17話 『孤独な朝』
気が付けば、夜が明けていた。
それまで自分が何をしていたのか、シュウヤは覚えていない。
頬が熱いと自覚したときに、初めて窓から挿してくる陽光が朝を告げていることを理解した。
身体をなんとか持ち上げてはみたが、途轍もない重さを感じる。
部屋の中は昨晩の襲撃で荒らされており、シュウヤがアリシアと買い揃えた道具や食糧は見るも無残な姿になってしまっていた。
なんとか使えそうな物だけを拾い集め、シュウヤは部屋を出る。
軋む階段を降り、宿屋の入り口に着くと、宿泊客がフロントの従業員の胸倉を掴んでいるのが見えた。
「てめえ! 昨日のあれはどういうことだ!? 聞いてねえぞ、あんな奴らが来るなんてよお!!」
「知らねえよボケ!! うちの店を散々に荒らされて困ってんのはこっちなんだよ!!」
どうやら昨晩の騎士たちの強制捜査を受けて、宿泊客と宿屋の間でトラブルが起きているらしい。
だが、そんなことはシュウヤにとってどうでもいいことだ。
一瞥しただけで、黙ってシュウヤは宿を出た。
外に出て、空を見上げると、そこには清々しいほどに気持ちの悪い青空が広がっていた。まるで、アリシアを失ったシュウヤの心を煽るかのように、朝日が輝いている。
「……」
シュウヤは行く当てもなく、街を彷徨う。
途中、朝から暖簾を掲げている露店の軒先に酒瓶が並んでいるのが目に入った。
銀貨を放り投げ、二本を掴んでそのまま立ち去る。
後ろからは訝しげな声がシュウヤの背中に突き刺さる。
「あなた、なあに? あの人?」
「ほっとけ、どうせ女にでも振られて荒んでんだろ。関わり合いにならない方がいい」
「まあ、嫌ねえ……」
そんな謂れのない誹りに耳を傾けることはない。
シュウヤは酒瓶のコルクを飛ばし、一気に呷る。熱い液体が胃を満たし、ほんの僅かだが身体に熱が戻る気がする。
本質的な意味はなくとも、酒というものは即効性の処方箋なのだ。
口元から零れた液体を袖で拭うと、肩が何かにぶつかった。
「いってえ! てめえ、どこ見て歩いてやがる!!」
無駄にでかい声の持ち主に目を向けると、体格のいい男だった。
大して痛くもないだろうに、何をそんなに大声をあげて騒ぐ必要があるのか。シュウヤは無言で血気にはやる男の顔面を掴んだ。そのまま片手の力だけで持ち上げる。
「なっ……!? いてえ、何しやがる!?」
「……悪いが今は気分が優れないんだ……邪魔をしないでくれ」
ぼそりと呟いて、シュウヤは男を力任せに地面に叩きつけた。
周囲の人間の視線が一度、シュウヤと男に集まるが、大勢が一瞬で決したこと、シュウヤの手に握られている酒瓶を目にした彼らはすぐに興味を失った。
おおよそ酔っ払いの喧嘩だとでも思われたのだろう。
それで構わない。
シュウヤはまた行く当てもなくジュノーの街並みを歩き続けた。
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しばらく歩くと、ジュノーの街の中央。泉を中心に広場が広がっている場所に着いた。
ここは知っている。シュウヤがアリシアと一緒に昼食を摂った場所だ。
まだほんの一昨日のことのはずなのに、ひどく遠い昔のように感じる。
あの時の同じ場所に座って項垂れ、シュウヤは二本目の酒瓶に手を付ける。
一体どうすれば正解だったというのか。
あの場で取れる選択肢はすべて検討したはずだ。どう行動しても、アリシアは殺されていた。
ローベルの言葉も全くもって間違ってなどいない。シュウヤとアリシアは出会ってほんの数日の僅かな関係でしかない。あの奴隷商館でアリシアを選んだのも、たまたま目的と合致しただけだ。アリシアを厚遇したのも、単純に彼女を奴隷として扱う理由がなかったからにすぎない。
本来ならば、ロベールの交渉を素直に飲んで、アリシアを引き渡して対価を受け取るという選択がもっとも理にかなっているはずだ。
しかし、シュウヤの心はシュウヤ自身を責め続けている。
お前は間違っている、お前は間違っていたと罵ってくる。これはシュウヤの理性ではない、もっと心の奥深くにもう一人の自分が潜んでいて、ひたすらに罵倒を浴びせ続けてくるような感覚をもたらしてくる。
お前は正しいと結論付ける自分と、お前は間違っていると議論を吹っ掛けてくる自分の板挟みになって、シュウヤの心はアルコールを浴びせなければ、その場に立ってもいられないほど混乱し、憔悴していた。
そんな曖昧な自分に腹が立ち、シュウヤはあっという間に空になった酒瓶を投げ捨てようとして気付いた。
どこからか転がってきて、シュウヤの爪先に当たったボールに。
視線を上げると、一人の少女が立っていた。
「……」
歳は五つか六つといったところの素朴な少女だった。
