことしかできなかった。

少年は、自分の瞳に浮かんだ涙をふるうと、突然勇んだ表情で叫び散らした。力強く、誰に言うでもなく、精一杯少年は叫んだ。

「俺はこんな黒い感情なんかに支配されない! 絶対に、侵食されたりなんかしない! 事故に遭って、契約することにはなったけど、俺は悪さをするために生きることを望んだんじゃない! これは、俺の人生だ! 絶対に支配されて、生きることなんてしない!」

 声は無機質な空絶内に力強く響き渡り、明久や瀬々良木の耳の中に残滓(ざんし)としてけたたましく残った。心は震え、思いはしっかりと揺るぎない。それは他の誰でもない、自分自身に放った言葉。

少年は、瞳にわずかに涙を残しながら、明久に笑って見せた。照れ隠しのようにも見える。

「お兄さん、ありがとうね。本当はこんなこと、するべきじゃないんだろうけど、このまま生きて悪いことし続けるのも、嫌だからさ。もし、お兄さんに、この世界で何かやりたいことがあるのならさ、俺の分も頑張って生きてほしいな」

 笑顔だ。本当に、笑顔だ。さっきまでの涙など嘘のように、笑顔が満ちている。なんて強い子なのだろうか。なんて、曇りのない表情なのだろうか。こんな形で出会わなければ、もっと彼と仲良くなって、彼と話をしてみたかった。どうして人生とはこうも皮肉なものなのか。

 少年は、ゆっくりと息を吐き出して、表情から笑みをとっていった。そして、少しの間、何かを祈るように目を(つむ)ると、決心したように自身のミサンガに、手をかけた。力強くミサンガは引っ張られ、ミサンガはちぎれながら少年の腕を離れる。

 途端に、体からは光が発光し始めて、緩やかに少年のことを包み込んでいった。パァァッ、と綺麗な光を放ちながら少しずつ色を弱めていくと、最後には跡かたもなく少年は姿を消した。光はちらちらと虚空を舞い、少年の死を優しく伝える。もう終わったのだと、闘う必要はないのだと、柔らかな光は告げていた。

「ミサンガが切れるときってのは、いつ見てもやるせないものだな」

 価野さんは少年のもといた場所に歩きながら近付くと、ゆっくりと腰を曲げてミサンガを拾い上げた。拾い上げられたミサンガは、役割を終えてぐったりと、しかしどこか優しげに手の上で垂れている。

明久は地面に顔を伏せたまま、立ち上がろうとはしない。ずっと、少年を押さえ込んでいたときと同じ体勢のまま、少年の消えた現実を受け止めきれずにいた。明久の手には、この世に少年が存在していた証である感触が、まだわずかに残されていた。この証明すら、いつか消えてなくなってしまうのだろうか。

瀬々良木とユキは、浮かない表情をしながら、価野に続いてやってくる。二人とも、何一つ話そうとはせずに、その場の静寂を守っていた。人の死というものを間近で体感してしまったのだ。誰にも、どうすることもできない。

そして、少しの間だけ沈黙が全員の間に流れると、価野はふと、柔らかな口調で皆に言った。それは、何とも落ち着いていて、静かな口調。

「皆、俺、ちょっと寄りたいところがあるんだけどさ、ついてきてくれるかな」

 その声の落ち着きにみな心を通わせて、価野の進んでいく先についていった。


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