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神様のミサンガ  作者: よしふ
12/17

2

 翌日、月曜日で普段通り高校へと登校していた明久は、いつものごとくあくび一つこぼしながら授業を受ける。先生の声が鳴り響く教室、眠くなる声。普段と何一つ変わることなく時は流れていく。一応板書のみはノートに写してはいるものの、こうも穏やかで眠くなる空気だと、肝心の内容が頭に入ってこない。明久は、静かに持っていたシャープペンシルを置くと、腰に手をあてて背中を反らす。ノートに書いてある板書の跡は、古くて質の悪くなった消しゴムのせいで所々黒く汚れており、とても後で見返すためにとったものとは思えなかった。そんな自分のノートを見返しながら明久は腰を戻し、すこし間延びした溜め息をつく。空気は温かく、すでに数名がまどろみに呑まれている教室。その教室で、明久は淡々と頭に入らない授業を受けながら、また見栄えの悪いノートを写し続けた。

 授業が終わると、明久は疲れたように机の上に額をのせる。

「全く頭に入らん」

 明久が切れ切れとした声でそう呟くと、いつの間にか隣に来ていた杉村は、明久の様子を見て半笑いを浮かべた。

「明久、だいぶお疲れみたいだな」

その声を聞くと、明久は机の上に頭をのせたまま顔を杉村の方へと向けて溜め息をついた。

「昨日、家のやつにちょっと遊びに付き合わされてな」

「・・・ん? 家のやつってことは春奈ちゃんのことか?」

 杉村の言葉に、明久は机の上から体を起こす。

「いや、春奈とはちょっと違うんだけどさ」

 明久は困ったように頭を掻くと、話題を変えるように杉村に言った。

「それよりお前、宛先人不明で用件も何も書いてない呼び出しの手紙ってどう思う」

 明久の唐突な質問に杉村は「呼び出しの手紙?」と訊き返して、悩んだように教室の天井を眺めた。

「良く分からんけど、普通に考えたらラブレターなんじゃないか?」

「ラブレター!?」

「だって、わざわざ用件も書かないで呼び出しだけしてるんだろ? それって、勇気を出して呼び出しをして告白するラブレターと何ら変わりないだろ」

「そういうもんなのか・・・?」

 杉村の言葉に、明久は困ったように自分の髪の毛をワシャワシャと掻き乱して、昨日の白い手紙のことを思い返した。確かに先日届いてきたあの手紙がラブレターだとは完全に否定できないわけだが、わざわざ家まで送ってきた、あの活字書体の手紙がまさかラブレターでしたってのいうのもどうも釈然としなかった。

明久がぼさぼさの髪型のまま悩んでいる姿を見ると、杉村は何かを(さと)ったようにニヤニヤしながら明久に言う。

「なんだなんだ? お前ラブレターでも貰ったのか? 思春期の悩みってやつか?」

「ちげーよ」

 その言葉に、明久はうっとうしそうに杉村を睨みつける。すると、教室のドアの向こうから、湖声先生が拡声器越しに明久のことを呼ぶ声が聞こえた。

『高城―、高城。悪いんだがこっち来てもらっていいか』

 拡声器によってくぐもり大きくなった声を耳にすると、明久は席を立ち上がって教室の出入り口付近で待っていた湖声先生のもとへと歩いていった。湖声先生は明久が寄ってきても口元から拡声器は一切離すことなく、いつもの調子で明久に話す。

『悪いな、高城。実は今日、放課後に日直に頼みたかった仕事があったんだが、今日日直のはずだった瀬々良木が学校休んじゃってな、もう一人の関口だけに負担がかかりそうなんだ。だから、高城に今日、その日直のフォローを頼みたいんだけど、頼まれてもらえるか?』

 拡声器越しでも通常の声量と何ら変わらない湖声先生の言葉を聞くと、明久は驚いたように「瀬々良木が休み?」と訊き返した。確かに朝方から彼女の姿は見ていなかったが、彼女が一日休むという話は全く聞いていなかったからだ。湖声先生は少し大きくなってしまった明久の声にも動揺することなく頷くと、ゆったりとした口調で明久に答えた。

