9話 『拠点での初夜』
冒険者ギルド直営宿はその割安の値段から多くの冒険者が利用している。
一日が終わり、冒険者たちが街に帰ってくるこの時間が宿にとっては最大の書き入れ時のようで、フロントからその脇の食堂兼酒場まで、冒険者たちで溢れかえっている。
シュウヤとアリシアが宿屋の扉をくぐると、一瞬の静寂の後に、冒険者たちの視線が注がれてくる。好奇心、警戒心、様々な感情が綯交ぜになった視線だ。
容赦ない視線の嵐に、かつての境遇を思い出したのか、アリシアの身体は小刻みに震えて、シュウヤに身を寄せてきた。シュウヤはアリシアが怯えないよう、また危害が加えられないようにさりげなく自分のもとに彼女を引き寄せる。
冒険者たちもすぐに興味を失ったのか、ふたたび宿屋のフロントには喧騒が舞い戻ってきた。
「大丈夫か?」
「は……はい……」
アリシアが落ち着いたのを見計らって、シュウヤはフロントで退屈そうに冒険者たちを眺める老婆に声をかけた。
「宿泊だ。とりあえず二泊頼みたい。人数は二人だ」
シュウヤはポーチからギルドカードを取り出し、老婆に提示した。
冒険者ギルド直営の宿では、ギルドカードを提示することによって割引が利くとのことだ。
「あいよ、食事は付いてないからそこの酒場で勝手に食べてもらうことになるけど大丈夫かい?」
「問題ない。値段は?」
「一部屋一泊500メルクだよ」
シュウヤは老婆に二泊分の1000メルク、小銀貨1枚を渡し、部屋の鍵を受け取る。部屋は二階の角部屋だそうだ。
「行くぞ、アリシア……」
一日中動き回ってようやく確保した寝床だ。さっさと部屋でくつろぎたいシュウヤがアリシアの手を引こうとしたその時だった。
ぐぅうううう、と。妙に間の抜けた音がシュウヤの耳に入った。
音源は確認せずともわかる。アリシアのお腹からだった。
「……っ」
恥ずかしそうに、申し訳なさそうにアリシアが顔を赤らめて俯いた。
「もしかして腹減ったのか?」
「……」
黙って首を横に振るアリシア。しかし、そんな彼女に追い討ちをかけるかのようにもう一度鳴るお腹の音。
「腹、減ってるんだな」
「は、はい……」
無理もないだろう。奴隷商館の様子から鑑みるに、大した食事は与えられていなかっただろうし、今日も半日近くあちこちを連れまわしたわけだ。空腹を覚えるのは至極真っ当なことだ。
「よし、じゃあ先に飯にしようか」
まあ部屋に行くのは食後でも問題はないだろう。それに隣の酒場から漂ってくる料理の匂いを嗅いでいたからか、ちょうどシュウヤの腹も食物を求めて、その自己主張を高めていたところだ。
アリシアを連れて酒場を覗いてみると、すでに十数人の冒険者たちが酒盛りをあちこちで始めている。テーブルとテーブルの間をウェイトレスがせわしなく動いて、彼らに酒や料理を提供していた。
幸いなことに席にはまだ余裕があったので、とりあえず適当に手近な席に腰を下ろすことにした。
アリシアもシュウヤの向かいに遠慮がちに座る。
「さあて、何を食おうかな」
各テーブルに一枚ずつ置かれたメニューを、アリシアにも見えるように広げる。
デビルフィッシュの香草蒸し、マッシュスネイルのバター炒め、イシニンジンと食虫花の炒め物……どんな生物を使った料理なのかまったく想像がつかない。食用に供さないものを調理しているとは思えないが、訳のわからない食材をいきなり口に運ぶ勇気もそれはそれでない。
まだ見ぬ奇妙な料理に思いを巡らせながら、メニューをざっと流し見していると、ふと見覚えのある名前の料理が視覚に飛び込んできた。
「ベヒボアのバターソテーか……」
ベヒボアは確か朝に大通りの露店で買ったものだ。肉質は柔らかく、脂も乗っていて非常に美味しかった記憶がある。
