20話 『アリシアの涙と笑顔と』
暗い闇に包まれていた。
アリシアの最後の記憶は、シュウヤを庇ってロベールの剣の前に飛び出したところで途切れていた。
背中に鋭い痛みと熱が走って、巨人に足を掴まれて思い切り叩きつけられたような衝撃を感じて、気付いたら闇の中にアリシアの意識があった。
寒くもなければ熱くもない。上下左右の感覚も消失したこの空間で、アリシアはただ思考だけを残されたまま漂っている。
これが……死、なのだろうか。
アリシアは後悔などしていない。
ロベールが息も絶え絶えに剣を構えた時に、アリシアは思い出したのだ。
昔、あの皇宮のラトナの庭園で、よくロベールに強請って見せてもらったあの不思議な剣技。明らかに剣の間合いから外れた場所のリンゴを二つに両断した、あの秘技。
きっとシュウヤはあの技を知らない。
だから避けられない。あの剣技は間違いなくシュウヤの首筋を狙っている。そう思ったら、アリシアの身体は勝手に動いていた。必死に走り、シュウヤをロベールの剣技の間合いから押し出した。
本当はきっと今日、自分はこの場所で死んでいたのだろう。
でも運命だと思って諦めていた自分を、シュウヤは無理な道理を切り開いて、救いに来てくれた。
だから、せめてこの命はあの人のために使おうと、そう思いシュウヤに代わってあの剣技を受けたのだ。
それで満足している……その筈なのに。
感覚のない瞼が熱くなり、冷たい何かが頬を伝った。
(私は……泣いているのかな……?)
後悔なんてしていない筈なのに、涙は止め処なく溢れてきた。
人はいつか皆死ぬのだから、死ぬこと自体は怖くない。
それなのに……、
(独りで……ずっと……真っ暗で……寂しい……)
アリシアはすすり泣く。声は響かず、届かない。
それでも涙は止まらない。
母親の名前を呼ぶ、執事の名を呼ぶ、そしてかつて仕えてくれたあの騎士の名を呼ぶ。そして最後に、あの人の名前を呼ぶ。
(シュウヤさん……)
(いつまで泣いているのですか?)
暗闇に声が響いた。
(その声は……ロベール様……?)
姿は見えないが、確かに声が聞こえた。
(もう私はアリシア様の傍にいることはできません……いる資格もありません……でも、アリシア様には待ってくれている人がいる、違いますか……?)
(でも……私はあの人の傍にいても……きっとあの人を不幸にしてしまうから……)
(僅かな時間ではありますが……私はあの男と刃を交えました……だからわかります……あの男は昔の私に似ています……だからこそ腹立たしいという部分もあるのですがね……)
昔のように柔らかい声でそう言ったロベールは続ける。
(あの男はアリシア様の不幸に巻き込まれることをちっとも不幸だとは思わない男ですよ……アリシア様はもう少しお甘えになってください……人の好意に……あの男はアリシア様をきっと未来に連れて行ってくれます……)
(ロベール様……)
(時間です……さようなら、アリシア様……貴方とカトリーヌ様の下にお仕えできて……私は幸福です……ありがとうございました……)
それっきり声は聞こえなくなった。
でも先ほどまでとは違う。頬が温かい。自分の涙ではなく、誰かの温かく、少し武骨な手のひらの感覚が確かにあった。
そして一筋の光が闇を切り裂く。その光は次第に増幅し、闇を打ち消していく。
アリシアはその光に手を伸ばして――――。
~~~
気を失ったアリシアの止血を終え、シュウヤは彼女を太腿に寝かせたまま処刑台に腰かけていた。
夜はとっくに明け、朝日が古城を仄かに暖めてくれている。
中庭は亜人と騎士の死体で溢れかえっていた。戦いは結局、どちらも痛み分けで終わり、敗残兵の騎士たちは一人、また一人と城から逃走していった。
獲物を失った亜人もまた森へと引き返していったのだった。
静まり返った夜明けの古城で、シュウヤとアリシアは二人きりなのだった。