『ああ、先日事故に遭ったらしくてな、特に怪我とかはなかったらしいんだが、一応検査を受けておこうということで、今日は一日休むそうだ』

 そう言って湖声先生は一度言葉に間を置くと、明久の顔を窺うように明久に訊いた。

『やってくれるか?』

 湖声先生の穏やかな優しい視線を受けると、明久はあの白い手紙のことを思い出しながらも、その頼みを了承した。あの白い手紙の放課後に来いという内容は明久も少し気にはなったが、あちらの指定時間である夕暮れ時からは、放課後はまだ時間が残されていたし、仕事をしていたところで結局場所は契都高校であるのには変わりはなかった。何より、いたずらかどうかも分からない突然の呼び出しの手紙を鵜呑(うの)みにして、待たされるのも何となく(しゃく)だった。明久は、了承と聞いて安心した表情をする湖声先生が職員室に去っていくのを見送ると、今日休みだという瀬々良木の席に視線を向けた。彼女の席は、廊下側一番端の前から三番目。誰も座っていないその席は、辺りから少し孤立したように見えた。瀬々良木のやつ、大丈夫なのだろうか。頭の中によぎったその心配も、湖声先生の、特に怪我はない、という言葉にかき消され、すぐに明久の頭の中から消えていく。そして、誰も座っていない席の様子を見つめていた視線も、明久はすぐに自分の席へと戻して歩いていった。


 そのまま、授業を若干の眠気と怠惰の中受けていくと、時間はじきに放課後の時間帯へと入った。そして、帰りのショートホームルームを済ませると、明久ともう一人の日直である関口は、別室へと移動して頼まれていた仕事である、プリントまとめとホッチキス止めの作業を進めた。これがまた量の多い作業で、本当に日直の仕事量なのだろうかと思うぐらい大量のプリントが長机の上に置かれていた。そんなプリントの山を、二人は時折会話を交えながらも少しずつ減らしていくと、最後のプリントを俺がホッチキス止めして作業を終わらせる。気付くと、もうすでに外の空は赤みがかかり始めていて、校舎内も部活動や何らかの用事がある生徒以外はほとんど家路(いえじ)についていた。

「サンキュー、明久。日直でもないのにこんな仕事手伝ってもらって」

 最後のプリントを長机の上に明久が置くのを見ると、一緒に作業していた関口は申し訳なさそうに笑みを浮かべながら明久にお礼を言った。

「いや、大丈夫だよ。俺、皆と違って部活動やってないし。それに、二人でもこんなに時間かかったのに、一人だけでやるってなったらこんなの夜までかかるだろうしさ」

 明久はまとめ終わったプリントの山を全て長机の上から持ち上げると、プリントを腹に抱えこんだ。プリントはずっしりと重たく、その頂上は明久の顎元まであった。

「あとは俺が持っていくから、関口はもう帰ってもいいぞ」

「本当か? 悪いな、何から何まで手伝ってもらっちゃって」

 関口は両手を合わせて明久にお礼すると、部屋のドアもとまで行って、もう一度明久の方へと向いた。

「ありがとうな。それじゃあ、後は頼むよ」

 最後にそう言うと、関口はそのままその部屋を後にした。明久も、プリントを持ち運ぶためにその部屋から出ると、関口の行った方向とは反対方向にある持ち運び場所へと向かう。廊下はもうすでに明かりが消されており、校舎を満たす光はどこか色褪せて(ほの)暗い。その校舎内を、静かに足音だけを立てながら歩いていくと、指定された教室へと入っていった。どこかでおしゃべりしている生徒の声や、吹奏楽部の部員が各自教室内で演奏の練習をする音が、扉を開けたままの明久のいる教室にも届いてきて、その音がまた校舎内の哀愁(あいしゅう)を漂わせる。明久は教室の中にすでに用意されていた箱にプリントをゆっくりと置くと、また、すぐにその教室を出て、自分の教室へと戻って行った。

そして、明久は自分の教室へと戻ると、自分の席へと向かう。机の横に掛けていた鞄を机の上に置くと、机の中にしまっていた筆箱やノートを手さぐりで取り出した。時間はもうすでに夕暮れ時。太陽は刻一刻と地平線の彼方へと落ちていき、空は少しずつ色を(かす)ませていく。校舎内の空気はふんわりと暖かく、明久の肺に入る空気も、優しく入り込んでは静かに外へと出ていった。

