1話 『世界の狭間で』
「いや! 死なないで! ねえ、目を開けてよ! ねえってば!!」
薄れ行く意識の表層で、誰かが自分の身体を揺すっているのがわかった。
まだ幼さの残る少女の声だ。その声色は涙で擦れ、震えている。彼女は誰なのだろう。そして自分はどうなったのだったか。
身体の中に残った力を振り絞って、瞼を持ち上げる。
眩しい。白い光が瞳孔に突き刺さってくる。
そんな眩い光の中で髪を振り乱して自分に縋る少女の輪郭が見えた。
彼女の名前は分からない。思い出せない。
それでも一つだけわかることがある。彼女にとって自分は大事な存在で、自分にとって彼女はきっと大事な存在だったに違いない。
そうでなくては自分の頬を伝ってくる雫の意味がわからない。
彼女を置き去りにしてしまうこと。それは自分にとってはどんな法律よりも規則よりも、犯してはならない約束だったような気がする。
「……」
だから。
せめて彼女に最後に触れようと、手を伸ばした。
どこか遠く感じるその輪郭に。
「っ!? ねえ! 約束してくれたじゃない! 私をもう置いていかないって! もう一人にはさせない、ずっと一緒にいようって!!」
少女が伸ばして手をきつく握って、そう叫ぶ。
そうだったのか。
そうだったような気がする。
だが、もうその約束は果たせない。
なぜなら、あれだけ眩しかった視界を侵食するように闇が食いこんできたからだ。
少女が泣き叫ぶ声も闇の彼方へと遠ざかっていく。手の感触は空気に溶けていくように消失していく。
そして意識が闇へと完全に飲み込まれた。
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「おはようございますっ!! はい、聞こえていますかー? 朝ですよー、希望の朝ですよー!」
五月蠅い声が耳を突いた。
妙に陽気でふざけたトーンの声だ。
「……なんだ?」
声の主に疑問の声を飛ばしながら、シュウヤはゆっくりと目を開ける。
一瞬だが、周りの光に目が眩み、思わず手のひらで視界を覆ってしまった。
「おっ、御目覚めのようですね。おはようございます! アリサカ・シュウヤさん!」
「誰だお前は? なんで俺の名前を知っている?」
名前を呼ばれたシュウヤは声の方を向いた。
そこには金髪のちんちくりんな少女が立っていた。その身の丈に合わない豪奢なドレスを着こんでいて、耳にはピアス、胸元にはネックレスと装飾品がクリスマスツリーの飾りみたいに付いている。
「というかここは?」
次に辺りを見回すと、そこは純白の空間が広がっていた。
地面はタイルなんだかコンクリートなんだかよくわからない材質でできている。しかも継ぎ目が一つもない。
「まあ、その疑問は当然ですね。それではさっそく説明いたしましょう! ここは”世界の狭間”です!!」
胸を張り、両手を大の字に広げてそう宣言する金髪幼女。
そんな抽選の豪華賞品の紹介のように”世界の狭間”だとか言われてもシュウヤは困る一方なのだが。
「そして私はそんな数ある世界を見守る心優しい神様なのです。あっ、訂正です! 女神様と呼んでくれてもいいですよ!」
「断る」
「がふっ。いきなり辛辣な人ですね……まあ前世であれだけの経験を積んでいればそうもなるでしょうね」
大げさに肩をがっくりと落す自称女神。
シュウヤからしてみればそんな女神の振舞いなどはどうでもいい。そんなことよりも聞き捨てならない発言が聞こえたような気がする。
「おい待て。今、前世であれだけの経験と言ったな。ということは俺は一度死んだのか?」
シュウヤがそう尋ねると女神はあっさりと頷いた。
「ええ、残念ながらあなたはお亡くなりになりました。戦場で砲撃の至近弾を受けて、その直後に敵の一斉掃射でズバババ!って感じでその人生を終えました」
「……今の話から想像すると俺は軍人だったのか?」
「いえいえ、正規の軍人などではなく雇われて戦地に赴く傭兵さんですね。詳しくは……」
女神が言葉を区切ると、宙に手を翳した。
すると不思議なことに、何も存在しないはずの空間から書類の束がどっさりと落ちてきた。
女神は慣れた手付きでそれを捲っていく。
「ふむふむ。改めて見てもなかなかに壮絶な人生ですね。九歳で両親をテロで失い、海外に売り飛ばされてます。そこで武装組織に買われて、戦闘員としての訓練を積んで、十六歳で武装組織を裏切りフリーの傭兵に。その後は民間軍事会社やら色々な国を転々としながら戦争に戦争を重ねる日々。心躍る青春イベントもなければ甘く切ない色恋アクシデントもなし。おまけに二十八歳のときにどこかの砂漠だらけの国で負傷し、戦死。まるでロボットアニメに出てくる敵キャラみたいな境遇ですね」
