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中村君シリーズ③ 『社員旅行は、だいたい修行』

掲載日:2026/04/13

第1話 行く前から、もう帰りたい


「おーい、中村、早くくじ引け」


社員旅行の席順は、なぜかくじ引きだった。

どういう判断なのかは知らないが、中村にとっては十分すぎるほど厄介なイベントである。


人生を変えるくじになるかもしれない。

少なくとも、今日の気分くらいはかなり左右する。


中村が箱に手を入れる。

指先が、少しだけ嫌な汗をかいていた。


「中村、緊張してるぞ!」

相沢が笑う。

周りからも、くすくすと笑いが広がった。


「俺の隣に来るか、中村」

と部長。


「やめましょう部長。本気で中村死にますよ」


部長は鼻で笑った。


「大丈夫だ。死んでも途中で起こす」


「配慮が雑なんですよ」


この時点で、だいぶ帰りたくなった。


社員旅行はまだ始まっていないはずなのに、中村の気力だけ先に削られていた。


旅行っぽいテンションで笑っているが、中村からすると、あれはただの移動つき対人イベントである。

気を抜くと飲み会までついてくる。

しかも、何次会になるか分からないやつだ。

今回は一泊二日。

逃げ道が少ない。非常に少ない。


「中村、テンション低くない?」

「平常運転です」

「社員旅行だぞ?」

「そこがもう微妙なんですよ」


相沢は朝からよく笑っていた。


三十代前半。営業。

悪い人ではない。たぶん。

でも雑で、ノリが前に出すぎる。

中村は少し苦手だった。


「中村ってこういうの苦手そうだよな」

「得意な顔してます?」

「してないな」

「じゃあ正解です」


相沢はまた笑った。

こういう軽さが、朝の中村には少しだけきつい。


集合場所の端では、ひときわ明るい声がしていた。


「おはようございまーす!」


振り向くと、新人の桃花さんがいた。


明るい茶髪をゆるく巻いていて、メイクも華やかだ。

旅行用なのか、服装も少し気合いが入っている。

朝から空気に負けていない感じがすごい。


しかも、そのまま自然に先輩たちの輪へ入っていく。


「部長、お菓子持ってきました?」

「まだ朝だぞ」

「でも移動って口さみしくないですか?」


すぐに笑いが起きた。


中村は少し離れた場所から、その様子を見た。


こういう人は最初から社員旅行のルールを知っているんだろうな、と思う。

少なくとも、自分とは違う側の人だ。


「中村くん」


やわらかい声がして、顔を上げる。


白石さんだった。


社内一の美人である。

と、相変わらず思う。


今日はラフな服装なのに、なぜかやっぱりちゃんとして見えた。

私服でもちゃんとしている人って、どういう仕組みなんだろう。


「おはようございます」

「おはようございます。ちゃんと朝ごはん食べました?」

「……なぜ最初の確認がそこなんですか」

「顔色がそういう感じだったので」

「見抜かれてるなあ」


白石さんは、中村の手元のくじを見た。


「席、どのへんでした?」

「えっと……右側の真ん中あたりです」

「そっか。残念。隣だったら少し安心だったんですけど」


ドキッとした。

さりげないのに、不意打ちだった。


「私は左の後ろです。ちょっと残念です」


(何のアピール!?)