あの白い手紙も、結局何事もなく終わりそうだ。明久はそう思いながら、机から取り出したノートと筆箱を鞄の中にしまう。教室の中は静かな空気に包まれ、明久の心を落ち着かせる。なにも無い一日が、今日もまた通り過ぎるのだと、小さく安堵の息がこぼれた。

しかし。

―――突然、何の前触れもなく明久の視界は異変に包まれた。さっきまで、温かみに帯びていた机や椅子は、まるで息の根を止められたかのように冷たい雰囲気を纏い、空気も、わずかな対流すらやめて重苦しく明久にのしかかってきた。さっきまで窓から吹いていたそよ風も、ぴたりと時間が止まったかのように止む。それは、あまりにも不快な感覚。人生で二度と体験したくないと思った程、嫌な空間。十日前、自身が巻き込まれた事件の時に、価野孝平という青年が発動したという『空絶』そのものだった。

明久はとっさに辺りを見渡して周りを確認した。教室の中は、夕暮れのせいか、それとも空絶の中だからか、さっきよりも薄暗く赤みを帯びて感じられる。そして、さっきまで聞こえていた吹奏楽部の練習をする音や、どこかでおしゃべりしていた生徒達の声が空絶によって途絶えると、妙な静けさが辺り一帯を支配する。突然の出来事に、明久は息をする事すら忘れてしまいそうになる。もちろん、明久が空絶をかけた覚えはないし、かけようなどと考えた覚えもない。自分で無意識にやったということもないだろう。つまり、明久の周辺にいた他の契約者が、空絶をかけたということになる。

明久はその考えへと至ると、辺りを見回してその契約者の姿を探そうとした。少なくとも、この教室内には明久一人しかいない。それを確かめると、明久は教室から廊下へと出る。すると、突然廊下の向こう側から「よう」と男の声が響いてきた。明久はその声を聞くと、後ろへと振り向く。するとそこには、この高校の制服を着た一人の生徒が立っていた。

「てめえが契約者か?」

男が訊くと、明久は返事をすることを少し躊躇(ためら)いながらも「・・・ああ」と答えた。そして、返事をする中、明久は制服の胸元に付いている校章を見た。距離が数メートル離れていたため見えづらいが、胸元に付いた校章は青色をしている。この学校では学年ごとに色を割り振られており、赤、青、緑、を三年周期で繰り返される。今年で二年になった明久は緑の学年だ。つまり、青の校章を付けている目の前の男は、自分より一つ上の三年の生徒だということだった。

「そうか、やっぱりお前が新しい契約者か」

男のその言葉を聞くと、明久は心の奥底で本能的に身震いする。その声は、人間が本来持っている筈の丸みに帯びた感じが全くしない、鋭く尖った感じのものだった。弱肉強食のこの世界で言えば、完全に強者の発するもの。明久はその声を聞くと、なかば萎縮しながらも訊いた。

「お前は、誰だ」

「俺か?・・・・」

そう言うと、男は口を三日月のようにしてにんまりと笑う。

「俺は、覇田切斗だ――――――」

 男の言葉が廊下を抜けて明久の耳に届くと、突然男の姿が明久の視界から消え失せる。そして、明久が気付いたときには、いつの間にか、自分の目前まで立ち居でていた。あまりにも瞬間的なことに、明久の心臓は破裂しそうなぐらいに強い鼓動を打つ。警戒していたはずなのに、いつ、こちらに向かい、詰め寄っていたのか、まるで分からない。

明久はすぐに男から離れようとするが、男の重い拳は、一時の猶予もなく明久を襲った。明久はそれを両腕でガードするが、衝撃の強さに、明久の身体は床に足を着けているにも関わらず、後ろへと勢いよく弾かれる。廊下と上履きとの間には、トラックが急ブレーキをかけたような摩擦跡が残り、辺り一面にはその摩擦によって焦げた匂いが包み込んだ。しかし、明久が息つく間もなく男は前へと跳躍すると、衝撃波でも起こさんばかりの蹴りを明久へ仕掛けてきた。いきなりの奇襲に、明久は身体を仰け反らせて間一髪でそれを避ける。すると、標的の見失った足先は勢いよく廊下の壁へと衝突し、亀裂を生じさせてコンクリートで出来ている筈のそれを跡形もなく粉砕した。

