第三章 秘密のサイン(1)
翌朝、洋平は美保浦神社に到着するや否や、境内の雰囲気がいつものそれと異なっていることに気付いた。ざわめいた空気感があり、いつものように石段に腰掛け、あくびをしている下級生の姿など、どこにも見当たらなかった。
夏休みの間、美保浦神社は小学生のラジオ体操の場所となっていた。美保浦では村を南北に分け、洋平が児童会会長と兼務で責任者だった南地区は、神社の境内を借りていたのである。
異変の原因は美鈴だった。
皆が一様に見つめる先に彼女が立っていたのだ。初めて美鈴を見た者も多く、少年らは彼女の美しさに見惚れ、少女らはその素性に好奇心を抱いていた。
――なんで彼女が此処に?
美鈴には本当に驚かされることばかりだ。だが、洋平は少しも嫌ではなかった。それどころか、彼女の積極的で自由奔放な言動は、彼の気持ちを弾ませるばかりか、良く言えば理性的、悪く言えば偏屈な性格である彼の心の扉を叩き、凝固している内向的な精神を触発し、少しずつ溶解へと導いてくれる気がしていた。
洋平は、担わされた小学校のリーダー的な役割を卒なく熟していたので、おそらく周囲には、明るく快活な性格と受け止められていたであろうが、実は対人関係が苦手で、陰気な性格だった。
彼はそれを悟られまいとして、あるいはそれを矯正したいと願い、努めて与えられた役目をこなしていたに過ぎなかった。もしかすると、洋平は美鈴の美しい外見だけではなく、内面にある真に何事にも恐れを抱かぬ精神にこそ魅かれていたのかもしれなかった。
美鈴の服装に洋平の目はまたも釘付けになった。白のワンピースに、良く似合いの、広いつばのある薄黄色の帽子を被り、胸の辺りには日の光に反射して、きらりと光るお洒落な小物を身に付けていた。
海水浴のときの、短パンにTシャツという装いから、一転してとても優雅で気品に溢れており、近寄り難い雰囲気さえ醸し出していた。ともすれば、高貴な家系のお嬢様のようでもある。
洋平は、もし最初に出会ったときがこのようであったなら、おそらく気後れをして、声を掛けたいという気持ちは湧かなかっただろうとさえ思った。
「洋平くーん」
美鈴の声で、一斉に皆の眼が彼に注がれた。洋平は気恥ずかしかったが、心の中では、
――少なくともここにいる者の中では、おらがこの美しい少女と一番に親しいのだ。
という優越感に浸っていた。
ラジオ体操が終わると、洋平は参加した認印を一人一人に押していった。判を押してもらうと、誰もが美鈴を気にしながら、三々五々帰って行った。毎朝、百名以上の子供たちが集まっていたため、最後の一人に押し終えると、十分ぐらいは経っていた。
最後に美鈴が近づいて来た。彼女が首に掛けていたのは、桜貝にプラチナの装飾をあしらったペンダントだった。もっとも、プラチナだとわかったのは後年になってからなのだが……。
「びっくりしたあ。どげしたの?」
洋平は照れ隠しをするように、少し大袈裟に言った。
「お祖父ちゃんが行っても良いって。そして、洋平君は頭が良いから、一緒に勉強して、教えてもらいなさいって言ったの」
「ふうん」
洋平は喜びを押し隠すように応じる。
「私も成績は悪くないけど、でもお祖父ちゃんの言う通りにした方が、洋平君ちに行けるから、そうするって言ったの。それで、昨日は九時って言ったけど、朝ごはんを食べたらすぐに行くから、八時までには行けるよ、って言いに来たの」
美鈴は弾んだ声で一気に話した。
「そげなことなら、わざわざ来んでも、電話をすりゃあ済むのに……」
少し意地悪な口調になった。
