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雨と先輩と僕

作者: 仮名垣駿河

「――雨ね」

 ふと、先輩がつぶやいた。

「――雨ですね」

 少し間をおいて、僕もつぶやく。

 薄汚れたガラス窓の向こう側では、霧のようなか細い雨がさらさらと舞っていた。

 仄暗い文芸部室の中には、僕と先輩の二人きりだった。木造の文化部棟に取り付けられた古びた蛍光灯が、今際の蛍のように頼りなく明滅する。

 はらり――文庫本のページを繰る音だけが、文芸部室に漂っていた。

 僕は机上の文庫本から少し視線を上げ、正面に座る先輩の姿を盗み見た。

 中学校の制服である紺色のセーラー服を身にまとった彼女には、実年齢よりも幾分大人びた顔立ちと手に持った文庫本とが相まって、完成された彫刻のような美しさがあった。

 漆器のような長い黒髪が、彼女の所作に合わせて小さく揺れる。その瞳は、僕の視線を気にする風もなく黙々と文字列をなぞっていく。

 数秒そんな先輩の様子を眺めて、一つため息をついてから、僕も手元へと目を落とした――それ以上見ていると、物語ではなく彼女の姿に意識を吸い込まれてしまいそうだったから。

 じっと文字列を追っていくうちに、徐々に物語の世界に吸い込まれていく。わずかに聞こえていたはずの雨音が、雨音からノイズになり、そして消えてなくなった。蛍光灯の明滅も、頁をめくるときに感じる指先のかさつきも、すべてが意識から追い出される。黒いインクの羅列だけが、僕の頭の中で画を描き、音を奏で、華やかに薫る。それはひどく心地よい感覚で、きっと麻薬にも近いもの。僕が狂おしく好きなもの。追い求めてやめられないもの。インクに酔って、文に酔い、そんな自分に酔いしれる。泡のように脆く、儚い陶酔。それでいいのだ――それがいいのだ。紙とインクの世界では、僕はどこにだって行ける。教室の中心で大声で騒いでいては知ることのできない世界を、知ることができる。嗚呼、嗚呼、嗚呼。この世界に一人きり、永遠に沈んでいられたらいいのに。

 どれほどの時間が経ったろう。ふと、僕の意識が細波を立てた。戸惑っているうちに波は大きくなり、跳ねた飛沫はやがて人型を作った。ゆらゆらと揺らめくその像は、触れたら消えてしまいそうに頼りなくて、それでもその白磁の肌に、艶やかな黒髪に触れてみたいと、触れていたいと思わせる瑞々しさがあった。

 そこまでだ。

 僕は目を閉じて、本も閉じ、ふうっと小さく息を吐いた。

「ひと段落、つきましたか」

 唐突に声をかけられる――声をかけた先輩の方からすれば、それは別段唐突なタイミングではなかったのだろうけれど。

 先輩は先ほどと同じ位置に座っていた。どうやらすでに本を読み終えたようで、彼女の目の前には何も置かれていなかった。

「――はい」

 僕は体の内側ではねた心臓を押さえつけるように、強いて少し低い声で返事をした。変声期の喉は、霧雨にも負けそうな掠れた音を出した。

「そうですか。それじゃ、少し早いけれど、そろそろ出ましょう。」

 そう言って立ち上がった先輩の後に続いて、僕も通学鞄を背負って文芸部室を出る。他の倶楽部は早々に活動を切り上げたようで、他の文化部棟の教室は真っ暗だった。

 暗い廊下を、窓の向こうの蛍光灯と自動車の灯りだけを頼りに歩く。古い木造の床が軋んで、きいきいと音を立てた――僕と先輩、二人分。

 斜め前を歩く先輩は喋らなかったし、僕もしゃべらなかった。

 無言のまま、一定の距離を保って、二人の時間が進んでいく――一人と一人の時間だと言われてしまえば、否定はできないのだけれど。

 昇降口で上履きを脱ぎ、よれたスニーカーをつっかける。

 僕より早く靴を履き終えた先輩は、後者の入り口で僕を待っていた。

 互いに何も言えず、校舎を出る。

 霧雨が降り続いていた。鞄から折り畳み傘を取り出し、バサバサと広げて歩き出す。

 並んで歩く二人の傘は、時々ぶつかって、すぐに離れた。

 校門を抜ける。先輩はそこでこちらを振り返り、「それでは、また明日」と言った。

「はい、また明日」

 返事をして、歩き出す。

 数歩歩いて、振り返ってみた。

 先輩の深緑色の傘が、ゆっくりと僕から遠ざかっていった。

 家の方へと向き直り、足を進める。

 ハイビームをたいたワゴン車が、歩く僕を追い越していった。

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