「な――――――」

亀裂は上部の窓ガラスにまで達し、ガラスの破片は土砂降りの雨のように飛び散る。四方へと舞い散って夕闇に輝くその姿は、時間感覚が身体能力の向上によって延びている二人にとって、いささか幻想的にも映った。しかし、それにうつつを抜かす余裕すらなかった明久は、バランスを崩したように後ろへとよたよたと後ずさり、男から距離を取った。男は、それを追撃する事もなく、おもむろに身体を起こす。

その、あまりにも今までの経験とは次元を異にした男の動きに、明久は完全に圧倒されながらも、先ほど述べた男の言葉に、一つの疑念を抱いていた。近くの壁へと手を当て、突然の攻撃にも対応出来るように男を警戒すると、身分の低い臣下が大君にへりくだった態度をとるように、男へと問う。

「覇田切斗って・・・。まさかこの学校で一ヶ月以上前に行方不明になった、あの生徒のことか?」

 明久の不思議そうな表情を見ると、男は不敵な笑みを浮かべながら「そうだ」と一言だけ答える。その笑顔は、見るものに恐怖感を抱かせ、心底から震え上がらせるものだった。

そんな感覚に見せられながら、明久は更に男に対して訊く。

「何で一ヶ月以上も姿を眩ませてたんだよ。あれからずっと、警察が捜索を続けてて、学校側でも調査をしてたんだぞ」

その言葉を聞くと、切斗と名乗る男は足元まで飛び散っていたガラス破片の一つを拾い上げた。

「少し人捜しをしていたんだ」

「人捜し?」

「ああ。ちょっと前から、捜している人間がいてな。そいつのことを、捜していた」

 明久が警戒心を(ゆる)めない姿を見ると、切斗は可笑しそうに口角を上げる。

「まあ、お前のところに来たこととは、全く関係のない話だがな」

 言った瞬間、切斗はまたも明久の前から姿を消して、一瞬で明久の背後をとった。素早すぎて、反応速度の上がった明久の目にも捉えられない移動速度。切斗は、明久の背後をとると、すぐさま横腹に回し蹴りのモーションへと移る。しかし、次の攻撃に警戒していた明久は後ろに切斗が移動したことに気付くと、すぐさま回し蹴りを避けるように屈みこんで、振り向きざまに足払いしようとした。切斗は明久のその足払いを上へと跳んで避けてみせると、その跳躍とともに明久へと前蹴りを喰らわせる。明久は後ろへと弾き飛ばされ、フローリングのはがれかけた廊下の床へと尻もちで倒れこんだ。明久は床との衝撃に表情を歪ませると、切斗へと表情を向ける。

「まあ、契約したばかりの普通の契約者なら、この程度か・・・」

 切斗は冷静な声をしながら、倒れこんでいる明久へと呟いた。その表情は明久とは逆に余裕そのもので、何一つ恐怖感や必死さが感じられない。明久はそんな切斗に何もできない悔しさが込み上げてくると、声を尖らせながら切斗に向かって言った。

「お前の目的は何なんだよ。何で急に攻撃を仕掛けてくるんだ」

 その言葉に、切斗は廊下に差し込む夕焼けを手で遮りながら答えた。

「目的か・・・。まあ、俺らの団体の理念から言えば、新しい契約者がどんな人物か、戦闘能力がどれほどのものかを調べるためだろうな。そして、場合によってはその人物のミサンガを切ってくること」

 男の返答に、明久は地についていた自分の手のひらを拳に変えて、口調をさらに鋭くした。

「な、ふざけんな、なんでお前らがミサンガを切る必要があるんだよ」

「それは俺らの重要機密事項だ。部外者のお前には教えられるわけがない」

「なん、だとてめえ・・・。 わけを話すこともなく人のミサンガを切るっていうのかよ。ミサンガが切れたら、俺たち契約者は死ぬんだぞ、分かってんのか、お前・・・!」

明久の強くなった口調にも、切斗は声の調子を変えることなく不敵な笑みを浮かべた。

「何をそんないきりたってんだ。俺らは皆、一度はすでに死んだ身だというのに」

「ふざけんなよ、お前!!」

 切斗の言葉に、明久の怒りは一気に自分の理性を上回った。明久は立ち上がって床のガラスの破片を踏みつけると、切斗へと向かって勢いよく突進する。男の手前で気持ちを爆発させるように大きく拳を振りかざすと、顔面へと力強く殴り付けた。

