第六章 夕映え(1)
洋平は、なぜ隆夫は事故などに遭ったのだろうか、と考えていた。
実際、彼は事故の詳細を知らなかった。訃報を知らせてきた友人に訊ねてみたが、彼はただ海に落ちたというだけで、後は曖昧なことしか言わなかった。
しかも隆夫は。泳ぎが得意中の得意である。滅多なことでは溺れるはずがない、という疑念も抱いていた。
「なあ、隆夫が落ちたのは小戸の裏手だろう」
洋平は、前にいた善波修吾に訊ねた。
あの初めて美鈴と出会った日、小浜で真っ先に彼女に声を掛けた同級生である。
隆夫と修吾は、共に恵比寿水産の漁師であり、しかも同船することが多かったので、彼ならば真相を知っているはずと思ったのである。
「ああ」
「そこなら、あいつの庭みたいなものだろう。そんなところであいつが海に落ちるか?」
小戸というのは、洋平が小学生のときの海水浴場だった小浜から、さらに東に位置する美穂浦湾の北側の先端である。そこから北西折れると日本海に面した、釣りには絶好の磯があった。隆夫は子供の頃か、そこで頻繁に釣りをしていたのである。
「病気持ちで体力が落ちていたから足を滑らせたと違うかな」
「病気って何や。まさか癌か?」
「えんや。癌なんかじゃない。肺気胸だが」
「肺気胸?」
洋平は拍子抜けした声を発した。
「肺に穴が開く病気だがな」
勘違いをした修吾は、知ったかぶりの物言いをした。
「それは、知っとうけど、肺気胸というのは治らん病気なのか」
そこまではわからない、と修吾は顔を横に振った。
「もう二年も養生していたがな。そいでな、体調が良いときには憂さ晴らしに釣りに行っていたんだが」
「それで事故か。しかし、あいつが溺れ死ぬか?」
「なんぼ体調が良いといっても、泳ぎ切るだけの体力が無かったということだが」
「だがなあ……」
釈然としない洋平は、睨むような目で隆夫の遺影を見た。
それは、ずいぶんと若い頃のものだった。修吾の話では、中学を卒業して恵比寿の船に乗り始めた頃のものだという。
洋平は、再びあの熱かった夏に想いを馳せた。
ある日の夕方、二人はウメに連れられて村の北東にある畑へ行った。この時期、ウメは真昼の暑い時間帯を避け、早朝か夕方を選んで畑仕事に出掛けていた。
途中までは、小浜への道を辿って行き、小浜の少し手前で山道に入り、しばらく分け入ったところに恵比寿家の畑があった。
そこは丘の斜面を開墾したものだったので、下方の比較的なだらかな斜面を畑として使用し、上方には蜜柑の木を三十本ばかり植えていた。南向きで日当たりも良く、毎年かなりの収穫があった。
夏時分の畑では、西瓜はもちろんのこと、きゅうりやたまねぎ、トマトやなす、そして瓜などが採れた。ウメは、捥ぎりたてのそれらを、傍らを流れる小川で洗い、二人に食べさせた。とくに、瓜は『金瓜』といって、熟れると皮が黄色になり、メロンのような味は絶品だった。
洋平と美鈴は段々畑に腰を下ろし、美保浦湾を眺めながらそれらを食した。
眼下には、木々の隙間から小浜のブイが見え隠れし、遠く視線を対岸にやれば、二人で初めて磯釣りをした小瀬を望むことができた。
小瀬の右手には永楽寺の姿があった。本堂と、大日如来を特別に祭った大日堂が並立していた。この小さな村には不釣合いなほどに壮麗な二つのお堂は、村の人々の信心深さを表すのに不足はなかった。
さらに視線を右にやると、数人の漁師たちが慌しく漁へ出る支度をしている様子が目に入った。ちょうど、二艘のやや小型の船のエンジンが掛かり、艫綱が外されて岸壁を離れ出したところだった。
この二艘の小型船は、探索船といって他の船に先んじて海に出て、魚の群れや種類を探知機で特定し、情報を無線で漁港に知らせる役目の船である。次いで、獲物に合う網を積んだ本隊の船団が出港し、最後に獲物を積載し、境港に水揚げするための母船が出港するのである。
二人が注視する中、二艘の探索戦は、鮮やかな白い波しぶきを上げ、綺麗な幾何学模様の波を作りながら、日本海の大海原に乗り出していった。
「鈴ちゃん、あの頂上まで行ってみょいや」
探索船が視界から消えると、洋平は翻って、丘の頂上を指差しながら美鈴を誘った。
「良いけど、あの頂上に何があるの?」
怪訝そうに訊いた彼女に、洋平は意味深げに言葉を重ねた。
「行ってみればわかるけん、絶対に来て良かったって思うけん、行かい」
「そこまで言うなら、行ってみるけど……」
美鈴は乗り気のない様子だったが、洋平の強い催促に渋々承諾した。
「お祖母ちゃん、鈴ちゃんと頂上に行って来るけん」
洋平はそう言い残し、東に迂回しているなだらかな道を進んだ。畑の脇にも道があり、距離的には断然近かったが、急斜面で足腰にかなりの負担が掛かるうえに、多少の危険もあった。洋平は美鈴に配慮し、遠回りにはなるが、安全な道を選んだのだった。