彼女がボールの持ち主だということは一目瞭然。そして、少女がシュウヤに怯えていることもまた、向けられる純朴な瞳の色からわかった。
「あ、あの……おじさん、ボール……」
勇気を振り絞ってか細い声で足元のそれを指さす。
どこかで見たことのあるその雰囲気に、シュウヤの口からは掠れた笑い声が漏れた。
「もうおじさんに見えたか?」
少女は小さく頷く。
「お父さんが言ってたの。暗い顔して独りでお酒ばっか飲むようになったら、それはもうおじさんだって」
「そっか、それじゃあ確かに俺はもうおじさんだな」
シュウヤは足元のボールを拾いあげて、返そうと面を上げた。
しかし、少女は目の前にはもういない。シュウヤの隣に腰かけていた。
「……お父さんに言われなかったか? 知らない人と仲良くしちゃ駄目だって」
先ほどの警戒からは考えられない少女の挙動に、シュウヤは諭すように語り掛けた。
「うん言われた。でもね、みんな最初は知らない人だよ。知らない人と勇気を出してお話して、それから知ってる人になって、お友達になるんじゃないの?」
「……もしおじさんが悪い人だったらどうするつもりだ?」
少女には少々意地の悪い質問を投げかける。
「でもおじさんは悪い人じゃないよね? 声を聞いたらわかったもん」
「……」
「ねえ、なんでそんな悲しい顔をしてるの?」
少女はまるでシュウヤを見透かしているかのように問を投げた。
「……わかるのか?」
「うん。よくね、お父さんがお母さんに怒られていじけちゃったときにそんな顔をしてるんだ」
「そうか、お嬢ちゃんは賢いな」
「むう。わたしはお嬢ちゃんじゃないよ。ちゃんとお父さんとお母さんがくれたユリンって名前があるもん」
少女、改めユリンはそう不満げな顔で頬を膨らまして言った。
「それは悪かった。ごめんな、ユリンちゃん」
「おじさんの名前を教えてくれたら許してあげる」
「俺はシュウヤだ。好きに呼んでくれて構わない」
「じゃあシュウヤおじさんだね」
おじさんという部分は変わらないらしい。
どこまでも素直な少女に、シュウヤは思わず苦笑いする。
「それで、おじさんはどうしてそんな悲しい顔をしてるの?」
「……大切なものをなくしてしまったんだ。いや、大切かどうかはわからないけど……でも大切だと実は思っていたんじゃないかって。それもわからないから、結局おじさんはどうすればよかったのかわからないんだ。でも……自分がどう思っていても、それはもうどうしようもないんじゃなかって、そういう風にも思う」
まだ纏まっていない思考を言葉にしたせいか、シュウヤの言葉は非常に曖昧になってしまう。
「……お財布よりも大事なもの?」
「そうだな、お財布とはまた違った大事なもの、かもしれない」
「もしかして恋人? おじさん振られたの?」
少女の言葉に思わず吹き出すシュウヤ。
まさか幼い少女からそんな深刻な言葉が出てくるとは思わなかった。出てきたとしても大人が言わないそんな言葉を平気で人にぶつけてくる、そんな子供の残酷さを思い知らされる。
「……ユリンちゃんはおませさんだな」
「むう。子供だって人を好きになることあるもん。わかるもん」
またユリンが頬を膨らませて、反抗してくる。
そんな顔を見てると、シュウヤの心は少しだけ軽くなる気がする。
「あのね、お父さんがいつも言ってるんだけど……」
ユリンは背丈が足りなくて、座って浮いたままの足をばたつかせている。
「ダメな大人になるなよって。ダメな大人って言うのはね、お父さんは本当は間違ってるってわかってるのに、言い訳をしてそのままにする大人だって」
「でも、人には間違っているか、間違っていたかなんてわからないもんなんだ。それは誰にもわからない」
大人げなくシュウヤは少女に言い返す。
「うん。わたしにもわからない。でもわからなくても、答えはでてくるってお父さんは言ってた」
ユリンはシュウヤの大人げなく、しかも意地悪な質問にもそう真っ直ぐ答え返してきた。
「わからない答え……か」
思わず、言葉に詰まってしまう。
わからないというのは答えがでないからではないのか、そんな疑問が湧いて出てくる。
「たとえばね、わたしもね、今日の晩御飯はなにがいいかって聞かれてもパンを食べたほうがいいのかお肉を食べたほうがいいのかわからないけど、お肉を食べたいっていうのはわかるもん」
ユリンの言葉で、シュウヤは悟る。
例えは酷く矮小で稚拙だ。それでもユリンが言わんとすることはわかる。
ユリンはこう言っているのだ。正しいか否かではなく、自分がそれを良しとできるかどうかで判断しろと。
それはその通りだ。いつだってそうなのだから。
シュウヤがこれまでしてきたこと。
アリシアを買ったこと、奴隷ではなく仲間として扱ったこと、アリシアを救うために戦うと決めたこと。それが正しいという確証などどこにもなかったではないか。