白石さんは少しだけ笑った。


嬉しいのか悲しいのか、よくわからない気持ちが残った。


中村は手元のビニール袋を見た。

中にはカフェオレと、鮭おにぎりが入っている。


今朝、カフェオレだけ持ってレジへ行きかけて、少しだけ止まった。

それで結局、おにぎりをひとつ足した。


成長と言えば成長だが、向かう先が社員旅行なので、気持ちはだいたい相殺だった。


「でも、おにぎり持ってますね」

「今日は一応、成長してます」

「いいことですね」

「まだ“カフェオレだけで突撃”の自分もいたんですけど」

「危なかったですね」

「危なかったです」


そう言うと、白石さんはまた少し笑った。

その笑い方がやわらかくて、中村は少しだけ肩の力を抜いた。


そのまま現地解散にしてほしかった。


「じゃあ、中村、早く乗ろうぜ。俺の席の後ろだろ」

と相沢が手を振る。


ありがたい。

配置としては、かなりありがたい。


右列の真ん中。

前が相沢、隣が桃花さん。

くじ運としては悪くないのに、気持ちはあまり楽じゃなかった。


ありがたさが少しだけ複雑になるやつだった。


「おはようございます、中村さん」

「お、おはようございます」

「なんかもう疲れてません?」

「まだ始まってないんですけどね」

「ですよねー」


桃花さんはけろっと笑って、ポーチからのど飴を取り出した。


「食べます?」

「え、あ、どうも」

「移動って喉乾くじゃないですか」

「まだ発車してないですけど」

「気持ちが先に乾くタイプなんで」


その返しに、少しだけ笑ってしまう。


見た目は派手だし、こういう場に慣れてる人なんだろうと思った。

でも会話のテンポは軽くて、思っていたより話しやすいのかもしれない。


バスが動き出す。


前の席ではもう盛り上がっている。

後ろでも誰かが笑っている。

まだ宴会も始まっていないのに、気疲れだけは順調だった。


中村は窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。


「中村、もう帰りたい顔してるぞ」

と相沢。

「行く前から、ずっとそうですよ」

「修学旅行とかも苦手だったろ」

「思い出させないでください」

「わかるー」

と桃花さんが笑う。

「私も集団で寝るやつ苦手でした。気ぃ使って全然寝れないタイプ」

「意外ですね」

「よく言われます」


そこでバスが少し揺れた。

中村は手元のおにぎりを軽く押さえる。


少なくとも今日は、ぺちゃんこにはしたくなかった。


窓の外の景色は流れていく。

楽しいはずの移動時間なのに、心だけは少しずつ削られていく。


旅館に着いた頃には、まだ何も起きていないのに、すでに少し疲れていた。


部屋割り。

荷物。

自由時間。

風呂。

そして、その先に待っているもの。


宴会場の前で、中村は立ち止まった。


畳。

座卓。

大皿料理。


逃げ道が、だいぶ少ない。


「……ここからが本番かよ」



第2話 宴会の席は、だいたい罠


宴会場に入った瞬間、中村は「いただきます」より先に「帰りたい」が浮かんだ。


畳。

座卓。

大皿料理。

逃げ道の少ない配置。


料理はうまそうだった。

それが逆に厄介だった。


社員旅行の宴会は、料理に罪がないぶん逃げにくい。


「じゃ、適当に座ってくださーい」


適当に、が一番困る。


中村は空気を読みきれないまま、下座寄りの端に腰を下ろした。

相沢は近い。

白石さんも、少し斜め前の見える位置にいる。

桃花さんも同じ下座側だ。


部長は上座の中央。

きっちり遠い。


ふっとひと息つく。

(勝った。この場は、たぶんやり過ごせる)


適当に座ったわりに、近くに地雷っぽい配置はなかった。


それだけで少し助かったはずなのに、宴会場の空気そのものが、もうだいぶ息苦しかった。


乾杯前の部長の話は長かった。


みんなのグラスの泡は、最初の勢いを失って、だいぶおとなしくなっている。

さっきまでの宴会っぽい空気も、それに合わせるみたいに少しずつしぼんでいた。


中村は自分の手元のビールを見た。

まだ一口も飲んでいないのに、もうちょっとかわいそうだった。


その時だった。


「部長! 話長いですよ。中村の顔が死んでます!」


相沢が笑いながら言う。

周りから、どっと笑いが起きた。


部長は中村を見た。


「お、そうか。待たせたな」


一拍置いて、にやっとする。


「中村、あとで個別ミーティングな」

「なんでですか」


また笑いが起きる。


さっきまで少し死にかけていた場が、ようやく宴会の形に戻った。


乾杯が終わる。

料理が動き始める。

人も立ち始める。


その中で、桃花さんは自然すぎる動きで部長のところへ行った。


「部長、おつぎしますー」

「お、悪いな」

「今日めっちゃ話してましたもんね。のど乾きません?」

「おまえは気が利くなあ」


桃花さんは笑いながらグラスを傾ける。

そのまま何か軽口を返して、近くの人たちまで笑わせた。


すごい。


しかもその直後、部長の手が妙な方向に伸びる前に、桃花さんはするりと位置をずらした。

笑顔はそのまま。

なのに距離だけは、きっちり守っている。


(恐るべき、新人桃花)


