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鈴蛍  作者: 久遠
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       (2)

四十分経つと、休憩の笛が鳴った。

 美少女は、皆と離れた浜の一番東側で、一人で膝を抱えて座っていた。その、物憂げに海を見つめていた彼女の姿が印象的だった。

 洋平は皆の近くで休んだ。彼女に歩み寄り、話し掛ける勇気などあるはずもなかったのである。

 ところが、洋平の心が突如革命を起こし始めた。

 何かに突き動かされるように、美少女に近づきたいという欲求が沸々と滾り始めたのである。彼が生まれて初めて異性を意識した瞬間だった。

 そうは言うものの、直ちに欲求が行動に移されることはなかった。いまだこの場の衆目を集めることへの躊躇いが完全に消え去ってはいなかったし、どこかに律子に対する後ろめたさもあった。

 洋平は、海老が脱皮するように、心を雁字搦めにしている古い殻を脱ぎ捨てるべく、葛藤していたのである。

 その洋平の目の端に、数人の少年たちが美少女の方をやりながら、何やら策を巡らしている様子が入ってきた。どうやら、異性に目覚めてしまったのは洋平だけではなかったようである。

 謎の美少女を取り囲む状況は、洋平が思う以上に風雲急を告げていた。

 そして、それを裏付けるかのように、さっそく新たな展開が、逡巡する彼に決断を迫ってきた。彼の視界に、かの少年たちの中から、美少女に近づいて行く誰かの姿が飛び込んで来たのだ。

――しまった! 先を越されたか……。

 不意を突かれた洋平は、心にざわめき覚えながら、すぐさま少年の後姿を目で追った。

 ざわめきは、ひとまず収まった。

 洋平には、その少年が誰であるかわかったからだ。後姿もそうだが、純朴で引っ込み思案な田舎育ちの少年らの中にあって、周囲の目を気にすることなく奔放な行動を取れるのは、彼の知る限り一人しかいなかった。

 その少年とは、大変に明るくひょうきんで、いつもクラスメートの笑いの中心にいる同級生の善波修吾ぜんなみしゅうごである。彼の性分をよく知る洋平は、彼にすれば美少女の気を引こうなどというような大それた考えは毛頭なく、ただ見知らぬ美少女に、好奇な興味を抱いたに過ぎないと確信できたのだった。

 ところが修吾の大胆な行動は、洋平に彼の口から美少女の素性を漏れ聞く事ができるかもしれないという期待と共に、その美しさからすれば、今度は彼女の気を引こうとする輩がいつまた現れるやもしれぬという焦りも呼び起こすことになった。

 我が身を思えば、同様の恋敵が雲霞の如く現れても、何の不思議もないと思ったのである。

 修吾はほんの二言三言、言葉を交わしただけですぐに引き返し、美少女に興味を持った仲間に報告をし始めた。洋平は耳をそばだてていたが、あいにく彼らとの間にいた下級生の騒ぎ声に掻き消されて、何も聞こえず仕舞いに終わった。

 彼女の身上について、何の手掛かりすら得ることができなかったことで、洋平の心には焦りだけが残ることになった。

 一方で、律子は洋平の背を見つめながら、彼の心の動きを読み取っていた。だが、突然の宿敵の登場に、怪しい雲行きを感じながらも、成り行きを見守ることしかできない自分自身にもどかしさを覚えるしかなかった。


 十分間の休憩が終わり、再び海の中に入って行った。

 洋平はいつものように、沖のブイのところで泳いでいたが、次の休憩時間が近づくにつれて、東側に移動して行った。

 彼には、ある一つの考えが浮かんでいたのである。

 それは、次の休憩のとき、美少女が先ほどと同じ場所で休むと想定して、東側で泳いでいれば、真っ直ぐ浜へ泳いで戻り、そのまま彼女の近くに座っても、ごく自然な行動に映るのではないか、というだった。

 情けないようにも映るが、この頃の洋平は万事において、常に周囲の目というものを気にする小心者だった。恵比寿家の総領という、良くも悪くも事あるごとに世間の話題の俎上に載る立場にあった彼は、日頃より軽挙妄動を戒め、自らに箍を嵌めていた。

 そうすることで、いつしか慎重の度を超えて、臆病になっていたのである。

 そう考えれば、このとき洋平が少なくとも勇気を出す決意をしたことは、彼の成長でもあった。

 修吾の取った行動が燻っていた彼の心に火を点けただけでなく、修吾がすでに美少女に話しかけたという事実が、彼に免罪符を得たような気にさせていたのかもしれない。

 起因は何であれ、ともかく洋平が異性に対して、このような感情を抱くことは初めてであり、ましてや行動にまで移そうとするなど、彼自身ですら信じられることではなかったと言えよう。まさに、何者かに憑依されていたとしか思えなかったのである。

 彼の心中は、笛の音が待ち遠しい気持ちと、初めての試みに、一種の畏れにも似た躊躇いが混在していた。


「ピピー」

 ついに休憩を知らせる笛の音が、辺りに鳴り響いた。

 洋平の思い描いた通り、美少女は先ほどと同じ場所に座っていた。

 意を決した彼は美少女の視線を受けるようにと、ことさら足を海面に打ち付け、波飛沫十共に、一気に浜に泳ぎ着いた。そして、素知らぬ顔で、彼女から少し間を空けたところに腰を下ろした。