歩き始めてまもなくだった。
「ねえ、洋君……」
呼び止める声に、洋平が後ろを振り返ると、美鈴が右手を差し出した。桜貝を散りばめたような指先が、洋平の目に向って伸びていた。
「洋君、引っ張って」
洋平は一瞬たじろいだ。彼はこれまで、自らの意思で女の子の手に触れることなどなかった。まだ、それほどの道のりを歩いた訳でもなく、とうてい彼女が疲れているとは思えなかった。
それが、あまり乗り気ではなかったため、駄々を捏ねてのものなのか、あるいは別の意図があってのものなのかはわからないが、いずれにせよ、洋平には簡単な行為ではなかった。
だが、平然と手を出している美鈴を見ていると、照れたりする方が却って不自然に思われ、何気ない振りで彼女の手を取った。
初めて繋いだその指はあまりに細かった。
一緒に勉強をしているときに、見慣れていたはずだったが、実際に握ってみて、あまりの華奢な指に、力を入れると、折り紙のように壊れてしまうのではないかと、錯覚するほどだった。洋平の手には、今もそのときの儚い感触が残っている。
頂上に近づくにつれて、二人の眼前に、空を押し上げるようにして日本海が悠然とその姿を現してきた。ちょうど、先ほどの二艘の探索船が左右に分かれて、走り始めたところだった。
頂上の東端に立って対峙した大自然の眺望たるや圧巻の一言だった。
南東の方角に美保浦の村落を望み、東に向かって美保浦湾が広がっている。この湾の波は、やがて日本海のそれと連なっていて、遠く水平線上の彼方に到っては、雲一つ無い空との境界線が識別しかねた。
そこから左手の北方に視線をやると、遠い波の上に、うっすらと陽炎のように隠岐諸島が浮かんでいる。稀に、外洋遠く異国船が霧笛を鳴らしながら通る様は、まさに映画のワン・シーンのようであった。
広大な海面は、陽光を反射して無数のダイヤの輝きを放ち、それが夕焼けともなり、一面黄金の煌めきに変わって行く様は例えようもなく壮大、且つ優美だった。
「うわあー。すごくきれい」
美鈴は、圧倒的な大自然が織り成す美の極致に感動の声を上げた。
「すごいだあが。登って来て良かっただあが」
洋平は、神に授かったこの絶景が、まるで自分の所有物のように自慢げに言った。
美鈴が急に押し黙った。
「鈴ちゃん。どげした。声が出なくなっただか」
洋平が気遣っても美鈴は、その潤んだような瞳でただ洋平を見つめている。
洋平はあまりの愛らしさに、
――キスしたい……。
と、脳裏に不埒な考えが過った。
そのときだった。
「いいよ」
美鈴が微笑んだ。
「え?」
洋平は心の中を覗かれたようで激しく目を泳がせた。
「キスしよう」
それは一瞬にして、洋平の顔面を強張らせた。
突拍子もない美鈴の言動に慣れてきた洋平も、さすがに身体が小刻みに震え、動揺の色を隠し切れなかった。目を剥いて横を見た洋平に、美鈴のおどけるような仕種が映り込んだ。
洋平は、ただふざけているだけかもしれないと思い直し、黙っていた。
すると、
「キスしよう」
今度は真剣な眼差しだった。
洋平は、臆面もなく言い放った彼女に戸惑った。
キスなどしたことがない洋平が、いや高岡卓也との過ちを犯した彼が、そうした行為に畏怖を抱いていたからである。。
もう一つ、別の理由もあった。
洋平の潔癖性である。
洋平は、性に関して『決して興味本位にはならない』という、潔癖とも言える信念を持っていた。もっとも、はっきりと信念として自覚するのは、数年先のことであり、この頃は漠然とした素地が形作られていただけのことではあったが、これもまた卓也とのトラウマが生んだ副産物だった。
ともかく自戒の意識に照らしてみれば、今の美鈴への思いが永遠に続く真実なのか、あるいは恋の熱に侵された仮初に過ぎないのか判断をしかねる状態で、性への一歩を踏み出すことに躊躇いがあったのである。
だが、本能とは恐ろしいものである。
そのような清純な観念とは裏腹に、洋平の胸は未知の世界への期待に激しい高鳴りを打ち続け、今にも張り裂けそうになっていた。胸の鼓動が、口の中で響いているかのような錯覚すら覚えていた。
正直に言えば、全く期待していなかったわけではなかった。いつしか、心の片隅にそれとなく忍ばせていた淡い願望ではあったのだ。
美鈴が発した、たった一言の小悪魔的な囁きに、芽吹いたばかりの高邁な精神は撹乱され、未だ脆弱でしかない理性は無残なまでに蹂躙されてしまった。
そして、最後の砦であった畏怖心までもが、いとも簡単に駆逐されてしまったとき、歯止めのなくなった洋平の心は雪崩を打った。