中村は唐揚げに箸を伸ばしかけたまま、心の中でつぶやいた。


相沢がそんな中村を見て、にやっとする。


「おい、中村。お前も部長のとこ行ってこいよ。評価上がるかもよ」


部長へのお酌は、たぶん会社員の初期スキルだ。

中村はまだ習得していない。


「無理ですよ」

「なんでだよ」

「あれは技能職でしょ」

「技能職って」

「見たでしょ今。あれ、もう宴会スキルの完成形じゃないですか」

「そこまで言う?」

「言いますよ。俺、今ちょっと感動してますもん」


桃花さんが笑う。


「そんな大げさな」

「大げさじゃないですよ。あれはもう実技試験の満点答案です」

「何の試験ですか」

「会社員二級くらいの」

「中途半端だな」


そこへ白石さんが、湯のみを持ったままこちらを見た。


「中村くん、頑張って!」

「なんで乗るんですか」

「ちょっと見てみたいので」

「見世物じゃないんですよ」

「でも、ちょっと見たいです」

「白石さんまで……」


逃げ道が減った。


(謎のミッションが追加された)


中村は心の中で静かに絶望した。


「ほら行けよ、中村」

「無茶振りが雑なんですよ」

「頑張れって」

「その“頑張れ”が一番危ないんですって」


そう言いながらも、このままずっと座っているのも変に見える気がした。

中村はしぶしぶ立ち上がった。


部長のところまで行く。

グラスを持つ。

タイミングをうかがう。


その時点で、もうだいぶ不自然だった。


「あ、部長、どうぞ」

「おう」


ぎこちなく注ぐ。

少しこぼれそうになる。

危ない。


「おまえ、ぎこちないな」

「自覚はあります」

「肩に力入りすぎだろ」

「こういう場、だいたい全部そうです」


部長は笑った。

近くの席からも少し笑いが漏れる。


そこへ桃花さんが横からひょいと入ってきた。


「部長、中村さん、今日めっちゃ緊張してるんで許してあげてください」

「なんでお前がフォローするんだ」

「新人の仕事なんで」

「仕事増やしすぎだろ」


また少し笑いが起きた。


ぎこちなかった。

でも、完全な事故にはならなかった。


それだけで十分だった。


席に戻る。

中村は静かに唐揚げを食べた。


うまい。


社員旅行の宴会は、料理に罪がないぶん逃げにくい。

特に唐揚げは何も悪くない。

むしろかなりうまい。


「中村って、ほんとこういう場苦手だよな」

と相沢。

「今さらですね」

「もっと雑でいいんだよ」

「その雑の加減がわからないんですよ」

「損してるよなあ、そういうとこ」

「それはたまに自分でも思います」


相沢は笑って、また別の席へ立っていった。


悪い人ではない。

たぶん。

でも雑だ。

そして今日は、その雑さが少ししみる。


少しして、桃花さんが水の入ったグラスを置いた。


「中村さん、顔死んでるんで。とりあえず水どうぞ」

「……ありがとうございます」

「無理して飲まなくていいっすよ。そういうの顔に出るタイプっぽいし」

「今日はみんな顔で判断しすぎじゃないですか」

「わかりやすいんですよ、たぶん」


桃花さんはけろっと言って、また別の席へ戻っていった。


軽そうに見えるのに、妙に人を見ている。


中村はグラスを持ったまま、その背中を少しだけ目で追った。


そのあと、飲み物を取りに立ったところで、白石さんと少しだけ目が合った。


白石さんは何も言わず、中村の手元の空いたグラスを見て、水の入ったコップをひとつ差し出した。


「今日は、こっちで」


「……助かります」


中村が受け取ると、白石さんは少しだけ笑った。


「ちゃんと座ってるだけで、もう十分えらいです」


返事をする前に、白石さんは「じゃあ、またあとで」とやわらかい声で言って、人の輪の中へ戻っていった。


ほんの数秒だった。

でも、さっきまで息苦しかった宴会の空気に、そこだけ少しだけ隙間ができた気がした。


そのまま現地解散にしてほしかった。


宴会はようやく終わりの空気になっていた。

ほっとしたのも束の間、今度は二次会の話が出始める。


「このあとどうしますー?」

「カラオケ行く?」

「まだいけるっしょ」


