ソロン山・2
「・・・今何時だと思ってる」
「・・・五時・・・です」
「そうだ、出発予定時刻は?」
「・・・四時です」
いつもより早くセシルは寝たし、早く起きようという意識もあった、これは間違いないことなのだ。むしろ寝坊助のセシルはこれほどまでに早く起きれたのは奇跡といっても過言ではない。しかし・・・。
「・・・俺が起こしに行ったときお前寝てたよな」
「うぐ。」
四時半になっても来ないのを不審に思ったリュードはセシルの寝室をノックした。しかし応答は無かった。
まさか、と思ってドアの外から声を掛けると悲鳴のような声が聞こえたのだ。その瞬間にリュードは頭を抱えた。
「あれほど言っただろ・・・。全く」
「ご・・・ごめんなさい」
「・・・まあ、こんなところで喋ってたところで何も始まりはしないからな・・・。そろそろ行くか?」
「は、はい!」
セシルは顔を輝かせる。許されたと思ったからではない。その眼は間違いなく希望と好奇心が入り混じったまるで少年が見せるような瞳だった。
「何か嬉しそうだな?」
「・・・へへ、実を言うとワクワクしているんです。」
「ワクワク?」
「冒険・・・みたいで」
「・・・冒険・・・ね。そんな気楽なもんじゃねーけどな」
「だとしても、です。」
セシルは想う。この胸の高鳴りは嘘じゃない。私は今、間違いなくワクワクしている。今までどんな本を読んでも世界の匂いや形は目に見えて来なかった。仮にあのセレスト・カムの聖書にソロン山のことが書かれていたとしても、あの雄々しい本物を見るまではきっと想像も出来やしなかっただろう。ペルちゃんに話を聞いて、それで終わるだろう。でも。
「絶対越えるぞ・・・ソロン山!」
決意した。ここにある本物に負けやしないと。
「・・・目的忘れんなよ?依頼主さんよ」
「も、勿論ですよ!」
「わっと!」
「・・・大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!」
そう強がっては見るものの、実際にはゴツゴツした石が転がって足場が悪く、かなり木々が茂っているため道幅も狭い。なによりシスターだからというわけじゃないがスカートを着用している自分にとっては非常に歩きづらい場所となっている。
「あまり大丈夫には見えないがな・・・。」
「いえ、そ、そんな・・・」
「向こう側は比較的禿げてるな・・・整備されているとは言い辛いから歩きにくいとは思うからそこは我慢してもらうぞ」
「・・・すみません」
「・・・何がだ?」
「・・・迷惑ばかりかけちゃって・・・遅刻もするし・・・道までまともに進めやしない」
「気にするな」
「え?」
「お前は俺の依頼主だ。それ以上でもそれ以下でもない。そして俺の仕事はお前を無事にレルトラ聖堂まで送り届け神父に会わせることだ。遅れなら取り戻せば良いし、怪我などさせては傭兵としての俺のプライドに傷を残すことになる。そんなことはしたくない。」
「・・・つまり私は守られていれば良いんですか?」
「・・・そう言ったつもりだが?」
「確かに・・・そうかもしれませんけど・・・」
「・・・ち・・・」
リュードは剣を鞘から抜く。美しいとは到底言えない刀身をこちらに向けて構えを取る。
「・・・え?」
セシルは思考が追い付かない。一体これは何だというのか?何故傭兵は剣を抜き-
「しゃがめ!」
「!!」
強いリュードの声に反射的にセシルは頭にやりながらしゃがむ。すると後ろから悲鳴が聞こえた。
獣の悲鳴のようだ。
「・・・え?」
後ろを振り向くと鋭利な爪と鋭い牙を持つ自分の二倍はあろうかという熊が静かに倒れた。
「・・・お前を狙っていた」
「・・・だから剣を」
「そうだ」
「・・・あ、あの・・・」
言わなくては、お礼を。
