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鈴蛍  作者: 久遠
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        (2)

小浜からの帰り道、二人は並んで歩いていた。美鈴の真横を歩いていると、洋平の目線は少し高くなった。洋平は、同級生の男子の中で三番目に背が高かったが、美鈴はその彼より少し大きかった。

 二人の間には、しだいに気まずい空気が横たわっていった。洋平は、美鈴と並んで歩くことはできたものの、すれ違う村人たちの好奇の目に萎縮してしまい、話し掛けることができずにいたのである。村人にすれば、恵比寿家の総領が女の子と一緒に歩いていることに興味を持たずにはいられないのである。

 きっかけを失った洋平が焦れば焦るほど、幼児退行をするかのように、ますます言葉が浮かばない。

 そんな洋平に業を煮やしたのか、集合場所から百メートルほど歩き、ちょうど漁協の前を通り過ぎたところで、彼女が沈黙を破った。

「洋平君、あそこのドラム缶のところまで、かけっこしよう」

「ええー」

 洋平は、あからさまに拒否反応を示した。

ドラム缶までは五十メートルほどの距離である。洋平にすれば、勝負は目に見えていたし、そもそも走る気が起こらなかったのだ。

 美鈴は、そんな洋平の態度にも全くのお構い無しで、

「よーい、ドン」

 と言って勝手に走り出した。

 だが、洋平が走らずにいると、彼女はすぐに立ち止まり、

「なあーんだ、負けるのが嫌なんだ」

 と挑発的な言葉を口にした。

 洋平は、走ることはもちろんのこと、運動は全般に得意としていた。それほど飛び抜けていた訳ではないが、それなりに自信はあった。

 美鈴の挑発が、乗り気ではなかった洋平の自尊心を、少なからず刺激したこともあって、

「そんなら、もう一回」

 と、彼女に追いついたところで、洋平はしぶしぶ言った。

「じゃあ、今度は、あそこの鉄塔のところまで」

 彼女が指差した先には、火事のときに鳴らす半鐘が吊ってある鉄塔が見えた。やはり今度も五十メートル近くあった。

「良い? じゃあ、行くよ。よーい、ドン」

 美鈴は、再び走り出した。洋平は一呼吸遅れて走り出し、彼女の後を追ったが、全力では走らなかった。すぐにでも追いつき、追い越せると思ったが、そうはしなかった。洋平にすれば、勝負などどうでも良いことだった。彼女に、挑戦的な言葉からは決して逃げるような男ではない、ということを示せばそれで良かったのである。

「勝ったあー。洋平君に勝ったあー」

 先に鉄塔に着いた美鈴は、喜色満面で小躍りをしていた。端から勝負を度外視していた洋平は、初めのうち微笑ましく眺めていたが、あまりに喜ぶ彼女を見ているうち、なぜか小憎らしくなってきた。 

「おら、手を抜いて走っちょったけん」

 つい口を滑らしてしまった。

--しまった。よけいなことを言ってしまった。

 と、洋平は口に手を当てたが、すでに遅かった。

 小躍りを止めた美鈴は、笑みを消し去り、すねた口調になった。

「私も、力一杯で走ってないもん」

 そう言って、ふくれっ面をしたのだ。

 その仕草がまた可愛かった。どうやら、彼女は負けず嫌いらしい。洋平は、物静かなでおとなしい女の子より、活発で勝気な女の子の方が好きだった。

「うっぷっぷ、あははは……」

 洋平は、美鈴のふくれっ面がおかしくて、噴出してしまった。

「何がおかしいの?」

 美鈴の顔が、少し怒ったものに変わった。

「あっははは……」

 それでも洋平が笑い続けていると、

「ねえ、何がおかしいの? って、訊いているでしょう」

 とますます顔を紅潮させ、洋平の背中や頭のそこかしこを見境なく叩き出した。

「堪忍、堪忍」

 突然のことに、洋平は堪らず走って逃げ出した。美鈴はしばらく彼を追った。しかし、力を入れて走っていた洋平には追い着くことができず、途中で諦めて歩き出した。

 やがて、恵比寿家へ向かう曲がり角に着いた。今日もここでお別れだった。洋平は彼女を待って、明日の予定を訊ねるつもりだった。

「ねえ、美鈴ちゃん。明日は……」

 洋平が、近づいて来た美鈴に話し掛けたとき、彼女は急に再び走り出し、洋平に向かって、

「ばーか」

 と言い捨てると、『あっかん、べー』をしながら彼の前を横切り、何と角を西へ曲がって、そのまま走り去って行くではないか。

--えっ、今のはなに?