何次会になるか分からないやつだ、という朝の予感が、着実に現実に近づいてきている。


中村の頭の中に、二つの選択肢が浮かんだ。


① 周りの流れで参加

② どさくさに紛れて部屋に戻る


迷いはなかった。

これはもう仕事ではない。たぶん。

一次会は頑張った。十分だ。


よし、と気配を消すように立ち上がりかけた、その時だった。


「中村、何してるんだよ。ほら行くぞ、二次会」


相沢の声が飛んでくる。


選択肢が、強制的に書き換えられた瞬間だった。


中村はうなだれた。


宴会場の外へ流されるように出る。

ホテルの前はもう二次会の夜で、看板も笑い声も、やけに明るかった。

先輩たちの声はそのまま街に混ざっていくのに、中村だけ少し後ろを歩いていた。


その明るさの中で、相沢だけが少し沈んで見えた。


さっきまであれだけうるさかった相沢が、急に静かだった。


見ると、上着のポケットや足元を何度も探っている。


最初は、何か落としたのかと思った。

でも、その手つきは少し笑えない感じだった。


「どうしたんですか?」

と桃花さん。

「いや……財布」

「え?」

「たぶん財布、ない」


相沢の声が、そこで少しだけ低くなった。


周りがざわつく。


「マジすか」

「部屋じゃない?」

「さっきまであったんですか?」


相沢は首を振る。


「あった。たぶん、あったんだけど……」

「たぶんって」

「いや、あった。絶対あった」


いつもの軽さが少し崩れていた。


「そんな大事なもの入ってるんですか?」

と誰かが聞く。


相沢は少しだけ言いよどんでから、

「子どもの写真入れたお守り、入ってんだよ」

と言った。


空気が少しだけ変わる。


さっきまでの“宴会の小トラブル”ではなくなった感じがした。


「いや、それ今は笑うとこじゃなくないですか?」


桃花さんが、周りに向かって軽い声で言った。

でも、その言い方はちゃんと線を引いていた。


「普通に探した方がよくないです?」

「だな」

「フロントかな」

「さっきの宴会場か、ここまで来る途中じゃないですか?」


中村は黙ってその様子を見る。


正直、関わりたくなかった。


今日ずっと、そう思っていた。

雑にいじられて、空気を押しつけられて、少しうんざりしていた。


だったら、誰か別の人が助ければいい。

そう思ってもおかしくなかった。


それでも。


相沢の顔を見た瞬間、妙に気分が悪くなった。

ああいう、困ってるのにうまく言えない顔は、昔から少し苦手だった。


ここで見ないふりをしたら、なんか今日の自分まで少し嫌になる気がした。


中村は小さく息を吐いた。


「……何か探してます?」


相沢が顔を上げる。

さっきまでの軽さが少し消えていた。


「財布。たぶん落とした」

「見ればわかります」

「そこは一回やさしく入れろよ」

「今日はやさしさ品切れです」


桃花さんが吹き出した。


「中村さん、塩対応」

「こういう時までノリで行くのもしんどいんで」

「いや、それはそう」


相沢は小さく息を吐いた。


「悪い、中村……」

「ほんとですよ」

「だからそこ」

「さっきの宴会場、戻ります?」

と中村が言う。

「フロントも一応聞いた方がいいですし」

「……頼む」


それだけ言って、相沢は少しだけ目を伏せた。


中村は立ち上がる。


正直、関わりたくない気持ちはまだあった。

それは今も少し変わらない。


でも、ここで置いていくのは、なんか違う気がした。


二次会より先に、別の修行が始まったらしい。



第3話 嫌なやつでも、見ないふりはできなかった


二次会より先に、別の修行が始まったらしい。


相沢が通りすがりの黒い財布に反応して、一歩だけ前へ出た。

次の瞬間、自分で違うと気づいて足を止める。


「……違った。すみません」


桃花さんが小さく言う。

「相沢さん、さすがに焦りすぎです」


誰から見ても、相沢が焦っているのは一目瞭然だった。


ホテルの入口へ戻ると、さっきまで外にあふれていた笑い声が少し遠くなった。

自動ドアの向こうは明るいのに、足取りだけが妙に重い。


相沢はまだ上着のポケットを何度も探っていた。