助けてくれた青年に。
「ありが」
「行くぞ。」
「え・・・?」
「礼を言われるようなことなんてしていない。傭兵として当たり前のことだ。それよりも早く行くぞ。森には熊とか蛇が出てくる。特に毒を持つようなやつもいるからな。出来る限りなら平地の方が戦いやすい。」
「・・・」
「それに、見晴らしもいい・・・何か見つけたらすぐに言うんだ。いいな」
「・・・はい」
セシルは悔しかった。浮かれていた自分の愚かさが。もしも一人でこの山を越えようとしていたらきっと死んでいただろう。熊にも気付かず、蛇にも気付かず・・・もしかしたらそれ以前の問題かもしれない。
ワクワクなんて言葉に、自分の胸の高鳴りに踊らされていただけだ。リュードが居なければ・・・
そして何よりも・・・
リュードが自分を必要としていないのではないか、と思ったからだ。
「つぇい!」
鋭い刃が狼を襲う。衝撃で狼は血を流しながら吹き飛ばされる。
一回体を打ち付けられるも体勢を整えたようだが直ぐに逃げ出した、勝てない戦をするほど狼は馬鹿では無いのだ。
「・・・ファングウルフ。」
「え?」
「さっきの狼さ。凶暴なうえ非常に鋭い牙を持っている。更に高い知能を持っているから基本的に狩りを多勢で行いその獲物を食い散らかすっていう危険な狼だ。」
「そ、そうなんですか・・・」
「ソロン山ではちょっと有名だな。まあ、一匹一匹は大した事ねえから運が良かった」
「そ、そうですね・・・」
「・・・お前、疲れたのか?」
「え・・・?」
「人間」不思議なもので何ともないと思っている時でも他人から指摘されると急に押し寄せてしまうものがある。恐怖や不安といったものであり、今回のセシルにとってはそれが疲労だったのだ。
「・・・何かドッと来ましたね・・・」
「・・・まだ先は長いが、少し休憩するか」
「わ、私はまだ行けます!」
「・・・いや休憩だ。言ったはずだ先は長いと。」
「・・・はい。」
岩場に二人は腰掛ける。リュードは持っていた袋をまさぐりだした。
「何しているんですか?」
「水分補給だ。休憩がてら少しでも飲んだ方が良いぞ。気温は確かにそこまで高いわけじゃないがそれでも汗はかくからな。
「・・・」
「・・・お前は飲まないのか?」
「・・・そ、そうですよね・・・全然考えてなかった」
「・・・は?」
寝袋がどうだとか雑貨屋で言っていたが最も重要なものを忘れていた。かなりの距離歩くのは間違いないし、少し考えれば分かりそうなものだというのに・・・。セシルは恥ずかしさと悲しさで少し顔をゆがませてしまう。そこに
「ほら」
リュードから何かを投げ渡される。
「わ。こ、これは?」
「水筒・・・水分補給しないのかよ」
「・・・あ、ありがとうございます!」
「倒れられると面倒だからな」
「・・・」
まただ。
迷惑をかけてしまった。きっと彼はそれが俺の仕事だと言うだろう。
でも、そうじゃない。セシルは決めたのだ。自分の足で歩いて、神父にあの惨劇を、少年少女たちの悲しすぎる最期をこの口で伝えるのだと。
きっと出来ることがある。そう改めて心に誓った。
「かなり斜面も急になってきたな・・・まだ、距離はあるが」
「そうですね」
「・・・足は大丈夫か?」
「大丈夫です」
「・・・ならいいが・・・ん?」
前方には小川が流れている。流れはかなり急だが幅は決して広くはない、リュードは自分なら飛び越えられる程度の距離だが、と考える。
「リュードさん?」
「いや、少し遠回りになるが迂回しよう」
「え?と、遠回り?どうして・・・」
「その川は意外と深いし、下流にそのまま繋がっている・・・何よりも流れが急だ」
「飛び越えれば良いじゃないですか?」
「・・・危険だ」
「私がですか?」
「・・・そうだ。だから」
ビリィ!!