しかし、切斗の体、顔面は鉛のように重たく、微動だにすることなく明久の拳を受け止めた。むしろ、切斗は余裕のある表情で明久の殴りつけてきた腕をがっしりと掴むと、明久の腕を(ひね)らせて流れるように関節技をきめる。それはまるで洗練された達人のような動きで、あいだには一切の無駄がない。どうにか腕を振り払って切斗から離れようとしても、関節をきめられているために、無意味に体に痛みを走らせるだけだった。切斗は、痛みに堪えながらも離れようとする明久を見ると、手に持っていたガラスの破片を明久のミサンガにかざして、いつでも切れる、ということを見せつけた。

「お前、わざわざ俺に切ってもらいたいのか?」

 その切斗の牽制に、明久は一気に全身が硬直する。明久は切斗から離れようと抵抗するのをやめると、ひやりと額に冷や汗を垂らした。彼の人の感情をも一蹴(いっしゅう)してしまう鋭い眼光に、怒りの感情を吹き飛ばされると、明久は強張ったように口の中の唾を呑み込んだ。

すると、切斗は笑みを浮かべながら明久に言う。

「安心しろよ。俺らは別に必ずミサンガを切ることが目的ではないし、俺もあいつらの言うことを全て聞き入れているわけではねえ。これ以上反抗さえしなければ、ミサンガを切ることはねえよ」

 切斗は関節をきめていた腕から手を離すと、トンっと明久の背中を前に押し出した。明久はよろけながらも解放された腕を手で押さえると、表情を歪めながら切斗へと振り向いた。そこには、夕闇に照らされながら、一人の男が王者のように屹立している。

「今回はお前のことを殺さないでおいてやるよ。お前と遊んでいるのも少し飽きてきたし、時間も時間だからな。でも、もしこれから先、お前と出会うことがあったなら、その時はちゃんとお前のミサンガを切ってやるよ。だから、それまではせいぜいこの世界を生き残って、少しでも鍛錬して強くなっておくんだな。自分のミサンガを、おれが切るまでの間、切られないためにも」

 そう言い残すと、切斗は割れたガラス窓のところまで行き、窓枠に足をかけると、颯爽(さっそう)と外へ跳んでいって姿を消した。明久はその光景を見ながら、何もすることができずにただただそこに立ち尽くす。彼の言葉は、これから生きようとする明久にとってあまりにも残酷な戦いの開始宣言だった。次に出会った時のことを考えるだけでも恐怖の念が込み上げてくる。明久は自分の右手を前にやると、腕についたミサンガを見やりながら、何もできない自分の不甲斐なさと悔しさに、拳を強く握りしめた。

すると、明久の後ろから足音とともに、人のかすれた声が聞こえてきた。

「明久・・・?」

「え?」

 突然の呼びかけに、明久は驚いて後ろへと振り向く。そこには、生物が存在するはずのないこの空絶の中、一人日常の断片でも貼り付けられたかのように瀬々良木夏芽の姿があった。明久は思わず目の前の瀬々良木の姿に自分の目を疑うと、自分の声を上擦らせる。

「お前、何でここに・・・!」

「え、いや・・・、先日湖声先生から日直の仕事があるって聞いていたから、関口君が心配でちょっと見に来たんだけど・・・」

 瀬々良木は怖い顔をした明久に少し驚きながらもおどおどと答えると、不安げな面持ちで、校舎内の辺りの景色を見渡した。

「それより、これはどうなってるの? 学校のはずなのに様子がいつもとなんか違うし、校舎内も、明久がいるだけで他は一人もいないんだけど・・・」

 瀬々良木の問い掛けに明久は言葉を詰まらせると、意味も無く視線を下へと俯かせる。そして、再び視線を瀬々良木の方へと戻そうとした瞬間、明久は彼女の右腕のものが視界に入って、心臓をドクンと跳ね上がらせた。