「最後の方のお前の感想は余計だ」
シュウヤは嘆息し、目の前の女神を見つめる。
女神はというと相変わらずの笑顔で、楽しそうに書類をペラペラと捲る。
「まあ、あなたの経歴紹介はこれくらいにして……ここからが本題です。とりあえずは現状説明といきましょうね。まず先ほども言ったように、ここは世界の狭間です。この世には、ありとあらゆる世界が次元の壁に隔てられて存在しています。ご存じでしたか?」
「いや初耳だな」
「そうでしょうね。とにかくあなたがいた世界の他にも様々な世界が存在しているというわけですよ。この場所はそんな世界と世界の間に位置する場所です。要するにあなたは元の世界で死んで、私が呼び寄せたことにより、魂が今この場所に存在できているというわけです」
突拍子もない話だな、とシュウヤは思う。
ただ今自分が立たされている異常な状況から鑑みれば、女神の言うことを頭ごなしに否定することはできない。
正直に言って、前の世界でのことはあまり記憶にないが、それでもここにやってくる前、最後に見た風景。
それから想像するに、前の世界でシュウヤが一度死んだというのはもっともらしい話に聞こえる。
「なるほどな。大筋は理解した」
「あれ? ずいぶんと飲み込みが早いんですね? 歩んできた人生が人生ですからもっと疑われると正直思っていましたよ」
「ああ信じがたいが……なにせ俺は前の世界での記憶があまりない。お前の話を聞いてそういえばそんなことがあった気がするとぼんやりと思える程度だ。だが、俺が唯一はっきりと覚えてる最後の風景から察するに……お前の話は嘘じゃないだろう」
「理解が早くてこちらも助かります。ところでですね、ここからが本当の本題なんですが……あなたにはこれから他の世界に転生してもらいます」
「他の世界に転生……? なんだ、素直に死なせてくれるんじゃないんだな」
「死にたいんですか?」
「いや……どうだろう。まあ、死にたくはないな」
記憶には無いが、死という言葉を耳にした瞬間、シュウヤの心に形容し難い黒い靄がかかった。
先ほどの女神の話から察するに、シュウヤの前世というのはとんでもなく凄烈なものだったに違いない。その記憶を心の片隅に置いていたのだとしたら、死というものをそんなに易く受け入れることは到底できないだろう。
女神はというとそんなシュウヤの心情を見抜いていたのか、答えを聞くと何とも嬉しそうに微笑んできた。
「そう仰ると思いました。というわけで、あなたには新しい人生を他の世界で歩んでもらいます。それであなたがこれから向かう世界なのですが……ここで嬉しいお知らせ! これから行く世界は剣と魔法の異世界! どうですか? ファンタジーですよ! 心が躍るでしょ!?」
「いや、よくわからん」
「がくっ。そういえば、あなたはそういう娯楽とは無縁の方でしたね……説明した方がいいですか?」
「差し支えないのなら頼む」
女神の話に基づくなら、シュウヤは小説やゲーム、マンガ、アニメといった娯楽とは確かに無縁だっただろう。
なので、剣と魔法の世界がどのように魅力的なのかがいまいち実感できない。
シュウヤの疑問に答えるように、女神は先ほど書類を取り出したときのように片手を宙に翳した。
彼女の手の動きに反応するかのように、虚空に図が表示された。
その図を指し示しながら女神は話し始めた。
概略としては、このような感じだ。
これからシュウヤが飛ぶ世界はミッドガルドと呼ばれる世界らしい。
この世界の文明レベルはシュウヤが元いた世界より遥かに遅れていて、いまだに剣や弓といった武器が主流で機械類もほとんど開発されていない。
その代わりに魔法という技術が存在しており、魔法の力を享受することによって人々は豊かな生活を送ることができているようだ。
加えて、シュウヤがいた世界にはどうやら存在していなかったらしい魔物と呼ばれる異形の生物や人間以外の種族が生息しているらしい。
他にもその世界の宗教状況や地理、気候などを女神はシュウヤにも分かるように説明してくれた。
「はぁはぁ……一気に喋ったら疲れましたよ……どうですか? お分かりいただけました?」
「ああ、まあ何となくはな。それで一つ聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
