プロローグ
春が訪れて、進級を祝うように桜が満開に咲き乱れてから二週間。今では、その面影を見せる影もない木々たちは、みすぼらしくも、新しい季節を向かい入れようとせっせと準備に勤しんでいる。空一面を覆っている辛気臭くなるような雲も、今はまるで舞台裏で最高のショーを作り上げようと準備する人たちを、暖かく待つ垂れ幕のようにすら思える。
そんな空の下、屋内に閉じ籠って実に息苦しい空間の中にいる四十人弱の生徒と俺。
手に持っていたシャープペンシルを置いて、前屈気味になっていた体を起こすと、俺は頭の重みでコンクリートのように凝った首を揉み解した。それと同時に授業終了のチャイムが校舎内全体に鳴り響き、机の前でプリントと睨めっこしていた生徒たちは、各々体を起こして近くにいた知人や友人やらと会話をし始める。
『はい、じゃあ時間だから、後ろの人解答用紙集めて』
担任の湖声先生の声が聞こえると、後ろの席に座っていた人たちは、少しずつ教壇へと向かいながらプリントを回収していく。明久はそのプリントを回収している人にプリントを手渡すと、最後に一度だけそのプリントを一瞥した。
真っ白。
このプリントを表現するには、最も妥当な言葉だろう。正確に言うと、枠線やら自分の格闘した跡やら色々な線が書かれていて完全にそうとは言い難いが。
明久はその解答用紙を見ると、暗澹としたやるせない気分になる。別に高得点を狙っていたわけでも、親に褒められたかったわけでもない。ただ、高校二年になって初めてのテストが、こんなにもひどい結果になるとは予想だにしていなかった。高校一年の頃の内容だけの筈なのに、一か月程間を開けていただけでこんなにも内容をぽっかりと忘れていると誰が思うのだろう。大体、三学期が終わってゆっくりしたい春休みに、これぞとばかりに確実に期間中に終わらないような宿題を出して、休みという名目の勉強期間を与えるのは、一体誰の目論みなのだろうか。あんなの、答えを写すという方法以外終わらせることなど出来ないことくらい、誰が見ても分かりきっている筈なのに。
と、俺がくだらない事に思考を巡らせているうちに、湖声先生は帰りのショートホームルームを簡単に済ませて、そのまま終わりのあいさつで本日の学業を締め括っていた。
さっさと湖声先生が教室を退出していくと、俺もそのまま帰りの支度をする。
「おう、テストどうだった」
帰る準備をしていると、横から軽薄な口調で杉村圭助が寄ってくる。
「全然ダメだった」
帰り支度をしながら面倒そうに一言告げると、杉村は「やっぱりな」と同情の笑みを浮浮かべる。馬鹿にしてんのか。
「いや、俺も全然出来なかったし、まさか宿題考査があんなに難しいとは思ってなかった」
杉村は明久の横にある机の上にもたれながら言うと、小さく苦笑いした。しかし、この苦笑いは、いっそう明久の気持ちを憂鬱なものにする。結局、杉村の結果を聞いたところで自分のテストの結果が最悪だという事は変わりようもない事実だったからだ。
「それより、早く帰ろうぜ。早くしないとまたあいつに捕まる」
杉村は廊下の方を警戒しながら見やると、明久のことを急かす。それを聞くと「俺には関係ないんだがな」と愚痴をこぼしながら明久は立ち上がった。杉村が先行して教室から廊下へと向かうと、明久もそれについていくように教室を出た。すると、教室を出て廊下から階段へと向かう途中で、杉村は唐突に明久に問い掛けてきた。
「そういえば、最近ニュースになったあの殺人犯知ってるか?」
「殺人犯?あの道端で人が何人も殺されて結局警察には捕まっていないっていう、例の通り魔事件の事か?」
「ああ」階段まで辿り着くと、杉村は階段の下を覗き込む。「その殺人犯なんだけどよ、どうも最近この近辺にいるんじゃないかって噂が立ってんだよ。しかも、一か月前にこの学校でも行方不明になった生徒がいるって問題になっただろ? その人もどうもその殺人犯に殺されたんじゃないかって話なんだ」
「本当かそれ!?」
明久は驚くと、杉村の顔を見返した。