太腿の上でアリシアが呻く。涙が一筋、頬を伝ってシュウヤの服に落ちた。
悪い夢でも見ているのだろうか、そんな彼女をあやすようにシュウヤは頬を撫でて涙を掬う。
すると、アリシアの瞼がゆっくりと開いていく。
眠り姫がようやくお目覚めのようだ。
「おはよう、アリシア。涙が零れてた……怖い夢でも見たのか?」
「違います……違うんです……でも……」
アリシアは手の甲で目を擦り、すすり泣きながらそう漏らす。
「なんで泣いているんだ?」
「私……まだわからなくて……本当に私は生きていても……いいんですか?」
「はあ……」
アリシアの口から飛び出した言葉に、シュウヤは大きくため息を吐いた。
シュウヤはアリシアの額に人差し指を弾いてやる。
「いたっ」
「馬鹿。お前はまだそんなことを言っているのか? お前は今、確かに生きてる。それは俺が保証する。ならば生きろ。生きていいから生きるんじゃない、生きているから生きるんだ。死ぬまで」
「でも……私はきっと迷惑をかけます……シュウヤさんに……他の人にも……」
「好きなだけかけろ。俺は気にしない。最初に言っただろ、俺たちは仲間だ。だからお互いに迷惑をかけあえばいいさ。それで一緒に解決していけばいい。そんなもんだろう?」
アリシアは泣くのを止め、シュウヤの顔を真っ直ぐに見つめなおす。
「私は大して知識もないです……シュウヤさんのお役には立てないと思います……」
「知らない方が先入観に囚われずに自由な発想ができることもある。必要なら一緒に勉強すればいいさ」
自分の無知を卑下するアリシアに、シュウヤは無知の利点を教えてやる。
「私は弱いからきっとシュウヤさんみたいに戦えないです……」
「別に戦うだけが能じゃない。腕っぷしだけが強さじゃないさ」
アリシアが自分の非力さを嘆くなら、力の多義性を教えてやる。
「私は追われる身だから、これからもきっと迷惑をかけると思います……」
「その時は二人で何とかしよう。なーに、今回は何とかなったんだ、次もなんとかしてみせるさ」
アリシアが自分の身の上を恥じるなら、その無意味さを教えてやる。
それからアリシアは顔をくしゃくしゃにして、最後にこう問いかけてきた。
「私……本当にシュウヤさんと一緒に未来を描いてもいいんですか……?」
「ああ、いいよ。自分で判断がつかないのなら、俺が判断してやる。だからもう自分を卑下するのも、嘆くのも恥じるのもやめろ。俺はお前と一緒に、この先を歩きたい。お前はどうなんだ?」
「私もっ……私も……っ! シュウヤさんと一緒に歩きたいです……っ!!」
まさに全身全霊という言葉が相応しい。そんな調子でアリシアは、異端だった少女は、奴隷の少女は、元皇女は叫んだ。
ようやくアリシアは答えを出せたのだ。
シュウヤがそうしたように、自分の心が望んだ答えを。
だから、こう言って迎えてやることにしたい。
「おかえり、アリシア。これからもよろしくな」
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シュウヤとアリシアは、ジュノーの街が見渡せる城壁の上に座っている。
トーマスが後始末をした後、荷馬車で迎えに来てくれる手筈になっていた。トーマスが到着したら直ぐに西に向かって旅立つつもりだ。
色々と旅に備えて行わなければならない支度があるので、ここに戻ってくるまではしばらく時間がかかるとのことだ。
「まだ朝は少し冷えますね……」
アリシアがシュウヤの隣で身震いする。
確かに今日は少し寒いかもしれない。今のアリシアは薄着なのだし、無理もないだろう。
「これから旅に出るんだから風邪をひかれたら困る。これでも羽織ってろ」
シュウヤは自分のジャケットを脱いで、アリシアに羽織らせる。
アリシアは少しサイズが大きすぎるジャケットをまるでマントみたいに羽織り、温もりに顔を埋めた。