布を破く音が聞こえる。セシルが自らのスカートを破った音だ。
更に彼女は走り出す。落ちている枝木など気にせずに走り、そして飛ぶ。
着地はとても不安定でよろけながら、でも確かに両の足で立っている。
あの流れが急な小川の向こう側にいる。
「・・・」
「・・・このスカートはお気に入りなのであとで縫います。それで問題ないです」
少し頬を膨らませているように見える。特に何かが不機嫌だったとも思えないが、でも彼女の顔は感情を示している。
「お前・・・」
「早くしてくださいリュードさん!行きますよ!」
「・・・分かってる」
ひょいと小川を飛び越えてリュードはセシルに言う。
「・・・お前は今までの依頼人のなかで一番めんどくさい奴だよ」
それから三時間ほど歩いただろうか。朝早くに出かけこそしたものとっくに昼頃になってしまった。
食事は軽く済ませまた歩き出す。会話はないが変わる景色を楽しむ暇も余裕もない。だからセシルは前だけを見ていた。目の前を歩くリュードだけを。
リュードも思っていたよりも登山のペースが遅いことに気付いていた。日没までには向こう側に辿り着けると思っていたが少し遅れている。勿論セシルが原因なわけではない。平地を選んだものの野生の獣が想定していたよりも多く、前回の登山よりも凶暴になっているように見受けられた。何かの前触れなのかもしれないとは思ったがとりあえず遅れを取り戻そうと少しペースを上げている。
不安材料だったセシルの体力が思いのほかあったことが救いだった。
「・・・ん?」
リュードは立ち止まる。
それにつられてセシルも歩みを止める。
「どうしたんですか?リュードさん」
「・・・どうやら、奴らが本性を剝き始めたらしい」
「・・・奴ら?」
「さっきの話を覚えているか?」
「さっきの話?」
「ファングウルフ」
「・・・牙が凄くて高い知能を持ってる」
「そうだ、奴らは狩りを行う・・・多勢でな」
セシルは気付く。視線を感じるではないか・・・それも沢山。十・二十・・いやもっと・
「多勢で狩りを行い・・・獲物を食い散らかす品の無い獣だよ」
「・・・獲物・・・って」
「・・・ああ。」
「俺たちのことだ」
一斉に岩陰や坂の上から狼がリュード目掛けて襲い掛かってくる。
その凶悪な牙は無数にあるが、その真っ赤な眼は獲物であるリュードのみを映している。
「退がってろ」
「リュ、リュードさん・・・」
リュードは剣を抜く。無数の牙がリュードに襲い掛かるが、一度避けるとリュードは一匹ずつなぎ倒していく。確かに多勢ではあるが単体としてはリュードが負ける要素など無いのだ。故にリュードは焦らない。
いや、焦らなかった。
「ち・・・流石に多いな」
次々に薙ぎ倒していってもウヨウヨと現れだす。この山にいる全てのファングウルフが先ほど殺された同胞の仇討ちだと言わんばかりに。
こんなところで時間を食うわけにはいかないのだ。そう考えるリュードは更に獲物を薙ぎ払う。
激戦。遂に残るは前方に二匹。
「おおおおおお!」
リュードは駆けながら一匹を斬る。
ギャンと吠えながら狼は倒れる。残りは一匹。斬った勢いのまま刃を振るう。
鋭きファングウルフの牙が剣に噛み付く。激しい火花が散った。
その時だった。
(・・・気配)
いつものリュードだったら気付いていただろう。
焦りが、わずかな焦りがリュードの感覚を鈍らせたのだ。
後ろにまだ一匹。鋭い牙を持つファングウルフ。
口元から涎を垂らしながらリュードに飛びかかる。
(く・・・!)
「でえーい!」
ドゴッ!
決して大きな石では無かった、少女が両手で持てるくらいの石。しかしその石がリュードの背後に襲い掛かる牙を鈍らせた。
「おおおおおおおお!!!」
僅かに緩んだ剣を噛む狼の牙を見逃さず蹴り剥がすリュード。そのまま二匹とも仕留める。確実に。
「・・・ふう。」
今のはリュードの安堵の声ではなかった。自身も勘違いする程自然なその声は。
「良かったあ・・・流石リュードさん」
「・・・お前があの石を・・・?」
「?はい!」
(もしもあの石が無かったら・・・あの援護が無かったら・・・)
死にはしなかっただろう。しかしここまで無傷では無かった筈だ。
救われたのだ、少女が投げた石に。
救われたのだ。自分が守るべき依頼人の意志に。
「・・・あの、お邪魔・・・でしたか?」
「いや・・・そんなことは無い」
「それなら良かっ」
「むしろ礼を言う。・・・すまなかった」
傭兵は僅かだが確かに頭を下げる。
セシルは焦りながら手と顔を振って答える。
「いやいやいやそんなそんな・・・む、むしろこちらこそお礼をっていうか・・・」
「いや・・・依頼人に助けられるというのは傭兵にとって・・・」
「・・・傭兵とか依頼人とかじゃなくて・・・私の、セシル・クラインの意志です。」
「・・・」
「だから謝られるようなことなんて・・・」
「・・・そうか・・・」
「それに」
「?」
「すまない・・・も確かにお礼の言葉ですけど・・・そのこういう時は・・・」
傭兵は少しキョトンとした顔をして、そして
「・・・そうだな。ありがとうセシル。」
少し笑ってそう告げた。
「行くぞ、頂上はもうすぐだ」
「はい!」
セシルは嬉しかった。
リュードの役に立てたような気がしたから。
一緒に旅をしている仲間という感じがしたから。