……決まりだ。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
気づくとウエイトレスが水を持って、注文を取りにきていた。
「俺は決まりだ。アリシアはどうする? 俺と同じでいいか?」
「あっ、その……えっと……でも……」
「遠慮するな。食わないと身体が持たないぞ?」
「じ、じゃあ、同じもので」
シュウヤが促すとアリシアも注文を決めたが、まだその瞳から不安と恐怖の色は抜け去ってはいない。思えば、アリシアはいつからあの奴隷商館にいたのだろう。調教が済んでいないという奴隷商人の言葉から察するに、そう何年も閉じ込められていたわけではないのだろうが、それでも数週間は外の光を見てこなかったのだろう。
おまけに彼女が受けた心の傷はそう簡単に癒えるものではない。彼女の心を解すには時間をかける必要があるだろう。シュウヤは専門家ではないので具体的な方法論はわからない。なので手探りで触れ合い、気長にアリシアを見守ってやることしかできないのだ。
「お待たせいたしました、ベヒボアのバターソテー二人前です! ごゆっくりどうぞ!」
そんなことに思考を費やしていると、二人分の料理が運ばれてきた。
朝に露店でみた肉が香ばしい湯気を立たせている。付け合わせのパンも美味しそうだ。
早速、ナイフでベヒボアの肉を切り分け、パンの上に乗せて口に運ぶ。朝と変わらぬ、いや朝に食べたものよりもこちらの方が美味しいかもしれない。流石宿屋の食堂といったところか、調理方法が違うのかもしれない。
「……んっ、美味しい……!」
料理を口にしたアリシアが思わず声を漏らす。
「美味いか? いいチョイスだろ?」
「あ……はい……ごめんなさい……」
「なんで謝る? 美味いものはしっかり味合わないと損だぞ?」
アリシアは小さく頷いて、必死に肉を切り分けて食べ始めた。
やはりよほどお腹が空いていたようだ。まるで小動物みたいでどこか愛らしさを感じる食べ方だった。
(それにしてもよかった)
先ほどの「美味しい」と言った時の表情。声の調子。たった一瞬の変化だったが、間違いなく今までとは違う反応だった。恐怖、不安、絶望、それらすべての負の感情が交らない素の反応だ。
おそらく先ほどの姿がアリシアの本当の姿なのだろう。美しいものには感動を覚え、美味しいものには舌鼓を打ち、悲しい時には涙を流す。
まだ彼女の感情は、心は決して死に絶えたわけではないのだとわかった。
それがわかっただけでも十分だ。生きているのなら、必ず救い出せるはずなのだから。
アリシアを見つめるシュウヤの顔に自然と安堵の笑みが浮かんだ。
「あ、あの……なんですか……?」
ふと我に帰ると、アリシアが怪訝そうにこちらを窺っていた。
どうやらニヤニヤしていたの不審がられてしまったようだ。なんでもないよ、と表情を引き締め、シュウヤも再び料理に意識を戻して、ナイフを動かすことにした。
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ベヒボアを十分に堪能したシュウヤは部屋に向かうことにした。
踏みしめるたびに床が軋む廊下を進む。外からは頑丈な石造りに見えたこの建物だが、中は基本的に木造らしい。
廊下の突き当りまで進んで、目の前の部屋の番号と鍵の番号を確かめる。ここで間違いないようだ。
開錠して部屋に入ると、八畳ほどの空間が目の前に広がっていた。部屋の中央に小さな丸テーブルに椅子が三つ、窓際にはベッドが一つ備え付けられている。
「あー……」
これはどうやら変な勘違いをされたようである。
シュウヤの目線は一つのベッドに釘付けだ。そう、一つしかないベッドにだ。
「あの婆さん、変な気遣いしやがって……」
宿泊客は二人、ベッドは一つ。これが意味することはもうアレしかない。二人でごゆっくりてきなアレだ。