 予期せぬ展開に、呆気に取られた洋平は、棒立ちのまま彼女の走る後姿を見ていた。

「美鈴ちゃん、そっちに行ってどげする気だ?」

 やや間があって、気を取り戻した洋平は、ようやく後を追って走り出した。

「洋平君ちを見てみたい」

 彼女は走ったまま、振り向きもせずに答えた。

--おらのうちを……なんで?

 洋平は首を傾げながらも、彼女の背を追っていた。

 ほどなく、恵比寿家の門に着いた彼女は、外から食い入るように中を見ていた。そして追い着いた洋平に向って、

「すごーく大きなおうちだね。洋平君って、本当にお坊ちゃんなんだ」

 と溜息混じりに言った。

 たしかに恵比寿家は大屋敷だった。およそ千坪の敷地に、建坪が二百坪余りの家が建っていた。西半分が、昭和の初期に建てられた平屋建ての母屋で、東半分が五年前に二階建てで新築した離れだった。他に、かつて米蔵だった物置と古い土蔵が三つ、そしてプレハブの納屋があった。

 美鈴は、ぐるりと屋敷内を見渡した後、閃いたように言った。

「ねえ、洋平君、明日遊びに来てもいい?」

「遊びに来るって、うちに?」

 洋平は、即座に訊き返した。

「うん。だめ?」

 洋平は返答に苦慮した。これまで、親戚以外の女の子が家に遊びに来ることなど、一度もなかったからだ。しかも、彼女とは昨日出会ったばかりである。彼には、たとえ祖父と旧知の仲で、彼自身も面識がある大工屋であっても、家に遊びに行こうなどとは、頭の片隅にさえ過ぎったりしない。

 ところが、美鈴は何の面識もない者ばかりの家に遊びに来たいなどと言う。彼女の、恐れというものを知らない自由奔放な発想は、いったいどのようにして生まれて来るものなのだろうか、と洋平はある種の感動すら覚えていた。閉鎖的な地方の村社会で育った彼にとっては、まるで異邦人と接しているかのようだった。

「ねえ、だめかな? 遊びに来たいなあ」

 美鈴は駄々をこねるように言った。笑ったり、怒ったり、駄々をこねたりと、彼女は実に様々な表情を見せてくれる。このとき、洋平の心はすでに彼女の虜となっていたので、どんな表情や仕草にも魅了されてしまうのだった。

 だから、洋平はつい『ええよ』と返事をしそうになったが、かろうじてその言葉を飲み込み、

「大工屋さんがええと言いなさったら、ええよ」

 と、大工屋の許しをもらうように言った。

 洋平は、美鈴が大工屋に内緒でやって来るとは思わなかったが、それでもこういうことはきちんとしておく性格だった。自分の落度で、後々先方と揉め事になり、何か言われることが嫌だった。それは、彼自身というより、祖父あるいは恵比寿家が、世間からとやかく中傷されることが嫌だったのだ。

「わかった。お祖父ちゃんに訊いてみる。良いって言ったら、九時ごろ来るから。もしだめだったら、明日も一緒に泳ぎに行こうね」

「うん、わかった」

「じゃあ、帰るね。洋平君、帰り道を教えて」

 洋平は家を通り過ぎ、しばらくして南へ曲がる角まで彼女を送って行った。


 家に戻り、いつものように水浴びを済ませると、洋平は台所にいた母里恵の許へと行き、何気ない振りで話し掛けた。

「お母ちゃん、もしかすると、明日美鈴ちゃんが遊びに来るかも知れんけど、ええ?」

「美鈴ちゃんが? あら、そう。別にええけど、うちに女の子が遊びに来るなんて、初めてじゃないの? 洋平は、そんなに美鈴ちゃんと仲良くなったの?」

 母は笑みを噛み殺している様に見えた。洋平は、どうやら自分の心に芽生えた淡い恋心を母に気付かれたと思った。

 洋平は、里恵の問いには答えず、

「美鈴ちゃんが、大工屋のお爺さんに、うちの家が大きいということを聞いたんだって。そんで、遊びに来たいんじゃないだか?」

 と、話を逸らした。

「美鈴ちゃんは何時頃うちに来るの?」

「大工屋さんのお爺さんがええと言わさったら、九時ぐらいだって言っちょった」

「あら、万太郎さんがいけんっていうはずないでしょうに。うちのお祖父さんとも仲がええし……それより、なんで美鈴ちゃんは、今頃帰って来ちょうの?」

 洋平は、小浜で美鈴から聞いたことを里恵に話した。

「そう。それじゃあ、美鈴ちゃんも寂しいわねえ。そげなことなら、洋平からいつでもうちに遊びに来るように言うちゃったら?」

「ええかい?」

 洋平は、思わず上ずった声を上げた。

--これで、誰に気兼ねすることなく彼女と会える。

 彼の胸中は、希望に満ち溢れていた。


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