連続殺人事件というのは、最近問題となっている事件のことで、路上にいる人たちを無差別に刺していくというものだ。突然現れてはすぐに姿をくらませるため、警察もこれにはかなり手こずっているらしい。その上、その殺人犯とやらは身体能力が高いらしく、男のことを取り押さえようとした男性二人も簡単に投げ飛ばされているとニュースで取り上げられていた。
「でもその殺人犯って無差別なんだよな。なんでうちの生徒だけ単体で襲われてんだ?」
「そこらへんは俺も分からん。行方不明になった生徒が殺人犯に対して何かやったのかもしれないし、殺人犯も何か目的があったのかもしれないしな。まあどっちにしてもあくまで噂だからな。本当かどうかは俺も知らん」
しゃべりながら杉村は階段の最後の段を軽い足取りで下りた。すると、杉村の存在に気付いた涼川冬香が怪訝そうな表情で歩いて来て、杉村の目の前に立ち塞がる。
「ちょっと、どこ行くつもり?」
「げっ・・・」
杉村は涼川の顔を見ると、足を止めて顔を引きつらせる。しかし、すぐに爽やかな表情に変えて、「どこってこれから部活に向かおうとしてたんだけど」と言った。
「へえ、おかしいわねえ。今日はミーティングで生物学室集合だから、ここまでくる必要はないと思うんだけど」
涼川が杉村の言葉に小悪魔のような笑みを浮かべると、杉村は爽やかな笑みを少し崩しそうになる。しかしすぐに、「あ、いっけね! 俺たった今急用思い出したわ。ってことで、あとは明久に任せた!」と言ってもと来た階段を駆け上り、
・・・逃げた。
「あとは任せたってどういう事かな~?高城くん」
「え、俺!? 何も知らねえぞ?!」
「ホントに~?」
杉村への疑いが何故か、杉村の一言で俺にかかってきた。冗談だってことは分かっているが、如何せん目がマジで怖い。
「冗談、冗談。高城くんがそういう人じゃないって事は分かっているから。それじゃ」
そう言って涼川は俺に軽く笑顔を見せると、杉村が駆け上っていった階段へと向き、「杉村~!! 待ちなさ~い!!!」と、叫びながら杉村を追いかけていった。
何やってんだか・・・。
明久は、杉村が向かった先を見つめながら苦笑いした。
明久がさっきまで帰ろうとしていた杉村は、帰宅部の俺とは違い、テニス部に所属していてテニス自体はとても上手い。中学三年の頃はシングルでかなり良いところまでいって、各地の私立高からも勧誘があったそうだ。特にこの学校みたいなあまり強くない高校にとっては、杉村の存在はとても大きなものとなっている。しかし、当の本人は、高一の三学期頃を境に熱が冷めてしまったようで、度々サボっては部員たちの頭を悩ませていた。
でも、杉村も何だかんだ言ってもテニスは人一倍好きだし、さっきの涼川みたいに部活の皆は暖かく待ってくれているみたいだから、杉村もいずれ真面目に部活に参加するようになるだろう。根拠は無いが何となく分かる。あいつはそういう奴だ。
明久は涼川が杉村を追いかけるのを見送ると、持っていた自分の鞄を持ち直してそのまま下足箱へと足を運んだ。
「あ、そういや今日から母さん帰ってこないんだっけ」
明久は思い出したように呟くと、下足箱から靴を取り出す。
俺と春奈の分の弁当買わないとだな。
靴を履きかえると、明久はそのままスーパーに寄ることにした。昇降口を出ると、息をゆっくりと吸いこんで目的地へと向かう。曇ってはいるが気温はさほど低くなく、昇降口付近に植えられている枝木にも徐々に緑が見えるようになってきていた。
かすかに通り過ぎていく春の風が気持ちいい。肩にかけていたバッグも、季節の入れ替わりを喜ぶように揺れた。さっきまで明久の感じていた憂鬱な気分も、自然と心の中から消えていく。
しかし、俺はその時、この後すぐに自分の身に不幸が訪れることを気付いていなかった。いや、気付く筈なかった。いつもの日常を過ごしていく中、あらゆる偶然が必然となって自分の身に襲い掛かってくることを。それが、自身をどんどん不幸へとさせていくことを。
そうだ、俺の日常は、この日を境に、一気に非日常へと変わっていってしまったのだ。あの、少女との出会いによって―――。