美鈴が足を運んでくれたことはとても嬉しかったが、彼女の前だとどうしても素直になれない自分が顔を覗かせてしまうのだ。
彼女が少しはにかんだ。
「電話は掛け難かったの。だって、洋平君が出てくれたら良いけど、他の人が出たら、どうしたら良いかわからないし……」
実に意外な言葉だった。洋平は、てっきり言い返してくると思っていた。あれだけ勝気で負けず嫌いの彼女が、しとやかな恥じらいを見せるとは思いも寄らないことだった。
だが、これまでとは全く違う彼女の一面を知り、それがまた、彼の心を一段と強く惹きつけて止まなかった。
周りを見渡すと、すでに境内には二人だけとなっていた。
「じゃあ、帰えらか」
洋平が声を掛けると、
「ちょっと、待ってて。せっかく来たから、お参りさせて」
美鈴は、そう言い残して神社の拝殿に走って行った。お賽銭を入れ、柏手を打つと、少し長めのお祈りをした。
美保浦神社は、かつて別格官幣大社であった出雲大社の流れを汲む、由緒正しき古社であった。そのため、以前は出雲大社に参拝する人々が立ち寄ったこともあって、大変な賑わいをみせていたが、時の流れと共に人の心は移ろい、近年は神話に絡む祭事が執り行われるときにしか、注目されなくなっていた。
「何をお祈りしただ?」
洋平は、戻って来た美鈴に訊ねた。
だが、
「教えないよ」
と、彼女は穏やかな口調で断った。その表情は、古代の神々が宿る古社の結界内であったせいか、洋平の目にはとても謎めいたものに映った。
家に戻った洋平は、そそくさと朝ごはんを済ませ、約束の時間の三十分も前から、門の外で待っていた。彼は、幾度となく玄関に戻って時間を確認したが、時は彼の思うようには進まなかった。洋平にとって美鈴を待つ時間は、退屈な授業を受けたときより長かった。
やがて、時計の針が八時五分前を指したとき、ようやく海岸の方から、角を曲がってこちらにやって来る美鈴の姿が見えた。洋平の姿を見つけた彼女は二、三度大きく手を振った後、ゆっくりと走り出した。
洋平の脳裏には、まるでスローモーションを見るように、彼女の駆ける姿が鮮明に焼き付いている。
美鈴は、風に吹かれて飛ばされそうになる帽子にばかり気をとられていたのか、ワンピースの裾が捲れて、太ももが露になっていることも、胸元が上下に大きく波打っていることにも全く無頓着で、なすがままに走っていた。
洋平は、未だ残る太ももの白さに眩しさを、天真爛漫な姿に微笑ましさを覚えながら見つめていた。このとき彼の眼前には、たしかに天使の化身が存在していたのである。
美鈴は恵比寿家の敷地の角まで近づくと、走ることを止め、顔のところで小さく手を振りながら、壁伝いに歩いて来た。
洋平も手を振って応えた。
「待ってて……くれたの?」
美鈴は息を切らしながら訊いた。
「うん。初めてだけん、入り難いかと思って、待ちょった」
洋平は、彼女の来訪が待ち遠しくて、辺りをうろついていたことなど、億尾にも出さなかった。
「ありがとう」
美鈴は、左手で握り拳を作ると、顔の辺りまで持ち上げ、手の甲を洋平に向けた。
「それ、何の合図?」
「洋平君もやってみて」
美鈴は洋平を見つめながら、少しだけ首を横に傾けた。その愛らしい眼差しに、洋平は彼女を直視することができず、
「こう?」
と握った拳で自分の顔を隠した。
「これをサインにしない」
「サイン?」
「そう。うれしいとき、悲しいとき、さびしいとき、つらいとき……言葉にできないとき、こうやって合図するの」
「二人だけのサインだね」
「二人だけの秘密のサインよ」
「わかった」
握り拳を美鈴のそれにぶつけたとき、洋平はまた一歩美鈴との距離が縮まった気がした。