それでもシュウヤはアリシアに誠意を尽くし、一緒に逃げると誓った。
仲間なら見捨てずに、力になるのが当たり前だと偉そうに語った。
結局、正しいかどうかなど証明できなくてもシュウヤは間違いなくアリシアのために戦ったではないか。
「……ありがとう、ユリンちゃん。なんとなくだけど、おじさんわかった気がする」
いや、なんとなくで構わない。
アリシアの事情を知ったあの夜、シュウヤはアリシアの言葉に悩んだはずだ。
なぜ出会って数日の自分を助けてくれるのかと問いかけてきた。
答えは出てこなかったが、それでも行動することはできた。
ならばそれがもう答えだ。
「おじさん、ちょっとまともな顔になったね。よかった」
「ああ、ユリンちゃんのお陰だ」
シュウヤはお礼とするには程遠く及ばないが、ユリンの頭を撫でてやる。アリシアかつてにそうしたように。
「あっ、ユリン! こんなところにいたのね! 駄目じゃない、勝手にどこかに行ったら」
「お母さん!」
ユリンはその声に反応して、シュウヤの下から走り去っていく。
その先には、まだ二十代後半ほどに見える愛嬌のある顔立ちをした女性がいた。彼女がユリンの母親のようだ。
「何してたの? こんなところで」
「えっとね、あのおじさんの相談に乗ってあげてたの! えらいでしょ!」
「こら! そんなこと言ったら失礼でしょ! せっかく遊んでもらったのに」
母親はユリンを宥めると、シュウヤに目線を合わせ、こちらにやってきた。そして丁寧にお辞儀をする。
「すみません、うちの娘がご迷惑をおかけしたみたいで……」
「……いえ、むしろお世話になったのはこっちですよ。いい娘さんですね……本当に聡明な子です」
シュウヤは本心からそう告げる。
ユリンにここで出会わなければ、シュウヤは一生後悔し続けることになっただろう。
「ね? わたしの言ったことほんとでしょ!?」
誇らしげに胸を張るユリンを母親は少し困ったような顔で見つめている。
シュウヤはユリンの前でしゃがみ込んで、もう一度頭を撫でる。少しだけくすぐったそうにユリンは身をよじらせた。
「ユリンちゃんはきっと将来魅力的な女性になれるよ。今日はありがとう。おじさんからも何かお礼を渡せればいいんだが……」
生憎、幼い少女が喜ぶような品物は持ち合わせていない。
ポーチをまさぐってみるが無駄な買い物はしていないので、必要最小限なものしか……。
ふと固いものが指に当たり、何かと思って取り出してみる。それは濃いワインレッドの液体が詰まった、甘ったるい香りのする小瓶だった。
思い出した。ジュノーに来る途中の馬車でトーマスから在庫処分同様に譲り受けた品で、酒場のお姉ちゃんに渡せば酒を奢ってくれるくらいには役立つと言っていたシャルレーゼの香水だ。
どうやら今回は、思い寄らぬ使い道ができてしまったが。
シュウヤはシャルレーゼの香水をユリンの手に握らせた。
「お礼にこれをあげよう。大人になってこれを使えば素敵な女性に早変わりだ」
「ほんと!? モテモテ!?」
「ああ、モテモテだ」
「やったー!!」
飛び上がって喜ぶユリン。
母親はその香水を知っているのか、困惑した顔をこちらに向けてくる。
「いいんですか? これ結構高級品じゃあ……」
「いいんです。俺もタダで人から貰ったものなので。男の俺が持ってても使い道なんてありませんよ」
シュウヤは最後にもう一度ユリンの頭を撫で、母親に一礼してその場を去る。
心は決まった。いや、最初から決まっていた。
正しいかどうかなどではない。大事なのは自分がどうしたいかだ。
シュウヤはあの時確かに誓った。アリシアは仲間だと、仲間というのはお互いに助け合い、決して見捨てない、そういうものだと偉そうに高説を並べ立てた。
ならば、自分の言葉通りにその誓いを果たそう。
方法はまだわからないが、それはこれから見つければいい。出来るかどうかではない、やり遂げてやろう。
それがユリンが、あの聡明な少女が自分に教えてくれた立派な大人というものだ。
シュウヤはもう一度振り返り、貰った香水を大事そうに握るユリンを見た。
その瞬間、シュウヤの頭の中に電光のごとく情報が流れ込み、組み立てられる。
一度立ち止まり、整理する……いや、可能だ。これならアリシアを救うことができるかもしれない。活路を開くことができるかもしれない。
そんなアイデアを閃く。
その実行のためにはここで油を売っている暇などない。
シュウヤは再び歩き出す。
先ほどとは違う足取り、面持ちで。
救うと決めた少女をこの手に取り戻すために。
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