しかもご丁寧にダブルベッドの部屋を寄越してくるところがまた憎い。
「あ、あの、どうかしましたか?」
部屋に入るなりしかめっ面でベッドを凝視するシュウヤに不安を覚えたのか、アリシアがおっかなびっくり声をかけてくる。
「いや、なんでもない。とりあえず荷物を下ろそう」
部屋を変えてもらうことも一瞬考えたが、それはそれで手間がかかるし、もしかしたらベッドが二つの部屋がもう空いていないという可能性もある。
別にアリシアをベッドで寝かせて、シュウヤは床で寝てもいいわけだ。
「そういえばここの宿屋は風呂が付いてるらしいな。アリシア、ちょうどいいから入ってこいよ」
とりあえず荷物をテーブルの下に下ろして、所在無げに立っているアリシアに風呂を促す。
昼に街の用水路でとりあえず汚れは落としたつもりだが、あの時は石鹸もなにもなかったので、本当にただ目に付く汚れを落としただけだ。しっかり風呂に入るに越したことはない。
「えっ!? あの……それは……」
「まあ汚いままがお好みならそれでもいいが……嫌だろ?」
「は、はい」
そう促すとアリシアは小走りでまるで逃げていくかのように、部屋から出て行った。
そんな後ろ姿を見送って、シュウヤはベッドに身を投げ出した。そして深くため息を吐く。
「やっぱり難しいよな、人から信頼を得るのは……」
先ほど食事の際に見せてくれたようなあの顔をどうすれば取り戻せるのか。
今日一日の自分の行動を振り返ってみる。
なるべく怯えさせないように、不用意な発言は慎んでいたつもりだ。いつまでもみすぼらしい恰好で居させないために服も買い与えた。食事もきちんと与えている。
ここまで考えて、ふと思考を止める。これではまるでペットみたいじゃないか。
思い返してみても交わした言葉の数はほとんどない。
まだまだアリシアとシュウヤはコミュニケーション不足としか言いようがない。アリシアは今日一日観察した限り、依然心を閉ざしたままだ。シュウヤの方もあまりコミュニケーションが得意というわけではない。
アリシアとはいずれ腹を割って話さなければならない。それがすぐののことなのか、それとも少し遠い将来のことなのかはわからないがいずれ……。
そんなことに思いを馳せているうちに、異世界初日の疲れからかシュウヤの意識は暗闇に吸い込まれていった。
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「――――さま、――――じんさま」
闇の片隅から声が聞こえた。
急速に回復していく意識で、声の方に視線を傾けるとそこにはアリシアがいた。シュウヤの隣、ベッドの上にちょこんと座っている。
どうやら考え事をしている間に眠ってしまっていたようだ。霞む眼を擦りながら、上体を起こしてアリシアの方に身体を向ける。
「悪い……寝てたみたいだ……」
「あ、いえ、大丈夫です。ご主人様……その……あの……お風呂から上がりましたので……」
アリシアは宿屋に備え付けのガウンを羽織っていた。しっとりと水気を含んだ銀色の髪に、ほんのりと紅潮した肌。初めて見た時と比べれば見違えるようだ。
シュウヤが少し感心していると……なぜかアリシアがガウンを肩から脱ぎ始めた。
「お、おい」
「あの……私、わかってますから……ご主人様が私を買われた目的……ちゃんと言う通りにしますから……お風呂で綺麗にしてきましたから……」
「ちょ、ちょっと待て」
「あの……でも……私、初めてなので……できたら優しくしていただければ……嬉しいです……」
「待てって! 落ち着け!」
アリシアの意図を察したシュウヤは急いで、脱ぎ掛けていたガウンを元に戻す。
「ごっ、ごめんなさい! な、なにか間違っていましたか……?」
「すべて間違えてる。だからまずは落ち着け」
