かなた
某サイトの小説コンテストに投稿した作品の手直しです。お題は『雨』でした。
雨の日は客がない。
開店してからもう何度も拭いたグラスを、マスターは静かに棚に戻した。
ここは街にいくつもある酒場の一つ。
いつもなら小さいながらも賑やかな店なのだが、今宵は月の見えぬ夜、客はまだ一人もいない。この店を切り盛りしているマスターは、お客が来なければひとりぼっちだ。
布巾を放り出して頬杖をつく。
その時、ドアに付けられたベルが少々慌ただしげな音を立てた。
「いらっしゃい」
マスターは素早く居住まいを正す。
「すみません、濡れてしまっているのですが」
「どうぞコレ、使って下さい。いやぁ酷い雨ですな。中で暖まって下さい」
「ありがとうございます」
入って来たのは頭からスッポリと黒いマントを被った男だった。
今の空の色のような、滴る、艶やかな闇色。
「私が一番乗りですか。この天気ですからね」
「えぇ、もう閉めようかと思ったくらいですわ。さ、上着かけますんで、座って下さい」
「……はい」
マントの下から現れたのは、雪の肌に白銀の髪、瞳と口唇だけが赤い宝石のように輝いている、スラリとした青年であった。
「おたく、アルビノかい。久々に見たねぇ」
マスターは男からマントを受け取り小さく息を吐く。
「驚かないのですか」
伏し目がちな男の声は、どこか冷たかった。
「ウチはホレ、こんなトコにある店だからね。色んな客が来るんだ」
「良かった。追い出されるかもと、心配していたので」
「まさか」
アルビノが迫害の対象とされてきた歴史は長い。
十年程前に法が整備され最近は社会的地位が認められるようになってきたが、人々の間の差別の習慣はまだまだ根強く残っている。また、その色の珍しさから、商品としての扱いを受ける事も多かった。
「この街へは何をしに? 職探しで?」
「いえ、色々な地を歩いて回っているんです。政治に興味がありまして、勉強をしながら」
男は口もとに微笑を浮かべてグラスを傾けた。
「そりゃぁ大層なもんだ。じゃぁ将来は、国の官吏の試験とか受けるのかい」
「……そうなれば一番ですね。ただ、学校に行く金はありませんし、どなたかに師事することもなかなか」
カラリ。
氷だけになったグラスに、マスターが新しくアルコールを注ぐ。
「どうも」
男は相変わらず柔らかな微笑をたたえたままグラスを傾けた。
男は国境付近の小さな集落の出身だった。
白い子は悪魔の使い。
殺したら、祟られる。村の人々に知れたら、一族皆が追い出されるかもしれない。
隠さなくては……!!
彼は十五で逃げ出すまで、家の最奥の檻の中で育った。
「本当に田舎だったので、人売り商人がいなかったのが、せめてもの救いでした」
「まだ、法令の出来る前だったんだね」
「今でもきっと同じ様なものでしょう。山の麓で、ほとんど自給自足しているような人たちです。自分たちのルールだけで生きているのですよ」
男の声は乾いていた。赤い瞳は宙を見つめている。
「私が政治を志そうと思ったのは、私のような色を受け入れてくれる団体と出会ったからです。彼らは今回の法整備にも深く関与していました。法さえ整えば、ゆっくりと時間をかけてでも、私たちに対する不当な扱いは消えていくと思った……」
グラスを持つ手に力が込もる。
感情の高ぶりが顔に表れ、微笑を失った口もとは逆方向に歪み、瞳は一層燃え上がった。
マスターは思わず、カウンターにあった布巾を掴む。
「王宮のあるタペストの街ですら、私たちは人として扱われていないのです。男も女も、奴隷となるか身を売る意外に生きる術などない。いや、むしろ、タペストが一番酷かった。私が家から逃げ出して、最初に向かったのはタペストだったのです」
ドロリと溶け出しそうな不気味な赤い目が、見えない何かを睨み付ける。
「人種の差別を規制する法令が成立する直前でした。タペストまで移動する間にその話を知り、王宮に行けば、救ってもらえるだろうと。私はまだ十五だった。必死の思いで辿り着いた先で、門兵に何と言われたと思いますか?」
『王は白いのがお好きだ。奴隷にしてもらえるよう、口をきいてやってもいい』
「目の前が真っ暗になりましたよ」
濡れて光る赤い口唇が不自然に吊り上がる。
「私はこれから、仲間と一緒にこの国を変えます。あちこち旅をしているのはその為です。こんな腐り切った王と議会の国なんか……」
「……お兄さん、飲み過ぎちゃいかんよ。今夜の宿は決まってるのかい?」
握り締めていた布巾から手を放し、静かに息を吸ってから問うた。
「この街にも仲間がいますから」
「そうかい」
マスターは聞けなかった。
どんな方法で変えようと言うのか。
一体何を変えようと言うのか。
「ご馳走様でした」
小雨になった夜空の下、再び黒いマントを被って行く青年に、
「またおいで」
とは、言えなかった。
今夜はもう客は来ないだろう。
マスターは扉に鍵を掛けた。些か早いが、店仕舞いだ。
土砂降りの夜に、見えないはずの月を見た。
「忘れよう」
男が使っていたグラスを手早く洗い、水切りの上に伏せる。
雨は、明け方には止み、明日の夜には店もいつも通りの賑やかさを取り戻すだろう。
「忘れよう」
マスターはもう一度呟いて、明かりを落として闇にした。