「ほんとに財布ないんですか」

「そうだよ」

「その確認、三回目くらいですよ」

「こっちも三回目くらい絶望してんだよ」


さっきまでの相沢なら、ここで笑いに変えたかもしれない。

でも今は、それすら少し雑だった。


フロントで聞いてみる。

届いていないと言われる。


「ですよねー」

と桃花さん。

「まだ早いか」

と相沢。


中村は小さく息を吐いた。


「じゃあ、さっきの宴会場戻ります?」

「……頼む」

「最初からそう言ってます」

「そういうとこだぞ、中村」

「今それ言います?」


桃花さんが横で吹き出した。


「相沢さん、こういう時くらい素直にお願いしますって言った方がいいっすよ」

「言っただろ、頼むって」

「雑なんですよねえ」

「お前まで乗るなよ」


それでも、少しだけ空気が軽くなった。


宴会場へ戻る廊下は、さっきより静かだった。

片づけの音だけが、遠くでかすかにしている。


ついさっきまで、あれだけ人がいて、笑って、飲んでいたのに。

終わった場所というのは、急に現実っぽくなる。


「相沢さん」

と桃花さんが前を向いたまま言う。

「何」

「子どもの写真、大事なんですね」

「……まあな」


少し間が空く。


「待ち受けとかじゃダメなんですか」

「それとこれとは違うんだよ」

「へえ」

「保育園でもらったやつなんだよ。お守りの中に、ちっちゃく写真入れてくれてさ」

「うわ、それはなくしたら普通に嫌ですね」

「だから焦ってんだろ」


相沢はそれだけ言って、少しだけ黙った。


それから、ぽつりと続ける。


「今日も来る前、嫁に“飲みすぎんな”って言われたし」

「守れてないじゃないですか」

「うるせえな」


中村は横目で相沢を見た。


こういう人は、もっと雑に生きてるんだと思っていた。

少なくとも、自分みたいに細かく気にして疲れる種類ではないのだと。


でも実際は、違うのかもしれない。


「……場、回してたんですか」

と中村。

「は?」

「宴会」

「まあ……死ぬほど気まずい空気よりはマシだろ」

「部長のあの空気のまま、メシは食えんやろ」

「まあ、察してくれ。中村」

「いや、だいぶ別の意味でしんどかったですけど」

「悪かったって」

「軽いなあ」

「今は勘弁してくれよ」


その言い方が、少しだけ本気だった。


宴会場の扉を開ける。


もう人はほとんどいない。

片づけ途中の皿。

空いたグラス。

唐揚げの名残。

楽しかった人にも、ただ疲れた人にも平等に、宴会のあとだけが残っていた。


「このへんですか?」

と中村。

「たぶん……このあたり」

「たぶん多いですね、今日」

「うるせえ」


三人で手分けして探す。


座布団の下。

テーブルの脚の陰。

椅子の横。

落ちているのは、割り箸の袋とか、誰かの忘れたハンカチとか、宴会の残骸みたいなものばかりだった。


「ないな……」

相沢が小さく言う。


その時、中村の足が何かに当たった。


テーブルの脚の影。

座布団の端に半分隠れるように、黒いものがあった。


しゃがんで拾う。


「……あ」


財布だった。


「相沢さん」

「え」

「これ」

「マジで!?」


相沢がほとんど奪うみたいに受け取る。

開く。

中を見る。

それから、目に見えて肩の力が抜けた。


「……あった」


その声は、さっきまでよりずっと小さかった。


「お守りも?」

と桃花さん。

「ある。ちゃんとある」

「よかったじゃないですか」

「……マジでよかった」


相沢は財布を閉じたまま、少しだけ下を向いた。


いつもの軽口が、すぐには出てこなかった。


「中村」

「はい」

「助かった」

「……そうですか」

「いや、ほんとに」

「今日いちばんちゃんとした声ですね」

「そういうとこなんだよ、お前」

「そこはまだ雑なんだ」


桃花さんが笑う。


「でも、よかったっすね」

「うん」

「二次会どころじゃないやつでしたもんね」

「ほんとにな」


相沢はそこで少しだけ言いづらそうな顔をした。


「あと……今日、いろいろ悪かった」

「いろいろ、で済ますんですね」

「細かく言わせるなよ」

