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鈴蛍  作者: 久遠
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       (3)

帰りの道すがら、洋平は美鈴の事ばかりを考えていた。

彼の頭の中は、彼女の顔や声で埋め尽くされていた。何かの病気にでも罹ったように、彼女の事が頭から離れなかった。

 もちろん、このような経験はしたことがなく、彼は期待と不安が混在する、何とも奇妙な精神状態の中に置かれていた。

 ただ、そうした中にあっても、彼が一つだけはっきりと自覚していたことは、この途切れることなく、美保浦湾に押し寄せる日本海の波の如く、間違いなく恋という波が、自分の胸に押し寄せて来ているということだった。

 集合場所に着き、もう一度人数の確認を終えて解散となった。

「洋平君」

 背後から呼び止める声がした。振り向くと、律子が近づいて来た。

「一緒に帰ろう」

「え?」

 洋平は困惑した。初めて律子から声を掛けられたこともそうだが、それにも増して、美鈴の目が気になったのである。

 躊躇している洋平に、律子は彼の手首を掴み、強引に歩き始めた。その勢いに押されるように、洋平はなすがままに歩みを進めるしかなかった。

 律子の家は集合場所から海岸線に沿って続く、緩やかなカーブの一本道の中間点付近にあった。道程にして百五十メートルほどだったが、その僅かな距離が、洋平には千里の道程にも感じられた。

「洋平君、あの子を知っちょうの?」

 怒ったような口調だった。

「いや、知らん」

 洋平もぶっきらぼうに返した。

「だいてが、親しげに話をしちょった」

「えんや。大工屋さんの親戚で、遊びに来ちょうって訊いただけだ」

「ふーん、そうなの」

 律子は懐疑的な目をすると、

「洋平君は明日も泳ぎに行く?」

 と訊いた。

「いや、行かん。明日は叔父さんと八島へサザエを獲りに行くけん」

 洋平は咄嗟に嘘を吐いた。理由は、彼自身にもわからなかった。

「そうなんだ。じゃあ、私も止める」

 律子がそう言ったとき、彼女の家に辿り着いていた。

 洋平は、一瞥もせずに歩き出した。律子は気掛かりの表情を浮かべながら、しばらく門の前で洋平の後姿を見つめている。

 洋平の家は、律子の家からさらに百五十メートル南下した後、西に百メートルほど進んだところにあった。

 大工屋の家は、洋平の家から南西の方角にあった。つまり、彼が曲がる角をさらに五十メートルほど南に下り、そこから西へ曲がることになった。その西に曲がって大工屋に向かう道が街や隣村へ繋がる道路で、バスが通る道でもあった。

 洋平は、後ろを歩いているであろう美鈴のことが気になって仕方がなかった。

 律子との関係を誤解したかもしれないという心配と……もっとも、誤解ではないのだが……もしや他の誰かが声を掛けているのではないかという不安が交錯した。

 しかし、は立ち止まって彼女を待ち、皆が注視する中で話し掛ける勇気など洋平には残ってはいなかった。すでに小浜で、彼女の横に座わったときに、それを使い果たしていた。

 洋平は、後続から遠ざかるように、少し早足で歩いた。自身が話し掛けられないのであれば、万が一にも誰かと楽しそうに話す彼女の声を耳に入れたくなかったのだ。

 やがて目の前に、恵比寿家へ向かうための、西へ曲がる角が近づいてきた。

 このとき洋平は、走って我が家の前を通り過ぎ、海岸通りと反対側の道を通ってバス通りに出て、前から帰って来る彼女を待っていようと決断していた。そして、まさに走り出そうとしたときだった。

 誰かの小走りの足音が近づいて来て、声が掛かった。

「洋平君、明日も泳ぎに行く?」

 鈴を転がしたような声だった。律子と同じことを聞かれたのに、耳に心地良かった。

――美鈴だ……。

 洋平が弾む心を抑えて横を向くと、少し高い目線に首を傾けた美鈴の顔があった。

 すでに乾き切ったた髪はさらさらと潮風に靡き、日に焼けた頬はほんのり赤みを帯びていた。それは透明感のある肌に、薄化粧を施したかのように映えていて、彼女を一段と美しく見せていた。

――ひ、ひょっとしたら、彼女はおらを誘っちょうのか……。

 そう直感した洋平は、浮つく心を仕舞い込むようにして、

「たぶん、晴れたら行く」

 と平静を装って答えた。

「じゃあ、私も行こおーっと」

 美鈴は独り言のように呟くと、清風を残して走り出した。

 彼女は手に持っていたかばんを、肩を軸に大きく振り回しながら、ときどきスキップを交えて走っていた。洋平は、彼女の躍動感溢れる後姿を見ながら、去り際に彼女が言った言葉の意味を考えていた。

――やはり、彼女はおらを誘っちょったのだ。もしかして、彼女もおらに気があるのかもしれん、と。

 洋平は、予想もしなかった成り行きに胸を膨らませていた。同時に、このときの何でもない会話が、彼女と大切な約束事を交わしたような親密感も抱いていた。

 彼女は、わずかに二十メートルほど進んだところで、意表を突いて急に立ち止まり、こちらに振り返ると、左手を顔の横で小さく振った。

 このときの彼女の弾けるような笑顔を見た洋平は、オウム返しのように、手を振り返した。彼は、初めての仕種にもかかわらず、ごく自然に手が動いていることが信じられなかった。

 美鈴は、洋平が手を振るのを見届けると、再び前を向いて走りだした。

 洋平は、遠ざかって行く彼女の姿から目を逸らさずにいた。彼には、美鈴がもう一度振り返る予感があった。いや予感ではなく、彼女なら絶対に振り返るという確信があった。洋平は、それを確認するべく、曲がり角で立ち止まって、彼女の後姿を見ていた。