 しばらく沈黙が続いた。

 洋平は美少女の近くに座ったものの、話し掛ける言葉を見つけられずにいた。彼女の素性すらわからないままでの、思いつきの行動には、そこまで考えが及ぶはずもなかったのである。

 さすがに、いきなり、

「君、名前は?」

 などと訊ねることは、不躾だろうと思っていた。

 この沈黙は、洋平に極度の緊張感をもたらした。

 激しさを増す胸の鼓動は、しだいに痛みを伴い始め、呼吸もままならなくなった。

 まるで、いつもより深い岩礁に大きなサザエを見つけ、どうにか獲物を手にしたものの、そこで無呼吸の限界に達してしまい、目眩を覚えながら光揺らめく海面に向い、浮上しているときのような息苦しさだった。

――このまま手を拱いていても、この圧迫感からは決して逃れられない。

 袋小路に追い詰められた彼は、二者択一の決断に迫られた。

『思い切って話しかけるか、それとも立ち去るか』

 答えは自ずと決まっていた。

 胸の痛みに耐えることに精一杯で、頭の中が真っ白になっている彼が、前者を選択することなどあり得なかったのである。

 とうとう、間合いに耐え切れなくなった彼が退散を決め込み、腰を浮かせて美少女に背を向けた、そのときだった。

「泳ぐのとても上手だね」

 なんと、彼女の方から話し掛けてきた。

 初めて耳にしたその声は、見事なまでに彼女の外見と一致して、期待を裏切ることのない涼やかなものだった。

 洋平は、その魅惑的な声に引き戻されるかのように、再び腰を下ろし、振り向いた。

 間近で見た彼女は、一層美しかった。

 やや卵形の丸顔で、大きな目、長い睫毛に形の良い耳。鼻筋が通っていて、適度な大きさの口があった。中でも印象に残ったのは、前髪から透けて見えた少し太目の濃い眉で、それが彼女の意思の強さと利発さを感じさせた。

 彼女の方から声を掛けられるという、目論み以上の成果を得たのにも拘らず、洋平がが、

「うん、まあね」

 と素っ気無く答えてしまったため、そこで会話が途切れてしまった。

 洋平は、気持ちと裏腹の物言いをしてしまったのだ。素直になり切れない彼の悪い癖だった。

 洋平は集合場所のときといい、この場といい、機転を利かすことのできない自分自身に腹ただしくなっていた。

 ところがである。

「私、井上美鈴。君は?」

 再び彼女の方から話し掛けてきた。

 洋平は救われた思いに、

「おらは」

 とつい方言で答えそうになり、

「あっ、いや、僕は野田洋平」

 慌てて標準語で言い直した。

 田舎者と思われる気恥ずかしさと、出雲弁では理解できないかもしれないという思いからだった。そして、今度こそ天与の機会を逃すまいと、洋平は初めて彼女を見つけたときから抱いていた疑問をぶつけた。

「わい、いや、君はどこの子?」

「大工屋よ」

 彼女は洋平を見つめると、

「夏休みなので、お祖父じいちゃんの家に遊びに来ているの。それと、普通に話して良いよ。私、だいたいわかるから」

 と微笑んだ。

 その瞬間、洋平は心臓を鷲掴みされたような痛みを覚えたが、それは心地よい痛みだった。

 美保浦は、わずか五つの姓で村の八割の世帯を占めるほどに同姓が多かった。したがって、別段商売をしているわけでもないが、それぞれの家に屋号があり、皆それを呼び合っていた。

 洋平の生家の「恵比寿」という屋号は、古くからの網元だったので、この辺りで海の神様として信仰を集めていた恵比寿様が由来となっていた。

 大工屋とは、まさにその名の通り、大工職人をしている家であり、村に二軒しかない棟梁の家だった。

 洋平は、大工屋の棟梁を知っていた。

 祖父の洋太郎とは古い付き合いで、たまに家にやって来ては、祖父と酒を酌み交わしていたからだ。また、五年前に家の半分を取り壊して改築したのだが、それを請け負ったのも大工屋だった。

「大工屋? 万太郎爺さんなら知っちょうよ」

 彼女が恵比寿と付き合いの深い 家の身内だったせいか、洋平はいくぶん心強くなっていた。

「えっ、お祖父ちゃんを知っているの?」

 彼女は目を見開いた。

「うん、知っちょう。ちょくちょく、うちに酒を飲みに来られえよ」

「ふーん、そうなんだ」

 彼女がそう言って首を傾げたとき、休憩の終わりを告げる笛が鳴った。休憩はこれが最後で、次の笛が鳴ったときは海水浴の終わりを意味していた。

 このままで居たい洋平だったが、皆の注目を浴びることに躊躇いがあった。

 後ろ髪を引かれる想いを抱いたまま海に入った洋平は、次に彼女と話ができる方法はないか、とずっと考えていた。

 だが、とうとう思いつかないうちに、終わりを告げる笛が鳴ってしまった。



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