浮上
溺れる・・・!溺れる・・・!たすけて!誰か!
手を伸ばす。手首に冷たい水を感じて、一気に体温が下がるのを感じる。水面が少し白くて明るい。光で霞んで見えている。亀が一匹、ふわりと浮かんでただひたすらに水面を目指して上がっていく。とても優雅にひれをゆったりと動かして上昇していくその姿に魅入られる。私も浮上しようと惨めにあがく。体は重くなるばかりだ。水がおもりのように感じる。私は沈んでいく。手を水面へと伸ばしたまま。
「ゴボボボッ(見えないよ)。」
言葉が泡にしかならない。亀はもう、見えなくなった。苦しい。肺が痛い。目を開けていられない。もう諦めてしまおうか。上を見ても下を見ても水の色が一緒で、どちらが水面なのか分からなくなってきた。怖い。今にも一段暗くなった水底からサメが出てきそうだ。だんだんと意識が沈んでいく。目の前が真っ暗になった。
「うわあああああ!!」
飛び起きた。まだ一人で溺れていく孤独感と恐怖、意識を失う瞬間の頭の先から足先までの感覚を全て失うような絶望を感じていた感覚が消えない。やけに繊細でリアルな夢だった。怖すぎる。周りを確認しても、どこも濡れていない。いつもの自分のベッドの上の視界だ。夢だ。冷や汗と心臓の動悸がすごいことに今更気づく。なんて朝だ。今日も平日で学校に行かなくちゃならないってのに最悪ではないだろうか。息が吸えない恐怖ってあんな感じなんだろうか。呼吸できることを確かめても、まだ夢だった事実が信じられない。ベッドからとりあえず降りよう。そして着替えよう。そうして、重い身体を引きずって床に足をつけてからやっと生きてる事実が襲ってきた。
「夢でよかった・・・。」
家を出て登校していると、どうやら昨日の夜に雨が降ったみたいで、コンクリートの道路が湿っていた。まだ降りそうな重い灰色の曇り空だが、雨上がりに特有の少し青臭い雨の匂いがする。湿った土と草の匂いだ。私は水たまりを見つけてはわざと音を立てて入ったり、飛び越えたりしてみるのが好きだ。そもそも水そのものが好きだ。雨の匂いも好きだ。少し先に見えた大きい水たまりへ意気揚々と歩いて行き、そばに立ってのぞき込む。水面の向こうの私が私を無表情で見つめ返してきた、気がした。なんだろう。だけど、もういつものコンクリートの色を映した黒い水面だ。
「あれ?」
ポツリと雨が降ってきた。小さい降り始めの水滴が水たまりに波紋を作る。キレイな波紋はゆるりと広がって映る私の顔を揺らす。突然雨が強くなった。ザアッと降ってきたそれに、私は弾かれたように水たまりに向けていた顔を上げ、急いで走り出した。走れば、学校に着くまでにはなんとかびしょ濡れとまではいかないはずだ。多分。切実にそうであってほしい。走っていく私の後ろ、さっきまでいた水たまりが突然深く、青くなったことに私は気づきもしなかった。そこから亀が浮上してきて顔をのぞかせたことなんて気づきもしなかった。
雨がすごい。土砂降りだ。親友が、昨日も相当降っていたのにまだ降るのかとうんざりした顔を窓の外に向けている。私も頻繁に窓の外を見ては雨の音に気を取られている。雨の音ってどこか心地よくて聴いていてリラックスする。大丈夫、今は自習中だ。担任の先生が電車が止まってくるのが遅れると連絡が来ていた。朝は最悪だったけれど、ラッキーだ。他の子も同じことを思ったのだろう。机に頭が沈んでいるのが1、2、3・・・、10人はいる。そりゃあ寝たくもなるだろう。分かるよ。しっかし、それにしても雨がすごい。すごいったらすごい。窓を水が流れている。それはちょうど洗車されている車に乗って中から水が流されていくのを見ている感じによく似ている。水って不思議だ。透明なのに青みがかって見える。
「キレイだなあ。この後、休校になればいいのに。」
「大雨なのに呑気にキレイとか言ってる場合か。」
ツッコむ声が隣から聞こえたが、気にしたら負けだと思う。キレイだろ。何がいけないんだ。とか思っていたら、そんなことない。私の視界がおかしいんだ。だって今、そこに何か黒いのが映った。絶対映った。人型みたいだった。いや、ここは2階だ。怖すぎる。きっと目の錯覚だ。だってほら、人間は点が3つトライアングルで置かれていたら顔に見えるみたいなのもあったし、顔みたいに見えたのも錯覚なんだ。じゃあ、今窓を流れる水の向こうから手を振る亀が見えるのも錯覚か?いや、違う。本当に見える。うん?本当に見える?