「まあ……今日はそれでいいです」

「上からだな」

「今さらですね」


少しだけ、笑いが戻った。


宴会場を出ると、廊下の向こうに白石さんがいた。


壁際でスマホを見ていたが、こちらに気づくと顔を上げた。


「見つかりました?」

「はい」

と中村。

「よかったです」

「見てたんですか」

「少しだけ」


白石さんは相沢の方にも軽く会釈した。

相沢も「どうも」と少しだけ小さく返す。


それから白石さんは、中村の方を見て言った。


「中村くんって、そういうとこちゃんとしてますよね」


中村は一瞬だけ黙った。


「最近、その評価よくもらいますね」

「最近、ちゃんとしてきてるので」

「……効きますね、それ」

「効いてよかったです」


白石さんは少しだけ笑った。


その笑い方は、宴会の時と同じで、やっぱりやわらかかった。


桃花さんが横からにやっとする。


「中村さん、今日は株上がりまくりですね」

「そういう言い方やめてください」

「でも、ちょっとかっこよかったっすよ」

「やめてください」

「照れてる」

「うるさいな……」


相沢がそこで財布をポケットに押し込みながら言う。


「二次会、俺らだけでやらないか?」

「俺のおごりでいい」


「え、いいんですか?」

と桃花さん。

「高級居酒屋さん知ってますよ」

「そこ行きましょうよ」


「俺を殺す気か」


小さく笑いが起きた。


「さっき、あんまり食べられなかったんで」

と中村が言う。

「締めのラーメンなら行きたいです」


「あ、私もラーメン好きです」

と白石さん。


「よし、ラーメンにしよう。他は認めん」


「相沢さん、カッコ悪いですね」

桃花さんがにやにやする。


「うるせえ。そこは言うな」


結局、四人で駅前のラーメン屋に入った。

湯気の立つ丼は、社員旅行よりずっと話しやすかった。


気づけば、さっきまでの宴会よりずっと自然に言葉が続いていた。


店を出る頃には、街の明かりも少しだけ落ち着いて見えた。

相沢は「今日はマジで助かった」と今度はちゃんとした声で言って、桃花さんに「だから最初からそう言えばいいのに」と笑われた。

白石さんは小さく手を振って、「また明日」とやわらかく言った。


ロビーは静かで、ようやく自分の温度に近かった。


部屋へ上がる前、自販機の前で中村は止まる。


いつもの癖でカフェオレのボタンを押しかけて、少しだけ止まった。

その横にある水を見る。

さらに下の段の、小さな焼き菓子も見る。


少し考えて、水と焼き菓子を買った。


「……まあ、このくらいで」


誰に聞かせるでもなくつぶやく。


社員旅行は、だいたい修行だった。

飲み会は苦手だし、相沢は雑だし、部長は明日もたぶん部長だ。


でも今日は、見ないふりをしなかった。


そのことを思うと、一瞬だけ視線が遠くへずれた。

何かを思い出しかけて、中村はすぐに首を振る。


そのぶんだけ、少しだけマシな顔で部屋に戻れる気がした。


悪くなかった、とまではまだ言わない。

でも、そこまで悪くもなかった。


そのくらいが、たぶんちょうどよかった。


本作は『疲れた人しか入れない定食屋』の続編、

中村君シリーズ第3作です。


今回は社員旅行編を書きました。


ここから読んでも楽しめますが、

前作から読むと、中村君の奮闘や人物たちの空気を、より楽しんでいただけると思います。


また、4作目

『初詣で、変なのを拾った』

も投稿しています。

よろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。


もし少しでも楽しんでいただけたら、

評価や感想で応援していただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
妖精が見えていた第一作や、異界の門が見えていた第二作に比べると、今回の中村君はだいぶふっくらとしてきたように思われる。 しかし、デコイ役を押し付けてくる上からの圧力と、できる新人という下からの圧力に挟…
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