「……暖かいです……」
「それは何よりだ……っと、ん?」
「まだ少し寒いので……こうしていてもいいですか……?」
アリシアが頭をシュウヤの肩に乗せてきた。澄んだ微笑みを浮かべて、今にも眠ってしまいそうなほど安らかな表情で、彼女は身体を寄せてきた。
「いいよ」
小さく頷く。
シュウヤはアリシアの肩を抱き寄せた。小さい身体は震えているけれど、確かな温もりがあった。生きていると証明する温かさが。
「……これからどうするんですか?」
「そうだな、とりあえずは西に行こう。一緒に」
「西に行ったら何をするんですか?」
「とりあえずは流れのままに。まあ二人で楽しくやろう」
「私、魔法を覚えてみたいです。私の中に流れる血は……多くの人を傷つけたから……だからこれからはこの血に宿る力で誰かの力になってみたいんです……」
そんな決意をアリシアが語る。
確かにアリシアの身体に流れる夜叉の血は、多くの命を奪う原因になった。そして失った命は取り戻せない。
でも、きっと別の道を進むための力にはなるはずだ。
シュウヤはそう思う。
「それでいい。俺はその手伝いならいくらでもしてやるさ」
だから自信をもって答えてやろう。
アリシアの願いのために、シュウヤは全力を尽くす、と。
だから……そろそろ言わねばならないだろう。
アリシアにとって、非常に重要なことを。
「アリシア……俺もすごく迷ったし、いつ言おうかとタイミングを計りかねていたんだが……そのな……」
「えっ? なんですか?」
不意を突かれたアリシアは顔いっぱいに疑問符を浮かべて、シュウヤを見上げた。
シュウヤはとてもバツが悪そうに、頬を搔いて視線をずらして、こう告げる。
「……見えてるんだ……」
アリシアの服はもともと薄着だったうえに、先ほどの戦闘やらでボロボロだ。しかも今のアリシアは下着など身に着けていない。大きく裂かれた胸元から、見えてはいけない乙女の秘部がシュウヤの位置からは丸見えなのである。
「~~~っっっ!!??」
シュウヤの言葉に、視線を落としたアリシアはようやく気付いたようだ。
顔を真っ赤にして胸元をジャケットで覆い隠す。
それから泣きそうな顔でシュウヤを非難する。
「なっ、なんでもっと早く言ってくれないんですか!!」
「いや、その、なんというかそういうのを指摘するのはマナー違反というか、無神経というか、まあ色々迷ったんだ」
「黙って鑑賞してる方がもっとずっとマナー違反で無神経です!!」
「……ごめん」
ここは素直に謝るしかない。
アリシアはジャケットでしっかりと胸元をガードして、またシュウヤの肩に寄り添ってきた。
「……また一緒に新しい服を選んでくれたら許してあげます」
「それくらいで償えるのなら喜んで」
思いのほか可愛らしいお願いに、シュウヤの口元からも自然と笑みがこぼれた。
アリシアもそれにつられて笑いだす。
「お~い、お二人で乳繰り合ってるところ悪いんだけどよ、もうちょっと人の目を気にしようぜ、旦那」
気付けば、城壁の下の木陰でトーマスが呆れた顔をしていた。
「……いつから居たんだ?」
「少し前だな、まあせっかくの二人の門出だ。この後お楽しみなら、俺はもう少し席を外してるけどな」
「いや、出発しよう。時間は無駄にはできない」
シュウヤは立ち上がり、アリシアに手を差し出す。
頷いてその手を取るアリシア。
立ち上がった二人は昇り始めた朝日に目を細め、歩き出すことにした。
「行こうか、アリシア」
「行きましょう、シュウヤさん」
この先に何が待ち受けているのかはわからない。
それでも今は歩くことしかできない。だから歩き出す。しっかりとした足取りで。
かくして異端の皇女は、未来に向かって傭兵と歩むのだった。
一章はこれで終了となります。
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