第3章
事件に巻き込まれてから、大体十日程度。明久の右手首には、相変わらずミサンガが付いたままで、日常生活でも極力ミサンガが切れないように慎重に生活を送っていた。最初の事件に巻き込まれた日や、翌日の買い物の際の出来事を除けば、その後特に目立ったことは起きていない。右腕についているミサンガも、一応慎重に扱ってこそいるが、日常生活のレベルでは切れることはほとんどなさそうだった。変わったことと言えば、以前よりツイていないというか、不幸な出来事が多くなったことだ。雨の日に傘をさしているにも関わらず横の車道を走っているトラックに盛大に雨水をかけられたり、タンスの角に足の小指をぶつけたりするなど、ここ十日間だけでも明らかに増えている。
そして、ユキという新しい家の住人が増えたことも、少なからず俺たちの生活に影響を及ぼしていた。普段の生活ではそれほど困ることもないのだが、もともと母さんは仕事で出掛ける前に俺たち二人分の食費しか出していなかった。その為、少し多めに預かっていたとはいえ、二人分から三人分に増えた食費は少しずつ俺たちの負担になっている。今回はそのことをふまえたうえで、出張している母さんとユキのことに付いて相談していた。日曜の昼下がり頃、電話口で、俺は若干しどろもどろになりながらユキが家に来たことを母さんに話していた。
「・・・で、そういうわけだからさ、母さんが帰ってくるまでに食費がちょっともたないかもしれないんだ」
俺が受話器を手に取りながら、お金が足りないことを母さんに説明すると、母さんは電話越しからでも分かるくらい大きな溜め息をついた。
「そう、分かったわ。食費が足りないっていうのなら私もお金ぐらいは出してあげる・・・。だけど、その子のことについてはもう警察に連絡したの? 家でその子を預かるにしたって、ずっと家に置いておくわけにはいかないでしょ。きっと、その子の両親だって心配して捜してるわよ?」
母さんの声が電話を通して俺の耳に届くと、俺は声の調子を落としながら母さんに答えた。
「悪い、実はさ、そのユキっていう子、ちょっと特殊な理由があって警察に届け出ても家は見つかりようがないんだ」
それを聞くと、母さんは驚いたように、「見つかりようがない?」と訊き返して、その後悩んだようにしばらくの間押し黙った。そして、数秒の間沈黙が続いたかと思うと、母さんは再び声を発した。
「そうね、確かに一週間も前から私たちの家に来ているっていうのに、一度も相手方の家から捜索願いを出したっていう話を聞かないのはおかしいわね。あなたが言っていることが正しいとしたら、何かしらの理由がありそう。とりあえず、私も一カ月以上を予定した出張だから、あと最低でも三週間はこっちにいないといけないんだけど、それでも少しは早く帰れるようこっちでもお願いはしてみるから、それまでは家でちゃんとその子の世話はしておきなさい。もし、何かあったらすぐに私に連絡すること。その子のことは私の方でもフォローはしてあげるから」
「ありがとう、助かるよ」
「それとあなた。今は教えるつもりなかったとしても、私が帰った時は必ずその子の事情とやらを教えてもらうからね。もしもその子にちゃんと親御さんがいて、そのことをあなたが隠していましたってんじゃそれこそ大問題なんだから。・・・あと、私が帰ってくるまでの三週間、ちゃんと随時、その子のことを私に報告すること。じゃないと三人分の食費出してやんないわよ」
母さんが口を尖らせて言うと、俺は面倒そうな口ぶりにしながらも感謝を交じらせて、「分かったよ」と答えた。その一言を聞くと、母さんは安堵の溜め息をこぼしながら、「それじゃ、私この後も仕事あるから」とだけ言葉を残して電話を切った。電話口から切れた音が聞こえると、明久は受話器を元の場所に戻す。
「誰とお話してたの?」
横からユキがひょこっと顔を出すと、受話器を下ろしていた明久に質問した。さっきまでの会話を聞いていたようで、少しそわそわした様子で明久の横に立つ。最初のころは家にある電化製品を全て物珍しそうに見ていたユキも、一週間も経過した今では電話を不思議そうに見ることはなかった。明久は受話器から手を放すと、横にいたユキの頭の上へと手のひらをのっけてユキに言った。
「いや、俺の母さんだよ。出張中だから定期的に連絡するように言われたんだ。これからはもう少し頻度が増えそうだけど、ユキにはなんの問題もないから心配しなくても大丈夫だ」
「お母さん?」
「そうだ、俺と春奈のな。まだしばらく家に帰れないらしいしけど、三週間ぐらい経ったら家に帰ってくるみたいだし、ユキも会う日が来るんじゃないか」
明久は笑いながら、ユキの頭の上から手を放してリビングにある椅子へと腰掛けた。明久の物心ついたときからこの家にあった木製のテーブル椅子は、明久の体重がかかると同時に軋む音を出す。
「それにしても、今日は何もやることがないな。最近ユキが来てからごたごたとかいろいろあったから、こういう時に暇ができると、逆に何をすればいいかわからなくなるよ」
「ふーん」
ユキはあっけらかんとした調子で明久に返すと、リビングのドア付近にあった電話機を離れて明久のもとへと寄った。そして、閃いたように胸の前で自分の拳をポンッと叩くと、愛らしい瞳を明久に向けた。
「あ、それじゃあさ、私とどっかお出掛けしようよ、明久」
「え、今からか?」
明久が驚きながらユキに訊き返すと、ユキは唇を尖らせながら答える。
「うん、だってここに来てから十日ぐらい経つけど、家から出たのなんてこの前の買い物ぐらいなんだもん。最初はこの家の真新しい機械とかでいろいろ楽しめたけど、十日も閉じ籠ってたらさすがに飽きちゃうよ」
明久は椅子の背もたれに体重を預けながら天井を仰ぐと、天井についたしみをぼんやりと眺める。
「うーん、確かに暇といえば暇だけど、正直家を出るのも面倒だしなあ。また今度にしないか?」
「えーやだ、今行く! もう家の中はつまんない!」
ユキが子供っぽくしかめ面をして駄々をこねると、明久も溜め息をつきながらその姿を見て苦笑いした。この少女は、たまにどこか大人っぽい仕草をして見せるくせに、こういうことになるとすぐさま子供っぽさを見せてくる。それがまた明久の押しの弱さの原因になっていて、明久はそんな自分につくづく呆れながらユキに返した。
「分かったよ。今日は学校休みって言ってももう昼過ぎだし、明日にはいつも通り学校があるからそんな遠くには行けないけど、どこか近くでもいいんだったら遊びに付いていくから」
明久は背もたれから背中をゆっくりと離すと、リビングの窓の先へと視線を向ける。カーテンレース越しからでも分かるぐらい窓の外は明るく、出掛けるには調度よさそうな天気。その外の様子を、明久は天気の調子を確かめるのとはまた違った調子で眺めた。ユキも嬉しそうな表情をしながら、そんな外の様子を眺める明久の顔を見つめる。
明久の腕にミサンガが付いてから十日程度。その間、明久は契約の際の出来事やミサンガのことを一度も忘れることなく過ごしてきたが、明久も、そろそろ気持ちを切り替えるような、そんな気分転換の機会が欲しかった。だから、今回はそんなきっかけになるかもしれないと、明久は気持ちを切り替えるように大きく息を吐きながら立ち上がって、わざと大げさに「よし」と息づいた。
「それじゃ、一緒に外にでも行くか」
その言葉を聞くと、ユキは嬉しそうに笑みを浮かべながら頷く。
「うん!」