「でも……あの奴隷商人が……お前の使い道は愛玩用奴隷しかないって……」
アリシアは困惑した表情を浮かべて、シュウヤを見つめている。
本当に困り果てているのはこちらなのだが。どうやら今の今までとんでもない勘違いをされていたようである。
「あのな、アリシア。ちょっと話をしよう」
だがいい機会かもしれない。
先ほど考えていた、これからの自分とアリシアに必要なこと。それは一度真剣に腹を割って話すことだ。本当はもう少しアリシアの様子を見てから、その場を設けるつもりだったのだが……不本意ながら絶好の機会が今巡ってきた。
「は、はい!」
アリシアが一転、緊張した面持ちになってベッドの上に座りなおした。
「まず最初に誤解を解いておくぞ? 俺がアリシアを買ったのは愛玩用奴隷にするためじゃない。俺の仲間になってもらうためだ」
「な、仲間ですか?」
「ああ、俺は山から下りてきたばかりで世の中の常識をほとんど知らないんだ。だから一人で行動すると誰かに騙されて、大変な目に遭うかもしれない。だから信頼できる仲間が必要なんだ。わかるか?」
「は、はい」
「だから俺はアリシア、お前を奴隷として扱うつもりはない。嫌がることは絶対にさせない。お前の頼みもちゃんと聞ける範囲なら聞いてやれる。もちろんこれから俺の仕事の手伝いはしてもらうが、それは奴隷としてじゃなく、仲間としてだ。これは約束だ。俺からアリシアへのな。そしてだ、アリシアから俺にも約束をしてもらう」
「……それはなんですか?」
「自分の意見をきちんと言うことだ。嫌なら嫌だ、欲しいものがあったら欲しい、お前の言葉をちゃんと聞かせてくれ。お前が考えた言葉をだ。約束できるか?」
「わ、わかりました、ご主人様」
「そのご主人様もやめろ。俺の名前はアリサカ・シュウヤだ」
「す、すみません、えっと……その……シュウヤさん……?」
「ああ、それでいい」
アリシアが頷いたのを見て、シュウヤも肩の力を抜く。
まだ十分とは言えないかもしれないが、それでも今絶対に伝えておくべきことは伝えられたはずだ。シュウヤとアリシアは主人と奴隷ではなく仲間同士であるということ、お互いがきちんとコミュニケーションをとるということ。
とりあえずはこれでいいだろう。この先は……もっとお互いのことを知ってからだ。
シュウヤはベッドから立ち上がると、シーツ一枚と枕だけを抱えて床に敷いた。
「シュウヤさん?」
「ベッドはアリシアが使え。ずっと布団で寝てなかったんだろ? 俺はどこでも寝られるから大丈夫だ」
「で、でも……シュウヤさんが床で寝て、私だけベッドで寝るなんて嫌です。お互いに疲れてるのなら二人でベッドを使えばいいと思います」
「アリシア……」
「さっき約束しました。シュウヤさんは私のお願いを聞いてくれる。私もちゃんと意見を言うって」
そう言ったアリシアの瞳には、先ほどまではなかった強い色が見えた。まだ少しだけ不安で震えてはいるけれども、それは確かにアリシア自身の色だった。
「参ったな……案外強かじゃないか、お前」
「いっ、いえ、その! ご、ごめんなさい!!」
謝罪してくるアリシア。そんなアリシアの頭に手を置いて撫でてやる。
「謝らなくていい。アリシアの言う通りだ。約束は守らないとな」
シュウヤは床に敷いた枕とシーツを拾い上げ、再びベッドの上に置く。
「じゃあベッドは二人で使おうな。さっさと寝よう。明日も忙しいぞ」
「は、はい」
シュウヤが布団に入ると、アリシアも横に身を寄せてくる。
少女特有の甘い香りが鼻孔を擽った。これは……慣れない感覚だ。
「じゃあおやすみ」
「は、はい、おやすみなさい」
慣れない感覚だが、もしかしたら案外うまくやっていけるのかもしれない。
ほんの少し見えてきた光明を実感しながら、今度こそシュウヤは眠りについた。