 すると洋平の確信通りに、美鈴はちょうど大工屋さんに向かうための、西に曲がる角のところで、立ち止まって振り向いた。彼女は、今度は肘をまっすぐして左手を高くあげ、何度もジャンプを繰り返しながら、大きく左右に振った。それは、自分と彼女の間がずいぶんと離れていたので、目に留まるようにしたのものだと理解できた。

 洋平もそれに応えて、大きく手を振った。今度は、間違いなく意識をしている彼がそこにいた。

 しばらくして、彼女は西へ向かって歩き出し、洋平の視界から消えた。

 美鈴の思わぬ行動によって、洋平は明日も彼女に会えるかもしれない、という期待に胸をときめかせていたが、ただ有頂天になっていた訳ではなかった。

 一連の言動から察するに、彼女も自分に気があるのではないかと希望を抱く一方で、都会の少女は誰もがあのようなものなのかもしれない、という冷めた気持ちも心に潜ませていたのである。

 それは、すぐれて洋平が、恋に関して臆病だったからに他ならない。彼は、初めての恋心に舞い上がり過ぎないための、自制の予防線を張ったのであり、また恋が叶わなかったとき、心に受ける傷を小さくするための安全網を敷いたのだった。

 そして、それら複雑な心情の中に、律子に対する罪悪感も混じっていることを洋平は十分自覚していた。


 家に戻ると、屋敷内の西にある井戸端に行って水浴びをし、身体に付いた海水の塩分を洗い流した。

 当時、恵比寿家には水道と井戸があり、飲料水や料理には水道水を、お風呂や洗濯などの生活用水は井戸水を使っていた。村の数箇所に、バケツで汲み上げて使用する共同の井戸があったが、恵比寿家には、敷地内にポンプ式の井戸があった。

 井戸水は水道水と比べて、水温が夏に低く冬に高いという利点があったため、たとえば、桶に貯めて西瓜や野菜などを冷すことには重宝であったが、いかに真夏とはいえ、水浴びをするには少々冷たかった。

 恵比寿家は、周囲を大人が背伸びしなければ、中が覗けない高さの壁で囲っていたので、洋平はいつもそこで海水パンツを脱いで真っ裸になり、水浴びをしていた。ついでに髪や身体も洗い、お風呂の用をそこで済ませていた。近くに納屋があり、着替えが用意してあったので、そこで身なりを整えた。

 洋平は夕食の時間まで、珍しくも自分の部屋に籠り、今日の午後、我が身に起こった小さな幸運の奇跡を思い返していた。そして、まだ彼女の年齢を訊いていなかったことに気が付いた。

 彼は、仮に美鈴が年上だとすると、少々複雑な心境になるだろうと悩ましかった。なぜなら、この当時の小学生の時分、同じ村の女の子でさえも、一歳でも年上となると、精神的にかなりの年長者に感じられ、恋心を抱くことなど考えられなかったからである。

 たとえ、どんなに美人と村の評判になっている女の子に対しても同じであった。憧れのような感情は抱いても、それは恋心とは違っていた。

 ましてや、彼女は村の者ではない。もし大都会に生まれ育っていたのならば、それだけで、精神的な成長度において、自分と彼女との間には、相当な隔たりがあろうことは、容易に想像できたのである。


 夕食の時間になり、洋平は小浜でのことを祖父の洋太郎に話した。祖父ならば、美鈴について、何か知っているかもしれないと期待してのことだった。

「お祖父ちゃん、今日小浜で大工屋さんに遊びに来ちょう女の子に出会った」

「大工屋に遊びに来ちょう女の子?」

 洋太郎は思いを巡らした後、

「ああ、東京にいる秀次の子供じゃないか」

 と続けた。

「秀次さんなら、盆と正月には、よくお嫁さんと子供も一緒に帰って来ちょうよ。だいてが、今年はもう帰って来ちょうということは、一人で帰って来ちょうのかな?」

 祖母のウメが話しに入ってきて訝しげに言った。

――東京の女子かあ、だからあんな風なんだ。

 洋平には妙な納得感があった。そして、都会の少女の気質がどういったものか知らない彼は、すでに混乱に陥っている自分であれば、当分このままなのだろうと思っていた。

 ウメが洋平に訊ねた。

「女の子は、美鈴ちゃんって言ってなかったかい?」

「うん、美鈴って言ってた」

「そんなら、だいぶ昔に一度、万太郎さんがその娘を連れてござったことがあったね。あれは確か、洋平が小学校に上がる前だったと思うが、この離れの新築を大工屋さんに頼んだんで、お礼にと正月にお酒をもって挨拶にござったことがあったでしょうが?」

 記憶を呼び起こしたウメは、洋太郎に声を掛けた。

「そげだったかな?」

 洋太郎は首を傾げるばかりだったが、それは無理のないことだった。正月ともなると、村から外に出ている洋一郎の兄弟連中が一家揃って帰省をしていたうえに、近くに住む親戚や、あるいは仕事の関係者などが、ひっきりなしに、年始の挨拶に訪れていたからである。

 したがって、正月三が日は連日酒宴となり、大変な賑わいだったので、いちいち覚えていられないのも仕方がなかったと言えるのだ。ましてや、お酒が進み、酔いが回った後に来た来客など、なおさら憶えているはずもなかった。

 洋平はおぼろげではあったが、何となくそのときのこと思い出していた。

――おらは、昔彼女に会っている。

 そう思うと、洋平はただそれだけで、心の奥底から沸々と勇気が湧き出でるのを感じていた。


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