「ひいぃぃ!!」ガタガタガタッッ
ビクついて反射的に思いきり立ち上がったら、起きた皆からすごい怖い顔で見られた。隣の親友は腹を抱えて笑っている。後で問いただそう。
気を取り直してもう一度見てみると、亀はやっぱりそこにいて私を見ていた。亀は私がそちらに行けないと分かったのか、消えていった。けれど私は、自分にだけ見える亀も怖かったが、無害そうな亀の後ろで今にも私を引きずり込みそうに口を開けて存在している、深海まで続いていそうな深い青へと変わっていく水が何よりも怖くて、それ以上見ていられなかった。谷底を見たような気分だった。親友は私の顔色が悪いのに気がついたのだろう。心配そうにしてきた。
「大丈夫。」口パクでそう言ったら、心配させんなと向こうも口パクで言ってきた。
もうそれ以降の授業ではそんな変なことなんて起きず、担任の先生は遅れに遅れてやってきて、授業は強行された。私は休校にしてくれた方がよかった。
部活の時間はそれはもう好きだ。好きに泳げる。うちの水泳部はメニュー通りに練習してもいいし、または自由にやってもいいよという方針だからだ。飛び込み練習をして、泳ぎ出す。最初はやっぱりクロールだろう。そのクロールの25メートルサイクルをある程度まわしたところで突然、底が深くなった。私が泳ぐ後ろに何かいる。何かが泳いでいる。バタ足のバシャバシャという水音が後ろからは聞こえない。周りの先輩達や友達は普通に泳いでいる。バシャバシャと音を立てている。けれど、後ろからは全く水音が聞こえない。なのに、水圧がくる。必死に足を動かす。クロールで壁まで泳ぐ。そのままジャンプしてプールサイドへ飛び上がった。そのまま振り向く。後ろには何もいなかった。確かに、何かが泳いでいる水圧が来たのにも関わらず、そこには何もいなかった。確かに大きい何かがいたのに。水面は凪いでいて、プールの底もいつもと変わらない。
「今日ずっと顔色が悪いし、帰った方がいいよ。ちゃんと休みな。」
先輩に言われて、流石にそうだよなと思った。今朝の夢といい、今日の学校での亀といい、さっきの得体の知れない何かといい、今日の私には水難の相かなんかが出てるんじゃないかと思える。流石に鳥肌が立っている。
「すいません、先輩。今日はもう帰ります。」
「そうした方がいいよ。」
屋内プールから更衣室へ入る時にふと見たプールに、何かの尾びれが沈んだのが見えた。
「お大事にねー!」
友達が数人手を振っている。手を振り返して出る。何かにせき立てられるように私は着替えて更衣室からも部室からも出て、階段を駆け上がり、体育館を早足で出た。無性に家に帰りたくなっていた。普段は好きな水や雨やプールや何もかもが怖くてたまらない。また得体の知れない何かには会いたくない。家へ走って帰る。
「ひぃっ。」
いつのまにか雨は小雨になっていたが、その雨が驚くほど冷たい。まるで氷水みたいだ。その雨さえもどこか怖くて、急いで帰ったのに、家への道がいつもの倍に感じた。
家が見えてくる。着く。家の玄関前の溝に大量に水が流れている。ザアアアと音を立てて、道路脇の排水溝にも水が流れている。玄関に入るにはその玄関前の門を開けなければいけない。家に入ろうと門を開けるために、溝を飛び越えた瞬間、私の視界は歪んで、暗転した。
目を開けると、白い天井に親の顔と親友の顔が見えた。3人とも泣きそうな顔をしている。
「やっと起きた・・・!もうダメかと、目を覚まさないのかって思ってたよ。」
「え?そんなに寝てた?」
そう返したら、3人とも変な顔をした。
「あんた、五日間目を覚まさなかったのよ。」
「え、家の前で倒れただけなのに?」
「何言ってるの。あんた、海で溺れたんじゃない。早く救助されたのに、あんたが一向に目を覚まさないから途方に暮れてたのよ。」
何を言っているのか分からない。私はちゃんと学校に行って、おかしな事ばかり起きて、早く帰ったら意識を失っただけだ。そう一連の出来事を説明したら、みんながいよいよ変な顔になった。そして心配そうな顔になった。
「いったんお医者さんに診察してもらいなさい。」
そう言われて、黙っている親友に助けを求めたらこっちはこっちで泣いていた。私が目を覚まさないのが怖かったのだそうだ。説明を求めると、事細かに今の私の状況を話してくれた。
「私の夢の方が現実だったってこと?」
「そうなるね。」
「道理ですごいリアルだったんだ。」
「大丈夫?」
「状況は理解できたんだけどね。」
「まあでも、そのまま溝を飛び越えて家に帰ってたら目を覚まさなかったかもね。」
「その可能性は考えたくもないな。」
結局医師に診察してもらったところ、私には特に問題がなかった。すぐに家へ帰れるそうだ。しかし、医師が言うには私には水へのトラウマがあるらしい。確かに、浴槽に張った水や水たまりなどの多量にあるのがダメだと分かった。もう無事に目が覚めたはずなのに、水の存在が頭から離れない。
帰り際、親に言われた。
「あんた、水泳はしばらくやめておきなさい。」
「分かってるよ。今はしばらく水に入りたくないからね。」
なんでだろう。水が好きだったのに、雨もプールも好きだったのに、全く今は心惹かれない。自分の身に起きたことも見ていた現実ではなかったものも覚えているからだろうか。今は水が怖い。特に、海の中のあの先の見えない暗い水中がダメだ。
家に向かう車の中で揺られていると眠くなってくる。揺られる感覚が波に揺られる感覚と同じように思える。抗えない眠気に従って寝た私の耳に遠くでゴボゴボっと音がした気がした。夢の名残りだろうか。意識が沈んでいく。次に意識が浮上するのは家に着いた時だろう。また、今度は近くでゴボゴボッと音がした。