「なぜ俺が他の世界に転生することになったんだ?」
この質問は最初にシュウヤがしたかった質問だ。
世界がいくつも存在するなんて事実自体がシュウヤにとっては眉唾モノの話だが、他にも日々死に行く人間が大勢いる中で、なぜ自分が他の世界で新しい人生を歩ませてもらえるのか。正直にいって甚だ疑問なところである。
シュウヤの問いに、女神は少し真面目な表情になる。
それから人差し指を立てて、
「そうですね……理由は二つありますよ。まず一つ目、あなたの前世での人生があまりにも悲惨だったということ。あなた自身が何か悪いことをしたわけでもないのに、殺しあうだけの人生なんて悲しすぎるじゃないですか? だから他の世界に転生して生きる権利をあなたに与えたのは私からの情けみたいなものです」
そして、と中指を立て、
「二つ目。実はこれからあなたを送る世界なんですが少々面倒な事態というか、きな臭い状況になりつつあるんです。そこで前世での能力的にも経験的にも申し分のないあなたを送り込むことによって状況を動かそうという、まあ女神としての仕事ですね」
身勝手な理由かもしれませんが、と女神が付け加える。
それからシュウヤの反応を窺うように視線を送ってきた。
「お前の都合は気にしないさ。こっちはわざわざ選んでももらって生き返らせてもらう側だ。あまり文句は言えないからな」
シュウヤは軽く笑って、女神の懸念を吹き飛ばしてやる、
その言葉を聞いた女神は今までの真面目な表情が嘘のよう満面の笑みを浮かべて、人差し指を突きあげる。
「話が纏まったところでプレゼントターイム!! これからあなたには異世界に旅立ってもらうのでちょっとした贈り物を用意しています! さあさあ、もっと喜んでくれていいんですよ!?」
「前言撤回。お前のそういうところやっぱウザいな」
あっという間に元のいい加減なテンションに戻った女神にシュウヤは思わず毒を吐く。
しかし女神はまったく気にも留めない様子で、
「まあまあ、そんなお堅いことは言わずに……それではどうぞ!」
女神の手が光を纏い、輝いた。
その輝きは女神の手から離れると渦を巻きながらシュウヤへと迫り、額に触れた瞬間に霧散した。
特に身体に異常がないことを確認してから、シュウヤは女神に尋ねた。
「今のは?」
「言ったでしょ? 私からの贈り物です。贈り物は三つ。それぞれがきっとこれからあなたにとって役立つ能力ですよ? あなたの過去から必要だと思われる能力、または便利な能力を三つ授けました。詳しくは向こうの世界に行ってから確認してくださいね」
「なるほどな。それだけか?」
「いえ、あともう二つほどちょっとした物を用意しています。まずはお金ですね。あちらの世界では必ず必要になると思いますので、しばらくは生活に事足りるぐらいの金額を用意させていただいております」
「それは助かる。で、あと一つは?」
「あと一つはですね、向こうの世界は危険が多いです。なので、あなたが前世で好んで使っていた武器を二つ、こちらで少し強化して持っていけるようにしました」
「大盤振る舞いだな……ありがとう」
「いえいえ、シュウヤさんには二度目の人生を満足できるように送っていただきたいので当然のことですよ。あ、それと身体についてなんですが、前の世界で死ぬ直前の肉体を再現しますがそれでもよろしいですか?」
身体か。
そういえば自分の肉体のことはすっかりと忘れてしまっていた。
前の世界で一度死んでいるのだから、ここで女神と話をしているのはあくまで自分の魂なわけで、肉体が伴っているわけではない。
そしてここには鏡の類がないので、自分の容姿を確認することもできないわけだ。
「自分の身体のことがよくわからないので何とも言えないが……お前がそれで問題ないというのならそれでもいい」
「そうですねー。私が見る限り見てくれは悪くないと思いますよ。身体能力も十分ですし」
「じゃあ元通りで構わない。よろしく頼む」
「わかりました……それでは、準備はよろしいですか? よろしければいつでも向こうの世界に転送します」
「……頼む」
「分かりました。それでは、あなたの行く末に幸あらんことを。できることならもうここにやってくることのないよう祈っています!」
女神はシュウヤに優しく微笑むと、瞳を閉じ、小さく何かを呟いた。
それと同時に光り輝く幾何学模様がシュウヤの足元に広がった。これが魔法というものだろうか。
眩い光が溢れ、シュウヤを包む。最後に見えたのは、女神が笑顔で手を振る姿だった。