「お前、そのミサンガ・・・!!」

 明久の言葉に、瀬々良木は気付いたように自分のミサンガに目を見やった。彼女の右腕には赤とオレンジ、黄色が斜めに入ったミサンガが付けられており、彼女の綺麗な白肌をより美しく際立たせていた。

「これ・・・? これは、昨日、交通事故に巻き込まれたときについてたの・・・。怪我とかは全くなかったんだけど、その時に夢みたいなのを見てね、起きたときにはもう、いつの間にか腕についてて・・・」

 その言葉に、明久の顔は一気に血の気が引いていった。一度命を落として、契約を交わしたという証拠のミサンガ。そのミサンガが、彼女の腕にも付いているのを見ると、明久の皮膚からは全身を包み込むように冷や汗が湧き出てくる。

「これが、どうかしたの・・・?」

「いや・・・」

 明久はたじろぎながら彼女の目を見やると、握り締めた拳を強くする。拳は汗でぬめって気持ち悪く、やりようのない気持ちが込み上げる。今日すでに湖声先生から聞いていた事故という単語も、さっきと今では重みがまったく違う。なぜ、こんなにも心が苦しくなってしまうのか。明久は何一つ分からないまま、その重たい口を開いた。

「そのミサンガはな―――」

 ゆっくりとした口調で始めると、明久は少し躊躇いながらも、自分で知っている全てのことを瀬々良木に話した。価野さんから聞いた話。自分が体験した話。その経緯やミサンガのこと。事件翌日の、秋月とあった出来事も、全て余すことなく教えた。瀬々良木は、その話を眉一つ動かさずに聞き続けると、最後に「そう」と話を区切る。その表情からは、何を考えているのか読み取ることは出来ず、まるでマスクを被った人間のことを見ているようだった。

「じゃあ、私たちの腕に付いているこのミサンガが切れれば、私たちは消えていなくなるってことか」

 瀬々良木は突然上擦った声で明久に言うと、大袈裟に「はあ」と溜め息をついた。

「なんだ、それじゃああの時事故で見たのって、夢じゃなくて現実だったんだ。・・・それだったら、契約の時の相手の顔、もっと見とけばよかった」

「・・・え?」

 明久は思いがけない言葉に面食らうと、消え入る声で彼女を見る。

「だって私、ちゃんと契約相手のこと見てなかったんだもん。別の世界の住民だなんて、滅多に出会えるものじゃないじゃん。もっとちゃんと見てみたかったよ」

 瀬々良木はつまらなそうに肺から空気を吐き出すと、「あーあ、もう一回見てみたいなあ」と、明久に照れ隠しでもするかのように笑ってみせた。

「まあでも、一度死んだとはいえこうやってミサンガで生きていられる時点で凄いことだよね。一度、死んだ身だっていうのにさ。これが切れたりしたら、私たちは死んじゃうんでしょ? 何かびっくりだよね、ホント」

 途中、瀬々良木は顔を俯かせてそう言うと、明久に見えないように表情を歪ませた。どんな表情なのかは分からないが、明久にもそれが見える。

薄暗く、夕焼けも少しずつ色が褪せてきた廊下。瀬々良木は、一瞬の間だけ太陽とともに表情を落とすと、またすぐに表情を元に戻して、前の方へと顔を上げた。また、普段学校で見せているような他愛のない笑顔。それを明久に再び見せると、辺りを見渡しながら訊いた。

「それより、これってどうやってこの中から出られるの? 私そろそろ家に帰りたいな」

「え? ああ、えと、あとで俺がもとに戻しとくよ」

 明久が答えると、瀬々良木は笑みをこぼしながら明久に言った。

「ホントに? 助かるよ。それじゃあ先に家に帰ってるね、明久」

 瀬々良木はそう言って手を振ると、小走りをして帰っていく。その後ろ姿は夕闇に照らされて、どこか哀愁深く柔らかい。明久は瀬々良木のことを見送りながら、窓の外の景色に意識を移した。先ほどの彼女の落とした表情。それが(ほの)かに暗くなってきた夕闇の赤に照らされて、意識の上をかすめる。空絶の中でも侘しげに空を染めていた夕焼けの赤は、今は少しその色を落として、かすかに暗い夜の闇を見せ始めていた。生物のいることのない空絶の中。明久は一人、夜の訪れを待ち続けた。


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