愛おしさと好奇心と、少しの性欲に背を押された洋平は、美鈴の息遣いが耳に届くほどに近づいた。
彼女は目を閉じていた。洋平も目を閉じて、さらに顔を近づけてゆき、ついに唇と唇が触れ合った。
――甘い。とても甘い。
と、洋平は感じた。
と同時に、何とも言えぬ仄かな彼女の体臭が伝わってきて、歓喜が洋平を包み込む。
ほんの束の間、宙に浮くような夢心地だったが、
「洋平、美鈴ちゃん、そろそろ家に帰るよ」
祖母の声で我に戻された。その刹那、ふいに襲ってきたうしろめたさに、洋平は思わず一歩退いた。
美鈴は、大胆さが一変して洋平の視線から逃れるように下を向いた。
洋平には美鈴が顔を赤らめているのがわかった。彼女と同様、顔面に熱を帯びていた洋平は、
――彼女はとても勇気を出したのだろう。自分にはとうてい持ち得ない勇気だ。
と深く思った。
洋平は左手で拳を作り、美鈴の頬に触れた。気付いた美鈴が顔を上げると、洋平はその拳を自分の眼前に移した。美鈴は微笑しながら、コツンと自分の拳をぶつけた。
夕焼けはさらに広がりを見せ、いつの間にか空全体が薄赤色をぼかしたような色に染まっていた。
美鈴は拳を開き、山並みに姿を隠そうとしている夕陽に向かい手を合わせた。陽 の反射のせいなのか、あるいはキスの余韻が残っていたのか、赤く染まった彼女の横顔が洋平の眼前に神々しく映し出されていた。
静寂の中で、絶え間なく打ち寄せる波の轟きが、まるで洋平の血潮の流れの如くに、繰り返し、繰り返し断崖を駆け上がってきていた。
美鈴と初めてのキスを体験した洋平は、彼女に対する愛しさが一段と増してゆくのを感じていた。その反面、あまりに急速で刺激的な恋の成り行きに戸惑いがあったのも事実だった。洋平は、美鈴の大胆で積極的な行動に翻弄されながらも、初恋という導なき大海原を邁進していたのだった。
そのうちに七夕を迎えた。
この辺りでは旧暦で行事をしていた。七夕の行事と言って、特別なことをする訳でもないが、各々の家では山へ行って笹竹を二本切って戻り、願い事を書いた短冊を枝に結び、縁側の柱に括りつけた。
恵比寿家は、『じゃいま』という所有する山で調達していた。毎年、親戚に依頼するのだが、今年は洋平と美鈴も同行することになった。
「鈴ちゃん、一度家に帰ってズボンと長袖のシャツに着替えて、長靴を履いて来てね」
「どうして? こんなに暑いのに……」
洋平の注文に、美鈴は疑問を投げ掛けた。
彼女は山に入るのも初めだった。それらが蚊をはじめ様々な虫に対する防備であること、笹で腕を切らないため、あるいは漆にかぶれないようにするためであること、また水辺にいる蝮に対する備えであることを知らなかった。
三人は、夕方近くになり暑さがいくぶん和らいだ後に出掛けた。
門を出て西に進み、墓地である丘の裾野を通って、さらに南西の方角に二百メートルほど歩いたところに小学校があった。校舎の西側に体育館が建っていて、裏手に水田が広がっていた。その水田のあぜ道を、さらに三百メートルほど西に進んだところにある山がじゃいまだった。
辺り一帯は、今を盛りにと稲穂が緑の絨毯を敷き詰めたように成長している。中ほどまで歩みを進めると、山の麓の狭い休耕地には、空に向かって真っ直ぐに伸びている数十本のひまわりが、まるで彼らを歓迎するかのように、顔をこちらに向けていた。
美鈴は、水辺で動き回っている様々な生物に興味を示し、いちいち声にして名前を言った。知らない生物を見つけると、洋平の方を向いて催促し、彼がそれらの名前を言うと、あたかも度忘れをしていたかのように肯く素振りを見せて復唱した。
日が傾きつつある空には、早くも夥しい数の赤とんぼが飛び回っており、照り付ける夏の日差しの裏で、季節の変わり目が確実に近づいていることを知らせていた。
赤とんぼは、洋平たちが無関心と見るや、頭を掠めるほどに低空飛行を繰り返し、中には平然と帽子や肩に止まろうと試みる挑戦的な輩もいて、美鈴が捕まえようと手を差し出すと、嘲るようにひらりとその手をかわした。彼女は初めての体験に、その都度歓声とも悲鳴ともつかない奇声を上げていた。
赤とんぼの群れより、五メートルほど高い空には、おにやんまが悠然と飛行している。彼女は実物の大きさに驚き、洋平が『おにやんまは人の手の届くところには近づかないため、タモは使わず、トンボ釣りと言って、釣竿を使って捕まえるのだ』と言ってもなかなか信じなかった。
洋平は、夕映えに照り輝く美鈴の横顔をじっと見つめていた。数日を経て、もはや初めて出会ったときの、透き通るような白い肌は消えうせ、見事な小麦色に変わっていた。知らぬ間に、美鈴はすっかり夏の少女に変身していたのだった。